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2007/07/26、於いて:Data.CakeBaker/多摩市 
鈴木 忠彦氏 インタービュー
○: 暑い中をありがとうございました。さて、それでは早速ですけれど、始めさせていただきます。「何人かのトリニトロン物語」というテーマで、このプロジェクとを始めているわけですけれど、いま、弟1段のブラウン管の開発に次いで、第2段のセットの開発編ということで、今日はその二人目の鈴木さんをお迎えしました。
 このプロジェクトは、1981年に井深さんが箱根の別荘で、トリニトロンのプロジェクトで開発した新製品開発の方法論をまとめて欲しいと言われたんですね。それは、ソニーがトリニトロンというユニークなものを開発する時に、どうしても、製品の開発プロジェクトのマネージメントの方法論を開発したいと言う井深さんの思いがありまして、後に井深さんは、それをF-CAPシステム-Flexible Control Planning and Programming Systemと名づけられまして、「第1回世界イノベーション会議」で発表されております。その要約がソニーの内部資料の週報に記録として残っております。
 ソニーという会社には、井深さんを始め、トップの皆さんは、独自のマネージメントの方法論を開発される積極的な意志があった。「製品としてユニークなものを開発するには、ユニークなプロジェクトのマネージメントの方法論を持たなければいけない」というのが、井深さんのお考えで、それを「トリニトロンの実験でほぼ完成したんだけれども、それを体系化して欲しい」そういう話しがあった。
 それを、吉田進さんが井深さんのご遺志に賛同されました。丁度吉田さんに対し、旧通産省の外郭団体に研究産業協会というのがありまして、そこが“日本の戦後のもの作りの100人のインタービュー”という中に「トリニトロンカラーテレビの開発:吉田進」というのが企画され、私がインタビューを担当して収録をさせて頂いた。
トリニトロンプロジェクトというと、少年ジャンプの「トリニトロン物語」でも吉田さん、大越さん、宮岡さんと言うことになっている。しかし、トリニトロンの開発だけでも100人以上がかかわっている。
“大勢がからんで努力をされていたから、その人達の記録も同じような形でまとめて欲しい、応援する”とおっしゃって、当時アイワの再建に係わって居られていたんですが、私も上野の池之端に時々おじゃまして、お昼をごちそうになりながら、いろいろ企画を相談してきました。
 そんな経緯がございまして、この結果のまとめ方は、まだ、決まっていませんけれど、学生とか若い人達が、今後ものを作ったり開発したりする時の参考になれば、と考えています。もともとの井深さん吉田さんのご意志を 主旨で利用させていただければと思っています。
 今日はテレビセットの開発編で、鈴木さんからお話をお伺いする訳です。
 ○: では、早速ですけど、型どおりで申し訳ないですけれど、お名前と生年月日と生まれた町の名前をお願いしたいと思います。
鈴木: 生まれたのが、昭和14年4月5日ですね。東京の洗足です。学生時代は大森に住んでいました。ソニーに入社すると同時に横浜に移り、現在も同じ所に住んでいます。
 ○: えーと、洗足で生まれて大森に移られて、終戦はどこで迎えられたんですか。
鈴木: ああそうだ、洗足と大森の間に疎開が入っていたんだ。静岡県伊豆長岡市小坂の母の実家、今の伊豆の国市かな。そこで終戦を迎えました。
 ○: そこには何才くらいまで、居られたのでしょうか。
鈴木: 小学校4年の時に東京の大森に移りました。
 ○: 高校は。
鈴木: 中学は慶應の普通部でした。慶應高校、慶應の工学部と進みました。その当時工学部の専門課程は小金井にありました。
 ○: 中学、高校はどちらに在ったんですか。
鈴木: 日吉です。日吉の駅を挟んで中学と高校は反対側にあったんです。
 ○: 高校から大学の工学部。
鈴木: 今の理工学部。その当時は工学部でした。 小学校4年の時、理科が好きだったので先生に相談しながら鉱石ラジオ作った。その後、1T4という真空管を使った携帯用ラジオ作った。小学生の時です。
 ○: 小学生の時にもう、ラジオ作ったんですか。
鈴木: ラジオ作りましたね。その延長線上で今までずっと来ているみたいですね。
 ○: じゃあ、高校をでてから、工学部に行くことで迷わなかったですか
鈴木: 私の父親は経済学部を出て銀行屋になりしました。経済学部に行けって言うかと思ったら「実は俺も理系をやりたかったんだ」ということで賛成してくれて、全く迷いはなかったです。
 ○: 工学系になったきっかけは、そういうラジオとか。
鈴木: まあ、そうでしょうね。興味をもって。
 ○: 小さい頃に読んだ本とか、影響をうけた人とかおられますか。
鈴木: 子供向けの科学雑誌やガモフの本を一生懸命読んだ記憶があります。鉱石ラジオを、小学校の先生が作らないかと言ったのか、私の方が作りたいと言ったのか、忘れたけれど、それが一番大きなきっかけでしょうね。おそらく。
 ○: それを真空管にしたのが、小学校。
鈴木: 中学・高校になるとラジオ作って、親戚に売り、小遣い稼ぎをしました。それから、最初の自宅のカラーテレビは自分で作ったんです。
 ○: もちろん真空管で。
鈴木: 秋葉原の東映無線でカラーTV部品のキットを売っていたんですね。確か7万円、すごい金額でした。それを、買って作ったんです。まだ、カラーテレビの完成品は高額で高値の華でした。
 ○: それが、
鈴木: ソニーに入る前、大学時代かな。
 ○: カラーの実験放送始まったのは1956年、
