雨を見ながらボッーとしていたら、受傷当時を思い出した。気がついた時には、北里大学病院のICUに入っていた。気管切開して人工呼吸器をつけていたので声を出すこともできなかった。
 毎日続く玉子豆腐と水ばかりの食事にうんざりしていた時、看護婦さんに飲ませてもらった冷たいカルピスのおいしかったこと!生きている喜びを実感した程であった。
 やがて人工呼吸器も取れ、話せるようになり、ICUから病棟の個室に移った時、大学の相撲部の後輩が面会に来てくれた。『よう!久し振り』と声をかけた瞬間に、後輩の一人の顔色が見る見るうちに青くなり、寝ている私の視野から消えた。彼は気を失って倒れたのである。看護婦さんが飛んできてくれたが、私は久しぶりに思いっきり大笑いをした。当時の私は頭髪を剃られ頭蓋骨に2つ穴を開け、ワイヤーで固定して、その先に15sの重りをつけ頭を引っ張られていたので、後輩が倒れたのも無理のない事かもしれない。看護婦さんが『お見舞いに来て倒れた人は始めてよ』と言っていたのを思い出すと、今でも笑ってしまう。
 その後、七沢リハビリテーションセンターに入院。ここでも看護婦さんにいろいろお世話になったが、中でも実の母のように接してくれたのが山田さんだ。いつも元気でどこにいてもわかる位大きな声の人だった。わがままを言うと思いっきり怒るし、私が落ち込んだり元気がない時は、声をかけてくれ励ましてくれる。山田さんのお陰で立ち直って行く人も実に多かった。
 頸髄損傷となると人によっていろいろ症状が異なるが、私の場合、肩から下は全く発汗がない。そのため皮膚はいつもサラサラ、スベスベ(何かの宣伝に使えるゾ)。発汗がないという事は体温調整が出来ないということで、寒さもダメ、まして夏は、最悪のコンディションとなる。まぁ、イヌと同じようなものだ。夏は、舌を出しハァッ!ハァッ!
 七沢にいた頃は、身体がそんな状態に慣れていないこともあり、夜になると熱がこもり苦しんだ。山田さんが夜勤の時に内緒で冷たい氷を口に入れてくれ、やっと眠りにつく。以来、何か困った時には山田さんに甘えたものである。今でも恋人?のように仲良くおつきあいをさせてもらっている。
 七沢では、車イスの人達にも親切にしてもらった。夜は9時消灯なのだが、なかなか皆寝つけない。両腕が動く車イスの仲間がコッソリ私の部屋にやってくる。普通なら足音で来ることが分かるのだが、車イスは音もなくスーッと入ってくるのでビックリする。看護婦さんにバレず?に移動できるので夜には便利だ。『伊藤さん何にする?』と聞かれ『シロ2本、コブクロ2本』い言うとスーッといなくなる。30分後、息をハァハァさせて戻ってきて、私の口の中に焼きとりを入れてくれる。急がないと看護婦さんに見つかるので、まとめて4本分口の中に入れ、ゆっくりと噛んで味わいながら食べる。その時の幸せな事といったら…。こっそり食べるせいか、おいしさも倍増する。焼きとり屋は、七沢リハビリの丘の下にある。買いに行く仲間は、行きは坂なのでサァーと行けるが帰りが大変。まさに『行きはよいよい帰りは怖い』だ。夜中まで自主訓練している彼らは偉い。
 背髄に損傷を受けた人の症状は、一人ひとり全く違う。また、背髄損傷の位置によって、手足の動かせる範囲が違ってくる。身体半分だけ発汗する人や、全身に発汗して夏でも寒いと震え、毛布をかぶっている人、腕は動くが握力はなく、指先が動かない人など、実にまちまちである。
 6人部屋で私の前にいた人は、ベッド上で座位でいる時、『イテェーイテェー』と言いっぱなし。どうしてかと聞いてみると『ケツに褥創(床ずれ)があるんだ』と言う。医者と看護婦がその人の治療をしながら私達に患部を見せ『こうならないように、みんな気をつけなさいヨ!』と大きな声で言う。『その白いのは何?』と私が聞くと、『骨よ!骨が見えてんの』と看護婦があっさり言う。見ていたみんなが一斉に『うわァー!』。話には聞いていたが、見たことがなかったので驚いた。麻痺すると皮膚の感覚がないので、すぐに褥創ができるのである。しかし、皆にケツを見られた人は、たまったもんじゃないと思った事だろう。
 入院生活、精神的に大変な時期でもあったが、今では、懐かしい思い出だ。