ライラック友の会

本田 VS 伊藤

ライラック

ライラックて何の名前

 ライラックは、1951‐1968に作られた、日本では、珍しいシャフトドライブ方式の
 オ−トバイの名前です 昭和25年10月のライラックML(148CC,3HPサイドバル
 ブエンジン)の開発を期に、LB,KD,KEと、たてつずけて性能アップした車を出し
  、その性能は、一時、本田をしのぐと言われた、今はなき オ−トバイの名車です.
 この車は、浜松出身の丸正自動車製造鰍ノより、昭和25年から42年までの,約
 17年間、紆余曲折をへてつくられてきました


丸正自動車の歴史.

     1.  オ−トバイ作り始める
     2. ベビ−ライラック誕生 
     3. ライラック浅間で優勝
     4. オ−トバイ産業の危機
     5. 17億の借金で倒産
     6. 輸出で再生を図る


  浜松出身の伊藤 正が、昭和21年に自動車修理工場を建て、事業をおこなった 
  ことから始まる。 当時は、戦後すぐあとのことで、トラックの製造が盛んで、 トラッ
  クメ−カ−(トヨタ・ニッサン)は、シャシ‐のみ作って運転席は、むきだしのままの 
  状態で出荷していた.メ−カ−に代わって自動車修理屋がボディを組み立ていた
  時代であった. ボディは木製がほとんどであった。丸正は、しばらく、自動車修理
  はともかく、このくるまのボディつくりに、勢をだした。(丸正商会時代 1948-1951)
   商売は、あたり、毎日、毎日がボディ作りの、大工仕事に追われた。
  当時、本田の河嶋(本田2代目社長)と浜工専時代の同級生だった溝渕が、河嶋
  が、本田のもとで性能のいいオ−トバイを作っているのをしり、 社長に”うちもオー
  トバイを作って みませんか”と、進言した。
    伊藤は、1930‐35年(昭和5‐10)に、本田 が、経営して いた「ア−ト商会浜松
  支店」で、17歳から丁稚として働いてiいた経緯から、頭の上がらない本田のおやじ
  に、一泡吹かせてやろうとばかりに、 オ−トバイ作りに、腰をあげた。
    最初に設計したのは、「タイガ−号」だった。駆動方法は、ベルトドライブであった。
  本田は、チェ−ン方式であったが、当時は材質も悪く切れたり、はずれやすかった
  のでベルトを選んだのだが、ベルトもゴムが伸びたり,擦り減ったりして100km程度
  しかもたなかった。試作車を、6台ばかり作ったが、これが山持ちや医者,材木屋と
  いった金持ちに、飛ぶように売れた。1台3万5千円。当時の月給は、一般工員で
  三千円、庶民には、高値の花であった。思いがけない売れ行きに、伊藤は本格的
  に売れるバイク作りを決意する。先行する本田とは、一味違うオ−トバイを作るには
  どうしたらよいかと、頭をひねった。妙案として、チェ−ンドライブに、対抗するものと
  して、シャフトドライブにしてみようとなった。    
変速機に附属したベベルギアでクランクシャフトの回転を直角に曲げ、後輪中央に付いたベベルギアで再度方向を変換して後輪を駆動するというシステムである。
 チェーン駆動は構造が簡単で軽量、ショックの吸収性にも優れ、駆動系の回転軸がすべて進行方向と直角方向であるため、バイクを左右にローリングさせる「反トルク作用」も出なかった。ただ、給油が必要なことや。チェーンが汚れたり、オイルが飛散してライダーの洋服を汚すといつた欠点も抱えていた。その点,シャフトドライブはメンテナンスが楽だった。
スロットルを急に開けたり、閉じたりすると車がぶれるという欠点も、ライダーが取り扱いに注意すればそう問題にはならない。
騒音が少なく、伝達効率(チェーンは摩擦でロスが生じる)もよかった。 ′       
国内のメーカーでシャフトドライブを用いているところはなかった。
当時の工作技術では、ベベルギアの歯車の加工は非常に難しかったからだった。 
   最初は歯車を加工してくれるメーカーを探すのに苦労した.
遠州地方の部品メ−カ−の能力を熟知していた河嶋が、サッパリとした好男子で、ライバルメーカーだからといってくだらぬ隠し事などするような人物ではなかく、溝淵たちの面倒を親身になってみてくれた。
昭和25年10月、丸正初のシャフトドライブ車「ライラックML号)が、試作に成功する。
148CC,3HPサイドバルブエンジンであった。

