私の好きな本、おすすめ本



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  • NO.60 きみのためのバラ 池澤夏樹 新潮文庫    

    池澤夏樹の短編集です。うまくて心にぐっとくる小説です。
    人生のある一局面を切り取って、心に沁みる小説世界を
    展開しています。

    「都市生活」「レギャンの花嫁」「連夜」「レシタションのはじまり」
    「ヘルシンキ」「人生の広場」「20マイル四方で唯一のコーヒー豆」
    「きみのためのバラ」が入っている短編集です。
    どれも面白いですが、私は「都市生活」と「ヘルシンキ」と
    「きみのためのバラ」が特に面白いと思いました。


    「都市生活」を紹介します。
    主人公の私は、外国から帰国する時に、飛行機の予約時間を間違えて、
    次の日の飛行機で帰ることになった。
    荷物を運ぶのにカートは使用できないという係員と口論に
    なったりします。
    その日は、ホテルに泊まることにして、遅い夕食をレストランでとることにします。
    牡蠣とケイジャン・チキンと白ワインの夕食をとります。
    レストランで、きれいな女性が食事をしていました。

    チキンをしばらく食べたところで、ちらりと女の方を見た。
    彼女はデザートの最後の部分をいかにも惜しげに口に
    運んでいるところだった。
    目が合った。
    その席に彼が座ってからはじめて目が合った。
    そこで、彼女はにっと笑った。
    「おいしそうですね」と彼は言った。
    「ひどい一日だったの」と、最後の一口を食べ終えて、
    女が言った。
    「そう。ぼくもですよ」
    女は彼の返事を無視した。
    「本当にひどい一日だったのよ。あなた、聞いてくれる」
    「ええ、喜んで」

    女性は彼の席の前に来て、話をします。
    女性の母親が、彼女の通帳からお金を勝手におろして、
    男と何処かに行ってしまった。
    いつもつまらない男にひっかかって、いつも大騒ぎして、
    いつも捨てられる。それでも懲りない。

    「というわけで、ひどい一日だったわけ」
    「よくわかる」と彼は言ったが、相手はまるで聞いていない。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「デザートのおかげとあなたに話をしたおかげでだいぶ元気に
    なったわ。これで、また何か月か後に母の愁嘆と弁明を聞くことが
    できそうだわ」
    「お母さんの今度の恋は、今度こそ本物かもしれない」
    「無理だと思うけれど、一応その可能性も除外しないでおくわ」
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    女は立ちあがった。
    「いきなり知らない人にこんな話を聞かせてしまってごめんなさいね。
    でもねえ、きっと知らない人だから話せたのよ」
    「なるほど」
    「あなたのチキン、冷えてしまったわ」
    「いや、まだ食べられる」
    「そう、それならいいけど」
    彼女は大股に店を出て行きます。

    彼の心中には三つの不満が残った。

    第一に、彼女にはああ言ったが、やはりチキンは冷えてしまって
    味が落ちていた。

    第二に、ずいぶん親密な話を聞いた相手なのに、
    その仲はこのまま途切れてしまう。
    数か月後、デザートを終えた後の元気な彼女にまた会って
    話を聞きたい。母の恋のその後を聞きたいが、その機会はない。

    第三に、なぜ彼が彼女のデザートと同じくらいうまそうに牡蠣を
    食べていたかという理由を話せなかった。彼にとってもいかに
    ひどい一日であったか説明する機会が与えられなかった。



    名作(と私は思っています)の「スティル・ライフ」を書いた
    池澤夏樹の短編小説です。
    さすがです。
    うまくて、心にぐっとくる小説です。
    読み終わった後、思わずニヤリと笑ってしまいました。
    小説を読んでいる時、牡蠣とチキンを食べて、白ワインを
    飲みたくなりました。
    私の好きな本で、おすすめ本です。(H.P作者)

      


    NO.61 スティル・ライフ 池澤夏樹 中公文庫    
    この静謐で不思議な物語を、どう紹介すれば良いのだろうか。
    池澤夏樹の作った静かな物語です。
    強靭な心が背後になければ、こんなに静謐な世界を
    作ることはできないだろう。

    小説の書き出しは、以下です。

    この世界がきみのために存在すると思ってはいけない。
    世界ときみは、二本の木が並んで立つように、どちらも
    寄りかかることなく、それぞれまっすぐに立っている。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    大事なのは、山脈や、人や、染色工場や、
    セミ時雨などからなる外の世界と、きみの中にある
    広い世界との間に連絡をつけること、一歩の距離を
    おいて並び立つ二つの世界の呼応と調和を
    はかることだ。
    たとえば、星を見るとかして。

