江戸最初(1661〜1664)の青面金剛Z1〜Z4に利用された図像資料              →戻る

Z1             Z2             Z3           Z4 

  四天王寺系のお札       一例?三面/巨大な邪鬼   大津絵Aの漫画風夜叉 寛文当時の小泉庚申堂お札
寛文元年当時の江戸では、まだ青面金剛を見たことがなく、始めて石仏青面金剛を作るための資料を集めようとしていた。
同じ頃、関西ではすでに上記のような青面金剛のお札/掛け軸/大津絵が普及していた。
★庚申信仰は、関西の方が数十年江戸より先行していたのである。(関東の庚申研究では、この視点が全く欠けている。)
関西の庚申信仰については、次の年表も参照
   1610 京都八坂庚申堂 建立
   1618 四天王寺庚申堂 再建
   1630 京都粟田口庚申堂 再建
   1645頃 小泉庚申堂 建立
寛文元年(1661)よりずっと以前に、関西の庚申堂は出揃っており、
当然庚申堂のお札も出回っていた。

再建」というのは、老朽化したためではなく、庚申信仰が盛んになり、参詣人が増えて
 きたので立派なものに建て直したという意味であろう。

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補足説明(本文と重複)
江戸最古の青面金剛Z1〜Z4(寛文1〜4)は、板橋の石工が上の4枚の絵図から作り上げたものである。
一部は部品の組み合わせとして有効利用している。
(1)四天王寺系のお札: 当時関西で広く流通していた剣人型
(2)三面青面金剛: 
「あまり例のない三面青面金剛」「巨大な邪鬼」など共通点があり、これに似たお札を入手したのであろう。
(3)大津絵A: 市販の大量生産品(合羽摺り)ではなく、特別に作られた肉筆大津絵である。謝礼金への返礼?
(4)現存する小泉庚申堂のお札(明治の木版)とよく似た寛文当時のお札。寛文当時はまだリプリカ掛け軸はなかった。
  明治版との相違点: 四夜叉の衣装、棒のヘビ、二邪鬼のポーズ→本尊掛け軸と同じ。四番夜叉の位置。
   (3)の大津絵Aには、(4)(当時の小泉庚申堂お札)が参照されている。 Z4−(3)−(4)を比較すると腕の角度までがそっくりである。