石川著作集より                        目次に戻る
川崎を歩く 多摩石仏の会五月例会

 平成八年五月十九日(日曜日)は、多摩石仏の会五月例会である。午前九時三〇分に小田急線読売ランド前駅に集合、多田治昭さんの案内で川崎市多摩区南部をまわる。集まったのは、鈴木俊夫さん・林国蔵さん・明石延男さん・関口渉さん・犬飼康祐さん・萩原清高さん・遠藤塩子さんの総勢八人である。

 最初の見学は、通りから少し入った大作自治会館(西生田二−一二)に立つ
 1 正徳2 光背型 日月「奉造立庚申供養二世安楽處」三猿    70×31である。日月は線刻、三猿は正面を向いている。ここには、聖徳太子千三百年記念の石祠がみられ、石工銘の「登戸石工 吉沢耕石」が台石に刻まれている。これも台石に彫られているが、施主の生田村太子講員の氏名が「姓名イロハ順」というのは、序列のいざこざを考えてのことだろうか。

 栗谷三丁目九番にある山王権現社には、境内に二基の燈籠が建っている。
  参1 元文5 燈 籠 「奉納山王権現御寳前」          59×21×19
  参2 延享1 燈 籠 「奉納山王権現御神前」一猿        57×22×27がそれで、参1は庚申年の造立、参2の猿は子猿を抱くようにも思われるが、欠けていてはっきりしない。なお参2には「願主 岸場勾當勢都」の銘がある。

 栗谷町会会館(栗谷二丁目一番)の横には覆屋があって、中には右端に嘉永七年の「堅牢地神」塔(71×29×25センチ)、左端に文化元年の「南無妙法蓮華経 道祖神」塔(70×25×19センチ)がみらる。道祖神の正面には主銘の他に「一天四海 皆帰妙法」の偈文、右側面には「溝口村 宗隆寺日保(花押)」とあり、左側面には「五反田村庚申待搆中」、頂部には「大栗谷□(村か)」の銘文がある。両塔の間にはさまって
  2 元禄3 板駒型 日月・青面金剛・三猿            67×35
  3 宝暦11 板駒型 日月・青面金剛・三猿            73×32の二基の庚申塔がある。2は、主尊が合掌六手であるが、通常、下方手に持つ弓と矢が上にあり、下方手に索と蛇をとる。3は、2同様に合掌六手立像であるが、これは通常にみられる上方手に宝輪と矛、下方手に弓と矢を持つ。頭上に「南無妙法蓮華経」があり、像の右に「奉造立帝釈天王庚申講中」と、日蓮宗の影響を受けたものである。

 南生田二丁目二八番の坂の中途には、石祠の前に二基の庚申塔が並んでいる。
  4 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿            89×36
  5 享保16 板駒型 日月・青面金剛・三猿            61×33共に合掌六手の青面金剛であるが、4は上方の左手に索を持つのが変わっている。

 長沢の諏訪神社で昼食をとる。食後、参道に並んで立っている
  6 元禄5 光背型 日月・青面金剛・三猿            73×32
  7 延享2 笠付型 「庚申供養塚」               62×23×15をみる。6の年銘は、「干時元禄五壬申天無神月廾一日」と「神無月」を逆にしている。祈念銘も「奉造立庚申庚申尊像伸供養儀者也現安穏後生善処」と長い。

通りに出て右の路傍に小祠(長沢四丁目一一番)があって、中に
  8 元禄16 板駒型 日月・青面金剛・三猿            73×34が安置されている。合掌六手であるが、上方手に索と矛(蛇かも)を持つ。

 長沢一丁目二九番の盛源寺の入口には、川崎市の郷土重要資料の標識が立ち
  9 寛文10 光背型 「奉彫刻山王大権現為供養也」三猿      80×39がみられる。地銘は「武州橘郡菅生郷長沢村」とある。標識に記された「長尾村」というのは何を指すのだろう。境内には、佛足石がみられる。

 多摩区から宮前区に入り、菅生二丁目二九番の秋月院の入口には
  10 元禄10 光背型 日月・不聞猿「奉修庚申供養」        51×24がある。先の栗谷・山王権現社の一猿燈籠とは異なり、この時期にはすでに庚申塔に三猿が普及しているせいか、一猿でも不聞の形である。

 枡形五丁目一八番の路傍には六地蔵の祠があり、道標銘の刻まれた弘化四年「奉修道六神」駒型塔(45×18×8センチ)や交通安全地蔵、三面馬頭など共に
  11 元禄5 板駒型 日月・青面金剛・三猿            71×33がみられる。上部に刻まれた種子は「カーン」か。合掌六手立像で、「奉造立青面金剛像庚申供養所」とある。同じ青面金剛を主尊としても、11が「青面金剛」としているのに大して、これまで見てきた3が「帝釈天王」、4が「庚申像」、6と8が「庚申尊像」と、表記がさまざまである。