鈴木: カラーTVのスイッチを入れて最初に飛び込んできた映像は、白黒のケネディー暗殺事件。アメリカからの初の宇宙中継でした。
 ○: 63年ですね。1963年。
鈴木: 63年か、じゃあ、ソニー入社の翌年ですね。
 ○: あー、なるほど、ちょうど、その年がすね。1963年で。アメリカでケネディーが大統領ですが、63年ですね。ベルリンの壁が作られて世界の緊張が高まる時代ですね。カラーTVの本放送は1960年10月にNHKが始めましたね。ソニーは1961年にカラーテレビの開発に着手した年ですね。そして、例のクロマトロンを盛田昭夫(もりた あきお)さんと木原信敏(きはら のぶとし)さん、そして、技術のトップだった島茂雄(しま しげお)さんが、見に行って、吉田進(よしだ すすむ)さんが見に行って、その年の暮れ12月に契約をライセンスをかわして、クロマトロンの開発に取り掛かる年ですね。そういう年ですね。
鈴木: それから、世界初の人工衛星スプートニクの電波を受信したくて、専用の受信機を作り受信した記憶ありますよ。おそらく、日本で、宇宙からの電波を受信したのは相当早かったのじゃあないかな。
 ○: スプートニク1号はね、1957年。
鈴木: ああ、やっばり、その頃ね。
 ○: それで、アメリカは後れを取るんですね。それで次の年の58年にアメリカはNASAを作ってエクスプローラ1号を打ち上げるんですね。
鈴木: やっばり、僕らの育った環境というのは、そういう なんていうのかな、新しい技術、面白い興味を持てるようなことが、いっぱいあった時代だったかもしれませんね。
 ○:大学は、当然、鉱石ラジオから真空管ラジオ、それからハムですか?
鈴木: 大学1年生の時にアマチュア無線局を開局しました。今と違って、無線機も受信機もアンテナも全部自作の時代でした。何か作れと言われた時に、なんとか出来るんじゃあないかというのは、そういう経験を通じて身についたのかもしれませんね。だから、ソニーに入ってからも、「何かやれ」って言われて大変だと思ったことがなく、なんとか出来るだろうと・・・。
 ○: では、迷わずに工学部の学科は電気工学。
鈴木: 電気工学科です。
 ○: 電気工学、卒論はどんな事をやられたんですか。
鈴木: 卒論はね、先生から与えられたテーマは、無線じゃなくて、超低周波発信回路、それこそ、周期が10秒とかそれ以上。
 ○: 10秒で一回ですか。
鈴木: だからね、測定器で観察していても周期が長すぎて安定して動作しているか良く分からない。
 ○: へー
鈴木: もう忘れてしまったけど、安定に発信する条件を解析し、回路設計をして、必要な部品を探すのに苦労しました。
 ○: 大学を卒業して、ソニーに入社するわけですけれど、ソニーを選ばれた理由は。
鈴木: 父が、ソニーと取引のある五反田の三井銀行支店長をやっていました。ある時 雷が近くに落ちて、自宅のラジオが壊れ、修理しにきてくれたのがソニーの人でした。そこで、初めてソニーという会社を知ったわけです。その後、ソニーは日本初のトランジスタラジオTR−55発売したんじゃあないかな。
 「なにか面白いことやっている会社だなー、という印象を持って、夏休みに工場実習に行った時に「奨学金試験をやるから希望者は集まれ」と言われて、受験したら受かっちゃいました。その後半年間以上、ソニーから毎月奨学金を頂きました。その上、ソニーに入社希望があるんだったら無条件で採用すると言われ、正式な入社試験は受けずに入社しました。
 ○: ソニーでは実習されたのですか。
鈴木: アルバイトか実習か忘れましたが、大学3年の時に、日野にあった「シバデン」で送信機出力段の調整やったのを覚えています。ソニーは、大学4年の夏休みに実習に行きました。
○: ソニーの実習の先はどこでしたか。
鈴木: 確か、本社の7階でしたね。
 ○: どんな職場だったですか。
鈴木:VTR開発の木原さんの部隊でした。RFモジュレータのダイオード変調器の実験をしました。
 ○: じゃあ、それで、ソニーの入社はそこで決まっちゃって、年が明けて1962年入社された。その配属場所は。
鈴木: 白黒トランジスタTV 5-303マイクロテレビの担当部署。村井係長のに指導されて、その当時問題だった、水平発振周波数がズレて画面が乱れる、それを検討し解決しなさい、と言われたのが初仕事ですね。ソニーが開発したエピタキシャル・プレーナ・トランジスタを採用した水平発振回路の検討です。
 ○: ちょっと待ってください。そうすると、いま、62年に入社されるわけですけど、5インチのマイクロテレビ、世界で初めての本格的トランジスタテレビを発売した後ですね。
鈴木: 発売直後に入社しました。
 ○: マイクロテレビの発売の後ですか。世界で最初の直視型のトランジスタ・テレビというのは、8インチを昭和34年(1959)に出しますよね、TV8−301。これがなかなか、信頼性も画質も安定性も十分でなくて、そこから、2年以上かかって、62年にようやく、4月にTV5-303が完成して、発売された。その頃ですね。
鈴木: そのトラブルシュートを担当しました。
 ○: なるほどね。水平の発振が安定しない。
鈴木: エピタキシャル・プレーナ型シリコントランジスタを使った水平発信回路の周波数安定化が最初のテーマでした。
 ○: これは、半導体の川名喜之(かわな よしゆき)さんが開発した。
鈴木: そうですね。
 ○: その石が出来て間もなく。それを使い込んでゆく。
鈴木: 使い込んでゆく検討ですね。
 ○: 当時の石の状況と言いますか、使い込む上で苦労された点と言うのはどういう点ですか。
