皆様に読んで頂いた「土俵の中で…」が、今回をもちまして最終回となりました。皆様、長い間ありがとうございました。
 エッセイを書くきっかけになったのは、平成5年の初め頃、三和プランニングセンターの宮本社長が絵の取材で自宅に来た時だった。社長が、何故かファクスを持ってきた。その頃のファクスは、高価で取材だけでもらえるものではなかった。嫌な予感がしていた。取材後、社長から「月1回でいいので、何か思った事を書いてファクスで送って欲しい」と言われた。やっぱり、そういう事か!しかし、小学生の頃から作文が苦手で、その文章を多くの人に読んでもらうなんて、とんでもないと思った。即決で断った。母も「ダメ!ダメ!」と援護射撃をして喜んでいたら、マリちゃんが「いいんじゃない、やってみれば」の一言でエッセイを書く事になってしまった。マリちゃんには、逆らえないのだ。
 平成5年6月、第1回目の「土俵の中で…」がインフォメーションに載り、照れくささと嬉しさが一緒になった複雑な気持ちだった。それから、平成17年12月まで、何と12年間以上も書き続けてきた。こんなに続くとは、自分でも思ってもいない事である。宮本社長とマリちゃんに感謝しなければならない。ありがとうございました。
 この12年間、後を振り返るといろいろな事があった。電車に乗りたくて、電動車イスで相模鉄道の“希望ヶ丘駅”へ行った。8段の階段をスロープにして欲しいと要望を伝えに行ったが、電動車イスでは改札が通れなくて駅員室にも行けなかった。それから約2年後、希望ヶ丘駅長から「駅の改装をやります」と連絡があった。ついに、電車に乗る事が実現した。初めて電車に乗った事から、「土俵の中で…」の物語が始まった。
 それから間もなく、ハワイ旅行へ。私にとって、一番自信になった旅行だった。怪我をする前からハワイに行くのが夢で、とても憧れていた。それが、重度の障がいを持ってから行けるとは思ってもみなかった。夢にみていたハワイは、湿気が無く気候も快適で、電動車イスで楽に過ごす事ができた。そして、現地の方の対応が自然で心も温かった。やっぱり、ハワイは素晴らしい所だった。ハワイに行く前は、国内旅行すら行った事がなかったのだ。外泊する事に自信が無く、自分の行動を規制していた。それが、ハワイに行ってから一転してしまった。それは、ホノルル空港でトラブルがあった時に、友人に「遠慮しちゃダメ、しっかり伝えなきゃ」と言われてである。言われた後、航空会社に伝えたら、私の主張が分かってもらえたのだ。今まで、何事も遠慮ばかりしていて自分を主張する事ができていなかった。ハワイに行ったらいったで、何とかなるものだと思った。ハワイに行ったら何処へでも行けそうな、そんな大きな気持ちにもなった。それからは、積極的にいろいろな所に出掛けるようになった。神奈川リハセンターに入院中、ナースと「いつか、ハワイに一緒に行きましょう」という話を実現させてくれた山田さんと助言をしてくれた友人に感謝。今では、ハワイのリピーターになってしまい3回も行っている。4回目は、いつかなぁ?
