*礒山 雅 from liner notes for CD of Christophe Rousset 1995
《ゴルトベルク変奏曲》は、周知の通り、グレン・グールドのレコード・CDによって一躍知られる用になった、バッハの大作である。だが、この作品はピアノ曲ではなく−−バッハの時代にはピアノはまだ試作品の段階だった−−、2段鍵盤の使用が指定されたチェンバロのため
の曲である。したがってこらは本来チェンバリストのためのレパートリーであるわけだが、グールドの録音があり、何人もの名ピアニストがこの曲をレパートリーとしている今、チェンバロに何が残されているだろうか、という思いに誘われる奏者も多いと聞く。古楽器への流れが加速しつつある
現在、これはまったく異例の現象というべきである。《ゴルトベルク変奏曲》が類稀な進歩性を持つ曲であるからこそ、こうした現象も起こるのであろう。
こうしたチェンバロならではの《ゴルトベルク》の方向を、ルセも探求している。その意味でルセの《ゴルトベルク》は、古楽の文法にのっとった、オーソドックスなものである。だがそれは、常識的な型どおりのものでは決してない。若々しい陥穽の横溢と切れ味のよい仕上がりにおいて、
それは水準を遥かに抜きん出ており、随所に新しい発見と主張がある。たとえば第15変奏。これは3回現われる短調変奏の最初のもので、大方のピアニストはテンポをぐっと落とし、静かに瞑想的に演奏する。だがそれはバッハの指示ではない。バッハはテンポを表記していないし、弱音の指定
も行っていないのである。チェンバロでは、そのように大きい表現の落差を設けることはそもそも不可能であるから、ルセは第14変奏からの流れを滞らせることなく、覇気をもって明確に、この変奏を弾き切る。こうして彼は、この変奏が単なる感情表現の素材ではなく、前半を総括する構築的
重要性を持った楽曲であることを、明らかにするのである。また、多くのピアニストが速度と効果を競う後半の技巧的な変奏において、ルセは逆に手綱を引き締め、目的は音楽そのものであるというかのように、テクスチュアの端正な再現に没頭する。そこには、様式と構成バランスに対する、
彼の的確な配慮が示されている。
とはいえ、チェンバロで弾かれた《ゴルトベルク》も、もちろんいい。クリストフ・ルセによるこの新録音は、「チェンバロによる《ゴルトベルク》」の再認識を迫る、近来稀な好演ということができるだろう。何より、415Hzに調律されたアンリ・エムシュの銘器の冴え冴えとした響きが爽快で
ある。ぴんと立ち上がり、鮮やかな余韻を残してすっきりと消えて行くチェンバロの響きがあってこそ、また、その響きでポリフォニーを明快に紡ぎ、種々の装飾を軽やかにまとわせてこそ、《ゴルトベルク》であり得ると、ルセはここで主張しているように感じられる。
ピアノで弾く《ゴルトベルク》は、勢い、ピアノ特有のダイナミズムや表現の幅・起伏を、積極的に生かしたものとなる。演奏者は曲に対していわばフリーハンドを得て、奔放に個性を躍動させる。これに対してチェンバリストは、適切な様式感にまず立ち、作品のあるべき姿を再現しようと
模索する。その一つの前提として、楽譜をバッハの指示どおりに弾くことはピアノではできないが(両手が衝突する)、チェンバロならばできる、という重要な事実がある。
いずれにせよ、多様な変奏に盛りこまれたディテールを正確に、綿密に再現し得るのは、やはりピアノではなく、チェンバロだる。チェンバリストは、繊細なタッチを心がけ、アーティキュレーションを際立たせ、アゴーギク(微妙な速度変化)をタイミングよく使用することによって、音の
機能差を、さまざまな角度から浮き彫りにする。彼らはそれによって、いわばチェンバロという楽器の内側に、表現の世界を広げていこうとする。
名曲を高山にたとえるとすれば、山の高さは演奏の積み重ねによってこそ作られる。ルセの新録音は、《ゴルトベルク変奏曲》の高みに、一つの新しいピークを樹立するものであるといえよう。
この作品の成立については、バッハ最古の評伝として名高いフォルケルの『バッハ伝』に、印象的な逸話が記されている。多少の補いを含めてまとめるなら、それは次のようになる。
1741年、バッハは任地のライプツィヒから、選帝侯国の首都であるドレスデンに旅した。バッハは選帝侯家の「宮廷作曲家」の称号を持っていたが、その請願の際に力添えをしてくれたのは、ロシア公使カイザーリング伯爵であった。同伯爵のもとを訪れたバッハは、ヨーハン・ゴットリープ・
ゴルトベルクという少年に出会う。彼はその楽才を伯爵に見出され、伯爵のもとで鍵盤楽器演奏に磨きをかけていたのである。伯爵は当時不眠症にかかっており、眠れぬ夜、ゴルトベルクにクラヴィーア演奏をさせるのを常としていた。伯爵は、そんな折のために、「穏やかでいくらか快活な性質