                                    Lilac ML(148CC)
      
 バルブの性能は4サイクルエンジンの優劣を決める重要なカギとなるが、技術的に未熟だった丸正は、当初サイドバルブという古典的な機構を採用していた。これはバルブがシリンダーの横に取り付けられたもので、構造が簡単でエンジン高を低く抑えられる反面、ガスの流れがスムーズでないため、馬力面で劣っていた。
 これに対してホンダは、昭和二十六年、他メーカーに先駆けてOHV(オーバーヘッドバルブ)方式を用いたドリーム号E型を開発していた。
OHVとは、その名の通りバルブがシリンダーヘッドの上にあるもので、シリンダーサイドのカムからプッシュロッドを伸ばしてヘッド上のロッカーアームを介してバルブを動かした。これによってシリンダー内の形状、ガスの流れなどはSVの性能をはるかに上回った。ただ、カムシャフト、ロッカーアームなどを加工するため設備投資が大幅に増大する。さて、溝淵たちはホンダに遅れること一年でOHV車の開発に成功した。
 お得意のシャフトドライブに、OHV、パイプフレームと新機構を加味したライラックKDは、素晴らしい性能を見せた。昭和二十八年三月、名古屋郊外で行われた名古屋TTレースで丸正は団体四位の好成績を収めた。同レースは中部地区のオートバイメーカー十九社が、一社三台の車を出場させてメーカー対抗形式で競い合ったレースだった。 他メーカーの車が、チェーンを切ったり、外したりして脱落する中、シャフトドライブのライラックKDは大した故障もなく、快調に飛ばした。タイヤがパンクしてもシャフトドライブの場合は簡単に着脱できた。


                Lilac KD (KIKUO IWATATE氏所有)
            仕様  馬力 3.5HP 最高速度 90KM 重量120KG 150CC
 丸正は排気量を200CCまでボアアップしたKEをラインアップに加えた。KDとKEを合わせた生産台数は月産六百台に達する。LB時代はせいぜい月産三十台だったから、これは信じられない急成長だった。
 「チェーンのないオートバイ」ライラック号は、打倒ホンダに向け、快進撃を開始した。

  昭和二十八年(一九五三)四月、日本のオートバイ史上に燦然と輝く名車、「ベビーライラック」を世に送り出す。

 ベビーライラック発表の一カ月前、伊藤正は本社を浜松から東京へ移した。二十七年発表したライラックKDは、そのボアアップ版KEと合わせて月産六百台というヒット作となり、増産のため同年秋には浜松市森田町に六千坪の新工場を建設していたが、その頃浜松に本社を置く弊害が生じていたのだ。丸正の商売繁盛ぶりに目をつけた税務署がひんばんに抜き打ち査察を行うようになったのである。
 困り果てた正は、一足先に東京へ進出していた宗一郎に相談した。「マサシよ、浜松なんかにいたら、いつまでたっても町工場だぞ。東京に出て来い。東京にはおれたちよりでかい会社は掃いて捨てるほどある。だから税務署なんか相手してくれないよ」
と、東京進出を勧めてくれた。
さっそく東京の代理店に頼んで用地を探し、中央区日本橋に本社機能を移した。


