*礒山 雅『バッハ=魂のエヴァンゲリスト』211-213頁

 1741年8月、バッハは、プロイセン王国の首都、ベルリンおよびポツダムを訪問した。当地では前年にフリードリヒ二世が即位したが、音楽を愛し、フルートをたくみに奏するこの君主の栄誉ある伴奏者を、(皇太子時代の1738年から)息子の エマーヌエルがつとめていたからである。しかし、あいにく留守をあずかるマグダレーナが重病にかかり、秘書役のエリーアス・バッハから帰郷を促す手紙が届いたため、バッハは息子の活躍ぶりにも接しないまま、ベルリンをあとにせざるを得なかった。
 これに対し、11月のドレースデン訪問は、実り豊かなものであった。傑作『ゴルトベルク変奏曲』(BWV988)の成立が、それとかかわっているからである。エリーアスを連れてドレースデンに旅したバッハは、宮廷作曲家の称号を得たさい 力添えをしてくれた、カイザーリンク伯爵のもとを訪れる。一説によれば、バッハはここでおそらく、ヨーハン・ゴットリープ・ゴルトベルクという、十四歳の少年に出会った。この少年は、なみなみならぬ学才のゆえに十歳の頃ダンツィヒからスカウトされ、 伯爵邸に仕えながら、鍵盤楽器演奏に磨きをかけていたのであった。フォルケルの伝えるところによれば、伯爵は当時不眠症にかかっており、眠れぬ夜、ゴルトベルクにクラヴィーア演奏をさせるのをつねとしていた。そこで伯爵は、そんな折に演奏するための 「穏やかでいくらか快活な性格をもち、眠れぬ夜に気分が晴れるようなクラヴィーア曲」をバッハに所望し、バッハはひとつの変奏曲(すなわち『ゴルトベルク変奏曲』)を書いて依頼に応えた。伯爵はルイ金貨が百枚つまった金杯をバッハに贈り、 この曲を「私の変奏曲」とよんで、永年愛聴し続けた・・・・・・。
 この有名な逸話には、近年、疑問が投げかけられている。これだけの難曲を与えられるには当時のゴルトベルクは若すぎるし、なにより、作曲の依頼がじっさいにあったのであれば、バッハが初版(『クラヴィーア練習曲集 第四部』1741〜42年 ニュルンベルクのシュミート社から)への序文でそれにまったく言及していないのはおかしい、というのである。だとすれば、バッハは独自の思いつきによってこの変奏曲を仕上げ、伯爵家訪問のさいに、その楽譜を一部献呈したというのが真相だとも考えられる。 しかし、逸話をすべて疑ってかかろうという今の研究の傾向も、一種の近代病だと言えるかもしれない。フォルケルは、評伝執筆にあたって、エマーヌエル・バッハと密接な連絡をとっていたし、ここでも逸話に続けて、次のような外部の者には知り得ない注目すべき 情報を記載している。「この変奏曲の印刷にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者が私蔵版においてそれらを注意深く訂正した」。そして、1975年にストラスブールで発見されたバッハ私蔵の出版譜は、このフォルケルの言葉が正しいことを立証したのである。
 さて、『ゴルトベルク変奏曲』(原題『アリアと種々の変奏』)は、「穏やかでいくらか快活な」どころの作品ではない。これはきわめて生命力に満ちた、バッハのクラヴィーア技法の真髄を示す音楽である。初めと終わりに奏され、全曲に枠構造 (かりに第一秩序とよぶ)を形成する主題は、『アンナ・マグダレーナのためのクラヴィーア小曲集 第二巻』に出ている、典雅なフランス風サラバンド。この主題の低音部に基づいて、続く三十の変奏が構成される。そこでは三つの変奏が一グループ を形成し、三つ目ごとにカノンが置かれる(第二秩序)。しかもそのカノンの音程間隔は、二度から一度ずつ広がって、第27変奏で九度カノンに達する。また第30変奏は庶民的なクォドリベットとなり、そこで姿をみせる俗謡のひとつ「おいらは 久しくお前に会わぬ、さあさ来やれ、さあさ来やれよう」が、主題の再現を導き出す。さらに、全曲はト短調の第15変奏のあとで前半と後半に二分され(第三秩序)、後半は、フランス風序曲の形をとる第16変奏に始まって、いっそう強力な技巧的発展を示す。
 多彩で絢爛たる鍵盤技法に目を奪われる聴き手にとっては、少々意外にも思えることだが、『ゴルトベルク変奏曲』は、上述のような種々の数学的構成原理に支配されている。その意味で、この作品は、バッハの晩年の精神の領野に、すでにはっきりと立つものである。