先日、久しぶりにマリちゃんとふたりで横浜駅東口に出掛け、「山下 清展」を見学した。当日は、雪が舞うようなとても寒い日だったので、ハンディキャブを予約しておいて本当に助かった。この時期の電車での移動は、とても辛いのだ。人は、歩いたり運動することで体温を上げることができるが、私は電動車イスで移動するため、なかなか体温を上げることができない。怪我をしてから、体温調節ができなく、寒さや暑さには弱いのだ。
 電動車イスにスケボーを取り付けてから、初めてマリちゃんを乗せる機会がきた。ポルタの地下からそごうの入口まで。早速、電動車イスの後ろにスケボーを取り付け、マリちゃんを乗せて走ろうとしたが、急に恥ずかしくなったのか「やっぱり、怖いからいい」と言い出した。このスケボーは、「マリちゃんのために取り付けたんだから」と話すと「ガタガタと振動したり音がうるさいんじゅないのー」とブツブツ言いながら、仕方なくスケボーに乗せた。最初は、ゆっくり走っていると「アッ!ぶつかる」とギャーギャー叫んでいたが、そのうち慣れてくると「これは、楽だ!楽だ!」の連発で楽しそうにしている。「なかなかいいじゃないの」と言って満足そう。「今度は、座れるようになると楽なんだけどナ!」と…。電動車イスの後ろに介助者を乗せて移動できれば、介助者も楽でいいのだ。いろいろな方法で電動車イスを工夫している人もたくさんいる。私は、電動車イスにスケボーを取り付けているが、東京の友人は改造業者に頼んで、コンパクトで折りたたみのできるカッコイイものにしている。これからは、こんな電動車イスが流行るかも…。安全性の問題もあるので、実際にはいろいろ難しいが楽しい車イスなら、走る人も見ている人も気分は上々なはすだ。
 そごう6階の“そごう美術館”に行くと土曜日とあって混んでいた。こんなときは、空いているところから観るのが一番。マリちゃんと別れて自由に。大正11年生まれの山下清は、幼年期の大病が原因で知的障害者になっている。昭和9年、千葉県の養護施設八幡学園で、貼絵を習ったのがきっかけで、彼の才能が発揮されたのだ。学園、入所前の小学校で、やはりいじめにあったという。障害があるからといって差別にあったのだ。昔は、今以上に差別が多かったはずだ。学園生活で制作に没頭しながらも、この生活に束縛されていると思うようになり、自由な時間を求め、昭和15年11月18日に学園から姿を消し、放浪をはじめたのだ。「裸の大将」「放浪の画家」のはじまりだ。多くの作品の中で、昭和25年制作の有名な“長岡の花火”が心に残った。貼絵からは、花火の音や大勢の見学者の歓喜の声が聞こえてきそうな迫力があった。また、展示作品の中に、彼が母にあてた記録ノートがあった。彼の文章は、ずっと続く文で、「、」や「。」がない。その理由は、「人は話をするときに」「点」や「まる」は言わないからだそうだ。なるほどと思った。昔、よくTVでドラマ化されているのを見たことがあるが、放浪先で絵を描いていたのではなく、実際記憶した風物を八幡学園や実家にもどって思い出しながら描いていたのである。驚異的な記憶力に驚かされた。彼は、絵を描くための放浪ではなく、もっと根底にあったものは「自由でいたい」という願望であったのだ。放浪先で、「ボーッ」としていたのは、この時間こそ、山下清の世界だったのだと思った。彼の純粋な作品を見て、心が和んだ。
 清の展覧会を見終わって、6階をぐるっと回って見ていたら、個展が開催されていた。鮮やかな油絵と書道家の作品が展示されていた。なにげなく入ってみると書道家の作品が台の上でねかせてあり、読みずらいと思っていたとき、全ての作品を壁に立てかけて見やすくしてくれた係の女性がいた。その心遣いがとても嬉しかった。作品の中に、とても気にいった作品があった。漢字で“楽”という文字が踊るように書かれ、本当に楽しそうに見えた。その字のように、人生を生きたいと思いながら、穏やかな気分で立ち去った。
 夕食まで時間があったので、何気なくそごうの9階に行ってみた。そこには、交通事故死や「いじめ」を苦に自殺した方たちの写真と靴が並んでいた。生きていた頃の思い出の写真と靴、そして最愛の人を亡くした遺族の文章が展示されていた。突然の辛い出来事に残された遺族の悲しい思いは、はかりしれない。人には、それぞれの人生がたくさんあることが分かり、生命の素晴らしさをあらためて実感した。その時、突然私の前に立ちはだかる男性がいた。顔を見て、お互い「アッ!」と叫び合った。彼は、6年前に全国頸髄損傷者連絡会の総会で、ボランティアとして参加し、私の食事介助をしてくれたのだ。神奈川頸損会の行事で、何度か会っていたが、4年前から音信不通となっていた。まさか、ここで再会するとは…。生命の大切さと人との不思議な縁を感じて、思い出深いものになった。