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| その15・てつじ | |
| ライ麦畑でつかまえて(J.D.サリンジャー) | |
| 『ライ麦畑でつかまえて』と言えば、青春小説のバイブル。1951年の刊行以来、売り上げ総数はアメリカだけで1500万部、世界全体では6000万部に達しているとも言われています。そして、刊行以来50年以上が経過しているにも拘らず、世界で毎年25万部ほどが売れているらしい。御多分に洩れず、私も大学に入った頃に『ライ麦畑…』を読みました。『九つの物語』も『フラニーとゾーイー』も『大工よ、屋根の梁を高くあげよ/シーモア序章』も読みました。ところが、全然、印象がありません。どんなストーリーだったのか、面白かったのか面白くなかったのかもほとんど記憶にないのです。当時は『ライ麦畑…』の気分があまりしっくりこなかったということなんでしょうか? 1989年、映画『フィールド・オブ・ドリームス』が公開されました。その中にこんなシーンが登場します。ある日、PTAの会合で有害図書追放が叫ばれ、テレンス・マンというピューリツァー賞受賞作家の本が有害図書として槍玉に上げられました。マンの作品は「ポルノだ」、マンは「ヘンタイで、共産主義者だ」、マンの作品が擁護するのは「乱れた性関係と神の否定、人種の混血化、アメリカ軍上層部への不遜な態度だ」云々かんぬん。主人公レイ・キンセラの奥さんアニーは、マンの擁護演説をぶち上げ、著作の追放運動に待ったをかけます。そのシーンを見ている時に、映画の中では太っちょの黒人作家として描かれているテレンス・マンというのは実はサリンジャーのことなんだなと思ったのを覚えています。サリンジャーの書いた本の内容はまったく記憶していなかったのに、その本の持つ「やばさ」だけはしっかりとインプットされていたようです。最近、『フィールド・オブ・ドリームス』の原作である『シューレス・ジョー』(W.P.キンセラ)も読んでみたのですが、こちらではそんな面倒な意匠はなく、そのものずばりサリンジャーが登場していました。 また、『ライ麦畑…』を巡っては、こんな話もよく知られています。1980年12月8日午後10時50分、ニューヨークのダコタ・アパートメントの前で、ジョン・レノンが4発の銃弾を撃ち込まれて死亡しました。犯人のマーク・デイヴィッド・チャップマンは、犯行後、警官が現場に到着するまで、舗道の敷石に座って『ライ麦畑…』を読んでいたそうです。後日、裁判で判決を下される時には、申し立ての代わりに『ライ麦畑…』の一説を朗読しました。チャップマンはレノン殺害の動機を次のように語っています。「最近のジョン・レノンは、『ライ麦畑…』の登場人物のように、インチキで、不誠実で、見下げた人間に成り下がっているからで、彼を撃つことによって、そのイノセンスを護ろうとしたのだ」と。 更に、81年の3月には当時大統領だったロナルド・レーガンが、ワシントン特別区のヒルトン・ホテルの前で狙撃されます。発射された6発の銃弾のうちの1発が、跳弾となってレーガンの左半身に食い込み、心臓近くをかすめました。犯人のジョン・ヒンクリー・ジュニアはジョディー・フォスターの関心を引くために事件を起こし、その所持品の中にはジョディー・フォスターにあてたファンレターとともに、ぼろぼろになるまで読み込まれた『ライ麦畑…』があったということです。そうとう「やばい」ですよね。 今回20年ぶりに再読したのは、『ライ麦畑…』が、村上春樹さんによって新しく訳され『キャッチャー・イン・ザ・ライ』のタイトルで出版されたからです。私たちの世代が通過儀礼のように読んだ『ライ麦畑…』は野崎孝さんによる有名な訳ですが、主人公のホールデン・コールフィールドがべらんめえ調で喋るので、そのキャラクターはいわゆる普通の不良。不良が馬鹿やって高校を退学になる話という印象がしました。それに対して、村上訳の『キャッチャー』では、ホールデンがもっと都会的で現代的なナイーブで神経症的な青年として描かれ、彼の持つ本質的な「やばさ」が、より鮮明になっているような感じがします。 この小説では、ホールデンが四つ目の高校を退学することになり、寮を抜け出してニューヨークの街を彷徨い歩く僅か48時間前後のことが書かれています。学校や大人たちは、権威を振りかざし、自分の権威を脅かすような存在である自分をいつでも排除しようとしている。ホールデンには世の中のすべてが欺瞞に満ちており嘘臭い。他人は、それこそインチキで不誠実に思える。そういった自分の感覚の正当性を主張したいんだけれどもそれはどうもうまくいきません。事件を起こしたりする不良というわけではないのですが、他人とのトラブルには事欠きません。フェンシング部のマネージャーをやっているのですが、ニューヨークまで遠征に行った時には地下鉄の中に用具一式を置き忘れ、試合ができなくなって部員に総すかんを食らったりと、ヘマばかりを仕出かします。ホントにさえない奴で、身の回りにこんなのがいてつべこべ言ってきたらぶっ飛ばしたくなるような奴なんですね。 ニューヨーク放浪の二日目の深夜、ホールデンは自宅に忍び込み、愛する妹のフィービーと話をします。小学生の妹にも、ホールデンは「けっきょく、世の中のすべてが気に入らない」だけで、「好きなこと、ひとつだって思いつけない」虚ろな存在であることを見透かされてしまいます。フィービーに「将来何になりたいかみたいなこと。科学者になるとか、弁護士になるとか、そういうこと」を求められたホールデンは、最後に、美しくも哀しい答を差し出します。「でもとにかくさ、だだっぴろいライ麦畑みたいなところで、小さな子どもたちがいっぱい集まって何かのゲームをしているところを、僕はいつも思い浮かべちまうんだ。何千人もの子どもたちがいるんだけど、ほかには誰もいない。つまりちゃんとした大人みたいなのは一人もいないんだよ。僕のほかにはね。それで僕はそのへんのクレイジーな崖っぷちに立っているわけさ。で、僕がそこで何をするかっていうとさ、誰かその崖から落ちそうになる子どもがいると、かたっぱしからつかまえるんだよ。つまりさ、よく前を見ないで崖の方に走っていく子どもなんかがいたら、どっからともなく現れて、その子をさっとキャッチするんだ。そういうのを朝から晩までずっとやっている。ライ麦畑のキャッチャー、僕はただそういうものになりたいんだ。(I’d just be the catcher in the rye and all.)」 なりたいものが「キャッチャー」にとどまってるうちはただのさえない奴で済むのでしょうが、そこから一歩踏み出してしまうとチャップマンまでの道のりはそう遠くはありません。そういう輩が増えている昨今、ますます『キャッチャー』は人々の心を捕えて止まないようです。 (2003年7月) トップページに戻る |
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