2002年3月8日〜17日まで、ソルトレークシティーパラリンピック大会が開催された。日本の選手41人は、アルペン・ノルディック・アイススレッジホッケーの3競技に出場した。それぞれ選手の障害によって、いろいろクラスが分かれ、クラス別にメダルを争われる。
 パラリンピックという言葉は、脊髄損傷者を意味するパラプレジア(Para plegia)とオリンピックを合わせて作くられたのである。そして、その原点はイギリス・ストークマンデビル病院の脊髄損傷センターにある。1944年に、このセンターを設立したグットマン博士は、競技スポーツを推進した。いわば身障者スポーツの父のような存在。最初は、アーチェリーの大会として始まった。ストークマンデビル大会は、次第に拡大し、1960年にローマで開催された。「国際ストークマンデビル大会」(参加23ヵ国・選手数400名)へと結実する。これが、第1回のパラリンピックとなったのだ。同じ頃、日本で身障者のスポーツを推し進め、全国身体障害者スポーツ大会の基礎を築いたのは、大分県の太陽の家の創設者でもある中村裕先生。グットマン博士と中村先生の交流で、1984年には東京オリンピックに合わせて、東京で国際ストークマンデビル大会が開催される事になったのだ。参加22ヵ国・選手数567名。パラリンピックという名称は、この時に初めて使われた。今では、パラリンピックという言葉はpara(もうひとつの)+Olymplcとして使われている。それは、オリンピックと同様にパラリンピックもまた障害を持つ人達の競技スポーツの頂点に位置づけられている事を意味しているのである。パラリンピックの旗の色は3色で、緑は理性、赤は身体、青は精神を表している。
 聖火の点灯で、10日間の戦いの火蓋がきっておとされた。パラリンピックの花形、アルペン競技の滑走からスタート。腕や足に障害のある選手や視覚障害の選手が時速100kmに及ぶスピードで競い合う。腕か不自由なため、1本のストックで滑る選手や切断した足に義足をつけた選手、足が不自由なため、座ったまま滑る選手、また、視力に障害のある選手達は、前を滑るガイドの声をたよりに滑るのである。どの選手も急な斜面を凄いスピードで滑走する姿に驚かされた。特に、目が見えない選手の旗門をうまくすり抜ける速さとテクニックには感動しかない。誰が見ても目が見えないと思えないほどであった。
私が一番楽しみにしていたのは、アイススレッジホッケーである。アイススレッジホッケーとは、ソリに乗った選手が2本のスティックで氷をかき、100mを15秒で滑る。その滑るカギをにぎるのは腕力とスリッジと呼ばれるソリ。ソリは、選手それぞれの障害や度合いにあわせて作られる。改良に改良を重ね、自分に合ったものを作るまでが大変なのである。1チーム6人で直径7.6cmのパックを追う。リンクをところ狭しとぶつかり合うことから氷上の格闘技と呼ばれている。初めてゲームを見る人は、障害があるとは思えないほどのぶつかり合いに驚く。はじき飛ばされて壁に激突など当たり前なのだ。そのため怪我が多く、完全な状態でゲームに望むことはできないらしい。それほどのスポーツを障害を持っている人がやっているのだから、精神状態は凄いものだと感じる。私は、ゲームを見ていながらつい気合が入り、自分がプレイしているかのように熱が入る。初戦、アメリカに0−3で惨敗したショックからなかなか立ち直れず、その後、勝ち星を重ねられなかったが、日本15名の選手が小さな身体で大きな外国選手にぶつかっていく勇気と闘志に心から拍手を送った。
 今回のパラリンピックは、女子チェアースキーの大日方邦子選手が2個の銅メダルとクロスカントリースキーの新田佳浩選手が銅メダルの計3個のメダルだった。長野では、41個のメダルだったのだが思い通りの結果が得られなかった。それは、日本での障害者スポーツの受け入れ方に問題があるのだと思う。以前は、障害者スポーツというと、リハビリの延長だったが、今ではプロの選手もいる。現在、日本の障害者スポーツは障害者センターでしかできないのだ。アメリカでは、普通のゲレンデにも障害者がいる。スキー場がバリアフリーになっているのだ。また、ノルーウェイでも、今シーズンからスキー大会を障害者と健常者、すべて一緒に行われている。オリンピック代表選手と障害を持った選手が同じ日に同じコースでレースができるのである。日本でも、社会の中で障害のある人もない人も同じように生きていける環境が大切である。横浜市の港北区には、“ラポール”という障害者や健常者も利用できるスポーツ文化センターがあるが、このような施設が身近なところにできて欲しいものだ。それには、私たち当事者が立ち上がり社会を変えていかなければいけないと思った。
夢をかなえた者、挫折した者、そして現役を去る者、参加した868人のスピリッツに拍手。