鈴木: 入社し立てだから、与えられた半導体を使い回路全体として、なるべく周波数が動かないよう工夫しました。特にトランジスタ側に対して、強いリクエストを出した記憶はありません。
 ○: はあ。
鈴木: 回路構成や構成部品の温度特性を検討したので、トランジスタの温度特性についても、やり取りをしたと思います。
 ○: まあ、ソニーは、トランジスタ・ラジオからトランジスタ・テレビになるんで、ゲルマニューム・トランジスタから、シリコントのランジスタが必要になるんだということで、それで、シリコンのトランジスタを開発し始めて、色々な発明を次から次に積み上げていったんですね。そして遂に、ベル研が発表したエピタキシャルの論文にすぐ目を着けて、試作をしたんですね。これを持ってベル研に行ったら、ベル研の連中がビックリして、シリコンのエピタキシャルでこんなすごいものが出来て、こんなすごい特性がでるのかと驚いてサンプルを置いて行けと言われたと。これにも、いくつかのイノベーションが、沢山からんでいて、今から思うとノーベル賞級の発明がいろいろあったんですね。
鈴木: そうだったんですか。
 ○: 「シリコントランジスタの実用化開発」というテーマで、川名喜之(かわな よしゆき)さんにインタービューした時、インタビューワのNECの方もびっくりして、 「ガードリングは、貴方が発明したんですか、本当ですか」と念を押すようなことがあって、「そうですょ」と言って。川名さんもそうですが、ソニーの当時の何人かが、いくつもの大きな発明を次々として、シリコントランジスタの実用化を果たしていったのですね。
鈴木: すごいですね。
○: それで、まあ、その次の年、次に手がけられたのは 5インチの後は、
鈴木: 12インチ。あ、9インチが途中にありました。
 ○: 9インチありますね。
鈴木: 9インチは偏向系の回路設計を担当し、基板設計までやりました。その時に信号系担当が藤本さんだったかな。たしか井深さんが夜職場巡回にきて、上司と話をしている間にデザインが変更になりましてね、上部に付いていたチューナを下部にもって行くことになりました。恐らく温度上昇の少ない場所にチューナを配置するためだったと思います。それで、信号系・偏向系のプリント基盤を左右入れ替えることになり、基板が書き直しになったんですよ。出来ていた基板は没に。(笑い)そんな事がありましたね。
 ○: 9インチが出来たのが1964年ですか。
鈴木: 1964年発売ですね。
 ○: この時に電子管開発部が発足をしてますね。いよいよ、本格的にカラーテレビをやると言うことですけれども、実は、その辺は、大崎に電子管製造部が出来て、山田さんがブラウン管の部長になって、クロマトロンを立ち上げて、クロマトロンをその年に発売しようと思ったんですけれど、結局9月の発売を諦めた。白黒テレビの方は、9インチになって、そこで、12インチを一緒に出すと、この12インチはものすごく売れるんですね。白黒で。
鈴木: だけど、苦労したんですよ。
鈴木: この機種は、私が、電源・偏向・高圧、それからブラウン管関係を担当したんですがね。要するに、ブラウン管の放電現象のすさまじさというのがね、それまでとレベルが違う。
 ○: あー、そうですか。
鈴木: 5インチ、9インチの時から放電問題はありましたが・・・
 ○: 電圧も高くなかったし。
鈴木: ブラウン管にかける高電圧が高くなると同時にブラウン管の静電容量が大きいですからね。放電のショックも大きい。ブラウン管は、当初、日立の茂原工場製を使いました。最初の頃のサンプルは、ソニーのそれまでのテレビに比べて、フォーカスが非常に悪い。スポットサイズが大きくて採用できないと申し入れたら、彼らはG2電極の孔径だけを細くして持ってきた。確かにフォーカスは改善した。ところが、明るい画面を写して暫く時間が経つと、G2電極が真っ赤になる。
○: なるほど、G2ってのは、電子銃から電子が飛び出していく、2番目のゲートですね。その穴だけを細くした。
鈴木: 穴径だけ細くしてビームを絞った。
 ○: そしたら、やっぱり、G2で蹴飛ばされたビームが怒った。
鈴木: 多量の電子ビームがG2にぶつかってね。過熱して、そしたら、放電がバシ、バシ、バシ。
 ○: つまり、G2は、ステンレスの部品ですが蒸発始めるんですね。
鈴木: おそらくね。
 ○: ほー、放電が始る。
鈴木: まあ、最終的にはね、日立もきちんとしたブラウン管を作ってくれました。大・日立が若造の要望に的確に対応してくれたのに感激、感謝の気持ちになったことを覚えています。まあ、そんなエピソードもありましたね。
 ○: しかしこれは、売れた。ソニーの売上を、がんがん稼いだんですね、
鈴木: 他にも、私にとって苦い思い出があります。フライバックトランスが量産セットのエージングルームで燃えたんですよ。ハニカム構造に巻き上げたコイル、それに、ポリエチレンのダストカバーを被せた構造で、それまでは問題なかったのにね。ところが、巻線が垂れた部分がレアーショートして発熱しポリエチレンのカバーが燃え出火した。“高圧は怖いよ”というのはそれまでも分かっていたけれど、本当に身にしみて分かってきたのはこの頃でしょうね。
この事故を契機にして、コイルを不燃性樹脂でモールドするとか、巻線の工程改善、巻線機の改善、更に分割巻方式、多倍圧高圧整流回路方式と新しい高圧システムに進化して行きました。
 ○: エージングルームはどこにあったんですか。
鈴木: エージングルームは本社の、2階か3階? ラジオの製造ラインをテレビ用に転用したのかな。
 ○: ラインですか。
鈴木: 製造ラインと同じフロアーにエージングルームがありました。
 ○: ラインで燃えたことありましたよね。
鈴木: ラインで?