    丸正東京本社・浜松工場 

ただ移ったのは営業関係だけで、生産は浜松工場のみで行った。
 ライラックKDで一応の評価を得た丸正だったが、これで満足することはなかった。世界に類のないオートバイを作って見たい」。溝淵の胸にはある考えが膨らんでいた。戦後、物資輸送のために生まれた日本のバイクは、その後大型化、高級車化の一途をたどつていた。しかし、その一方で女性にも抵抗なく乗れる小さな車が求められているのでは、と思った。
 当時ホンダの販売担当常務、藤沢武雄も溝淵と同じ考えを持っていた。藤沢はその思いを宗一郎にアドバイス、昭和二十七年六月、重さ七キロという小型エンジン、「F型カブ」が完成する。
タンクは白、エンジンは赤、宗一郎ならではのデザイン感覚が取り入れられていた。「アメリカのデパートでクリスマスプレゼントとして手軽に買えるような商品にしたい」という藤沢の願望からエンジンをダンボール梱包するという前代未聞の趣向が凝らされた。
 このF型カブは全国の自転車店一万三千店から売り出され、わずか五カ月で生産累計台数が二万五千台を突破、販売店主が浜松の野口工場に札束の風呂敷包みを持って押しかけるという大ヒットとなったのだが、溝淵の目には中途半端なもので、物足りなく映った。F型カブは購入者が所有する自転車に取り付けられたため、荷台に重い荷物を載せて悪路を飛ばしたりすると、後輪のスポークが折れたり、チェーンが伸びたり、切れたりした。 そこで溝淵は、自転車より小さな完成車を作ればもっと当たる、と思い、設計に取り掛かった。
まず、車の重心を下げることにした。重心が高いと、乗っていて車が重く感じる。続いてフレームにいろいろな物をくっつけるのをやめた。「女性が乗るんだからタンクもジャマだ」 タンクをフレームから外してサドルの下に埋めた。でもなんとなく前が寂しい。「それではヘッドライトとタンクを】緒にしよう」。スクーターでもない、バイクでもない、ユニーク、かつおしゃれなバイクが出来上がった。ヘッドライトと扁化された六リットル入りのタンクの上面には、潜水艦のシユノーケルのような形をした速度計が、極端に厚いシートの下には、収納ボックスが取り付けられた。欧米で流行中のグリップチェンジを導入した。排気量は90CC。前年に交通法規が改正され、4サイクルは90CCまで無試験許可制となったことに合わせたものだった。徹底的な軽量化を行うため、前ブレーキを省略した0重心が低かったため、両足を地面にこすりつけることでブレーキの役割を果たせた。七十六キロという軽量化に成功した。
JF型と名付けられたこの先進バイクは昭和二十八年四月、東京・日比谷公園で行われたモーターショウでセンセーショナルなデビューを飾る0愛称は公募によってベビーライラック、と命名された。外観にピツタリのニックネームだった。



         JF/JF2 Baby Lilac,90CC/104CC,1953-1956


 「ライラックSY」伊藤史朗十六歳の勝利


 タンクとヘッドライトが一体となったベビーライラックの登場は、日本の二輪車業界にセンセーションを巻き起こした。その商品性だけで十分目を引くものだったが、社長の伊藤正はさらに奇抜なプロモーションを思いついた。それは当時人気を集めていた松竹歌劇団(SKD)を連れて大阪から東京までキャラバン隊を走らせる、という企画だった。藤山一郎が歌う「ライラックの歌」をカセットテープに録音、全国の販売店に配ったり大相撲のラジオ中継のスポンサーとなって懸賞広告を出したり、丸正を舞台にした映画が作られたのもこの頃だった。

ライラック浅間で優勝


 さらに、浅間で行われた耐久レースで丸正が優勝を飾ると、ライラック人気は不動のものとなった。
 昭和三十年(一九五五)春、丸正は250CCの「ライラックSY」を開発する。それより数カ月前、溝淵は国内初の本格派水平対向エンジンを搭載した「ライラックドラゴン」を出したが、二百キロ近い重量がネックとなり、失敗作に終わっていた。

         TW DRAGON 1953-1954

   仕様 馬力 12HP  338CC 重量189KG?


