最高電圧のボタンを押した
被験者には、弁解の余地が残されている。それは、自分の責任ではないということだ。
学習者が実験で死んだとしても、責任は
教授にあり、
教師は踊らされただけだ。しかし、もし電気ショックが本物であったなら、たくさんの死体と殺人犯が、たった一人の教唆犯によって作られることになる。
最期のボタンを押す者と押さない者。この違いは映画『
ターミネーター2』の中にも見られる。この物語は、
子供による
母親の精神的治療の過程として捉えられる。
母親が信じている決定的な恐ろしい未来が
殺戮者を現実化させる。これに対して、
子供の持つ自由奔放性は、もう一体の
殺戮者を
英雄に変容させる。
子供は、
母親の言うことをすべて受け入れているが、決定的な違いがある。人を殺してはならないと訴え続ける
子供と、人を殺しに行く
母親。
母親にとっては邪魔者や悪人を殺傷するのは当然で、
子供にとって敵は人間ではなく、終末信仰が生んだ絶対的価値基準だ。未来は定められておらず、方法は見つかると言うのも、
子供だ。こうして
母親の狂信が瓦解すると急速に物語は収束する。
殺戮者の幻影は消え、
英雄も役割を終える。
この
母親は、死のボタンを押すに違いない。
子供はどうだろうか。白衣に見慣れていれば権威を認めるだろう。ボタンも押す子と押さない子がいるだろう。しかし、そんな実験は成立しない。なぜなら全責任が
教授に降りかかってくるのは明白だからだ。