*シュヴァイツァー『バッハ』 ---J.S.Bach von Albert Schweitzer

 クラヴィア練習曲集の第4部は、ふたたびニュールンベルクで出版された。しかしワイゲルからではなく、エマーニュエルのためにも出版したバルタザル・シュミットからであった。 それはゴールドベルク変奏曲を含んでいた。ゴールドベルクはバッハの保護者の一人カイザーリンク伯爵のクラヴニストであった。 カイザーリンク伯はドレースデン宮廷におけるロシア公使の職に就任していた。彼はまたバッハの宮廷作曲家への任命を骨おって得させたその人でもある。 少なくとも証書の交付は、彼の手を通して行われた。ゴールドベルクは当時ドレースデンにいたフリーデマンの授業を受けていた。 フォルケルによれば、しばしばあったことだそうだが、彼はその主人とライプツィヒにきたときには、バッハのところでなにか裨益されようとして、バッハを訪ねたのであった。 変奏曲の成立については、フォルケルは次のように述べている。
 「カイザーリンク伯は重い病気にかかって不眠に悩まされていた。彼の家に同居していたゴールドベルクは、そのようなときには彼が眠れない間じゅう、なにか弾いて聴かせるために隣りの部屋で夜をすごさなければならなかった。 或るとき伯爵はバッハに向って、彼のゴールドベルクののために二三のクラヴィア曲をぜひ書いてもらいたいものだと所望した。その曲はきわめて柔和で、いくぶん快活な性格を具えており、眠れない夜には少しでも気を晴らしてくれることができるものでありたい、というのである。 この望は変奏曲によっていちばん良くみたされることができる、とバッハは考えたのだった。それまで彼は変奏曲を、絶えて変らぬ起訴和声のゆえに、有難くない仕事と考えていたのだった。・・・・・・ 伯爵はその後それをもっぱら彼の変奏曲と名づけた。彼はそれを聴き飽きることがなかった。そして長い期間を通じて、不眠の夜がきた場合には、ゴールドベルク君、私の変奏曲のなかからなにか一曲弾いてくれないかね、という工合であった。 バッハはおそらく彼のどの仕事に対しても、これに対するほど報いられたことはない。伯爵は百個のルイドール金貨をみたした金の盃を彼に贈ったのであった。」
 バッハが変奏曲に対して特殊な偏愛を抱いていなかったことは、この曲種が彼にあっては、ゴールドベルクの曲によるほかは一つのあまり重要でない若い時の作曲「イタリア風の変奏アリア」(バッハ協会版第36巻 203-208頁) のみによって代表されていることから結論される。知られているように、オルゲル音楽ででも彼はコラール旋律にもとづく変奏曲からは、すぐ離れてしまっている。
 この変奏曲の主題は、1725年に着手されたアンナ・マグダレーネ・バッハのためのクラヴィア小曲集中にある。それはリード「お前は私のそばにいる」の次にくるサラバンドである。 ともあれその曲は、バッハがそれにもとづいて変奏曲を書こうと考えた10年前に、すでに存在していたのだった。
 しかし変奏曲は、ほんらいその主題とはかかわりをもたずに、ほとんど主題のバス音の布石とのみ関係があるだけである。このバス音の布石の上に巨匠の幻想は全く自由に躍動しており、その結果、変奏曲というよりもむしろ、明暗法のうちにくりひろげられた 一つのパッサカリアがとりあげられているのにひとしいのである。
 この作品を最初に聴いたときにすぐ好きになるのは不可能である。われわれはまず順応してゆかなければ」ならぬ。そして声部誘導について、もはや自然な響きの魅惑を望むというのでなく、運動の絶対的な自由において生き盡くすことのうちに喜びと満足を見出すという、 そのような高所にまで、最後期のバッハとともによじ登って行かなければならぬのである。ひとたびそれに到達するならば、外見上すこぶる人工的に見えるこの曲からほほえみかけている柔和な慰安にみちた朗らかさが掴みとられる。 最後の変奏曲においては、朗らかさは」愉快な笑いに変っている。二つの民謡がそれのうちに徘徊しているのである。
 年老いたバッハは、このように彼の祖先たちが大家族会でおちあった場合に、はしゃぎまわっていたクオドリベットへ帰りつくのである。
 巨匠の全作品のなかでこの作品ほど、近代的クラヴィア様式に接近しているものはない。バッハの作たることが明記されていないならば、先入見をもたない人であれば誰でも、最後から2番目と3番目の変奏曲を外にあらわれた楽譜の形を見ただけですぐに、 ベートーヴェンの最後期のクラヴィア作品のうちに誤って置くかもしれないほどである。