10小田原                                            目次へ
広重「小田原」には、以前から再刻版の謎があった。

初刻版

再刻版
初版刊行の数ヶ月後、右図のように改訂されたのは何故?
版画浮世絵では、改定すると版木を廃棄することになり、大変な手間と費用がかかる。
改定にはそれだけの十分な理由があったはずである。
これまでの説   2枚の絵をいくら見較べても、山の表現方法が違うだけである。
「広重が老成したあと、若いときの奇抜な画法を恥じて描き直した」とか「五十三次を描いている過程で、山、樹木、家屋など風景の表現方法について開眼し、最初に描いた部分を描き直した。」・・・・などと説明されていた。
しかし初刻と再刻版の間は数ヶ月しかなく、広重が
老成したり、開眼したりする暇はなかったはずである。
江漢図の出現で、小田原再刻版の謎がすべて解けた。 
◎広重初刻版の山の形は江漢図の山のコピーである。  ところが江漢の山は箱根ではなく、大山であることが分かった。


大山
初刻版が刊行された後で、山が違うことが分かったので箱根山らしく描き直した。これが小田原再刻版の謎の答えである

酒匂川から見た箱根連山 両子山は常に箱根山の目印である。

再刻版には両子山が描かれ、箱根らしくうまく修正してある。
東海道の旅の画集である江漢五十三次画帖に何故大山が入り込んだのだろうか?

カシミール3Dと現地調査で、江漢図は「田村の渡し」からの大山であることが分かった。
平塚宿はずれの「馬入橋」(東海道)からでも大山はよく見えるが、丹沢表尾根と連なるため形が悪く、二等辺三角形の大山のイメージと違う。
相模川4km上流の「田村の渡し」では大山の形がかなり改善される。
江漢は、東海道をはずれて相模川を1時間さかのぼった田村の渡しから大山を写生したあと、「田村大山道」経由で藤沢に出て東海道に戻ったらしい。このコースであれば1時間だけの道草で済む。
江漢画帖を詳細に検討すると、京都からの帰路の江漢の足取りがよく分かる。
江戸表からの要請で急きょ江戸へ立ち戻ったと言われる旅のはずだが、意外にあちこちで道草を食いながらの取材旅だった。

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