    主人公の男の私は、染色工場で、アルバイトをしています。
    アルバイトをしている佐々井と仲良くなります。
    佐々井は、ひっそりと暮らしていて、正体が良くわからない
    男です。

    私は佐々井と、バーに酒を飲みに行きます。
    彼は手にもった水のグラスの中をじっと見ていた。
    水の中の何かを見ていたのではなく、グラスの向こうを
    透かして見ていたのでもない。
    透明な水そのものを見ているようだった。
    「何を見ている?」とぼくは聞いた。
    「ひょっとしてチェレンコフ光が見えないかと思って」
    「何?」
    「チェレンコフ光。宇宙から降ってくる微粒子がこの水の
    原子核とうまく衝突すると、光が出る。
    それが見えないかと思って」
    「見えることがあるのかい?」
    「水の量が少ないからね。たぶん一万年に一度くらいの確率。
    それに、この店の中はあかるすぎる。光っても見えないだろう」
    「それを待っているの?」
    「このグラスの中にはその微粒子が毎秒一兆くらい降ってきて
    いるんだけど、原子核は小さいから、なかなかヒットできない」

    別の日に、私と佐々井は、別のバーに飲みに行きます。
    「色の管理って、もう少し厳密にできないものなのかな?」
    とぼくは言った。
    「ロットごとに違わないようにかい?」
    「そう、同じ種類の糸を、同じ染料と媒染剤で染めて、
    同じように水洗しているんだろ。液の温度も時間も変わらない。
    なぜ微妙に違う色になるんだろう」
    「そんなに何もかも管理はできないよ。
    染色なんて、分子と分子が勝手にくっつくのに、人は少々
    手を貸しているだけなんだ。」
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「きっと、人の手が届かない領域は案外広いんだよ」と
    佐々井が言った。
    「高い棚の隅に何か小さなものが置いてある。
    人が下から手を伸ばして取ろうとするけれど、
    ぎりぎりの隅の方だからそこまでは手が届かない。
    踏み台がないかぎりそれは取れない。
    そういう領域があるんだ」
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「人の手が届かない部分があるんだよ」と佐々井がもう一度
    言った。

    佐々井が、お金が必要なので、手伝ってほしいと言ってきます。
    私は協力することになります。
    それは何でしょうか?
    うまくいくのでしょうか?

    目の前の地面をハトが歩いていた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    しばらく見ているうちに、ハトがひどく単純な生物に見え
    はじめた。
    歩行のプログラム、彷徨的な進み方、障害物に会った時の
    回避のパターン、飛行のプログラム、ホーミング。
    彼らの毎日はその程度の原理で充分まかなうことができる。
    そういうことがハトの頭脳の表層にある。
    しかし、その下には数千万年分のハト属の経験と履歴が
    分子レベルで記憶されている。
    ぼくの目の前にいるハトは、数千万年の延々たる時空を飛ぶ
    永遠のハトの代表にすぎない。
    ハトの灰色の輪郭はそのまま透明なタイム・マシンの窓となる。
    長い長い回廊のずっと奥にジュラ紀の青い空がキラキラと輝いて
    見えた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    大事なのはその下のソリッドな部分、個性から物質へと還元
    された、時を越えて連綿たるゆるぎない存在の部分であるという
    ことが、その時、あざやかに見えた。
    ぼくは数千光年の彼方から、ハトを見ている自分を俯瞰していた。

    すぐれた物語を読む喜びを感じる小説です。
    本を読み進めるにつれて、心が静謐になっていくのは
    驚きです。
    こんな小説、なかなか出会えませんよ。
    静かで美しいジャズを聴いているようです。
    平易な言葉で書かれた読みやすい小説ですが、
    哲学的とも言える世界が広がっています。
    池澤夏樹は大学で物理を専攻したので、チェレンコフ光の話が
    登場したのでしょう。
    短い小説ですが、大きく静かで哲学的とも言える世界を内包している
    小説です。
    私の好きな本で、おすすめ本です。(H.P作者)



    NO.62 ロマネ・コンティ・1935年  開口健 文春文庫    
    開高健の短編集です。
    私は釣りがあまり好きでないので開高健の、「オーパ」等の
    釣りの本はあまり好きではありません。
    しかし、小説は、すぐれた物が多いと思います。
    「パニック・裸の大様」、「珠玉」、「ロマネ・コンティ・1935年」等。

