助郷会所
宿場で賄いきれない人馬を、指定された周辺の村々から動員(徴用)することを助郷と云いました。助郷にはさらに定助(じょうすけ)、大助(おおすけ)、加助(かすけ)と細かく制度化されていました。
 助郷制度は指定された郷村にかなり負担がかかったらしい。出来た当初は問題なく機能していましたが、時代が下るごとに流通が多くなり問屋役人は成るべく助郷の人馬を使用とし、それを嫌がる助郷諸村と問題が発生するようになりました。記録によるとその始まりは延享二年頃(1745)といわれています。
 制度の初期の元禄二年(1689)の記録によると定助十ヶ村(芝生村、市ノ江村、三反田村、佛向村、下星川、和田村、坂本村、今井村、大田村、永田村)、大助二十七ヶ村とあります。享保十年(1725)に定められた保土ヶ谷宿の助郷村は加助を含め約40ヶ村、現在の保土ヶ谷区内に留まらず横浜市内におよびました。鴨志田村、十日市場村、金井村等の地名が記録にあります。
 こうした助郷村々は助郷動員の指示に対応するため、問屋場の近くに助郷会所という事務所を設けていました。
 明治四年12月、伝馬所の廃止と共に助郷も廃されました