ハワイ旅行最後の日に、ワイキキの海岸で波の音を聞きながら、静かに海に沈む夕陽が、私達を優しく包みこむ温かさを感じた。とても壮観であった。感動と感謝の気持ちを込めた絵が遂に完成した。早速、額に入れて見ると、ワイキキの海に沈む夕陽が一段と輝き、立派な絵にみえる。絵を描いて12〜13年になるが、怪我をして自宅に戻ったころは、口にくわえた棒(約70p)で新聞や本をめくって読んだり、リモコンを操作して音楽やテレビを聞いて毎日を過ごしていたのである。テレビやステレオなどのリモコン類は、私にとっては大変便利なもので、家族に負担をかけずに操作できるのがとても嬉しかった。初めの頃は、結構楽しかったのだが、毎日、テレビやラジオを聞くだけの無気力な生活が続くと、人間飽きるものである。生きている価値がないのだ。
そんな時、入院中に知人から貰った星野富弘さんの本を何冊か読んだのである。。星野さんも、保健体育の教師でマット運動の失敗で首の骨を脱臼骨折(C4)した事など、私とまったく一緒なので驚いてしまった。星野さんは、筆を口でくわえて花の絵と詩を描いている。花の絵からは優しく繊細さが感じられ、詩からは、思いやりや心の強さ、悟りが感じられ、本が輝いて見えた。以前から、星野さんの事は話には聞いていたが、ここまで凄いとは思ってもいなかったのだ。星野富弘さんに刺激を受けて、『私にも絵が描ける!』と妻のマリちゃんに宣言してしまったが、よく考えてみると中学生以来、絵など描いた事もなかった。多少不安な気持ちであったが、マリちゃんの同僚である美術の先生に相談した所、早速、ひとりで絵を描き易いように、台を作ってくれたのである。
最初は、シルクロードの絵を見ながら、口にくわえた筆に水をつけ、固形の水彩絵の具で描いてみたが、簡単に描けるものではなかった。縦、横の線がミミズがはったような線になり、斜めの線などは話にならず、口で絵を描く難しさを実感したのである。星野さんの凄さを改めて再確認したのだ。絵を何枚か描き、額に入れて見ると、雰囲気も感じられ、少しは見せられる絵になってきた。私も絵を描く楽しさが、少しは分かってきたのである。しかし、上手く描こうと思えば思うほど、筆が進まず雑になりなかなか思うような絵が描けなかった。無心に楽しく、素直な気持ちで描いた絵は、出来上がりも早く、納得できる作品であった。今では、年に1〜2枚程度、風景画を描き、描いた絵を障害者グループの絵画展や老人ホームの作品展などに出展させて貰って励みにしているのである 絵を描いていて一番苦労したのは、CDの表紙のイラストを頼まれた時である。私の知人から屋久島の写真集を2冊渡され、屋久島の絵を描いて欲しいと頼まれた時は、簡単に良いですよと返事してしまったのだ。それから2〜3カ月後、カセットテープを貰い、詩人山尾三省さんの詩に曲をつけて、歌にしたものをCDにして、私が描く屋久島の絵を表紙にすると聞いてびっくりしたのである。絵の締め切りが5カ間しかなくとても不安になったのだ。それからが大変!カセットテープを何度も聞き、詩も何回も読み、写真集を何回も繰り返し見ても、なかなかイメージが湧かなく、また、構図がなかなか決まらない。焦りやブレッシャーから胃が痛くなるのだ。夢にまで屋久島の風景が出てきて眠れない日々が続いた。そんな時、テレビで屋久島の特集を見て、『これだ!』と思ったのが海からの島の風景である。詩の中に出て来る満月をぜひ描きたかったので、その時初めて夜の風景画に挑戦したのである。締め切りぎりぎりまで描いていた時に、CDの題が『水月』に決まったと連絡があった。月を描いていて良かったと思った。もし、月を描いてなかったら…。いろいろと描きあげるまで大変だったが、CDが出来上がり、作品になると苦しかったことなどが吹っ飛んでしまった。CDの表紙を頼まれた時は、構図がなかなか決まらず、また、出来上がりの日を設定されると早く描かなければと焦り、夢にまでCDの絵が出てきたのには、びっくり!
絵は、奥深く難しいが、絵を描く事で生きがいを感じるようになり、これからも一生懸命、水彩画を描き続けたいと強く思っているのである。まだまだ未熟であるが、自分が満足できれば最高なのである。元気だったら、絶対に芸術とは無関係であった私。人生って不思議なものである。
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