 枡形六丁目の広福寺の入口には
  12 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿            67×31がある。その先には
 13 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿         57×29がみられる。今日これまで廻ってきた青面金剛には、鬼も鶏もみられなかったが、ようやく二鶏が13に陽刻されている。ここにある文政五年の柱状型「サク 廾三夜塔」(56×29×28センチ)は、両側面と裏面に「西 大山道」「東 向□道」「南 えのしま かまくら 道」の道標銘が刻まれている。墓地にある弥陀三尊のマンジュウには「五智如来」の銘が刻まれている。近くにある光背型塔に浮彫りされた六地蔵も見るべきものだろう。

 枡形山の山頂にある展望台で四方を見渡してから、日本民家園(枡形七丁目一番)を訪れる。パンフレットに「園路には道祖神・庚申塔・馬頭観音・道標などの石造物を展示」と記されているように、園内の三ヵ所には
  14 万延1 自然石 「庚申塔」                 計測なし
  15 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿            計測なし
  16 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿            計測なし
 17 享和2 柱状型 「庚申塔」                 計測なしの四基の庚申塔が見学通路の傍らに立っている。14・15・16の三基には立札がみられ、旧所在地がわかる。14は、長野県南佐久郡八千穂村、15と16の二基は、市内多摩区登戸にあったものである。17には、旧所在地を示す立札がないが、塔面に刻まれた「南神奈川道」や「東江戸道」などの道標銘から判断して川崎市内の塔である。

安立寺(東生田一丁目二七番)の帝釈堂の前には
  18 文化X 駒型  日月・青面金剛・三猿            67×27×18があり、主尊は上方手に日月を持つ合掌六手。右側面には「南無妙法蓮華経」、左側面には「石橋供養」銘がある。青面金剛の下にも三猿があったようで、台石の三猿は後刻と思われる。

 最後の見学は、宿河原二丁目四四番の龍安寺、入口には寛文九年の念佛供養地蔵を中において、両脇には
  19 寛文9 光背型 「奉立庚申供養之事同行拾人」三猿      94×40
  20 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿         85×39の二基がみられる。頂部の欠けて20は、今日二基目の二鶏付青面金剛である。墓地には、角柱の三面に二体ずつ配した六地蔵の上に子供を抱く地蔵座像(文化九年)がみられる。無縁塔の中には、宝永三年銘の馬頭観音と十一面観音があり、共に理鏡妙融信女の菩提に建てられたものである。境内には、恵比須・大黒天の丸彫り像がある。

 龍安寺からJRの登戸駅に向かい、帰途につく。

 今回廻った石仏の年表を作ると、次の通りである。
 〔庚申塔年表〕
  1669 寛文9 光背型 「奉立庚申供養之事同行拾人」三猿   宿河原2 龍安寺
  1670 寛文10 光背型 「奉彫刻山王大権現為供養也」三猿   長沢1  盛源寺
  1690 元禄3 板駒型 日月・青面金剛・三猿         栗谷2 栗谷町会会館
  1692 元禄5 光背型 日月・青面金剛・三猿         長沢4 諏訪神社
  1692 元禄5 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形5 地蔵堂
  1697 元禄10 光背型 日月・不聞猿「奉修庚申供養」     菅生2 秋月院
  1702 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿         南生田2
  1702 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形7 日本民家園
  1702 元禄15 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形7 日本民家園
  1703 元禄16 板駒型 日月・青面金剛・三猿         長沢4 路傍
  1712 正徳2 光背型 日月「奉造立庚申供養二世安楽處」三猿 西生田2大作自治会館
  1731 享保16 板駒型 日月・青面金剛・三猿         南生田2
  参考 元文5 燈 籠 「奉納山王権現御寳前」        栗谷3 山王権現社
  参考 延享1 燈 籠 「奉納山王権現御神前」一猿      栗谷3 山王権現社
  1748 延享2 笠付型 「庚申供養塚」            長沢4 諏訪神社
  1761 宝暦11 板駒型 日月・青面金剛・三猿         栗谷2 栗谷町会会館
  1802 享和2 柱状型 「庚申塔」              枡形7 日本民家園
  180X 文化X 駒型  日月・青面金剛・三猿         東生田1安立寺
  1860 万延1 自然石 「庚申塔」(旧・長野県)       枡形7 日本民家園
  ・・ 年不明 板駒型 日月・青面金剛・三猿         枡形6 広福寺
  ・・ 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿      枡形6 広福寺
  ・・ 年不明(板駒型)日月・青面金剛・二鶏・三猿      宿河原2 龍安寺
  〔石仏年表〕10
  1804 文化1 柱状型 「南無妙法蓮華経 道祖神」      栗谷2 栗谷町会会館
  1847 弘化4 駒 型 「奉修道六神」(道標)        枡形5 地蔵堂
  1822 文政5 柱状型 「サク 廾三夜塔」(道標)      枡形6 広福寺
  1854 嘉永7 柱状型 「堅牢地神」             栗谷2 栗谷町会会館