を持ち、眠れぬ夜に気分の晴れるようなクラヴィーア曲」をバッハに所望し、バッハは一つの変奏曲を書いて依頼に応えた。伯爵はルイ金貨が百枚つまった金杯をバッハに贈り、この曲を「私の変奏曲」と呼んで、長年愛聴しつづけた−−。
この逸話が事実であるとすれば、バッハはゴルトベルク少年の技量を見こんで、この変奏曲を作曲したことになる。だがそれは、ありそうもない。なぜならば、ゴルトベルクは当時たったの14歳だったのだし、長じて作曲した作品にも、当時のような華麗な技巧は窺えないからである。また、
もしカイザーリング伯爵の依頼で曲が書かれたのであるとすれば、初版に謝罪が含まれていないのはおかしい、と指摘する人もいる。ここからすれば、バッハは画期的な変奏曲の作曲を当時独自に進めており、時を同じくしてカイザーリング伯爵の依頼を受けたため、楽譜を一部献呈したと考えら
れる。バッハの作品が周囲の演奏者の技術水準を遥かに越えてしまうという実例は、《無伴奏ヴァイオリンのためのソナタとパルティータ》(1720)でも見られた。
この曲のバッハの自筆譜は現存していない。しかし1974年にストラスブールで、バッハ私蔵の初版譜が発見された。そこにはバッハ自筆の書きこみが含まれており、今では、そのファクシミリ版も出版されている。注目すべきことは、この発見によって、フォルケルの次のような逸話が裏付けら
れたことである。「この変奏曲の印刷本にはいくつかの重大な誤りが見られ、作者は私蔵版において、それらを注意深く訂正した」。フォルケルはこの情報を、バッハの息子エマーヌエルから得た。だとすれば、カイザーリング伯爵をめぐる逸話も、同じソースによる可能性がある。いずれにせよ
、それはある程度まで事実を反映しているものと思われる。
さて、曲の初めと終りに奏される「主題」は、バッハの家庭用音楽帳《アンナ・マグダレーナ・バッハのためのクラヴィーア小曲集》第2巻に、妻マグダレーナの筆跡で記入されているものである。曲は典雅なフランス風サラバンド舞曲であるが、作曲者がバッハ自身であるという確証は存在し
ない。注意を要するのは、この典雅な旋律それ自体が主題であるのではなく、これを支えるバスの動きが各変奏の基礎になっている、ということである。すなわちこの作品は、オルガン用の《パッサカリア》やヴァイオリン用の《シャコンヌ》と同じく、バロック的な低音主題による変奏曲の範疇
に属している。
この主題に基づく30の変奏は、数学的に整然とした関係をなして並んでいる。まず、三つの変奏がそれぞれ一つのグループをなし、それぞれの最後に(すなわち3曲目ごとに)カノンが置かれる。カノンとは複数の声部が相似形をなして動く楽曲で、本来は学問的な厳格さを持った楽曲である
が、《ゴルトベルク変奏曲》の場合にはどの曲にも活溌な運動感が与えられているため、堅苦しい感じは少しもない。全曲からこのカノン楽曲のみを弾き出してみると、相似形となる声部音程間隔が、同度(第3変奏)から2度(第6変奏)、3度(第9変奏)−−と一つずつ広がって、9度間隔
のカノン(第27変奏)にまで達することに気づく。どして10番目にあたるカノン(第30変奏)は、純粋なカノンでなく、庶民的な調べを連ねた「クォドリベト」になっている。そこで引用される歌(<おいらは久しくお前に会わぬ>および<キャベツとかぶらがおいらを追い出した>)の中には
、離れたものを呼び戻す歌詞が隠れており、この「さあお出で」という暗黙の誘いにのって、主題が最後に戻ってくる。
30の変奏のうち、第15、21、25の変奏のみがト長調から離れて、ト短調をとる。その一つ、第15変奏のあとで、曲は大きく二分されている。後半の冒頭曲(第16変奏)は、バッハがいつも新しい始まりを象徴するのに使った、フランス風序曲になっている。後半では技巧的な発展が
著しく、ドメニコ・スカルラッティを思わせる交差技法さえ登場する。なお、曲中合わせて10の変奏で、二段鍵盤の使用が要求されている。現代ピアノで演奏する場合は、これらの変奏の一部にオクターヴ移動などの修正が施される。
《ゴルトベルク変奏曲》はこのように、種々の数学的秩序と、高度な対位法技巧から作り上げられた作品である。しかし音楽には難解さや停滞が少しも見当たらず、終始生き生きとした生命力が発散されつづけていることには、驚くほかはない。カイザーリング伯爵はおそらく心労を忘れ、多彩
な変奏の展開に、息を凝らして聞き入ったことだろう。この作品は、伯爵に眠りでなく、充実した夜の時間を贈ったに違いないと、私は思っている。