石川著作集より 目次に戻る |
戸塚区内を廻る 平成十五年五月二十五日(日曜日)は、日本石仏協会主催の戸塚見学会に参加する。午前一〇時、JR東海道線戸塚駅に集合、コースの案内役は会田秀介さんが担当されて横浜市戸塚区内の石佛を廻る。 今までは、戸塚に行くのに八王子から横浜線を利用して横浜で東海道線に乗り換えていた。今回はパソコンでヤフーの画面を呼び出して「路線」を選択し、戸塚駅午前九時四五分の到着指定で検索する。画面に幾つかのコースが現れ、最後にあったのが青梅〜立川〜東京〜戸塚のコースである。これだと二回の乗換であるし、青梅と東京は始発駅だから座れる可能性が高く、立川からの中央特快も運がよければ立川で、最悪でも新宿過ぎれば座れると考えた。幸運にも今回は、青梅から戸塚まで座って行ける。 戸塚駅についたのがパソコンの画面通り九時四一分、改札を出るとすでに十数人の方が集まっている。受付を済ませて「第58回石仏見学会 戸塚の石仏」の資料をいただく。今回のコースは、平成十一年六月十三日(日曜日)の多摩石仏の会で関口渉さんの案内によって歩いた矢部町・稲荷社以降の後半部を一部省略したコースに当たる。この時は庚申塔中心で今回ほど他の石佛、例えば吉田町の妙見菩薩石祠や清源院墓地の子抱き地蔵などに注意を払っていなかったし、それらを見逃していた。 第一見学場所は、矢部町九七にある稲荷社である。ここの境内には、祠の左横に 道1 寛政2 光背型 双体道祖神 39×28がみられる。正面に拱手の双体像(像高28センチ)を浮彫りし、年銘の「寛政二戌正月吉日」がある。塔の前面には、丸石が敷かれている。 稲荷社の近くには、戸塚町五一三二の路傍に面した承応四年の庚申石祠(63×77×64)があり、昭和五十八年六月十二日(日曜日)に行われた多摩石仏の会で藤井正三さんの案内で初めてこの石祠に出会った。前回の時もみているが、今回は省略である。その代わりというのも変であるが、吉田町二六の妙見菩薩石祠を訪ねる。亀と蛇を浮彫りする角柱や台石が面白い。 次いで訪ねたのが浄土宗の清源院(戸塚町四九〇七)で、家康の愛妾・お万の方が創建した寺である。石段の右手の高見に 1 元禄9 笠付型 日月・青面金剛・三猿(台石) 74×36×27がある。正面の上部に日月、中央に合掌六手像(像高36センチ)、下部に八人の施主銘を刻んでいる。右側面に「元禄九丙□年」、左側面の「九月吉日」の年銘がみられる。右側面が破損しているのが惜しまれる。台石正面に三猿(像高11センチ)を浮彫りする。 境内から墓地へ入り、文政元年の徳本六字名号塔をみてから個人墓地を廻る。名号塔の近くにある「六地蔵塚」とある板石型塔が気にかかる。背面の下部に由来らしい長い銘文がみられるが、時間の関係で読めない。犬飼康祐さんの当時の報告をみると、「正徳三年の六地蔵が明治十三年の火災で破壊されたのでこの碑を建てた、とわかる」と記録されている。個人墓地にある文政十年の地蔵は、抱かれた子供が風車を持っているのが興味をひく。味岡家墓地にある笠付型六角柱の正面に六字名号が刻まれているが、下部に「徳本」とあるものの字体が全く異なる。会田さんの資料によると、この名号は「利剣名号」といわれるそうである。 続いて戸塚消防署の隣にある澤辺本陣跡を訪ねてから、明治天皇の行在所跡の石碑の奥にある澤辺家の元屋敷神だったという羽黒神社(戸塚町四一四二)の境内で 2 元禄5 笠付型 日月・青面金剛・二鶏・三猿(台石) 69×35×29 3 延宝6 光背型 合掌弥陀・三猿 106×47の二基をみる。 2は、正面に日月と上方手と下方手がH型にみえる合掌六手像(像高40センチ)を浮彫りする。日野市周辺にみられるH型像は、X型像の後に出現する傾向であるが、この像の造立年が日野より早く、X型像の時代に当たる。下部に「石井□兵衛」など九人の施主銘、右側面に「奉造立庚申供養塔」、左側面に「元禄五壬申歳三月吉辰」の年銘がある。三猿は台石正面にあるが、頭がみえるだけで埋まっているので計測できない。 3は、合掌する阿弥陀如来の立像(像高52センチ)を主尊とする庚申塔で、下に三猿(像高12センチ)がある。像の右に「奉造立庚申供養塔 所願成就」、左に「皆令滿足」の銘文がみられる。