雑感89 〜 人は権威にどれだけ弱いか2 Previous 雑感メニュー Next
 最高電圧のボタンを押した被験者には、弁解の余地が残されている。それは、自分の責任ではないということだ。学習者が実験で死んだとしても、責任は教授にあり、教師は踊らされただけだ。しかし、もし電気ショックが本物であったなら、たくさんの死体と殺人犯が、たった一人の教唆犯によって作られることになる。
 最期のボタンを押す者と押さない者。この違いは映画『ターミネーター2』の中にも見られる。この物語は、子供による母親の精神的治療の過程として捉えられる。
 母親が信じている決定的な恐ろしい未来が殺戮者を現実化させる。これに対して、子供の持つ自由奔放性は、もう一体の殺戮者英雄に変容させる。子供は、母親の言うことをすべて受け入れているが、決定的な違いがある。人を殺してはならないと訴え続ける子供と、人を殺しに行く母親母親にとっては邪魔者や悪人を殺傷するのは当然で、子供にとって敵は人間ではなく、終末信仰が生んだ絶対的価値基準だ。未来は定められておらず、方法は見つかると言うのも、子供だ。こうして母親の狂信が瓦解すると急速に物語は収束する。殺戮者の幻影は消え、英雄も役割を終える。
 この母親は、死のボタンを押すに違いない。子供はどうだろうか。白衣に見慣れていれば権威を認めるだろう。ボタンも押す子と押さない子がいるだろう。しかし、そんな実験は成立しない。なぜなら全責任が教授に降りかかってくるのは明白だからだ。