突然、私の前に外国人が…。オーでかい!私を見ている。アッ近付いてきた!『コンニチワ』とカタコトの日本語で話しかけてきた。『こんにちは』と挨拶を返したが、緊張のせいで私の日本語もカタコトになっていた。私は、英語で話さなければと焦っていると、その人は、『交通事故ですか?』と流暢な日本語で尋ねてきたのである。エ!日本語話せるんですかと聴くと『はい、私はカトリックの神父です。日本に40年います。』と話した。それを聞いた私は、緊張が一変に吹っとんでしまった。それから、私が受傷した事や障害の状態を説明するのに、スーパーマンと同じ障害だと話したら、分かったようである。別れ際に神父さんは、私に『ガンバッテ』と声をかけてくれた。その瞳はとても優しく温かかった。長い時間話し込んでいたが、残念な事に名前もどこの教会なのかも聴いていなかった事に後で気がついた。私は、やはり大緊張していたのだろう。この出来事は、大阪で開催された全国頚髄損傷者連絡会に出席するために乗った、新幹線のデッキでの事である。
 障害を持ってから19年ぶりに新幹線に乗った。緊張と不安で一杯だったが、美人のボランティアの阿部さんが一緒に同行してくれたので心強かった。マリちゃんから『新幹線のドアは、狭くて私の電動車イスでは入れないヨ』と驚かされていた。しかし、私が予約したひかり11号車は、車イス用のオープン座席があり、ドワも広く、車掌さんの介助で楽に入れた。その車両には、車イス専用の個室もあった。車掌さんに個室に勧められたが、行ってみるとドワが狭く、私の電動車イスでは入れなかった。残念!オープン座席とは、車両の3人席を2列1席づつはずしてあり、そこに車イスが入るようになっている。私の大きな電動車イスでも楽に入れたが通路が狭くなるので気を遣った。車掌さんに、『もう1席づつ取り除いたら電動車イスでも快適な旅が出来る』とお願いしたが、どこまで対処してくれるか…?
 車窓から外の田園風景を眺めていると、学生時代新幹線で福岡に帰省していた事を思い出した。あの頃は、福岡の味が恋しくて、直方駅に着くとすぐに屋台に飛び込んだ。屋台で"おでん"や"とんこつラーメン"などを腹一杯食べたものである。懐かしい!一度、故郷の福岡に帰っみたいと思った。
 新大阪に着き、地下鉄で移動。大阪の地下街を見ていると横浜の地下街と殆ど変わらない。阿部さんに『大阪にきた実感が無いね』と言うと、阿部さんは『電車に乗ると変わりますよ』と言う。阿部さんは、大阪に親戚があり、何度も訪れていた。実際、電車に乗ったら、大阪弁が飛び込んできた。若者が話す大阪弁を聞いて、大阪を実感するとは思ってもみなかった。各地下鉄の駅には、大阪の仲間とボランティアさんが迎えてくれた。目的地のホテルまで行き方を案内するためである。途中、乗り換えがあり、エレベーターに4回も乗ったが、私の電動車イスはギリギリの大きさであった。谷町4丁目の駅に着くと地上に出るエレベーターが無い。心配したがエスカレーターがあった。エスカレーターは、私の電動車イスでは危険なので利用した事が無かったのだが、初めてエスカレーターに挑戦する事になった。エスカレーターを止め、階段に電動車イスの前輪から乗せ、エスカレーターを動かす。私の身体や電動車イスも斜めになり、後ろにひっくりかえるのではないかと恐怖だったが、大勢の駅員さんが電動車イスを支えてくれたので無事に上れた。往復10回、地下鉄で乗降したが、駅員さん同士に連絡をとってくれ、安心して任せることができた。皆さんとても親切で明るかった。だけど、もっとひとりで自由に乗り降りできる電車、エレベーターが全国に普及して欲しいものである。
 ボランティアさんの案内で、無事ホテルに着くと阿部さんのおばさんが、タコ焼きをたくさん持ってきてくれていた。おばさんが、『電車の中、タコ焼きの匂いで臭かった…』と阿部さんに話していたが、その会話が漫才のようで面白かった。受付を済まし、部屋でタコ焼きを満喫。大阪のタコ焼きは最高!夕方から食事会が始まった。乾杯を交わすと会場のカーテンが一斉に開いた。その瞬間、皆の歓声があがった。大きな窓から夜景が広がり、ライトアップされた大阪城が青白く浮かび上がっていた。
 今回の大阪の旅は、いろんな事を経験して、多くの方から勇気や希望を戴き、自信となった旅であった。自分から行動しなければ、こんな経験はできないのである。一緒に参加してくれたボランティアさんの皆さんに感謝。有り難う。
これからも日本国中を旅してみたい!