仏教をわかりやすく教えてくれるおすすめ本を紹介します |
仏教って何かって、わかりますか? 身近なところにあるようで、わからないですよね。 禅僧同士の対談等を読んでもひどく難しいのが多いですし。 仏教とは何かをわかりやすく教えてくれる本を紹介していきます。 仏教って、日本人の身近なところにあるのに、 仏教とは何かと問われると、こたえるのは難しいですよね。 仏教とは何かを、わかりやすく教えてくれる本を 見つけて、紹介していきます。 |
NO.1ゆかいな仏教 橋爪大三郎、大澤真幸 サンガ新書 | |
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1番目に紹介するのは、「ゆかいな仏教」です。 この本はおすすめです。 橋爪さんは、東工大教授の社会学者で、 大澤さんは、京大教授の社会学者です。 二人とも、世界宗教(仏教、キリスト教、イスラム教)に対する 知識が深いです。 この本は、大澤さんが問いかけて、橋爪さんがそれに答えるという スタイルになっています。 仏教の素人にもわかりやすい内容になっていますし、仏教に詳しい人にも さらなる教えを与えてくれる本だと思います。 構成は、下記のようになっています。 第1章:はじまりの仏教 第2章:初期の仏教 第3章:大乗教へ 第4章:大乗教という思考 第5章:大乗教から密教まで 結び:いま、仏教を考える 是非、読んでください。 本の内容のエッセンスの一部を、下記に紹介します。 問い:仏教とは何ですか? 回答:ゴータマ・シッダールタがブツダ(覚りをえた人)であるという事を 大前提として認めて、それに参加する人々の運動が仏教です。 問い:キリスト教と仏教の違いは何ですか 回答:キリスト教は、神が人間に言葉、ドグマ(教義)を伝える。 仏教にはドグマが無い。 問い:覚りとはどのようなものですか 回答:(1)知識である それは個人の精神活動です (2)その知識は、これ以上ないぐらい素晴らしい それ以上大きな知識はないので、その知識の中にはこの宇宙のすべてが 包摂されている。意外なことはもう起りようがない。 (3)その知識を言葉にできるかと言えば、できない。 ・仏教の教理を要約した有名な4つのスローガン、四法印は下記です。 「諸行無常」「諸法無我(すべてのものは実体をもたない)」 「涅槃寂静(煩悩の消えた覚りの境地は安らぎだ)」「一切皆苦」 問い:仏教は、どうして一切皆苦と言うのですか 回答:「苦」を強調したのは、ふつの人が陥りがちな欠陥として、何とかこの運命から 逃れたいと思ってしまう。病気にならないといいとか、年をとらないといいとか、 死なない方法はないものかとか。こう考えるから、同じ運命が二倍、三倍に苦しい。 人間は生命なのだから病気になって当然だし、病気になったら病気と一緒に 生きていくしかない。年もとる。それを受けとめ、勇気をもって年をとる。 老人として生き、死ぬことを恐れてはいけない、 すべてのネガティブな思い込みを捨て、積極的に前向きに、正しく生きていこう みたいなことを言いたかったと思うのです。 問い:仏教では「苦」をどのように乗り越えるのですか 回答:生物なり動物なりを考えてみると、輪郭があって、外からそれと識別できる。 ここまでが「自分」で、その外側は「自分」でない。 外部と自分が関係していなくてはいけないのに、安定永続していない。 最終的に自分が壊れてしまうという運命を背負っている。 こういう本性があるんだけれど、これが「苦」ではないのか。 人間を外から見たら、「苦」だと見る必要はない。 動物のかたちはそのままでも、「苦」は消えている。 仏教の乗り越えの方法は、内/外があると思うから「苦」が生まれているという 構造があるのだから、宇宙と動物をいっぺんに認識するようにしなさい、 と言っているのではないか。 問い:仏教で「覚る」というのは、欲望を消すことで、「内なる砦への撤退」だと思いますが、 これが本当の自由ですか 回答:まず仏教には、心などという実体はない。外面も内面もない。 ゴータマ・ブッダの「覚り」がどんなものか、割り切って言ってみると、 ある意味恐ろしい。私が自分を人間であると思っていること自体が、無明である。 自分を人間だと思っているのは錯覚なんです。その真実に目覚めたゴータマ・ブッダは 自分を人間として認識できるかどうかというと、できない。心もない。