神奈リハへ救急車で転送されている途中、何度もテープから流れる『救急車が通ります。』の声が『東京都が通ります。』と聞こえてしまった。私の血圧が下がって意識が薄れそうになるため、そう聞こえたのか、未だに納得がいっていない。神奈リハに着くと、直ぐにレントゲンやCTスキャンなどの検査開始。検査のとき、右腕はパンパンに腫れ上がり、感覚のある肩や背中にも大量の内出血。少し身体を動かされるだけでも、肩や背中に激痛がはしった。看護婦さんは、慣れたもので、私の身体を動かすとき、『痛いね、痛いね、ゴメンネ』と先に言われると『痛い』とは言えなくなってしまった。私としては、なんか、不完全燃焼。検査の結果は、右腕にヒビがあり、ひじの間接が2カ所粉砕骨折していた。また、肩や背中全体には内出血量が多く、特に右背中には、異物が入っているような鈍い感覚だった。仰向けに真っすぐ寝ていても、背中の厚みで身体が左に傾くほどである。その厚みは、出血した血なので、血圧も低くなり、貧血で苦しい。結局、今回も800tの輸血をする事になってしまった。またもや、どなたかの血液で助けられました。
 神奈リハのICUは、新館にあり、新しくて部屋も広く、看護婦さんも親切であった。私は、看護婦さん達を"くの一"と呼んでいた。それは、帽子・マスク・白衣がブルーに統一され、忍者のように見えたからである。眼と眉毛しか見えないが、そこには皆さんちゃんと化粧の力が入って…いや失礼。夕方頃、マリちゃんと母が、事故の知らせを聞いて、面会に来てくれた。私は、マリちゃんに怒られると思って、黙っていたら、何と『大丈夫なの』と優しく言葉をかけてくれた。意外で言葉が出なかった。
 ICUでの初日の夜、寝むろうと瞼を閉じると、今日の事故場面り映像が、バッパッと次から次と飛び出て来た。ハッとして、眼が醒める。心臓の鼓動が締めつけられるようで息苦しい。その映像が、また鮮明すぎる。その時から、瞼を閉じると、同じ現象が続いた。電動車イスに乗って19年間、1度も事故を起こさなかった自信が崩れた。今回の事故は大ショック!!ふと、以前にも同じような経験をした事を思い出した。それは、20年前、首を脱臼骨折した時と全く同じようであった。あの時は、毎日後悔ばかりして、落ち込みがひどく、なかなか立ち直れなかったのだ。その時の教訓は、"反省はしても、後悔はするな"だった事を思い出した。後悔すると、あの時、あーすれば良かったとか、こうすれば良かったと、どんどん暗い気持ちになり、落ち込んでいく。何であんな事をしたんだろうー。やめれば良かったのだ。行かなければ、こうはならなかったのにー。と後悔を毎日、毎日しても、現状は全く改善しない。人を憎んでも、心はスッキリせず、よけいにイライラして、笑える気分になれないのだ。だから、反省だけすればいい。今度はこうしようとか、あーしようと反省すると前向きの気分になるのである。この教訓を生かしたら、転倒した映像が消えた。不思議である。私は、精神的に強くなっていたのかも?ICUにいた1週間、多くの婦長さんや看護婦さんが、心配して訪ねて来てくれた。有り難い事である。皆さんの優しさや温かい言葉に励まされ、『切断するかもしれない』という危機から救われた。心配して下さった皆さん有り難うございました。
 病棟に移ると、何と、1カ月前に入院していた4階の同じ部屋の同じ場所だった。婦長さんの配慮である。感謝。ベットで、横になっているとリハビリから皆が帰って来た。いつもと違う雰囲気に気がついたのか、私を見て『アレー!なんで、なんでいるの』と驚いていた顔がおかしかった。約2カ月間の入院中、3人の部屋の方は退院し、また受傷してまもない方が入院してきた。そうなると私が皆の教育係となる。教育係は、褥瘡(ジョクソウ〈床ずれ〉)の事から泌尿器、OT・PT・体育(リハビリ)、福祉に至るまで、話をしなければならない。私も同じように、教わったのである。とにもかくにも、5月25日に入院し、7月21日に退院できた。元のように右腕は、動かないが、自宅に変えれてホットした。車イスの皆さん、4輪タイヤと言って、安心はできませんよ。日本の道路事情は、デコボコだらけだから、今度こそ本当に『ご用心!ご用心!』