04神奈川                                                 目次へ
広重「神奈川」には、再刻版の謎があった。再刻版が作られた理由は、江漢図と較べれば一目瞭然である。

初刻版

再刻版
江漢図通りに、屋根の勾配と形を描き直させられただけである。
  江戸の中心地を一歩離れると,当時の日本はわら屋根の家ばかりで、わら屋根の形は江漢図(寄せ棟)が正しいのである。
岡野新田工事(干拓工事)1833〜
神奈川台の茶屋から眺めた名勝袖ヶ浦の風景。江戸時代を通じて少しづつ干拓工事が進み、この風景は消滅した。
 
     広重当時                              明治13年地形図(海ではなく平沼
広重図(1833)には、1833年に着工した岡野新田干拓工事の境界線を示す小舟の列が描かれている。
東海道五十三次作成に当たり、広重は江戸近辺だけの現地確認のために平塚大磯付近まで数日間の旅をした。その際、測量だけ終わった岡野新田工事を目撃し、境界線の小舟の列を初刻版に描き込んだ。(広重五十三次に歴史的な事件が描き込まれた希少な例である。)
再刻版: 3ヶ月後、広重はもう一度戸塚まで旅し、途中の神奈川で杭打ちの工事が始まっていたのを目撃して、を描き加えた。
    戸恪ト刻版参照
江漢図1813)に、1833年着工工事の小舟や棒杭が描いてないのは当然である。
(江漢図が広重図を単純コピーしただけのニセモノなら、間違いなく、この小舟をコピーしてしまい、たちまち化けの皮が剥がれたに違いない。
 
参考: 国貞美人東海道は,広重五十三次のそっくりコピーであることが、すでに公認されている。
広重図を単純コピーすると、どういう画になるかという実験の役を果たしている。 (「広重図をこコピーしても江漢図のようにはならない」実験)
  
  神奈川 小舟が描かれる。         戸塚 馬と馬方            蒲原 家並の基礎部 人物の簑 山の形

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