9月に光明学園相模原高等学校で行なわれた修養会に参加し、講演をしてきた。この学校は、私が体育教師として、はじめて勤務した学校である。就職して2年目の5月に怪我をして以来、なんと22年ぶりに訪問することになったのだ。当時、体育科主任だった吉村先生が校長になっていた。光明学園は、浄土宗系の学校なので、年に数回、法話を聞きながらお念仏を唱えるのが修養会である。吉村先生には、新任のときから大変お世話になり、私も一度は学校に挨拶に行かなければとずっと思っていたのだ。今回、学校に行くいい機会になった。
 早朝からボランティアの堀沢さんの運転で、相模原にある学校に向かった。途中、新しくできた建物や懐かしい風景を眺めていた。北里大学病院が見えたころから、急に胸が締め付けられるような緊張感に襲われた。受傷後に緊急入院した病院だったからなのか…。
学校付近に近づく頃、道案内のために堀沢さんに指示を出したが間違って相模線原当麻駅前に出てしまった。駅は、新しく建て替えられて、エレベーターも設置されていた。駅から学校までの道を通っていると、ふとはじめて学校に登校したときの光景を思い出した。昭和53年3月、当日はスーツ姿で初登校。駅から外に出ると小雪が舞う寒い日だった。学校までの道が分からないので、生徒の後をついて行くと、生徒から強い視線を感じた。それは、後で分かった事だが、生徒は私のことを刑事だと思っていたらしいのだ。そんなことを思い出しながら、ひとりでニヤけていた。学校に近づくと、昔は桑畑で何もなったところに家が建ち、昔の面影がまったくなくなっていた。今、学校もエレベーター付きの6階建ての校舎を建設していた。
 学校に着くと、当時お世話になった今泉先生が控え室に誘導してくれた。控え室には、古河先生が待っていた。懐かしいー。先生とは、初めて担任を持った時、誰もいない教室で2人で先生と生徒役に分かれ、新入生への挨拶の練習をしたこともあったのだ。昔と全く変わらない風貌に思いっきり笑ってしまった。その他にも、当時の先生方が次々に挨拶に来てくれて、本当に嬉しかった。皆さん歳は取っていたが、一瞬当時にタイムスリップしたようで、とても懐かしく感激していた。そんな思い出に浸っていたとき、突然、横から「長谷川です!覚えていらしゃいますか?」と尋ねられた。顔を見ると全く見覚えがない。困っていると、「私は、伊藤先生が担任だったクラスの長谷川です。」と聞いて、「エー!」と言ったきり、声が出なかった。そして、「苦しみの中から、喜びが生まれる。」と続けた、その言葉で、私のクラスだったと確信した。当時、クラスの生徒達は、特に元気な子が多く、入学式からいざこざが絶えなかったので、クラスをまとめるために考えた標語だった。人は我慢したり、努力することによって、初めて喜びを感じられるんだと話していた。そんなことを今でも彼が覚えていたなんて、なんだか恥ずかしいやら嬉しいやらで複雑な気持ちだった。教え子が教師となって、母校で働いているなんて、不思議な縁を感じた。
 話を無事に終えて、控え室に戻ると、お弁当が用意してあり、校長先生達と一緒に食事を取った。私の介助についてくれた女性の先生は、ヘルパー2級の資格を持つ素敵な先生であった。さすがに、食べさせ方が上手かった。食べさせてもらっていると、介助者の好き嫌いも分かってくる。ほとんどの方は、自分の好きな物から食べさせるからである。人の性格は、面白いものである。
 校長から、生徒の制服はコシノヒロコデザインに変わり、カリキュラムも一般コース、進路コース、体育コースと3つに分かれて、海外で海洋実習や語学研修などもあると聞いたてとても驚いた。語学研修は、外国でホームステイをしながら、文化や習慣を学ぶという。すばらしい学校になっていくのは、嬉しいことだ。そして、時の流れも感じた1日だった。
 帰宅のハンディキャブの中で、何かに開放されたようなすがすがしい気持ちになっていた。それは、22年前に体育の授業中に首の骨を脱臼骨折していらい、一度も学校に行っていないことが心のどこかにあり、ずっと気にかかっていたのだ。学校に来る途中にあった胸の締め付け感は、全くなくなっていた。