前回は読めた右の「延宝六戊午年」と左の霜月廾六日」の年銘は、今回は読めなかった。近頃、眼が悪くなったせいか銘文の読みには苦労する。 続く八坂神社の境内(戸塚町四一六八)には、石段を登った右手に 4 安政2 柱状型 「庚申塔」 67×27×25がある。正面には「庚申塔」の主銘、右側面に「安政二乙卯四月」の造立年銘、台石正面に七人の施主銘を刻んでいる。 多少時間が早かったが、この境内で昼食となる。食後の昼休みを利用して先刻訪ねて羽黒神社に戻り、計測と銘文を解読する。前回読めた年銘が、今回読めなかったのはショックである。ここで遅れてきた中村博さんに出会い、一緒に集合場所の八坂神社に戻る。 午後は、富塚八幡神社(戸塚町三八二七)の見学から始まる。ここでは、社殿左手にL字形に並ぶ庚申塔の八基の中で特に10・11・12の三基に注目する。 5 正徳4 板駒型 日月・青面金剛 63×33 6 元文3(笠付型)青面金剛・一鬼 62×28×20 7 正徳2 板駒型 日月・青面金剛・三猿 72×32 8 宝永4 板駒型 日月・青面金剛 72×35 9 享保1 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿 ※88×24×23 10 寛文12 笠付型 定印弥陀・三猿・蓮華 87×39×27 11 元禄1 笠付型 来迎弥陀・三猿 ※91×33×34 12 寛文11 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿 122×53 5は正面上部に日月、中央に合掌六手像(像高43センチ)、下部に三猿(像高10センチ)を浮彫する。右側面には、年銘の「正徳四甲午年十月吉日」が記されている。 6は笠部が欠失した塔であるが、笠部は見当たらない。塔自体も、主尊の合掌手(像高33センチ)のみしかわからない程に風化が激しい。右側面に「元文三戊午十月吉日」と六人の施主銘、左側面は「妙□信女」の法名と六人の施主銘を刻む。 7は合掌六手像(像高32センチ)、下部に三猿(像高11センチ)があり、その下に九人の施主銘を刻す。像の右に「正徳二壬辰年」、左に「十二月日」の年銘がある。 8も7と同じで合掌六手像(像高48センチ)、頭の左右に「宝永四丁亥年」と「七月二日」の年銘、足の左右には三人ずつの施主銘がみられる。 9は前面からみると板碑型のような額部がある。正面の中央に鬼上に立つ剣人六手像(像高43センチ)があり、下部に三猿(像高7センチ)、その上部左右に「奉造立」「庚申講中」とある。右側面には、年銘の「享保元歳丙申十二月吉日」がみられる。 この塔の主尊と三猿は計測したが、塔全体の採寸ができなかったので前回の測定を利用する。以下も含めて前回の測定は、数字の前に「※」印をつけておく。 10は、正面に定印を結ぶ阿弥陀如来の坐像(像高32センチ)を浮彫りし、下部の三猿(像高11センチ)は右から牡・牝・牡の順に並んでいる。また、「寛文十二壬子天」「十一月五日」の年銘や一二人の施主銘がある。両側面には、蓮華が陽刻がみられる。 11は10と異なり、正面の主尊が来迎印を結ぶ阿弥陀如来立像(像高33センチ)である。像の右には「奉造立庚申供養之塔銘曰」とあり、左に「元禄元戊辰年小春如意日」の年銘が読める。下部には、三猿(像高15センチ)を陽刻する。 12は胸前に剣と索、上方の手に宝輪と矛を執る四手の青面金剛立像(像高48センチ)を主尊とする。脚下の鬼は、太い尾の河馬を連想させるユーモラスな姿である。下部に三猿(像高21センチ)があり、その横に「寛文十一辛亥天」「十二月一日」の年銘、三猿下に一段一三人の名前を二段に刻む。三不型の三猿は、右から牝・中性(性別不明)・牡の順に並んでいる。10と12の写真は、昭和五十八年発行の『日本の石仏』二八号の九〇頁に載せたが、逆光で写真が撮りにくい場所に並んでいる。 前回の平成十一年には戸塚町の宮谷へ入って、田代清さん宅(戸塚町三四四九)前に並ぶ延宝四年来迎弥陀刻像塔・年不明合掌弥陀刻像塔・元禄十二年青面金剛刻像塔・元文五年「庚申供養」文字塔・安永六年青面金剛刻像塔の庚申塔六基をみている。 第六天社(戸塚三三五六)で冨士講先達の藤行(長谷川藤吉郎)の石碑をみてから、坂下台バス停付近(戸塚町三〇二九)の道路に面して次の庚申塔八基が並ぶ。 