この反省に基づいてSYは従来通りの直立単気筒となった。丸正は溝淵を監督とするファクトリーチームを結成、同年十一月に浅間山麓で行われた第一回浅間火山レースに出場する。
 同レースは、戦後雨後のタケノコのごとく出現したオートバイメーカーが、生き残りをかけて戦ったビッグ・イベント。ホンダ、ヤマハ、スズキなど強力企業は社を挙げて臨み、現地に工場を設けてマシン開発やライダー育成にあたった。溝淵たちも、負けるな、とばかりに二カ月の合宿を行った。
 250CCクラスの下馬評は、ワークスマシンを持ち込んだホンダの圧倒的優位、だった。ところが、大方の予想を裏切り、弱冠十六歳伊藤史朗が駆るライラックSYが優勝をさらう。



                Lilac SY,1955-1956(250CC)



このレースでの活躍が川上源一に認められ、伊藤は翌年ヤマハワークス入り、世界のトップライダーヘの階段を駆け上って行くのだが、溝淵が受けた第一印象は「ふてぶてしい態度は、とても十六歳には見えない」 というものだった。 伊藤の父親は東宝映画の音楽監督。なに不自由なく育てられた史朗は、中学卒業後、父が買い与えたライラックのオートバイに夢中になり、カミナリ族の 「親分」となる。「めっぼう速い男がいる」と東京の販売店から連絡を受け、溝淵は東京に出向いた。そして、伊藤を連れてそのまま浅間へ乗り込んだ。
 列車に乗るなり「タバコはないか」とせびり、悪びれることなくプカプカ吸う。団体行動から離れ、他のライダーと話をすることもない。知り合いであろうがなかろうが、誰彼構わず「金を貸してくれ」とせがむ。傍若無人で、礼儀知らずの男だったが、なぜか溝淵の言うことだけには素直に従った。
 性格にはかなり難があったが、オートバイに乗せたら、まさに天下一品だった。シャフトドライブは決してレース向きの機構ではない。急発進や急停車したり、コーナリングでブレーキを踏んだり、ジャンプで着地した際、マシンが大きくムらつく根本的な欠点を抱えていた。他のライダーは練習走行を始めたと思ったら、すぐにエンジンをブローさせたり、転んでフレームを折るなどして戻ってくる。ところが、伊藤だけはジャジャ馬を器用に操り、一度もトラブルを起こさなかった。
 丸正のマシンは市販車で、レース用に開発されたものではなかったが、性能アップを狙ってかなりのチューニングを施してあった。
 しかし、伊藤の車だけはあまりいじらなかった。エンジンの回転数を上げれば、確かに馬力はアップするが、信頼性は落ちる。強度不足から、レース中にどこかが壊れる危険性が高かった。伊藤に限ってはノーマルに近い状態でも十分強豪に太刀打ちできる、と溝淵は思った。溝淵は伊藤に「オートバイのカにあんまり頼るな。自分の腕でカバーしろ」とだけアドバイスした。


 

このレ−スの関係者によると,大半の車が、故障で周回遅れとなり、周回遅れの早い車に丸正の車が、何度も追い越され、かなりの人が、丸正の車の優勝に気が付かなかったとの話が、残っている。丸正の優勝は、確かに伊藤のテクニックに負う部分が大きかったが溝淵たちがこれまで追求してきたシャフトドライブの優秀性が実証されたことも事実だった。
 溝淵はさっそく、レース使用車を市販用にフィードバックした「ライラックUY」を開発、市販する。「UY型は浅間高原における第一回全日本オートバイ耐久ロードレースの貴重な体験と資料により完成され、皆様に感謝をこめてお贈りするものです」。全国の新聞広告に宣伝文句が踊った。
 正は得意満面だった。ついに″オヤジ″を超えることができたのだ。ライラックはプロ野球日本シリーズの最優秀選手賞の賞品にも選ばれた。その賞を獲得した巨人軍の川上哲治の家へ、正も招かれたことがあった。芸能人たちに交ってマージャン卓を囲んだ。自分も有名人の仲間入りした気分だった。