 ○: そう。本社の。 この後のトリニトロンの頃の話しですが、山田文彌さんが担当していた高圧ブロックを、信頼性グループの実験場で、一人で何台かエージングして、夜中の2時頃に発火したんですよ。慌ててエージング棚の電源を切りに、スナップ・スイッチを降ろそう手を出したら、バーンとすっ飛ばされた。高圧がリークしていたんです。それで、急いで走って柱にあった大元の電源を切って、それで消火器で消したんですが、プラスチックが燃えて、煙だらけだから、窓開けて明け方まで皆が出社してくるのを待っていたことがありました。
鈴木: 知らなかったな。
 ○: ラックの上でね。エージング・ラックの上で燃えた。一人だったから、ついうとうととした。作業用のビニール張りの長椅子があった。そこに私は横になっていたら、炎が1mくらい上がってた。当時は火災報知器とかなかった。それで、びっくりして、ラックの電源をね、スナップスイッチを、あれ掴んで、こうやって握りに行っていたらね。
鈴木: 今頃、居ない。
 ○: 今頃ここには居ない。バーンとやった時、ヒジをガーンと殴られたような感じでしたね。後ろに飛ばされた。何キロボルトくらいかかっているんですかね。
鈴木: あの当時は、高圧は20キロボルトくらいかな。
 ○: 2万ボルト。
鈴木: すごく高い電圧。
 ○: そうだよね。エージング棚だから、電流容量もあった。その後エージングの徹夜は、2人でやるようになった。
鈴木: ブラウン管の大型化に伴い、取り扱うパワーが、大きくなるにつれて、低電圧大電流動作のトランジスタTVには、真空管用(高電圧小電流動作)に作られた部品がそのままでは使えない状況になってきました。例えばケミコン、ケミカルコンデンサには、15.75キロヘルツのノコギリ波電流が数アンペア流れるんですよ。
 ○: そんなに流れるんですか。
鈴木: 数アンペアが偏向ヨークに流れますから、その電流は水平偏向回路のケミコンに流れる。そういう電流が流れても、発熱しない、それでいて、基板の上に乗るようなサイズを要求しますからね。ケミコンメーカーに我々のニーズ(小型、高耐リップルで、数十キロヘルツのでもロスが少ない)を提示し、メーカから提供された試作品を我々が実働評価しフィードバックする形で開発を進めました。エバーソンと言う新進のメーカーが素晴らしい性能のケミコンを開発し提供してくれましたが、電解液が原因で電極の腐食による断線事故を起こしメーカーとして消えて行った、そんなこともありました。
それから、偏向ヨークに直列に入れるS字補正コンデンサ。画面が大きく偏向角が大きくなるにしたがって、リニアリティー(画面に映る画像の直線性)が問題になる。左右にいくにしたがって伸び真ん中が縮んじゃう。それを補正するためには、偏向ヨークとコンデンサを直列に接続し共振現象を利用して、電流補正をかける。その、コンデンサには、偏向ヨークと同じ数アンペアの電流が流れる、マイラーフィルムコンデンサだったけど、メーカは松尾電機だったかな、黄色い親指より少し小さいくらいのコンデンサーだったと思います。
 ○: ほほー、トランジスタ化でプリント基板に載せるため、コンデンサも小型でなくてはいけない、しかし、画面の大型化につれ電流も大きくなる。
鈴木: マイラーフィルムに金属フィルム電極を巻き込んで、電極の端を両側から出してリード線を出す。ところが、最初の頃は断線事故がおきた。数アンペアの電流が流れるから、金属フィルム電極の端末の処理、リード線との接続(溶接)が確実にきちんと均一に処理されていないと、ある所から、発熱し壊れてしまう。そんな、やり取りを、コンデンサメーカとしながら改善を進めました。
ブラウン管の大型化に伴ってG2に与える電圧も高くなっていくと、それを整流するための、ダイオードが問題になったんですよ。電圧が高くなるに従って、フライバックパルスを昇圧し整流する時のロスが無視できなくなって、発熱しランナウエイ(暴走状態)に入っちゃう。そういうことに、ならないように、非常にリカバリータイムが短いシリコンダイオードを開発してもらいました。確か、S−34と言う型名だったと思います。
 ○: シリコンダイオードと言うと、主に、メーカは。
鈴木: これはね、中圧整流ダイオードはサンケンでしたね。
 ○: サンケンさんも、なかなかの会社でしたね。
鈴木: 素晴らしい会社でしたよ。サンケンさんとは、このダイオードを完成させる同じチームのような感じで、彼等と仕事をしました。
 ○: ああ、そうですか。
鈴木: こちらが、ちゃんとデータとって、実際の動作状態で、こういうリカバリー特性が問題で、ここでロスが出るんだと。だから、この様な動作状態でリカバリー少ないもの作ってくれよ。彼等もね、「分かりました」で作ってくれて、評価して、また、一緒にデータを見ながら、検討する。という、そういう関係にあったですね。だから、中圧ダイオードの開発に関しては、サンケンとの連携プレーは、思い出深いです。
それに忘れてはいけないのが、仙台のフライバックトランス用コア。
 ○: 仙台もやはりキーパーツを担っていたわけですね。ソニーの場合。
鈴木: そう、これは偏向・高圧系のパワーが大きくなるに従って、まず、発熱の問題、これはヒステリシスロス(経路による素直でない残留特性)と、飽和してしまう(磁界が大きくなると飽和して磁性体の機能を果たさなくなる特性が)問題。それから、磁気ひずみ(磁気が掛かると機械的に歪がおきて変形を起す)が原因で異音が発生してチーチーとフライバックトランスが鳴く。そういう問題を実際の動作状態で評価して、こうこうところは改良が必要と・・。そうすると、仙台がじゃあこれはどうですかと新しいコアのサンプルを作る、そんなやり取りが、長い間続きましたね。
 ○: 磁石のもとにもなるフェライトを高温で焼いて固めて、精度を出して、キーパツを作る。その、さっき、サチルと仰いましたね。それは、周波数が高くなると起こるのですか。
鈴木: 強い磁界がかかるとコアが降参しちゃう。フライバックトランスとして見ていると、インダクタンスが無くなっちゃう。
 ○: コイルの機能が?