12 正徳4 板駒型 日月「ウーン 庚申講中」三猿 ※69×31 13 享保3 光背型 日月・青面金剛・三猿 ※68×29 14 元禄8 光背型 日月・青面金剛・二鶏・三猿 ※ 108×47 15 元禄6 板碑型 日月・青面金剛・二鶏・三猿 ※ 103×40 16 延宝6 笠付型 日月「キリーク 奉彫建庚申講石塔」三猿 ※98×37×35 17 延宝5 光背型 「バク 奉彫建庚申講石塔」 ※ 133×46×40 18 元禄4 光背型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿 ※ 112×40 19 寛保3 柱状型 「申」 56×26×11 12は、主銘の「ウーン 庚申講中」の上下に日月と三猿(※像高10センチ)を彫る。三猿の下には、六人の施主銘がみられる。 13は上部に日月、中央に剣索の六手像(※像高55センチ)、下部に三猿(※像高6センチ)を浮彫りする。主尊像の右に「奉供養 享保三戊戌天」、左に「十月十一日 庚申講」、三猿の下には一〇人の施主銘を彫る。 14も13と同じ剣索六手像(※像高55センチ)で、下部に三猿(※像高12センチ)と二鶏がみられる。右端に「奉新造立為庚申供養二世安楽」の祈願銘、左端に「干時元禄八乙亥天十一月二日」の造立年銘がある。この年の十一月二日日は、庚申の当たり日である。 15は上部に日月、種子「ア」の下に合掌六手像(※像高38センチ)、下部に二鶏と三猿(※像高13センチ)の刻像。右端に「奉建立庚申供養宝塔 敬白」、左端に「元禄六己酉天十一月吉祥日」、三猿の下に一〇人の施主銘を刻む。 16は主銘の「奉彫建庚申講石塔」の上に日月、下に三猿(※像高14センチ)を配置する。右側面に「維延宝六天 為二世安楽也」と四人の施主銘、左側面に「戊午十月吉日 □□□信士」と四人の施主銘を記す。今回みなかったが、背面に梵字四字が刻まれている。 17は主銘の「バク 奉彫建庚申講石塔」に続き、右に「為二世安楽也」、左に「一結十二人衆」とあり、右側面に「維延宝五天」と施主銘六人、左側面に「丁巳九月良辰」と施主銘六人がみられる。16と同様に今回みなかったが、背面に梵字三字が彫られている。 現在同じ場所に並んでいる16と17塔の二基は、元来は別々の場所にあったのかも知れないが、主銘が同じなのに、その上に刻まれた種子が何故か「キリーク」と「バク」と異なるのが気にかかる。一年違いの造立だけに背後にどういう事情があるのだろうか。 18は、13や14と同じ剣索六手像(像高48センチ)が鬼の上に立ち、下部に二鶏と三猿(※像高11センチ)がみられる。像の右に「元禄四辛未年」、左に「八月七日」と年銘を刻む。 19は、前面が剥落して僅かに「申」の一字しか読めない。昭和五十八年の記録では、現状よりまだ状態がよかったのか「□□□庚申講」と読めたし、前回は「庚申」と判読している。右側面に「寛保三癸亥天」、左側面に「□月吉辰」とある。「寛保」の「保」が人偏を「人」で表し、その下に縦一列に「口」と「木」をおく異体字である。 大坂台から諏訪神社(戸塚四五四)に向かう。通りより奥まった境内にある文化十四年の笏を執る天神坐像をみる。次の高島橋手前の日立戸塚工場前(戸塚町二一六)には 参 宝永7 柱状型 「これよ里かまくら道」 計測なしが建っている。正面は道標銘の「これよ里かまくら道」、右側面に六字名号の「南無阿弥陀佛」と七人の施主銘、左側面に年銘の「宝永七庚寅歳九月二日」とこの塔の施主「庚申講中」銘が刻まれている。 その先にある東海道線のガードをくぐり、子八幡神社(上倉田町九七八)に向かう。石段を登って神社の境内に入り、右手に並ぶ道祖神・庚申塔・地神塔の九基をみる。 道2 明治32 柱状型 「道祖神」 ※46×24×18 20 安永3 笠付型 日月・青面金剛・一鬼・二鶏・三猿 ※69×29×19 21 宝暦9 駒 型 日月・青面金剛・一鬼・三猿 ※68×40×21 22 貞享5 板駒型 日月・青面金剛・一鬼 ※96×41 地1 文久3 柱状型 日月「堅牢地神」 ※65×30×27 道3 嘉永6 柱状型 「道祖神」 ※73×31×25 23 元禄15 光背型 日月・合掌地蔵・二鶏・三猿 ※94×44 24 明治33 自然石 「庚申塔」 ※96×51 25 昭和14 自然石 「庚申塔」 ※96×55 道2は正面に主銘の「道祖神」、左側面に年銘の「明治三十二年一月建之」がある。 