荒井のまとめ         まとめ     目次へ               
1812年京都滞在中だった江漢は、江戸変事の知らせを受けて江戸へ戻る。

成瀬三千雄氏はとる物も取りあえず「最小の日程で江戸へ戻った?」としているが、根拠はない。
反対に、富士の写生に絶好な初冬まで出発を遅らせ道草を食いながら、写真鏡による取材をしながら江戸に戻ったことが、江漢画集のスケッチを見ればよく分かる。
 
江漢図「荒井」の島影舘山寺と思われる。東海道から20kmはずれた場所である。
他にも東海道から5km離れた石巻山や三保の松原の海上からの風景、東海道から5km入った田村の渡しからの大山などがあり、1812年の江漢の旅が道草旅だったことは確かである。
江漢図は、大名船を2艘つなぎ合わせて宴会をやっている風景だが、大型船を連結するのは無理がある。
名所図会の「小舟を連結して御輿や山車を運ぶ祭りの図」から想像した絵ではないかと思われる。
広重は、東海道五十三次の宿場に引き戻したい事情にあり、いろいろな工夫で出来るだけ東海道五十三次に近づけようとしている。
広重「荒井」では、荒井の関所が描き加えられているが、これは東海道名所図会の一部を逆方向から見た形に描き直したものである。