鈴木: コイルの実効的なインダクタンスがなくなっちゃう
 ○: もう、それ以上働けないよと?
鈴木: そうですね。例えばブラウン管の放電で過大なアンペアターン(フェライトコアのその側に巻くコイルの巻き数とそこに流す電流の掛け算)の磁界がコアにかかるとインダクタンスが小さくなり、更に電流が増加し水平出力トランジスタを破壊する原因になりますからね。
 ○: それでも、仙台のフェライトコアは、良かったんですか。
鈴木: 最終的にはTDKに負けないコアが出来たと思ってます。最初の頃は、だいぶ苦労してたけれど、ものにできた。
 ○: 確か、シリコンをフェライトに数パーセントか入れる特許を、盛田正明さんが仙台の時に取っておられましたね。
鈴木: ああ、そうですか。
 ○: それで、あとでトリニトロンの広角化の時、問題になるのは、周波数特性が出ないというので、シリコン等いろんな添加物の実験を、効果実験というのをやって、それを嵯峨根勝郎(さがね かつろう)さんが担当しましたね。
鈴木: 仙台と組んでね。
 ○; どうゆうフェライトが良いか、仙台と実験をやって。
鈴木: 直流的、静的にフェライトを評価しただけではわからない、TVで使われる場合は、15.75キロヘルツの何倍か、要するに、数十キロヘルツまでの動作特性が重要になる。
おそらく、仙台はいろんな添加物加えちゃあ 僕等のところにサンプル送ってきて、実際のセットで評価して仙台にフィードバックする。当時は新幹線がなくて、仙台に夜行で行って、向こうで打ち合わせして、その日に帰ってくるという、非常に厳しい出張をしましたね。
鈴木: 夜行で行って、打ち合わせが終ってからその日に帰ってくる。そんな出張をしょっちゅう やってましたね。
 ○: でも、そういうふうに、部品を作るサンケイさんにしても、ソニー仙台にしても、一生懸命セットのアプリケーションの方に乗り込んできて、要求事項を明確にしながら,試作をどんどんスビートあげてやる。とういう姿勢が皆あったんですか。
鈴木: ありましたね。今考えると、これは非常にありがたいことでした。当然ですが、ソニー厚木の半導体もそうゆう姿勢、仕事の構えかたでしたね。
 ○: 仕事の構えかた。
鈴木: そう、この当時は、2SC41から次の世代に入る時代かな。川島さんですよね。パワートランジスタ。業界でも非常に優れたパワートランジスタ、水平偏向に使えるパワートランジスタを厚木は、ものにしていたと思います。我々の要請に対して、的確に色々対応してくれました。半導体としてスタティックに見ると、素晴らしい特性なんだけど、実際の偏向高圧回路に使うと、弱くて、ブレークダウンや熱暴走して壊れてしまう。彼等は、我々の話しを聞いて、実際回路を使うのに適した特性のデバイスを積極的に作ってくれました。使う立場では、放電時等の異常状態で発生する過大な電圧に耐えるのは当然ですが、実際い起こる異常な動作条件でも壊れ難いことが必要です。トランジスタの飽和抵抗を小さくするために充分にドライブすると、放電時に過大なコレクタ電流が流れ壊れてしまう。かといって、ギリギリのドライブをすると、一寸した動作条件でドライブ不足になり発熱し壊れてしまう。例えばね、HFE(電流増幅率)は大きいほどトランジスタとしては優れていてドライブするのは楽なんだけれど、概して放電に弱いんですよね。電流がピューと伸びていってランナウエイに入ってブレークダウンしてしまう。途中で、止まってくれた方がいい。かといって、HFEが低いと、こんどは、ドライブの方が大変だ。だから、ASOが、なるべく広くって、放電等の異常状態でも安全領域から外れないような半導体。こういうのは、なかなかね、スペック・シートには書ききれない。
 ○: ASOというのは、何でしょうか?
鈴木: エリア・オブ・セイフティー・オペライション、つまり安全動作領域のこと。これは、パワートランジスターとして、どのくらいの電流・電圧・電圧×電流まで耐えられるか、それを超えると壊れてしまう。セカンダリ・ブレークダウンに入って、破壊に至る。安全に使える限界線です。
 ○: 横軸に (図・表を見て説明)
鈴木: えーとね・・・
 ○: どんな形になるんですか
鈴木: こういうんじゃあないか。限界の電圧と電圧で・・・。
 ○: その囲まれた安全な領域。
鈴木: そうそうそう、この電流だったらこの電圧以下。この電圧だったらこの電流以下。これを通り越すとセカンダリ・ブレークダウンに入って壊れちゃう。自滅しちゃう。
 ○: これは その囲まれた領域が広ければ広いほど良い、強いトランジスタ? 