自然陶太の時代を迎え丸正も危機に直面するようになる
日本におけるオートバイ産業の爛熟期は、昭和二十八年前後。全国に百三十ものオートバイメが乱立、群雄割拠の様相を呈した
そんな戦国模様も二十九年になると、弱肉強食の時代.を迎え。自然淘汰が急速にすすんだ。
 最初に潰れたのは、いわゆる「五台メーカー」一日五台も作れればいいような、家族経営主体の町工場だった。だが、昭和三十年代に入ると名の通った中堅メーカーも倒れ始める。
 昭和三十年、モナーク、エーブスターが倒産。モナークは従業員百二十人、月産三百台程度で、浅間レースでメーカー賞を獲得するなど高品質を誇った。エーブスターは重量車を中心に製造し、売上ランキングでは昭和二十五年に全国六位、二十六年には五位となり、とりわけ東京地区で抜群に人気があった。
 オートバイメーカーの倒産が初めて社会問題化し、業界内に衝撃を与えるのは、三十年の瑞穂製作所の突然の倒産だった。名古屋を本拠地とする瑞穂は、戦前からの名門で大型車では目黒製作所と覇を競い合った。戦後の最盛期には資本金一億円、従業員八百人を抱え、全国に販売網を張り、量産化にも積極的に取り組んでいた。ところが、薄利多売を無理に推し進めたため、途中で資金繰りに行き詰まった。
昭和三十三年にはトヨモーターが倒産、北川自動車工業が廃業。トヨモーターは「安くて丈夫な2サイクル」を旗印に、昭和二十七年にはビジョン(三菱重工)、ラビット(富士重工)に次ぐ生産高三位を記録した。北川自動車は、浜松でホンダ車の販売店を営んでいた北川広司が、自らオートバイ製造に乗り出したもので、ギア駆動の「ライナー号」は静粛性に優れ、売上ベスト10にも顔を出した。廃業後も、その技術を高く評価されて、ヤマハの傘下に入った。
 オートバイ不況の嵐は、丸正の屋台骨をも揺さぶり始めていた。
 この時期倒産したメーカーの多くは、高い技術力にうぬぼれて設備投資をおろそかにし、放漫経営によって墓穴を掘った。その最たるものはトヨモーターだったかもしれない。トヨモーターの社長、川真田和江は戦前、トヨタが自動車製造に乗り出す際にアドバイスを求めたほどの人物であった。
しかし、本田宗一郎のように工場で陣頭指揮に立つことはなく、工場の機械は時代遅れの物ばかりだった。自社製の部品はエンジン主要部のみ。あとは下請け企業に頼っていた。 トヨモーターほどではないにしても、ライラック衰退の原因もこのあたりにあった。
 社長の伊藤正は、技術に金を注ぎ込むことより、販売や宣伝の方にカを注いだ。ベビーライラックの宣伝のためにSKDのキャラバン隊を結成、大阪・東京間をパレードしたが、このときかかった費用八百万円は、当時六百坪の工場を建てる額に相当した。藤山一郎が歌う「ライラックの歌」をカセットテープにして販売店に配布したが、これだって最新機械1台は買える出費だった。その他、ラジオの大相撲中縦に懸賞広告を出したり、丸正を舞台とした映画を製作したり、とにかく派手なプロモーション活動が好きだった。
  もちろん、ホンダも映画を作るなど大宣伝を行っていた。が、収益全体に占める割合は、圧倒に技術面への投資の方が大きかった。宗一郎は数億という借金をしてまで欧州から大量の工作 機械を買い込み、部品の自社生産に努めた。これに対し、伊藤正のポリシーは川真田と同様、「自分のところで作って売るよりは、よそから買ってきて売った方が簡単だ」というものだった。
 確かに下請けに頼んだ方がその場は楽にできる。しかし、長い目で見ればコストダウンはできない。大量生産時代には対応できないのだ。加えて、正は「(販売店に)現金で売って(下請けに)手形で払う」という方式をとっていたため、下請けの発言力が強かった。
元来、丸正は「多品種少量生産」を”売り”とするメーカーで、その分コストも通常メーカー以上にかかったが、販売戦略をきちんと練っておれば、もつとコストダウンは図れたはずであった。
 宗一郎と正の経営方針の違いを一言で表すならば、宗一郎が「いかに安くていい車を作るか」と言うことにこだわったのに対し正は「いかにたくさん売るか」ばかりを追求した。宗一郎は本社から研究部門を分離、独立採算とする「本田技術研究所」を設立したが、正は、正は全国の販売店から営業マンを集めて「セールスマン養成学校」を設けた。これが、両者の経営センスの違いを端的に物語っている。
溝淵たち技術屋は、若手技術者の教育の必要性を痛切に感じて、後に東大の生産技術研究所への研修制度を設けたが、一期生が戻ってくる直前に、会社は倒産。
丸正の経営が傾きだしたのは昭和三十三年(1958年)ライラックDP、愛称ニュ−ベビ−の失敗がその発端となった。