             〔初出〕『私の石仏巡り 平成編』(ともしび会 平成七年刊)所収
川崎市幸区を歩く

 平成九年八月十日(日曜日)は、川崎市幸区小向西町の八幡神社にいく。この日に小向の獅子舞が神社に奉納されるからだが、残念ながら奉納舞は午前九時からで着いた時には終わっていた。それでも夜九時から小向会館で獅子舞がみられるというから、待つことにして幸区内の庚申塔を廻って時間をつぶす。

 先ずは小向会館から北加瀬の寿福寺を訪ねる。
途中の路傍(北加瀬一−七−二七)では
 1 年不明 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      86×36×20が木祠の中に安置されている。剣人六手の青面金剛(像高55センチ)で、下部に三猿(像高7センチ)がある。右側面に年号が刻まれているが、よく読めない。左側面には「武州橘樹郡□□之領加瀬村講中」とある。

 次は、目的とした寿福寺(北加瀬の一−三七)で、境内にある木祠には、次の二基の庚申塔が並んでいる。
 2 寛文9 丸 彫 如意輪(二手)               127×59
  3 寛文4 丸 彫 地蔵・三猿                168×60
 2(像高108センチ)の背面には、「奉造立観世音庚申供養為二世安楽也 干時寛文九己酉天霜月吉祥日 武州橘樹郡稲毛領 北加瀬村同行九人 施主敬白」とあり、下部に「飯田□□□」などの九名の施主銘が刻まれている。清水長輝氏の『庚申塔の研究』の七七頁に記述がみられる。
 3(像高151センチ)の背面には、「カ 奉造立地蔵菩提庚申供養為二世安楽也 武州…………寛文四甲辰年 □月廾四日」とあり、十人ほどの施主銘がみられる。下部には正面向きの三猿(像高14センチ)が浮彫りされている。

 寿福寺から小倉の無量院に向かう途中、北加瀬一−三八の路傍にある木祠の中の
  4 元文2 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿      73×39をみる。合掌六手像(像高45センチ)で、下部に三猿(像高11センチ)がある。像の左右に「庚申講中」「元文二丁巳年十一月」の銘文が刻まれている。

 無量院に向かう途中で南加瀬で方向を間違えて同じ道を廻ってしまい、時間の浪費となる。ともかく小倉の杉山神社にでて、入口の木祠に安置された
  5 享保20 板駒型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿    101×43をみる。横には

       夢見ヶ崎 庚申様とその由来
   一、奉 斎 地
       多摩丘陵の一部、元「加瀬山」と呼ばる
       伝承によると
       鎌倉北条第四代高時代参の祈願所社殿の鎮座地 太田道灌築城の意図ゆかりの夢見ヶ
       崎の地元この山麓南端、今の日吉交番所在地内にあり
       戦後急速に都市化し、交通の要地となったので ここに旧東前庚申講の諸人によって
       此の地を遷座地と定め 昭和五十三年初夏に遷座祭竝びに庚申祭を執行 現代は利益
       をもたらす福神として信仰される
   二、奉斎時期
      1、近世江戸時代
      2、現御神体像は江戸末期のものと推定される 「石像及び有志氏名の風地状態より」
   三、起源と由来
       起源は古く中国に起り 「人間の腹中に三尸という、三匹の虫がひそんでいて、わず
       かな罪過も許さないが、庚申の夜人が眠っているすきに、天上に上り、その罪過を天
       帝に告げ、人間の命を奪う」とされている。
       日本で中世(平安朝)貴族社会に受け入れられ、近世武家時代には民間に広く受け入
       れられる。
       神道では「申」から猿田彦神を奉斎する。そして道祖信仰と習合し、庚申の夜には人
       々が集まり慎みの中に談合し一夜を明かす習俗として、各地に広まった。
       庚申の日は六十日目に、年は六十年目に、この六十年目には庚申塔を建てることが多
       く、その組織は農耕を主とする村落生活と密接に結びついている。
         以上畧記 夢見ヶ崎庚申講

昭和五十三年六月二十七日の説明板がみられる。主尊は剣人六手の立像(像高55センチ)で、下部に三猿(像高10センチ)の陽刻がある。両側面の銘文は読めないが、三猿の下に刻まれた「小倉村 講中 八人」の銘はわかる。

 最後に小倉の無量院を訪ねる。境内には、次の二基の庚申塔がみられる。
 6 寛文1 燈籠 六地蔵・三猿                82×30
  7 延宝8 地蔵・三猿                  101×50
 6の火袋には六地蔵(像高19センチ)が浮彫りされ、竿石には三猿(像高17センチ)、その上に「奉造立」、節の下には「□庚申供養為現當二世悉地……」、その左右に「武州橘樹郡……」、「寛文元辛丑年九月吉日 施主敬白」の銘文が刻まれている。
 7は中央に延命地蔵の立像(像高81センチ)、下部に三猿(像高12センチ)がある。地蔵の右に「奉造立地蔵菩薩庚申供養為現當二世也」、左に「延宝八庚申天四月吉日 武州…」の銘がみられる。

 この無量院を最後に獅子舞の会場である小向会館に向かう。
              〔初出〕『平成九年の石佛巡り』(ともしび会 平成九年刊)所収
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