鈴木: そうですね。
 ○: これが、パワートランジスタの特性としては非常に大事なんです。
鈴木: TVのパワー回路に使う半導体では大変に重要です。
 ○: 増幅特性のHFE以外にもいろんな特性が要求されるわけですね
鈴木: 異常動作時にも耐えられる耐電圧、耐電流特性に加えて、低い飽和抵抗、短いフォールタイム、適度なHFE特性・・・トータルバランスの取れたトランジスタが理想ですね。だから、TV回路に実装し予想されるいろいろな動作状態で、ドライブ条件とすり合わせながら検討し、どれくらいのところが、一番半導体に望ましいかっていうことです。単純に半導体の静的な理想スペックを追求しても、それだけじゃあ実際の回路で使えないよって言う要請が、我々の使う立場から出るんですね。特にパワー系の回路ではね。そういうことに対して、彼等は、我々の所に入り込んでくるし、我々も向こうに行ってやるし、そういう形で厚木は的確に、我々の要請を理解し、パワートランジスタを次々開発してくれました。
 ○: そういう意味では、その沖さんの言葉にもありましたが、皆が自分の仕事をしただけでなく、ね、その決められた仕事が四角だったとすれば、その外側に円を書いて、その外側にどんどんはみ出して、厚木もセットの設計の方に来たり、セットの方も、厚木に何回か行かれて、仙台にも行かれて、
鈴木: もう、厚木はしょっちゅう行きました。
 ○: またちょっと下がって、白黒のことを。
鈴木: 12インチは、そういう 大パワー化の一つのきっかけになったようなモデルでして、半導体を含めいろんな分野で、いろいろ開発して、世に出すことが出来ました。17インチは、高圧整流を半導体化しようということで、高圧セレンを、初めて採用しました。あれは、富士電機で50ボルト耐圧のセレンをペレット状に打ち抜いて、何百枚も重ねてセラミックの棒状の容器に封じ込んだ高圧整流器。計算上は充分な耐圧があるが、実際の回路に組み込むと異常発熱しアバランシェ(雪崩のような崩壊現象)を起して壊れちゃう。これはやはり、スタティックな状態では、分らないけれども、水平の周波数、それもフライバックトランスの共振周波数 数十キロヘルツだと、ストレイキャパシテイが問題になり入力側のセレンペレットに耐圧以上の電圧がかかり、ブレイクダウン起こして発熱し、それが発端となりアバランシェを起こし破壊に繋がる。最終的にはストレイキャパシテイの影響をキャンセルする電極を付けてTV用の高圧整流器として使えるようになりました。
 ○:これ何年ですか
鈴木: これは、1965年に私が機種設計プロジェクトの担当をしていますね。
 ○: 19インチのTV19−20を1965年に発売しますね。
鈴木: 19インチは確か相馬さんが担当しましたね。
 ○: ああそうですか、
鈴木: ちょっと、これ調べてくれる。17インチのモデルを。
 ○: 17インチの話は、時々出てくるんだけれど、私はどうも思い出せない。あの、そうすると高圧セレンというのは、無くて、12インチではチューブを使った。
鈴木: 真空管、高圧整流菅1X2Bですね。
 ○: それまでは、真空管を使ってた。
鈴木: そうですね。
 ○: それで、17インチで初めて高圧セレンとなって、オール・ソリッドステイトが完成した?
鈴木: 高圧セレンにして、ブラウン管を除き、オール・ソリッドステイトのテレビが完成しました。
 ○: ああ、そうですか。
鈴木: あんまりスマートなやり方じゃあなかったけれども、力ずくで完成しました。上司の沖さんから、高圧セレンを検討するように言われ、それまで担当していた先輩に相談にいったんです。そしたら、使えなかった理由をいろいろ説明してくれ、止めた方がいいよ・・・と。沖さんに報告したら、何も知らないから君に頼んだのだ、先輩から失敗した話は聞くな・・・と言われたんです。それで、何とか物にしようと・・・。高圧セレンのセラミックチューブ上にサーモペイントを塗って、実際の動作状況で温度上昇の分布を調べたら、高圧コイルに接続した側ほど温度上昇が大きいことを発見しました。これが決め手となりましたね。
 ○: あれは富士電機でしたか?
鈴木: 富士電機に協力してもらってね。技術は加藤さん、営業は横山さんだったか?
 ○: メーカさんとの関係は、工場には行かれたんですか。
鈴木: えー、工場にも行きました、信州の工場。
 ○: 松本?