 受傷して16年目には、ショートステイ(一時入所)を経験した。16年もの長い間、在宅で献身的に介護をしてくれる父母やマリちゃんに助けられて来た。そんな、私の介護から一時解放してあげたいと常々思っていたからである。それが、やっと実現した。施設にいる皆さんと知り合い、色々な話を聞いていると、皆さん苦労されて生きて来られた人が多い。苦労を苦労と言わず、明るく優しく話してくれた姿に感激した。障害の程度が違っても、人の心の痛みは同じ。私だけが苦しいのではない事を痛感した。そして、家族と共に生活できる自分は、なんと幸せ者だろうと思った。人生勉強になった貴重な思い出深いショートステイであった。
 毎年、3月3日のおひなさまを迎えると緊急入院した事を思い出す。夕食後、珍しく食べた物を4回ほどもどした。その中に黒い血がまざっていた。真夜中、身体がだるく、余りにも苦しくてマリちゃんを起こした。救急車を呼んで欲しいと頼んだら、マリちゃんが「朝まで我慢しなさい」とはねつけられた。しかし、布団をめくると下血していたのでマリちゃんもビックリ。下血と聞いて、急に意識がもうろうとした。救急車で病院に運ばれ、検査の結果、十二指腸潰瘍だった。内視鏡で治療して、濃縮赤血球の輸血400tを3日間に1回ずつ(計1200t)した。1週間、点滴だけで飲まず食わずの苦しさを味わった。2週間で退院し、それから再発はない。
 エッセイを書き始めてから2年を過ぎた頃、横浜市旭区の中学校の先生から講演の依頼があった。私のエッセイを読んだらしく、「生徒に話をして欲しい」という。その時も断ろうとしたら、マリちゃんの一言「やってみなきゃ分かんないでしょ!」でやる事になってしまった。その中学校で、初めて講演をさせてもらってから、現在いろいろな所で講演をさせてもらうようになったのだ。その中学校から、毎年講演依頼があり、今年で11回目を迎える。私の小学生の頃の夢が、体育の教師になる事だった。それが実現して、2年目に怪我をしてしまった。生徒達と接する事が閉ざされたが、今は講演会を通じて関われるので嬉しい。講演のきっかけを作っていただいた先生にも感謝している。
 毎年、障がい者の全国総会や懇親会に出掛けるようにもなった。最初に参加したのは、全国頸髄損傷者の連絡会の20周年の総会である。神奈川で開催する事になり、葉山へ1人で行った。その時に、全国から同じ障がいを持った人達と出会って、多くの情報と大きな勇気をもらった。来年、頸損会が30周年を向え、全国総会を横浜で開催する。大変だがその準備に携わっている事に喜びも感じている。
 まだまだ、トラックに右手をひかれ交通事故に遇った事や22年ぶりに帰省した時のこと、DPI世界会議で札幌に行った事など、多くの事が思い出される。いろいろな所に出掛けられるのは、福祉に携わっている友人達がボランティアとして一緒に出掛けてくれたお陰である。そして、毎月エッセイを書かなければならない事でもあった。エッセイを読んだ近所の方や外出先で声をかけてくれる方の声援が嬉しかった。元気な方は、障がいや福祉と言われてもあまり関心がなかったと思うが、私のエッセイを読んで変わられたと思う。誰でも必ず年をとり、身体が不自由になったり、精神の病にかかったりした時、住み慣れた家、住み慣れた地域で、安心して暮らす事ができるかどうかは、ひとり一人が普段からどんな福祉を望み、どう行動するかに大きく拘わってくる。希望を持てる社会作りに頑張って生きたいと思っている。
 苦しい時に、本当に支えになったのは義母のお陰である。実の母以上に、いつも私の面倒をみてくれた。「ミッちゃん」と呼び、毎日、昼食を食べさせてもらいながらの会話はチグハグだったりして楽しい。その母も今年80歳になった。背中が少し丸くなり、苦労をかけっぱなしで申し訳ない。これからも元気でいて欲しい。今年の3月に亡くなった義父にも大変お世話になった。父は、心臓が悪くて苦しんでいる時に、何もしてあげられなかった事が心残りである。そして、怪我した当時、手や足が全く動かなくなって、ドン底でもがき、苦しんでいる時に、マリちゃんの一言で立ち直れる事ができた。それは、「できない事を考えるより、できる事をやればいいんじゃない」と言ってくれたのだ。いつも、マリちゃんの一言が大きな生きる力になっている。26年間、両親やマリちゃんのお陰で、こんなに幸せでいられた。本当に幸せ者だ。家族には、一番感謝している。
 最後に読者の皆様、長い間ありがとうございました。そして、三和プランニングセンターの宮本社長を初め、社員の皆様に心より深く感謝申し上げます。ありがとうございました!