ライラックDP 愛称ニュ−ベビ−

 仕様 2stroke 重量70kg 最高速度70km/h


「ニューベビー」はその名が示す通り、一世を風靡したベビーライラックベビーライラックの後縦モデル。全く新たな発想のもと車を設計した。外観も中身も全く違うバイクに生まれ変わった。 フレームはたった一本のバックボーンでできていた。エンジンはそこから2本のボルトで吊リ下げられ、簡単に着脱ができた。タンクは旧タイプとは異なりヘッドライトとは分離され、通常通りフロントフォークの後ろに置かれたが、ラグビーボールのような形状をするなど凝った作品であった。
 溝淵はここにきて、丸正のお家芸をひとつ捨てた。4サイクルではなく、2サイクルエンジン を載せたのだ。90CCクラスの小さな車には、構造が簡単で安く作れる2サイクルの方が向いていた。
 ニューベビーにはかなりの期待が寄せられた。が、売れ行きはさっぱりだった。わずか一年ちょっとで生産は中止となった。ニューベビーの謳い文句は「自転車よりも手軽」だった。ところが、当時の二輪車業界では時代を先取りしすぎていた。市民の多くは依然としてオ−トバイを荷物運搬車として用いていた。ベビ−ライラックよりさらに華奢に見えるニュ−ベビ−は、彼らの目に弱よわしく映った。丸正の社内に暗雲が垂れ込めだした。月2億円の売り上げに対して借金の金利支払いは月々四百万円にも上っていた。金利分を払うために、また借金をする。悪循環を断ち切れない。当時、売上に対する人件費の割合は約五%。それを考えると金利支払いの割合はかなり高いといえた。
 うすうす経営がうまく行っていないことは溝淵も知っていた。が、ここまで悪化しているとは知らなかった。東京に本社を移した際、営業部門は製造部門と離れて東京へ移った。このため、経営会議での議題は溝淵の耳には詳しく入ってこなかったのだ。あわてて経営会議を浜松で開くようにさせ、自ら営業担当重役に就いて、販売店や下請け先を回り始めた。だが、あまりに遅すぎた。

 経営危機に立ちながらも高性能車を次々開発 丸正の運命を左右する出来事が、昭和三十四年(一九五九)、訪れる。取引銀行である大和銀行が、鈴木自動車工業との業務提携を持ちかけてきたのだ。 正は悩んだ。今のままの経営状態では、やがて押し寄せる貿易自由化の波をくぐり抜けることはできない。「どこかと業務提携しなくては」と、思っていた矢先の話だった。鈴木の援助があれば、この先の経営難は切り抜けることができるだろう。だが、正はどうしても踏み切れなかった。
 ホンダとスズキはいってみれば敵同士である。とりわけ社長の本田宗一郎と鈴木俊三は仲が悪い。二人の関係を案じた正が中へ割って入り、浜松の聴涛館という高級料亭で手打ちを行ったこともあった。スズキと組むということは、心に厚い、古いタイプの男だった。
 正は鈴木俊三に「ノー」と返事をした。かつての親方に恩をアダで返すことになると、正は忠義スズキとの提携を断った。丸正を待っていたのは、銀行からのからの厳しい金融引き締めだった。正は、この提携話を他の重役陣に一言も相談せずに断った。
事後報告を受けた溝淵は悔やんだ。社長の私的感情から経営改善の絶好のチャンスを逃がし丸正はいよいよ末期的症状に陥る。溝淵は営業担当重役を兼ねてからというもの、設計業務を部下の高須修に任せて、下請け先を回り、手形の買い戻しを頼んでいた。
あるクッションメーカーなどは「今後は現金でない納めない」一方的に通告してきた。
一方会社存続の危機に立ちながら、技術的には丸正はこの時期最も光っていた。ロ−ソクの火が消える直前に一瞬力強く光を放つかのように。昭和三十五年(1960年)初め、X型2気筒エンギンを搭載し端正な顔立ちをした高性能車を矢縦ぎ早に開発する。LS18,LS38,CS28,CF40の4台である。LS18は250CC車でLS38はそのスポーツモデルである。
CS28は125CCでCF40はそのスポーツタイプ。X型エンジンはシャフトドライブとうまくマッチして静粛性は抜群だった。