    短編集の「ロマネ・コンテイ・1935年」を紹介します。
    川端康成文学賞を受賞した「玉、砕ける」、「飽満の種子」
    「貝塚をつくる」「黄昏の力」「渚にて」「ロマネ・コンティ・1935年」
    が、おさめられています。
    どれも面白いですが、「玉、砕ける」と「ロマネ・コンティ・1935年」
    が特に面白いです。

    「玉、砕ける」
    主人公の男の私は、外国から香港経由で日本に帰ることに
    します。
    香港で、日本語の上手い中国人の張立人に会います。
    私と張立人の間では、最近、ある事が、繰り返し話題に
    なっています。

    白か黒か。右か左か。有か無か。あれかこれか。
    どちらか一つを選べ。選ばなければ殺す。
    しかも沈黙していることはならぬといわれて、
    どちらも選びたくなかった場合、どういって切り抜けたら
    よいかという問題である。
    二つの椅子があってどちらかにすわるがいい。
    どちらにすわってもいいが、二つの椅子のあいだにたつことは
    ならぬというわけである。

    一年おいて、二年おいて、ときには三年おいて、この話題を話しますが、
    張はもうちょっと待ってくれというばかりだった。
    しかし、ある時、張が老作家の老舎の話をした時に、私は、何か強烈な
    暗示をうけたような気がしました。
    その話とは何でしょうか?・・・・・・・・・・・・・・
    二つの椅子のあいだには抜道がないわけではないが、そのけわしさには
    息を呑まされるものがあるらしかった。
    抜道とは何か、小説を読んでください。

    私は、あかすりの店で、体中のあかを取ってもらいます。
    玉、砕けるとは、何が砕けるのでしょうか。

    「ロマネ・コンティ・1935年」
    41才の日本人の小説家の私は、40才の重役と、高層ビルの
    料理店で、ワインのロマネ・コンティ・1935年を飲みます。

    小説家は奪われるのを感じた。酒は力もなく、熱もなく、
    まろみを形だけでもよそおうとする気力すら喪っていた。
    ただ痩せて、水っぽく、萎びていた。
    酒のミイラであった。

    小説家は眼をあげて
    「・・・・・・・・・・・・・・・・」
    グラスをおいた。
    重役はいらだたしげに
    「いけねえ」

    ロマネ・コンティ・1935年は死んだ酒だと思いながら
    飲んでいると、小説家が若い時に、フランスに住んでいた頃、
    つきあっていた女性の、グンヴォールが目の前に現れます。
    グンヴォールとの日々の回想が語られます。

    小説家は、女と知り合います。
    女は、小説家の部屋に来ます。
    オレンジをしぼって、自分の全身にふりかけてから、
    小説家の体にもふりかけます。

    小説家は体を起こし、闇のなかで、鼻と舌で、小さな芽をまさぐった。
    なじみ深いおしっこの塩辛い味が舌にき、野卑な匂いが鼻に
    むっときた。野卑は一瞬か、二瞬、耐えると、親しさにかわった。
    つづいてオレンジの新鮮な香りと甘さが舌と鼻にあふれた。
    果汁でしとどに濡れしとった茂みに顔を埋めると、耳のうしろや
    肩のあたりに亜熱帯のうるんだ青い空と大河が感じられた。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    その空と濁った大河がいまは透明に輝いている。
    異様な空だった。豊穣さは亜熱帯なのに北の極地の
    爽快な透明がみなぎっている。
    してみなければわからない。
    してみるまでは何もわからない。
    どんな女から、何があらわれるか。
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    女は形を失い、部屋いっぱいになった。
    部屋そのものになった。

    死んだと思ったロマネ・コンティ・1935年は、命を保っていて、
    小説家の前に、長いこと会っていないグンヴォールの姿を
    現出させました。
    やはり、すごい酒だったのです。

    開高健の小説は、平易な言葉で書かれていますが、
    人生を考えさせる深さを持った小説です。
    若い男性に忠告します。
    いいと思う女性には、告白して、ガールフレンドになってもらって
    ください。
    駄目でも、次々にアタックしてください。
    傷つく事を恐れて、行動しないのは駄目です。
    斎藤一人さんの言うように、この地球は、行動の星なので、
    行動しないかぎり運は開けません。
    ガールフレンドを作っておくと、あなたが老人になって、
    いい赤ワインを飲んだ時に、ガールフレンドが、若い時の姿で
    あなたの前に現出します。
    思い出が蘇ってきます。
    いい赤ワインのプレゼントです。
    そんな人生、素敵な人生だと思いませんか。
    安全で臆病で傷つくことを恐れた人生を送っていると、
    老人になって、いい赤ワインを飲んでも、何も現出しません。
    ひからびた人生です。

