神奈川の初期双体道祖神 TOPへ道祖神トップにもどる 写真集と分布地図 | |
文献資料(抜粋) 青字は大畠の注 双体道祖神のルーツ(神奈川県) | |
武田久吉:路傍の石仏(S46)江戸初期の道祖神像 (寛文から元文に至る) ・・・年号が明らかに刻んであるもので今日までに明らかになし得た古いものは、総計六基に上り、ことごとく神奈川県に現存する。 その所在地と年号を左に掲げる。 一 秦野市戸川原棄開戸「寛文九年酉八月廿六目」(写真49) 二 足柄上郡中井町雑色下庭「寛文九年十二月」(写真50) 三 小田原市高田西原「寛文十庚戊歳」(月目なし)「高田村」右に周72センチの丸石あリ(写真51) 四 足柄下郡橘町沼代明沢「寛文十年今月吉目」「奉造立土祖神」(写真52) 五 足柄上郡大井町篠窪入形「寛文十一天六月十四目」(写真53) 六 足柄上郡中井町鴨沢中ノ庭「寛文十二壬子年七月六目」(写真54) これ等はいずれも双立像で、第五のものが坐像であるほか他はみな立像であり、そして六基とも、像は左右同形で、男女の区別がなく、大体合掌し、ただ第一の右のと第二のものは、手を掬しているらしくも見えるが、何分古いものであるから判然しない。 |
|
日本石仏図典 (S61)日本石仏協会 道祖神〈3〉(双体立像道祖神)どうそじん 双立像の初期のものは、神奈川県小田原市、足柄上郡松田町・中井町・大井町、秦野市一帯にみられる。寛文年間(1861-73)に造立された15基のごとく、その様式は合掌する性別不明の左右同型というのが通説となっている。 写真の双立像は、その中でも最も古い、寛文三年(1863)銘のもので、これは右の神が合掌、左の神は宝珠らしきものを持っている像である。 この一群よりも古い紀年を示すものが長野県下にいくつかあって論議の的となったものもあるが、そのほとんどが江戸中期以後、その再建に当たって、初建の年月と、その古いことを後世に伝えるために、彫りこんだものであるから、当然双立像と紀年が一致せず、容易に判別することができるのである。〔芦田英〕 (写真)神奈川県足柄上郡松田町総領1210足柄上郡松田町総領1210 寛文三年(1863)松村雄介 右図 (大畠注)石仏図典の写真(右図)は、最古年号だが、僧形でも合掌像でもなく、左右同体像でもない。 1枚だけ載せる代表的な写真としては、写真の選択が不適当である。 |
寛文3年(1863) |
有村雄介:造塔を伴う道祖神信仰−その発生と展開T(「日本の石仏」1983夏p4) 出現期の道祖神塔 1663(寛文3)〜15年間に造立された遺品は表1のように17基を数える。No2以降の16期については、年代的な連続性や様式の地理的広がりも認められるので・・(造立年を疑う必要はない)と思われるが、N01(寛文3)だけは、年代的に孤立しており、(様式も他と違う−−左右が同体でないetc、−−こともあって)(寛文3が実際の造立年なのかどうか)慎重な検討が必要であろう。・・・ |
|
石仏巡り入門 (H9)日本石仏協会 造立年代は、そこに刻まれた紀年銘に基づくのが最も確実で、一般的に様式の古いと思われるものほど刻銘がない場合が多い。 現在最も古い紀年銘である永正二年(1505)と刻まれた双体握手像が、長野県上伊那郡辰野町の山中にあり、様式その他から見て、後年再建したときに最初に造立した紀年を刻んだものと見られている。 神奈川県西部の相模の中部で、寛文3年(1863)から同12年までの紀年銘が刻まれた双体合掌像12基が確認され、像容などから判断して当時のものに問違いないと考えられている。合掌像は初期の道祖神像の形式で、江戸時代初期に神奈川県西部の相模地域に集中的に造立され、その後貞享・元禄と年代を経るにしたがって、富士山麓の静岡県東部や山梨県を初め、長野県などでも造立され、その後、群馬・長野・山梨などの各県では、握手像や祝言像が造立されるようになる。 相模だけは以後も合掌像を造立し続け、近代にまで及んでおり、合掌像は、相模の道祖神の特徴にもなっている。 男神と女神が並んで立ち、仲睦まじく寄り添って手を握り合っているものや、互いに肩を組んで手を握り合っている像などが、元禄頃から群馬県や長野県で造立されるようになった。その後寛保頃から、男神が盃、女神が徳利や銚子とか瓢箪などの酒器を手にして寄り添ったり、肩を抱き合っている祝言像(酒器像ともいう)が造られるようになる。 (大畠注)初期双体道祖神が合掌型であることが記述されているが、僧形であることがどこにも書いてない。また僧形合掌像の写真も出ていない。 |
|
初期双体道祖神(僧形左右同寸同型合掌)(双子のお地蔵さん)の写真は、武田久吉「路傍の石仏」に6基掲載されているが、それ以外の本や記事ではほとんど紹介されていない。神奈川県以外では知らない人が多いのではないか。 |