内面もない。 「すべてが明確に、過不足なく、自分として現象している」ということがわかる。 自分と現象が一致してしまえば、矛盾がないわけだから、無明も欲望も何もないはずだ。 そういう究極的なところへ出てしまえば、どうなるかというと、一種陶然とした状態になるわけだけど、 やがて覚りから覚める。「覚り」の体験を記憶したまま、もとの自分として目が覚める。 そうすると周囲から見て、彼は相変わらずゴータマ・シッダールタという修行者で、 じゃあどうしようということになる。もとの自分として生きていくことを、もう1回選択する。 「覚り」の場所まで行って。そこから戻ってきて、それで道端で飢えた子どもがいたらどうしよう。 母親を探す子犬がいたらどうしよう。ブッダはそれらを個別に解決していくんだけれども。 覚っていないときとは明らかに違った解決策が出てくる。さすがはゴータマ・ブッダだという話です。 これは撤退ではなく、明らかな「積極的自由」だと思う。 ・ブッダは、この幻のような世界で、人間には人間として守るべきルールが有ると言った。 正しい人間であるとは、物を盗まない、嘘をつかない、人を殺さない、酒を飲みすぎない、 乱れたセックスをしない、ことです。これは仏に近づくための道、あるいは仏であるための条件だと言っている。 ・宝くじは、買おうと思えば誰でも買える点が、平等です。誰にでもチャンスがある。 人生もそんなもので、誰だって幸せになりたいと願っている。幸せのなかみは、宝くじに当たったら やりたいなと思うことと、よく似ている。でもたいていの場合、思ったように幸せになることはできなくて、 挫折や苦悩を味わうわけです。ひとに教えてもらわなくったって、自分の人生は「はずれくじ」ではないかという 気持ちになる。そういうどん底の状態からだって、誰でも希望と感謝をもって、正しく前向きに生きることが できるんだという希望が、覚りという名前で呼ばれているのではないか。 問い:「空」とは何ですか 回答:この世界が成立しているメカニズムのすべてをきわめつくして、この世界が成立している条件をすべて理解したうえで、 この世界をみる。奇跡的な偶然やいろいろな要因の組み合わせによって、かろうじて成り立っている、 いわば幻のようなものがこの世界だとわかる。 自分も同じです。自分も奇跡的な条件によっているわけだから、自分が何かを手に入れたいとか思っても、 そんなことにこだわることが間違いだということにはなる。 こうした世界が、実在しないというかたちで実在している、と知るのが「空」じゃないかな。 問い:普通の人と、在家の仏教徒(覚りをめざして修行して、常識や言葉の罠に気がついた人)の人生は違うんでしょうか 回答:二重の人生になるわけです。たとえばパン屋をやっているとすると、ただもう「親もパン屋さんだし、パン屋をやってパンを 焼いていて文句あるか」という人と、それから「この世が空だとは知っているが、大慈悲のためにパンを焼いているんだ。 これは仏道だ、仏の慈悲だ」と思ってパンを焼いている人と、どこが違うかというと、外見上はどこも違わないわけです。 でも本人にとっては、二重の意味をもっているわけですよ。 意味が二重になるということは大事じゃない? ただパンを焼いているということは常識や言葉のトラップかもわからないわけだから、死ぬ間際になって、 「おれの人生何だったんだろう」とか思うかもしれないけど、二重に生きているとそれに対して強いから、 「私はそれなりに仏教者として慈悲の立場で、持ち場であるパン屋さんをやっていました」と納得できる。 ちょっとした言葉づかいで、常識のトラップ、言葉のトラップから抜け出て、「これは空なんだ」という 言葉使いができれば、パン屋をしながら、菩薩として修行ができます。 仏教とは何か、覚りとは何か、空とは何かについて、こんなにわかりやすく、詳しく教えてくれる本に出会えて 幸運でした。 人生に大きなヒントをくれる本です。 おすすめ本です。 人生は空であることを理解しつつ、持ち場の人生をまっとうに生きていくことが、覚りにつながる 菩薩行です。 それにしても、恐るべし、橋爪大三郎さんです。大澤さんの難しい回答の全てに、 明確に回答しています。本当に深く、仏教のことを理解しているようです。 |
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