    「ダイヤモンド・ダスト」で芥川賞を受賞した南木佳士が開高健の
    思い出を語っていました。
    開高健は、芥川賞の選考委員の一人でした。
    南木佳士は、芥川賞候補に何回もなるのですが、毎回、開高健に酷評されて
    落選します。
    「作文以下の作品だ」と毎回酷評されて、「なにくそ」と歯をくいしばって、
    次の小説を書いたそうです。
    「ダイヤモンド・ダスト」を、いい作品だと誉めてもらった時は、本当に
    うれしかったそうです。
    「開高健は、本当に高い壁だった。壁を越えようと精進した。
    開高健には本当に感謝している」
    南木佳士はそう言っています。(H.P作者)
    NO.63 訊ね人の時間  新井満 文芸春秋    
    新井満が書いた、詩情にあふれた小説です。
    静かな詩情にあふれています。

    構成は、下記のようになっています。
    第一章:夜の底から聴こえてくる音
    第二章:星の子供
    第三章:井戸
    第四章:黒いつばひろの帽子

    主人公の男の神島は、カメラマンです。
    カオルと結婚しましたが、2年前に別れました。
    カオルは、若い男と再婚しました。
    子供の月子は、カオルがひきとりました。

    同じカメラマンである山田の個展に出かけて行き、
    20才のモデルの卵の圭子と出会います。
    圭子のシャックリを止めてあげたお礼に、圭子と
    ラブホテルに行きますが、神島は不能で、SEXできません。
    5年間ぐらい不能なのです。

    神島の娘の月子は10才です。
    自分のことを僕と言います。
    ボーイッシュな恰好を好みます。

    神島がカオルと会話したことがあります。
    「あの子、子供部屋にこもって、いつも何してると思う」
    「さあ、何をしてる」
    「ただ窓の外をじいっと眺めているのよ」
    「彼女は観察しているのかもしれない。
    何かを観察するのは、哲学の第一歩だそうだ」
    「私、心配だわ」
    「何が」
    「いろんなことがよ」
    「たとえば」
    「あの子は大きくなったとき、あたりまえな結婚が
    できないのじゃないかしら」

    カメラマン仲間の神島、山田、岡崎がバーで酒を飲みます。
    岡崎が写真を示します。
    フランスの爺さんと婆さんが踊っている写真です。
    頭の上に両手を高く持ち上げて、「リゴドン、リゴドン」と
    言いながら、一歩歩いて、二歩下がるリゴドンダンスの写真です。
    神島の頭の中で、「リゴドン、リゴドン」という声が響きます。

    神島は、心理カウンセリングを受けます。
    神島は、空中ブランコに乗って、バスを待っていますが、
    バスは来ません。
    バスストップで待っていた他の男は、「もう待てない」と叫んで
    立ち上がり、スタスタと歩き出します。
    「あなたは歩きださないのですか」
    カウンセラーがたずねます。
    「いいえ」神島は呟く。
    「ぼくはあいかわらず空中ブランコに乗って遠くの方を
    ぼんやり眺めています」
    ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
    「私のカウンセリングは簡単です。
    バスは必ず来ます。そう信じなさい。
    それ以外にあなたのコンディションを回復させる
    方法は、ない」

    神島と圭子は再会します。
    圭子は、神島のモノクロ写真集「尋ね人の時間」を見ました。
    圭子は言います。
    「あなたの尋ね人になれそうな気がしたんです」
    神島にバスは来るのでしょうか?

    静かな詩情に溢れた作品です。
    私は、神島の娘、孤独な月子に、とても心惹かれます。
    月子は、カオルと新しい男のマンションから、神島のすむマンションまで、
    棒の先に蝋石をひもでしばりつけて、白い線を引きながら歩いてきました。

    離ればなれになった父と母、その二人が住む二件の家を結ぼうとして、
    月子が大地の上に描いた不思議な模様。
    灰色のアスファルトの上を細く長くどこまでも、まるで奇跡のように
    伸びつづける哀しげな一本の白い線。
    神島の胸の底から熱いものがこみあげてきた。


