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| その72・とだ | |
| 科挙(宮崎市定) | |
| 今年、2005年度のセンター試験初日(1月21日)は雪であった。3年生は大変だろうなあ、特に女子は横浜から遠く離れた北里大学だし・・・、なんて考えていたら、自分の受験にまつわる思い出がいろいろと浮かんでくるわけで、久しぶりに書いているのに相も変わらず得意の思い出話モード。 一昨年、雑誌光陵36号に、高橋留美子の『めぞん一刻』に関するエッセイを投稿したときに書いたことだが、マンガの主人公が受験する昭和56(1981)年の1月10日、11日の共通1次試験、ぼくも現役の受験生としてチャレンジした。ちなみに共通1次試験とは、今でいうところの大学入試センター試験。 当時は私大のセンター利用に相当するシステムはなく、共通一次とは国公立大学を志望する受験生にのみ課せられた統一テストだった。さらにいえば、今のように大学によって5教科7科目とか、5教科6科目とか4教科4科目とか、さまざまなパターンがあったわけでもない。文系・理系を問わず、国・数・英(以上200点満点)・社会2科目・理科2科目(以上100点満点)の合計1000点満点という分かりやすいものだった。ちなみに社会というのも今のように「地歴」と「公民」に分かれていなかったので、「日本史」と「地理」とか「政経」と「倫理社会」のような組み合わせも受験生次第。東大や京大・東北大のような難関の文系学部を目指す受験生の間には、「日本史」と「世界史」を選択するのが王道という雰囲気があったようだが、ぼくはそんな無謀(!)なカップリングに挑戦する気はさらさらなく、2年生まで部活や行事にかまけていた不勉強生の定番、「日本史」と「倫理社会」に落ち着いた。ついでにいうと理科は「生物」と「地学」。バリバリ文系のぼくにとっては自然な選択だった。 試験会場は、県立岡津高校。当時は受験生が多かったからだろう、かなりの県立高校が会場に割り当てられており、大学受験なのに高校で受けるなんて緊張感に欠けるなあという感じだった。そもそも受験した教室には、ぼくの高校の生徒がうじゃうじゃいて、ま、学校単位で出願するんだから当たり前なんだろうが、定期テストと変わらぬ雰囲気でしたね。 で、あまり書きたくないのが試験の結果である。事前の「予定」では国・英・社で80%から85%、数学と理科で頑張って70%程度が取れれば合計760点から800点の間、これなら地元国立大学教育学部に手が届く・・・筈だったのだが、「予定」はあくまで「予定」であった。何とか目標をクリアしたのは国語とナゼか地学だけ、英語は今一つ及ばず。自信があった筈の日本史は、たった2週間勉強しただけの倫理社会を下回り、数学に至っては鬼神も落涙するような惨憺たる結果・・・、もうこれくらいにしておこう。雑光36号にも似たようなことを書いたが、20数年前も現代も受験生を取り巻く状況にさほどの変化はない。1月に大学入試の最初の関門があり、受験生は予備校のリサーチで二次試験の出願を決め、雪の降る日に電車が止まらないかヒヤヒヤしながら試験会場に向かい、バッグの底には湯島天神か荏柄天神か、親戚もしくは知人から送ってもらった太宰府天満宮のお守りをしのばせる・・・。 「試験」。小テスト、定期テスト、入学試験、入社試験、昇進試験、運転免許の学科試験、スポーツの審判員資格試験に武道や書道・華道・茶道などの昇段試験・・・、人は「試験」と向き合いながら成長する。つい先日、「答案を前にして手も足も出ずに苦吟する夢を見てガバと飛び起きることが今もある」と古希を超えた人が語るのを聞いた。何を隠そう、ぼくの父親である。 というわけで、今回は、中国史、東アジア史の権威による、試験をテーマにした本を紹介することにした。ちょうど、40期生(2005年度の1年生)が世界史の授業で隋唐代を勉強したばかりでもあるし。 ま、学年末試験の対策になるかどうかは分かりませんがね。 そも、科挙とは何ぞや。簡潔にいえば、中国で隋代から清代まで1300年余も続いた官吏任用の試験制度である。「科」は「科目」で、試験する学科目を指し、「挙」は「選挙」で、選抜挙用するとの意味。