5月の下旬、毎年恒例の全国頸髄損傷者連絡会の総会に参加するため、野中さんと京都に行ってきた。30年ぶりの京都だ!当日、いつものように新横浜駅で神戸パンのサンドイッチを買い込んで駅に向かっていたら、甘〜い香りに誘われて焼きたてのロールケーキが眼に止まった。横を見ると野中さんと眼が会い、早速2本購入。エレベーターで、新幹線のホームに行くと、3人の車イスの方を見た。最近は、少しずつバリアフリーが進み、車イスで旅行する方を多く見かけるようになった。嬉しいことである。新幹線の中で、昼食用に買ったサンドイッチを食べるとおなか一杯になり、ケーキのことは忘れてしまっていた。そのケーキが、3人の女性の夜食になるとは…。初日の交流会後、皆で居酒屋に行って飲んで食った後に、私の部屋で話し込んでいたら、野中さんが冷蔵庫からロールケーキを出すと、『もう、おなか一杯だよ』とか『寝る前に食べると太るから』と言いながら、全部たいらげてしまったのである。女性にとって、ケーキは別腹とよくいうが、これは本当のようだ!居酒屋で、驚いたことがあった。皆で飲んでいたとき、23:30頃突然"蛍の光"の曲が流れ、店を出されてしまったのである。京都の夜は速すぎる!
 今年の総会は、「ベンチレーター(人工呼吸器)使用者の自立」と題してのシンポジウムが開催された。現在、頸髄損傷者は、突然の交通事故やスポーツ事故、労災事故などによって頸髄を損傷すると、身体に著しい障害を負ってしまう。わずか30年前には、余命数カ月といわれたが、医療技術の進歩により、障害を持たない人と変わらないほど寿命が延びた。また、リハビリテーションのできる機関・福祉制度も充実してきており、多くの頸損者が自立、社会参加の機会が得られるようになった。しかし、頸損者の中でも(頸損者に限らず)、ベンチレーターを使用する人に対しては、受け入れる医療機関は少ない。ベンチレーターを使用する当事者や家族は、不安な毎日をすごしているのが現実である。欧米では、ベンチレーターを使用している人でも、障害を持たない人と同様に自立生活をし、職場・学校等へ通い普通に生活をしているのだ。そこで、会員をはじめ、その他の障害者や行政・政治・医療・リハビリテーション関係者、さらにはボランティアや一般市民の方にベンチレーターの実態を知ってもらうために、カナダのバンクーバーからウォルト・ローレンス氏を招いて講演が行われた。彼はベンチレーター使用者であるとともに、ブリティッシュ・コロンビア州の自立生活運動のリーダーであり、リハビリテーションセンターの常勤ピアカウンセラーでもある。彼は、1968年17歳の時にダイビングに失敗し、首の骨(C2・C3)を損傷した。受傷1年半後に、呼吸器の離脱訓練を受け、障害者居住施設から大学に通学。結婚を機に、施設から出て地域で暮らす。現在は、夜間のみベンチレーターを使用。ウォルトさんは自らの体験をふまえて、『体が不自由でも介護を受けるだけでなく、病院から出て社会に貢献することは可能で、それができるような体制を整えていくべきだ』と訴えた。彼は、50歳とは思えないほど若々しく、どこがベンチレーター使用者なのかと思うほど、電動車イスに乗った姿勢がよく、声も大きく、タンの吸引もしていないことに驚いた。今、日本のベンチレーター使用者は、話すこともできず、外出すらできない方が多く、タンの吸引をしている方がほとんどなのである。急性期にかかわる医師によって、欧米と日本の格差や立ち後れを感じた。カナダのベンチレーター使用者に対する、当事者と行政当局・医療関係者の一体となった取り組みには、大きく学ぶべきものがあった。講演後、ウォルトさんと少し話すことができたが、ノドには小さな穴が開いていた。彼も身体が大きくて、身長183cm、体重90kgもあり、呼気で操作する電動車イスに乗っていた。電動車イスの操作など細かく聞きたかったが、私の語学力では身長・体重を聞くのが精一杯であった。彼の優しい笑顔と明るい性格、そして自信に満ちた姿が印象的であった。
 また今回、総会に参加して、ベンチレーターをつけた座位のとれないストレッチャー使用の方が、旅行やビジネス、会議出席など、多種多様に飛行機を利用していることを知った。年間約550人のストレッチャー利用者の内、1割程度が自己負担だという。その1割の方が、高額な航空運賃を取られている。国内線では、通常の4.5倍の料金がかかり、国際線になると、なんと12倍もの料金がかかるのである。こんなことがあって、いいのだろうか。でかい身体や座位がとれない人の航空運賃に問題がある。身体がいくら大きくたって、ひとりなのだから…。障害者の社会参加という見地から見ても、何らかの社会的対策が必要ではないのかと思った。「ベンチレーター使用者が安心して入院できる病院の確立」と「ベンチレーター使用者が独立できる社会資源の確立」を実現し、どんな障害者があっても完全参加できる社会作りに協力していきたいと強く思った。