    新井満は、二回連続で作品が、芥川賞を落選して、「尋ね人の時間」が再度、
    芥川賞候補になりました。
    賛否両論が起こる中、この作品を、吉行淳之介が強く推して、
    芥川賞受賞が決まりました。
    世間の良識と闘い、性愛の作品で独自の道を行った、吉行淳之介の
    作品が、私は好きです。
    吉行淳之介の、作家としての努力と苦労とは、大変なものだったと、
    私は思っています。
    またその作品は、小説の高みに達していると、私は思っています。(H.P作者)
    NO.64 ポトスライムの船  津村記久子 講談社文庫     
    主人公の29才の女性の長瀬由紀子の人生に共感を感じました。
    主人公のナガセは、契約社員として、工場のラインで働いています。
    大学を卒業して新卒で入った会社を、上司からの
    凄まじいモラルハラスメントが原因でやめ、その後の
    1年間、働くことができず、やっとこのラインの仕事で
    働き始めて、なんとか続いているのです。
    乳液のキャップを閉めて、キャップに異常が無いことを
    確かめてから、再びコンベアに戻す仕事です。
    ひたすら、その作業を繰り返します。

    ラインの仕事をしていると、一つの考えに頭が
    占有されて、抜け出せなくなります。
    最近は、やる気がでない自分を鼓舞するために、
    腕に、「今がいちばんの働き盛り」という刺青をしたいという
    考えに、ずっと頭を占有されていました。もちろん実行はしないのですが。

    ナガセは、職場にポスターが貼ってある世界一周のクルージング旅行が
    いいなと思っています。
    台湾、シンガポール、インド、パタゴニア、パブアニューギニア等に
    行く旅行です。
    パブアニューギニアでアウトリガーカヌーに乗っている
    現地の少年の写真にみとれています。
    世界一周旅行の代金は163万円で、ナガセの1年間の
    年収に相当します。
    ナガセは貯金しようと思います。

    「わかった。貯めよう」
    口をついて出たのはそんな言葉だった。

    ナガセは、母と、奈良の古くて広い木造の家で、
    二人で暮らしています。
    雨漏りがします。
    ポトスライムを何個か、コップに入れて、育てています。

    大学生の友人のヨシカが、奈良でカフェをやっているので、
    ナガセは、夜は、カフェで働いています。
    土曜日は、パソコン教室の講師として、老人にパソコンを
    教えています。

    大学時代の友人の、りつ子が、幼稚園児の女の子供の
    恵奈をつれて、ナガセの家にやってきます。
    夫とけんかして、家を出てきたそうです。
    ナガセと母は、しばらくの間、りつ子と恵奈を家に
    住まわせてあげることにします。

    「ぜんぜん話をせんのよ」りつ子は、まったく手をつけていない、
    ペットボトルの中身を移し替えた手元のグラスに視線を落としながら
    続ける。
    「ごはんを出しても、気に入らんもんやったら手もつけんと
    一人分だけ出前とるし、娘の話をしようとしても、リビングで
    ゲームばっかりやってる」
    「なんで子供まで作ったんやろうって。そんなことまで考え
    始めたんで、もうこれはあかんと思った。」
    りつ子と夫は、離婚に向けて、協議を始めますが、
    りつ子を見るナガセの心は重く・・・・・

    ナガセは、日曜日も、パソコン教師として教えることにします。
    仕事で1回挫折しているので、忙しく働いていないと、不安なのです。
    あきらかに働きすぎです。

    忙しくしないと生きていけないのだ、とすぐに心のどこかが答える。
    家を改修しなければいけないし、毎日ごはんを食べなければいけない。

    ナガセは、咳がひどくなり、止まらなくなります。
    バスの中で気を失ってしまいます。
    ナガセはどうなるのでしょうか?
    163万円は貯まるのでしょうか。

    小説の題名の「ポトスライムの船」の意味は何でしょうか?
    小説の後半に登場するので、お楽しみに。

    ナガセ、母、ヨシカ、りつ子、恵奈達が、小説の中で
    生き生きと動いています。
    一生懸命に働き、生きているナガセの生き方に
    とても共感を覚えました。
    りつ子と恵奈にも、心惹かれます。
    面白い小説です。

    津村記久子や青山七恵は、作家としての力量が凄いと
    思います。
    平易な文章で、面白い小説世界を構築します。
    文体や物語世界が破綻をきたすことはないです。
    並々ならぬ力量だと思います。(H.P作者)
    NO.65 荒地の恋 ねじめ正一 文春文庫     
    詩人の北村太郎と、詩人の田村隆一の妻の田村明子の
    不倫の恋について、書かれています。