中国では後漢代から「郷挙里選」、三国時代には「九品中正(九品官人法)」が始まった。いずれも地方の実力者の子弟が官僚として推薦される制度である。その後、五胡十六国、南北朝時代を経て隋が中国を再統一するのだが、いい加減な推薦で官僚になった門閥貴族なんぞより、自分の思うままにこき使える官吏を能力によって採用したいと考えたのが隋の文帝(煬帝の父、楊堅である)。彼は「選挙」(のちに「科挙」)を実施、家柄重視ではなく、能力主義を採用した。 科挙は隋唐以降の王朝に次々継承されていったが、モンゴル人の元王朝の下で40年ほどの中絶期間があって明清代に至り、その形式が完備し複雑化していったという。最終形態である清代の科挙制度をごく簡単に紹介すると、本来的には地方各省で行う「郷試」、中央の礼部が行う「会試」、天子自身が宮中で行う「殿試」の3つなのだが、そこに至るまでが大変だ。 明代以降、科挙を受けるには国立学校の生徒(生員)でなければならなくなったので、その入学試験からスタート。普通「学校試」と総称されるが、「県試」「府試」「院試」の三段階。院試に合格すると府学または県学の生員として官吏に準ずる身分となる。生員たちは3年に一回「歳試」というのを受けねばならず、ちゃんと勉強しているかどうかが試される。優秀なら中央の大学に入れてもらうこともあり、劣等だと罰が待っていたとか。 さて、いよいよ科挙受験だが、最初に「科試」という学力十分かどうかを見る予備試験がある。合格して次の「郷試」に進む資格を与えられた生員を挙子という。「郷試」は、合格率が100人に1人以下のこともあったというから大変な倍率だ。「郷試」突破者を挙人といい、これは生涯の資格となる。次の「会試」は北京に挙人を集めて行われるが、新人だけでなく、それ以前の「会試」に落っこちた挙人たちもチャレンジするのでものすごい数になる。そこで「挙人覆試」という試験でふるいにかける。やっと「会試」に通れば貢子と呼ばれ、ついに天子主催(というタテマエ)の「殿試」を迎える。 しかし、またこの前に「会試覆試」というのを受けねばならない。今度はふるい落とす目的に非ず。天子の行う試験に落第者は出せないので、まずもう一回実力を確認するのと、本番と同じ試験場で実施するので場慣れさせること、そして万が一の替え玉受験がないよう本人であることを再確認するためであった。やっと最後の試験にたどりついたが、「殿試」合格者を進士と呼び、いよいよ官吏としてのスタートラインに立てるわけだ。やれやれ、何と凄まじいことよ。 世界史の授業で触れたが、唐滅亡の直因となった黄巣の乱(875〜884)の主役黄巣は、科挙に何度も失敗したことで知られる。ずっと後の19世紀半ばに太平天国の乱を起こす洪秀全も同じ。唐代の詩人杜甫も科挙失敗者だし、李白は商家の生まれゆえに当時は科挙受験資格がなかったそうで、彼が世をすねた理由はこれとか。彼ら歴史に名を残す人々は科挙にどんな思いをもっていたのだろうか。宮崎市定先生も指摘しているが、科挙は体制への不平分子を作る役目も果たしてきたのである。 近藤先生が「その9」で紹介した中島敦の『山月記』。冒頭は「隴西の李徴は博学才穎、天宝の末年、若くして名を虎榜に連ね」だが、“虎榜”とは進士の名を記した立て札。 ということは、虎になっちゃった李徴の場合、科挙を突破したけど挫折したわけだね。あまり関係ないか。 最後にこの本、試験場に頻出するお化け(幽霊)の話とか、カンニングシャツ(?)などの楽しいエピソードが盛りだくさん。さらに、武官を任用するための「武科挙」、略して「武挙」も紹介されており、こちらは弓の技量を試されたり力持ち比べをしたり、重い青竜刀をぶんぶん振り回すなんていうユニークな実技試験を行ったそうである。文官の科挙と同じように何回も試験され、晴れて合格すると武進士と呼ばれたらしいが、こちらは世間からも軍隊でも重く見られなかったとか。所詮軍人は実戦で武勲をあげてなんぼの世界だから。なるほどね。試験勉強に疲れたとき、試験に関する雑学の宝庫のような一冊を手に気分転換するのは如何? (2006年2月) トップページに戻る |
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