「ウワァー!伊藤さん久しぶり〜。」「エー!」と振り返ると知り合いの元看護師の小瀬村さんだ。「オー!久しぶりです。元気でした?何で、ここにいるんですか。」と5〜6年ぶりの再会にビックリ。今年の2月下旬、厚木市のホテルで“グループ完”の結成20周年記念パーティに出席したときの出来事である。昔の神奈川頸髄損傷者連絡会の宿泊イベントがあった時に、小瀬村さんに大変お世話になったのだ。私のデカイ体をひとりで、就寝、起床の介助をしてくれたのである。本当にお世話になった。パーティ中も、昔のように私の食事介助をしてくれて、昔話に盛り上がった。今、小瀬村さんはグループ完のメンバーのヘルパーやボランティアとして会に携っていたのだ。その事は、全く知らなかった。
 “グループ完”とは、障害を持った方達の絵画グループである。昨年で、20周年を迎えた。1984年、脳卒中で右手が不自由となり利き手を左手に変えながら作画活動を続け、後に現代美術家協会の会友にもなった画家の石山完さんの絵を発表しようと、神奈川リハビリセンターで知り合った障がい者7名が「石山完とその仲間たち」を結成。第1回展を開催したのが始まりである。以後、毎年、海老名市内で展覧会を開いている。1991年に石山さんが亡くなった後、「グループ完」と名称を変えて活動を続けている。私は、1983年から絵を描き始め、第5回(1989年)の絵画展から参加させてもらっている。第12回展(1995年)には、ポスター挿絵を描かせてもらった。帽子をかぶった女性のデッサンで、唯一人物を描いた絵だ。パーティには、メンバー20数名の3倍以上のボランティアさんたちが駆けつけてくれていた。皆さんの支えで“グループ完”が20年間も続けてこられたんだと気づかされた。絵画展を開催するには、ポスターの配布や搬入・搬出、会場の設定、受付、客の対応など、多くの仕事をこなしていてくれていたのだ。私が皆にお祝いされるより、ボラさんたちに感謝したい気持ちの方が強かった。ボラの皆さんに、心から深く感謝申し上げます。
 昨年、12月5日〜14日まで、海老名市の海老名市民ギャラリーで、「第20回グループ完・輝く生命の絵画展」を開催した。会場には、メンバー20名の絵が数点ずつ飾られ、私も5点の水彩画を展示してもらった。会場には1日しか行けなかったが、午前中にもかかわらず十数名の方が来られていて、何となく嬉しかった。入口を入ったところに受付があり、その壁に私の“水月”の絵が飾られていてビックリ!こんないい場所に飾られ、ライトに照らされて一段と絵が輝いて見える。この絵は、CDの表紙に頼まれた絵で、構図で苦しみ時間をかけて描きこんだものである。久しぶりに見て懐かしく思った。今まで描きあげた絵は、普段、箱に入れたままなので、講演会で展示しない限り見ることがないのだ。メンバーは、脳性まひ、リウマチ、片まひ、頸髄損傷、筋ジストロフィーと重度の障がい者が多く、在宅者や施設入所の会員もいる。足の指に筆をはさんで描く人、私のように筆を口にくわえて描く人、寝たままの状態で枕元で描く人など、描き方も障害によりみんな違うのだ。体調と闘いながらの作業だから、1つの作品を仕上げるのにも根気が必要で、時間もかかる。それぞれ、残された機能を駆使し、独自の方法で制作している。作品は、油彩、水彩、墨絵、コンピューター・グラフィック、つまみ絵(絹を染めて人の形などを作り、ピンセットで膨らませて立体的に見せる)、タイプアート(タイプライターのキーを何度も押して濃淡をつけて描く)など、独自の作品が展示されていた。"絵をかくことで自分を表現したい"と強く思う気持ちは皆同じだと思う。皆さんの心を込めて描きあげた作品に感動し刺激になった。最近、何かと忙しく絵を描く時間が少なく、年間1枚を描くのがやっとの状態だったので、今年は少しでも多くの絵を描いてみたいと励みになった。会場には、多くの方が来ていただいて、メッセージや感想文を書いてくれたことに感激した。
 絵を描き始めてから、27枚の作品を描き続けてきた。年に1回、絵を見てもらえるという、密かな喜びが涌き、日々の生活にも目標が持てるようになった。1年1年、共に歩んでいるのだという張りと絆が生まれた。これは、私が『グループ完』によって得た大きな収穫である。そして、何よりも社会に参加できること、そして心の広がりを与えられたように思う。絵を描くことは、私にとって生きている証しなのだ。絵に生命を吹き込めるような絵を描きたいと思っているのだが、いつも傍でマリちゃんが「もっと色遊びしたら?」とか、いろいろ注文が多く、集中できないのが問題なのだ!?