    日本を代表する詩人の田村隆一によって、精神を壊されつつある
    妻の田村明子は、他の男に、救いを求めます。
    詩人の北村太郎は、田村明子に魅力を感じ、不倫の恋をするように
    なります。北村太郎が55才の時です。

    北村太郎は、朝日新聞で、校閲部長をしていました。妻の治子と
    1男、1女の家庭を築いていました。
    田村明子が好きだと妻の治子に告げてから、治子も壊れていきます。

    治子は、北村が家を出ようとすると、北村の前に立ちはだかった。
    「どうしたの、今日は。新しいネクタイなんかしてめかし込んじゃって」
    「気分転換だ。安物のネクタイ1本ぐらい、買ったっていいだろう」
    「仕事が終わったらあの女と逢うんでしょう」
    「気分転換だと言ったろう」
    「あの女と逢って気分転換をするんでしょう。あなた、私のことが
    そんなに嫌いなの?気分転換しなきゃいけないほど私のことが
    イヤなの?」
    「そんなことはない」
    「家庭を壊しかけておいて、よくも気分転換なんて言えるわね」


    北村太郎の浮気が本気になってしまい、北村太郎は、家を出て、
    田村明子と同棲生活を始めます。翻訳の仕事や、カルチャースクールの
    講師の仕事をして、治子に毎月、養育費を支払います。
    生活はぎりぎりの生活です。

    しかし田村明子が本当に愛していたのは、田村隆一でした。
    家を捨て、家族を捨てた北村太郎は、4年後に田村明子と別れる
    ことになります。田村明子は、田村隆一のもとに戻っていきます。

    田村明子が北村太郎に言います。
    「あたし、田村とそういうこと、二度しかないの。結婚前に一度。
    結婚してから一度。あたしと田村の関係って、そういうことじゃないのよ」
    「明ちゃんは何を言いたいんだ」
    北村は明子の顔を凝視した。
    「だから・・・・・」
    明子が両手で顔を覆った。
    「明ちゃん、そりゃないだろう。今さらそりゃあないだろう」
    「でもあたし、太郎さんのこと好きなのよ。あたしのこと本当に
    考えてくれるのはあなただってわかってるのよ」
    「そんなことはいい。いや、よくない。
    明ちゃん、君は俺を利用したんだ。今やっとわかったよ」

    治子が家に帰ってくるように提案しますが、北村太郎は断わります。
    北村太郎もぼろぼろになります。しかし、平和な家庭生活を捨て、不倫を
    始めてから、詩神が北村太郎の上に降り立ったように、北村太郎は
    すぐれた詩作品を数多く書くようになります。

    やがて北村太郎は、多発性骨髄腫を発症します。
    平均生存年数は3年です。

    死の直前に北村太郎は書いています。

    ドクターから、タンパク質多し、次回の様子では再入院と。
    いよいよかと思うがもう入院はタクサン。死自体はまったく怖くなし。
    複雑な人生を作ったツケか!

    69才で、北村太郎は亡くなります。

    平和な会社員生活、家庭生活を送っていた時には、北村太郎は
    あまり詩を書きませんでした。
    壮絶な生活が始まってから、詩神が北村太郎に降臨したようです。
    苦しんでボロボロな生活を送っている時に、多くのすぐれた詩作品が
    生まれました。人生とは一体、どういうものでどう考えればよいのでしょうか。

    この作品の影の主役は、詩聖の田村隆一です。
    朝から酒を飲んで、北村太郎に「こいよ、なあ」
    「北村ぁ 会いたいんだよー」と言う田村隆一です。
    全体を支配して、皆を壊していきます。恐るべし、田村隆一です。

    北村太郎が田村隆一について書いています。
    田村の詩も、田村という人間も、もしかしたら田村の人生も、
    殺し文句で出来上がっている。
    そしてまた、殺し文句の詩人は女を殺すだけで愛さないのだった。
    言葉で女を殺して、うまいこと利用して、面倒くさくなったら逃げだすのだ。
    殺し文句の詩人が大切にしているのは言葉だけである。
    言葉に較べたら、自分すらどうでもいいのである。

    田村隆一も、次々とパートナーの女性を作っては別れる無茶苦茶な
    人で、アル中だったようですが、その詩作品は美しく、
    今でも燦然と光かがやいています。

    鮎川信夫とか加島祥三とか、詩人も多く登場するので、詩の好きな人には
    おすすめの小説です。(H.P作者)