20は合掌六手像(※像高38センチ)を主尊とし、下部に三猿(※像高8センチ)がある。他に日月・一鬼・二鶏の刻像がみられる。右側面に「安永三甲午歳 五月吉祥日 上倉田村」、左側面に「庚申講中」と三段にわたって二名ずつ計六人の施主銘を刻む。 21は隣の20と同じ合掌六手像(※像高41センチ)で、日月・一鬼・三猿(※像高9センチ)を配す。右側面に「奉納庚申供養」、左側面に「宝暦九己卯年 十一月 施主」と施主五人の氏名を刻んでいる。 22の主尊は、20と21の合掌六手像と異なる剣索六手像(※像高53センチ)で、上下に日月と一鬼を配している。右下の端に「貞享五辰天」、左下の端に「二月吉祥日」、下部に「久左門」など七人の施主の名前が刻まれている。 地1は正面上部に日月・瑞雲を陰刻し、中央に主銘の「堅牢地神」、左側面に造立年銘の「文久三癸亥九月吉日」がある。 道3は皿角型塔の正面に「道祖神」、右側面に「嘉永六癸丑年正月日」とある。 23は正面中央に主尊の合掌地蔵(※像高38センチ)をおき、上に日月、下に二鶏と三猿(※像高15センチ)を浮彫りする。像の左右に「元禄十五壬午天」と「九月十二日」の年銘、三猿の下に九人の施主銘を刻む。 24は板石型塔の表面中央に主銘の「庚申塔」、その右に「明治三十三年十月建之」、左に書家銘を刻んでいる。 25も板石型塔の表面中央に「庚申塔」とあり、裏面には四行の銘文がみられる。先回の調査では「三本松ニ鎮座セラレシ当庚申塔ハ大正十二年 鉄道線拡張ノ為メ土地ヲ買収セラレシヲ以テ旧八幡社跡ヘ移転ス 依テ昭和十四年九月二十日 碑ヲ建設シ之ヲ記ス」と読んだが、今回は時間がなくて読んでいない。 九基の塔の写真を撮ってから、さらに坂を下って参道に並ぶ 26 寛文7 笠付型 来迎弥陀・三猿・蓮華 104×43×32 27 寛文10 光背型 合掌地蔵・三猿 113×45 28 嘉永7 柱状型 「青面金剛塔」 74×31×28 地2 明治8 柱状型 日月「堅牢地神」 74×32×33 道3 天明6 光背型 双体道祖神 45×28の五基を先回りして撮り、計測をする。 26は、正面中央に主尊の来迎印を結ぶ阿弥陀如来の立像(像高39センチ)をおく庚申塔で、像の左右にある逆配置の「サク」と「サ」の種子で弥陀三尊を形成する。主尊下に三猿(像高12センチ)、左右に年銘の「寛文七丁未天」と「霜月廾日」、三猿下に「優誉上人」と八人の施主銘がみられる。蓮華が両側面に浮彫りされている。 27の頂部に地蔵種子の「イーン」を刻み、中央に蓮座にたつ主尊の合掌地蔵(像高34センチ)、その下に三猿(像高22センチ)と四人の施主銘が並ぶ。像の右に「再拜曰 彭侯子彭常子命児子 悉入竊冥之中故離我身」の三尸銘(傍線部分)、左に「寛文十庚戌暦二月十九日」を記している。この塔の写真は清水長明さんの『相模道神図誌』(波多野書店 昭和40年刊)七三頁に掲載されている。それにはバックにブロック塀が写っているから、多分、撮影以降に旧在地から現在地に移されたと思われる。 28は角柱の正面に主銘の「青面金剛塔」、右側面に造立年銘の「嘉永七甲寅歳九月」、左側面に施主銘の「上倉田村村中」がみられる。 地3は、隅丸型の正面上部に日月と瑞雲を陰刻し、中央に主銘の「堅牢地神」、右側面に「明治八乙亥(異体字)歳三月吉日」の年銘を刻す。 道6は双体道祖神(像高31センチ)で、像の右に地銘の「相州鎌倉郡上倉田村」、左に「天明六午十月吉日」の年銘がみられる。右神は、肩に御幣状のものを持っている。 今回の見学会は、子八幡神社でコースを終わる予定であった。昼休みに青木安勝さんと折角ここまで来て蔵田寺を見学しないのは片手落ちだと、会田さんに申し入れてオマケとしてコースに蔵田寺を繰入れることを提案した。 この地蔵の後方にある石塔の中に |
マイプレイス地図参照 http://goo.gl/maps/Wqc8n ←クリック |
下図はコピーです。上欄のコードをクリックして原版を見てください。原版では @地図の拡大や移動が出来ます。 A地点マークをクリックすると名称が出ます。 |