鈴木: 松本ですね。量産開始になって、“鈴木さん来て下さい”て、行ったら、“見て下さい、この間まで、仕事がなく空いていた所にラインを作り、ちゃんとソニーさんのものを作っていますよ。人手不足で、あそこに働いているのは、私の女房ですよ”(笑い)
 ○: この富士電機は、いまだに、高圧パワー、シリコンの高圧ダイオードの、やはり、彼等は、世界のリーダメーカーでしょう。
鈴木: やっぱり、実力のある会社は、こういうチャンスを捕らえて、自分でグングンと伸びてゆくね。使う側のニーズを、上手く捉えて、やっていくね。
○: それを追い上げているのは、この富士電機が、中国に工場を作って、現地企業に技術協力していて、そこが非常安く作るようになって、そこは世界2位なんです。2005年現在でも相変わらず富士電機が1位、両方合わせて、世界の7割を抑えているようです。
鈴木: あーそうですか、すごいな、
 ○: やっばり、シリコンの高圧ダイオードというのは、弱電ばかりで無く、今や電気を使うあらゆる産業で、必要なんですね。その大元が17インチのセレン整流器だった。
鈴木: 非常に重要な素子ですね。
 ○: そうすると、その1965年ですけれども、さきほど、12インチが、1964年で、まあ、64年という時はですね、ソニーは、いよいよ電子管開発部を発足させて、クロマトロンに本腰を入れる。それで、半導体から独立をして、吉田部長が居て、そして、一課、二課、三課となって、電子管開発部一課が大越課長 二課が荒木課長、三課が島田課長となっています。
そしていよいよカラーテレビのクロマトロンをこの年に出そうとしたんですけれど、うまくいかなくて、見送って、翌年の1965年になって、白黒の17インチやっている頃に、5月、クロマトロンを三電子銃にして商品化する。そっちと重なる場面ですね。
その年は、ちょうど世界のカラーテレビ方式が実質的にも確立する年で、ソ連はフランスと組んで、SECAM方式で協定をつくって、一方PAL方式は、イギリスとドイツと組んで実験放送始めるんですね。それから、アメリカでは、NTSC方式でRCAが量産体制の投資を完了するんですね。
一方、テレビを録画する家庭用VTRの開発も始まろうとしていた時期ですね。東芝がアンペックスと組んでVTRの開発をする。まあ、この時は、井深さんが、東芝にねじ込んで東芝を業務用のVTRに閉じ込めちゃうんですね。これは、秘話ですね。これをしゃべっていいかどうか 東芝の澤崎専務を我々がインタビューして時に語ってくれたのですが、東芝の広報に問い合わせて、多分もう時効でしょうと。
鈴木: ああ、そう(笑い)
 ○: 実はその、VTRのヘリカルスキャンの特許は、東芝の澤崎さんの発明ですが、ソニーもメカの技術とエレキの技術を統合することを社是として日本で始めてテープレコーダを開発して、次はVTRを視野に捉え、試作も進めていたところをアンペックスにやられた。当然ヘリカルスキャン方式の検討もしていた。東芝は、アンペックスと組んだが、どうした経緯からか、業務用に特化した契約となっていたようで、今でも澤崎さんはそこを悔しがって居られた。ソニーは、東芝とも組んだが、アンペックスとは組まなかったので、PVというVTRを出したとき、“二次高調派特許”で訴えられて、私もそのデータ解析をお手伝いするため、仙台にも行きました。
ソニーとしては、ここでどうしても、カラーテレビに入らなければならない。クロマトロンを一生懸命やるのが、この65年の時期。白黒の17インチやって、19インチやって、ソニーも、CV-2000というコンスーマ用VTRを出し、音声のビジネスから、マイクロテレビをへて、本格的にビジュアルのビジネスの領域にも足を踏み込めるかどうかと、という、瀬戸際が65年。それで、66年になって、いよいよそのクロマトロンが、なかなか上手く行かないということで、多分岩間さんは、シャドウマスクのライセンス導入の準備を始めておられたと思うんですけれども、その年、どうしても上手くいかなければ、ソニーは、独自のカラーテレビの開発を止める、ということを決めた。井深さんも、取締役会で辞任するという噂があって、追い詰められてたその年の11月に吉田さんが、トリニトロン電子銃のアイデアを出した。これを電子銃の専門家の宮岡さんが実験を成功させて、はじめて、まあ何とか、見通しがたった、少し明りが見えたというのが、66年暮のことでした。
この年は、鈴木さんは、白黒の7インチの7-75でしたか、ここではどんな仕事だったでしょうか? 
鈴木: 1966年のこれは、フラットな画面でコーナーが四角なブラウン管だった。偏向系としてはね、フラットな画面になると、画面歪み補正が難しくなる偏向ヨークと回路とで対応する。
 忘れられないのは、加藤さんの信頼性グループが、参加してくれたことで、信頼設計という、考え方がちゃんと出来上がったことが大きいですね。
それまでは、まあ、極論すれば、場当たり的に、問題が起きたらつぶす。ということで対処してきたけれ。このモデルでは、ロジカルな考え方でやることになった。例えば、市場での不良率をある程度以下にするために、セットを量産、販売するまでに、どのくらいのエージングをして確認したら良いかとかね。パーツについてどのような評価をしたら、安心ができるか、或る程度統計的、定量的に納得しながらできるようになった。そう感じましたね。
 ○: まあ、井深流で行くと、“一台出来たら、それで沢山作ればよい”と言うけれど、大量生産するためには、それだけでは駄目で、設計というのは、情報を詰めて行ってスペックを作るわけですね。でっち上げるのが、目的でじゃあなくて。それをやる為に設計の評価、デザインレビューということを、つまり設計の手順、プロセスということを、そこで確立ができたんですね。設計活動がどうあるべきか、何をやらねばならないか。ということが。
鈴木: 信頼性という面から、設計者としてやらなければいけないことが、分かったということかな。まあ、評価規準を作って、お互い連携対応しながらやっていく。それは設計者にとっても非常に安心感があるよね。ある意味ではね。
 ○: はあー、安心感。
