*マルセル『《永遠の音楽家》バッハ』---Luc-Andre Marcel Bach

 『クラヴィーア練習曲集』第四巻として出版されたもうひとつの作品については、かぎりなく多くを語ることができるであろう。『アリアと30の変奏』Aria mit 30 veraenderungenがそれで、一般に『ゴルトベルク変奏曲』の名でいっそう親しまれている。この名前のいわれは こうだ。この曲を捧げられたヘルマン・フォン・カイザーリンク伯爵は不眠症に悩まされていたので、バッハの弟子のひとりゴルトベルク(Johann Gottlieb Goldgerg 1727-56)に寝室の隣でチェンバロを弾かせ、長い眠れない夜の徒然を慰めてもらいたいと 思っていた。伯爵は、このような用途のためにいくつかの曲を書いてくれとバッハに頼んだ。その結果生まれたのがこの一連の変奏曲であるが、これは明らかに、バッハが二段鍵盤つきチェンバロのために書いた最大の難曲であり、また同時に、彼のもっとも愛好されている作品の ひとつでもある(伯父ヨハン・クリストフも、同様な目的で、『エーバリーンのアリア《眠るカミッロのために》による変奏曲』Aria Eberliniana pro dormiente Camillo,variataを作曲していた・・・・・・)。この曲を聴きながら伯爵がついに眠れたかどうか、それはわかっていない。 彼は報酬として、100枚のルイ金貨でいっぱいになった美しい金盃をバッハに与えたのだから、あるいは眠れたのかもしれない。しかし、とにかくゴルトベルクの指がきびしい試練に出会い、練習するために彼がまどろむ暇もなかったろう、ということはまちがいない。ところで、 ここにあるのは、音楽史上最大の変奏曲のひとつである。その後は、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス・・・・・・を待たなければならないだろう。美しい変奏曲の本質はどこにあるか、それをバッハは驚くほどはっきりと認識していた。つまり、ただ一個の基本命題 (プランシープ)から、その対照命題(アンティティーズ)反対命題(アンティボード)を引き出し、演繹と対比のあらゆる可能性を探求するという技術(黒海から北極海まで飛んでも、海はやはり海なのだ)。 《古典派》はこのすぐれた技術を、一連の恥ずべき公式と化すようになる−−八分音符の主題、三連音符の第一変奏、十六分音符の第二変奏、関係短調の(悲しい)第三変奏・・・・・・等々。これは無意味なことであり、そしてとりわけ、主題変奏の原理を否定するものだ。というのも、 この機械的な修辞法は、予測しがたい《帰結》がつぎつぎに現われ出るときに感じられるはずの驚きや興奮とは、まさに正反対の結果に到達してしまうからである。バロック時代の高踏派(サヴアン)の作曲家たちは、この点で、未来の《ギャラント派》に 比べはるかに独創的であった。そしてバッハは、ここにおいても先輩たちを手本にしているのだが、しかし、例によって、その手本を極限にまで発展させたのであった。彼はまず、ひとつのアリア(実は1725年のアンナ・マグダレーナのための『音楽帳』第二巻に見られるサラバンド なのであるが)に基づく30の変奏、という構築上の支点を定め、そして、30という数においては3が支配しているので、三つ目ごとの変奏をカノンで作曲する−−第一はユニゾンのカノン、第二は2度のカノン、第三は3度の・・・・・・等等。これが九番目のカノンまで達すると、 次に十番目のカノンを用いる代わりに、驚くべき《クオドリベット》で全曲を閉じるのだが、ここでは『キャベツと蕪に追い出され』Krant und Rueben haben mich vertriebenおよび『お宅を出てからいく久しく』Ich bin so lang' nicht bei dir gewestという当時はやりの俗謡が、 主題と対位法的に組み合わされている。だが、これですべてではない。カノンのあいだでは、この上なく多様な形式が奏される−−インヴェンション、トッカータ、アリア・・・・・・等々。6曲目ごとに(これも3という数字を利用しているわけだが)、バッハはカンティレーナ風な性格の 演奏を置き、さらに、第五曲以降、三つごとに二段鍵盤の変奏を置いている。建築には必ず中心がなければならない。そこで第十六曲が、堂々たる短長格(イアンビック)のリズムをもち、慣例どおりフガートを含むフランス序曲として作曲される。 変奏の発展をしだいに豊かにし、単純から複雑へと進む必要があるので、バッハは禁欲的とも言えるほど簡素な変奏から出発し、だんだんにむずかしさを増し加え、ついには、最後のトッカータふうな曲において超越的な技巧にまで到達する。これは教育的な配慮によるのではなく、 演奏の喜びと、彼の気分を満足させるためであった。その上、バッハは主題がいつも執拗に聴こえることを望まなかった。むしろ反対に、彼は主題を隠し、それがけっして露に聴こえないようにしている。事実、主題は、《シャコンヌ》またはイギリスが呼ぶところの《グラウンド》 の精神によって、すべての変奏に共通するバスの支柱にすぎないのである。