    Lilac LS18,1959-1960(250cc)

 仕様 247CC/18.5HP/最高速度130km/重量165KG



  
   LS38/MF-39/M330 LANCER MARK V

  仕様 最高速度 145km/h

中でも絶賛されたのは国内ツーリングモデルの先駆けとなったLS38。愛称ランサーマークXとCF40。愛称スーだった。ゼッケンプレート風のサイドカバー、エンジンのシリンダー部分に雨があたらないよう両サイドに大きなえぐりを持たせた大型タンク。走る性能だけでなく、こまかなデザインまで、手を抜かなかった。しかし、職人気質の結晶とも呼べる一連のXツイン車も丸正を元に立て直すだけのパワーは、持っていなかった。
昭和三十六年(1961年)春、倒産の瀕戸際に立たされた丸正は、起死回生を狙ってライラックモペットAS71を登場させる。独創性あぶれる作品を世に送り続けた丸正の中でも、「近未来スクーター」とも言うべき斬新、かつ大胆な車だった。
 モノコック製のフレームには骨格がまったくなく、中は空洞.。最中のアンコの様にエンジン
が入っていた。フェンダー、サイドカバーともプラスチック製。車体重量は、10.5kg。信じられないほどの軽さだった。
もうひとつの特徴は後輪のサスペンション。Xベルト、自動変速機、駆動ギアを1体のケ−スにまとめ、このケースで後輪を懸架した。「ユニット(一体)スイング」と呼ばれる懸架システムは、今でこそスクーターの常識となっているが、丸正が先駆者だった。
  また、ボディーカバー下端の水平線が車軸より上にあるため、車軸とボディが分離しているよ うに見えたが、こういったスタイルも世界に例がなかった。
  直線と曲線をうまく組み合わせた乳白色のエレガントなAS71は、大ヒットの予感を抱かせるもので、早速三菱重工が目を付けた。
        ライラック モペット AS71                                                                                                                                                                                                                                                               
l
三菱重工が目をつけた。 三菱重工は富士重工と並ぶスクーターのトップメーカー。昭和三十三年までは三菱シルバービジョンがライバルの富士ラビットを上回る五〇%以上の市場占有率を誇っていたのだが、三十五年には三〇%台まで落ち込んでしまった。それはラビットが豊富なバリエーションを完成させたのに対し、シルバービジョンは小排気量クラスが手薄だったからだった。三菱は丸正のAS71の販売権を譲り受けることで「打倒ラビット」を目論んだのだ。
 「三億貸すから販売権を譲渡してくれないか」という三菱の申し出に、一も二もなく飛びついた。一台当たりの利潤は減っても、大三菱の販売網に乗ることで生産台数は飛躍的に増大するだろう。うまくいけば月産一万台も不可能ではない。誰もが丸正の復活を信じた。ところが、この三菱との提携が丸正の「死期」を早めようとは……。
 三菱は半年と経たずに、提携を破棄してきた。「まさか…=」。車は千台しか出荷されていなかった。溝淵たちは唖然とした。さっそく三菱の名古屋の担当者に電話をかけたが、担当者は東京に転勤した後だった。 溝淵が調べたところによると、どうやら三菱は最初から「ビジョン・ゲールペット」(ライラック・モペットAS71の三菱側商品名) の販売には全力を注いでいなかったようだ。三菱重工上層部では、提携話が持ち上がった時点で、すでにオートバイ製造から撤退し、自動車製造に転ずる方針が定められていた模様で、丸正との提携は、それまでの「つなぎ」として考えられていたようだった。 「今にして思えば、三菱の工場を見学した際、オートバイを開発している形跡がなかった。何か変だと思ったが、あの時もっと調査していたら……」と溝淵は悔やんだ。だが、もう後の祭りだった。
 丸正では三菱の販売力をあてこんで、AS71を主力商品に定め、工場を新設し、コンベアを入れるなど設備投資に一億五千万円をかけていた。 自分たちで売ろうにも、三菱に販売権を譲る段階で販売店には保証金も担保も返して縁が切れていた。一巻の終わり、だった。
 ワラにもすがる思いで、溝淵は鈴木自動車工業本社に社長の鈴木俊三を訪ねた。俊三は溝淵の浜工専の大先輩。溝淵は同校の同窓会事務局の手伝いをしていた関係で俊三とは懇意にしていた。
よく浜松商工会議所でマゴマゴしていると、「こっちへこい」と呼ばれ、親身に相談に乗ってもらっていた。「俊三さんは昔社長に提携を持ちかけたことがある。もしかしたら、今度も助けてくれるかも…=⊥。溝淵は頭を下げた。だが、俊三は気の毒そうな顔をして断った。「現状としてはスズキも苦しい。力になれずに申し訳ないが、そんな余裕はないんだ」。  昭和36年(1961年)10月12日、丸正自動車は、13年5ヶ月に及ぶ歴史に終止符を打つ。
負債総額は17億円だった。

