*《ゴールドベルク変奏曲》について考えること      Kurt Rodarmer from liner note for CD

◆バッハの《ゴールドベルク変奏曲》はここ何十年かの間に大変な人気作品になった。チェンバロやピアノをはじめとする鍵盤楽器で演奏されるのはもちろん、弦楽アンサンブルやオーケストラでも演奏されている。 練習曲として、あるいは、コンサートの目玉として演奏されてきた。質素な古楽として解釈され、音楽構造学上の驚異として解釈されてきた。
 グレン・グールドが2回目の、そして最後となった《ゴールドベルク変奏曲》の録音を出したのは私にとって記念すべき大事件だった。グールドは、それぞれの変奏をリズム的な関係の中で捉えようとした。 それは主題に基づく単なる変奏と見ることとは全く違うことだった。局は冒頭に置かれたアリアを土台として作られているが、このアリアは元々バッハが1725年にまとめた《アンナ・マグダレーナ・バッハの ためのクラヴィーア小曲集》の中に、歌曲<御身がともにいるならば>の直後のサラバンドとして登場している。アリアに続く30の変奏は、大まかに言えばバスすなわち和声進行に基づく変奏で、旋律主題に基づく ものではない。作品全体の構造で興味深いのは、3つ目の変奏ごとにカノンになっていて、しかもそのカノンはユニゾンから」始まって1度ずつ音程を増やしていき、最後には9度のカノンになっていることだ。 私はバッハの音楽を人間的な観点から眺める。これらの変奏から私が感じることは、人類史上でも屈指の驚異的で桁外れな人間の、日々の苦労だ。曲が始まって間もなくの変奏は、頭に浮かんだ発想を紙に定着させ、 それが発展していくのを眺めるという、やや保守的なスタイルにとどまっている。後半に近づくにつれて音楽はしだいに内省的になり、喜びや悲しみ、さらには疲労といった感情を表す瞬間が出てくる。仕事が終わり に近づくと、バッハが高揚してきたように感じられ、音楽も一段と元気がよくなる。それが一番よく表われているのが第29変奏で、基本的には和音と旋律断片の力強い連続であるこの変奏は、それまでの変奏と きわだったコントラストをなしている。アリアを再現する前の最後の捧げものとして、バッハは第30変奏をクォドリベットとした。クォドリベットは音楽を使った娯楽の1つとしてバッハの家で代々親しまれていた。 ここでは当時の民謡の旋律に、次のような全く似合わない歌詞を組み合わせている。
  (ずいぶん久しぶりだな。さびしかったよ。そばにおいで。キャベツとかぶらが俺を追い払った。おふくろが肉料理でも作ってくれたなら、もっと長居したのに。)
 第29変奏を書き終えたバッハはもう完全にへとへとになっていた。第30変奏をこのように奇抜な形で書いたことは、私にはバッハが作品の終わりを祝福してくつろいでいるように思える。結末に向って必至に 頑張っているバッハの姿、作品を仕上げてジョッキで一杯やっているバッハの姿が思い浮かぶのである。次はアリア・ダ・カーポである。この時までにバッハは、第30変奏のパーティーも終わって疲れ切っていた、 という解釈に私の演奏は基づいている。この時点までの苦労が大変なものだっただけに、最後はもう消耗し切っている。私は内省的になったバッハ、憂鬱になり、敬虔な気持ちになったバッハを感じる。冒頭のアリア と譜面上は同じだが、この反復は、ひょっとしたら私とバッハが共有しているかも知れない、当事者にしかわからない側面を表に出すチャンスだと思っている。全ての変奏が終わって体も心も消耗し尽くしたこの場面 で、アリア・ダ・カーポは感情の上での大団円なのであり、それによってこの骨の折れる大作に優雅に別れを告げることができるのである。

Kurt Rodarmer from liner note for CD published
in 1996 by Pangaea Production