  倒産後、正は宗一郎を訪ね、恥をかくのを覚悟で「会社再建のために助けて欧しい」と頭を下
げた。しかし、宗一郎の返答は「自分のおとしまえは自分でつけろ」だった。だが、宗一郎もかつての愛弟子を冷たく突き放すことはできなかった。「マサシよ、ホンダの下請けになれ。そうすれば和議申請も通る。一家が路頭に迷うこともなくなる」正はありがたく、オヤジの好意を受け入れた。 宗一郎の力は絶大だった。和議申請はあっさり裁判所を通った。
 だが、正はホンダの下請けをする気などまったくなかった。倒産から一年後の昭和三十七年(1962年)十月、オートバイ製造を再開、125CCと250CC二種類の車を発売する。これらは、かつて溝淵が生み出したX型二気筒の名車に多少手を加えたものだった。そんな正のわがままを、宗一郎は見て見ぬふりをして許した。正は残り少なくなった財産をかき集めると、起死回生を狙った大型車を開発する。
 昭和三十七年(1962年)のモーターショウでデビューを飾った「ライラックR92」は、水平
対向 500CCエンジンを搭載していた。明らかにBMWを意識したものだったが、馬
力では本家を凌駕していた。
 貿易自由化に向け、正は同車を高速道路網が発達した米国へ輸出しようと決めた。ロサンゼルスに飛び、現地で「松すし」という寿司店を営む日本人と販売契約を交した。当時米国では 500CC車が千ドル。丸正は一台十九万円はどで出せばよいということで、百台も出せば十分採算がとれた。帰国後、正は早速生産を開始した。
 不死鳥はよみがえるかに見えた。が、債権者側が「アメリカヘ行く金があったら借金を返せ」と催促しだした。資材を買いたくても前金でなければダメだと言われる。取引先に「丸正はもうダメだ」とデマを流す人間も現れた。一方、米国では松すしとの間に入った外交官が、一口あたり法外なマージンを要求してきた。 ここに至り、正はオートバイ作りにホトホト嫌気がさした。「債権者がもう少し待ってくれたら大ヒットしたのに……」と悔やみながら、昭和四十二年、正は会社経営を債権者代表の手にゆだねると、浜松へ引っ込んだ。
 ライラックの 「臨終」だった。





ライラック
Lilac