鈴木: だって、それまでは、出た問題をつぶし、それだけで、本当にマーケットで、大丈夫かなーって、そういう不安はあったね。専門家として第三者が評価してくれたら、それなりの安心感持って、次に進んでいけるという それはありましたね。
それと、さっき言ったように、信頼性というものを、設計者の立場でどう捉えるかというのが、7インチの設計プロジェクトを通じて、おそらく、設計者に染み込んでいったじゃあないかと思う。自分がそうだったから。その後の設計活動にとって、非常に、有益なプロジェクトでした。
 ○: この7-75での信頼性設計法の確立というのは、“ドンキー計画”というコードネームで岩間さんが、リーダシップを採られたプロジェクトでしたね。品質管理部長の西山さんと、吉田さんの下に居た信頼性の加藤さんを呼んで、二人で岩間さんを助けて、そしで、岩間専務が、信頼性の数値目標を掲げて、それで、信頼性強化の仕組みを確立するといわれて、それで、加藤さんが、“設計評価の手順を、設計開発のプロセスに組み込み、信頼性を埋め込まなくてはいけない”という考え方を作った。そして、ソニーは、その方法を開発しそこで確立できた。
まあ、それまでは、実は良く、信頼性設計ということは、分かっていなかった。名前は知っていた。加藤さんに言わせると、岩間さんにだまされて、半導体の開発から、信頼性にせい、と言われて、悩んで だまされて 信頼性に専門分野を変えさせられてね、それで、ものすごい分厚い論文集を正月一機に読んだ。
鈴木: そんなこと聞いたね。
 ○: まあ、私も、そこに参加してたので、非常にあの当時、気になったのは、設計者でない我々がですね、外から、設計したものにケチをつけるということに対して、受け入れてもらえるのか、反発されるのか、よけいなお節介と思われるんじゃないかと、恐れの気持ちが非常にあったんですね。
鈴木: ああ、なるほどね。
 ○: これは初めて話しますけれど、それは、加藤さんものすごく恐れていた。そのことは、それどう思われました。
鈴木: いや、ぜんぜん感じなかったね。何故だろう。いま、考えると不思議だね。
 ○: いやそれで、今ね、非常に安心感があったと、おっしゃったでしょう。私はね、やっぱり沖さんがおられ、鈴木さんがおられた、そういう事に対して、皆さん、ある意味では、非常に率直で、喜んでくださったところがあった。それは、非常に救われたという印象がある。
鈴木: ああ、なるほどね、確かにそう言われると、普通だったら、人のやったことにケチつける・・・
 ○: 日本人が一番嫌がること。人にケチつけるってこと嫌がるじゃあないですか。ところがね、それをね、非常に。“信頼性連絡書”というのがありましたね。
鈴木: あった、あった。
 ○: あれは、松下幸之助さんから教わったのですよ。井深さんがね、“松下さんが設計の段階でものすごいコストダウンが出来る方法があるからといわれるから、門真の「商品検査所」に誰か行って教わって来てくれ”と言われて、行って来ました。それで教わったのが、“商品梱包テスト”だったのですが、そこでヒントを頂いたのが“信頼性連絡書”に繋がったのです。
鈴木: そうとうプレッシャーになりましたよ(笑)。ああいうもの貰うと。
 ○: ですよね。たって、“貴方の設計で、ここでこういう問題が起きました、どうします、対策を書いて、上司経由で返しなさい”。
鈴木: 私にも否定したい気持ちは、おそらくあったと思うな。正直言って、ゼロじゃあないでしょうね。だけど、割合に抵抗感無く受け入れたたというのは、今考えてみると不思議だと思うね。
 ○: そういう意味ではね、厚木にしろ、仙台にしろ、さっきのサンケンさんにしろ、お互いに仕事の持ち分をわきまえて、やっぱりお互いに、外に向かって 仕事の枠をはみ出して、連携しろ、今コンカレント・エンジニアリングとか、いろんなこと言いますけども、仕組みだけじゃあだめで、態度とか、考え方みたいなもの、根本がありますよね。
鈴木: 少なくともね、冷静に考えれお互いにとって明確に 得だよね。、トランジスタテレビに使う部品というのは、彼等にとっても、未知の領域、技術者としても、次のなんていうのかなー、ターゲットとか、流れをどういう風に、把握するのかっていうのは、やっぱり、我々ユーザーと付き合っている方が、有利ですね。だから、自分のスペックを守ろうというような態度は、僕の付き合っていた限りなかったね。“これは、スペック通りですから、これで使えるはずです”なんて言われたことは、全く無かった。何か問題提起したら、それに対して、対応してくれて、それに適合する物を作ってくれた。そういう印象が強かったです。ただ、そういう意味ではね、社内の他部門の人もそうなんだけれど、社外の人も、これを仕上げるためには、一体になってるっていう、そういう感じで仕事ができていた時代でしたね。
 ○: そう言ってみると・・・
鈴木: もう一つは、まあ、実利的な面があるかもしれないけれど、“ソニーさんに採用が決まると、他社には無条件で売れるんですよ”と言われましたよ。
 ○: モルモットのメーカにお墨付き貰えば、将来実績も伸びるし、
鈴木: もしかしたら、そのモチベーションが強かったかも知れない。少なくとも、その当時はそうだったですね。ソニーに採用がきまれば、そのまま評価なしに採用してもらえますと言われました。
 ○: 当時は、競合関係は非常に厳しかった。10社以上のメーカが一斉に、鼻の差でトランジスタテレビをやり、カラーテレビの開発にしのぎを削っていた。M電器もソニーの電子管開発部の組織図はメンテナンスしていて、“島田課長の下に誰が居るか”ってのは、ソニーの社内週報を克明に拾っていたから。ソニーを皆が見てたんですね。そういう意味では、社内はね、目標が明確でそれを実現させたいという思いがあるので、信頼性部隊がケチを付けるのではなくて、助けてくれると。我々も、“どうやって、設計者を助けるかって言う、思いでやれ”って、加藤さんからも盛んに言われましたね。“これは、我々のサポート活動です。設計の皆さんも、評価をするでしょう、我々も、評価をさせてもらう”という立場でいこう。まあ、そうやっていしましたけれどね。やはり沖さんを始め皆さんが、非常にオープンマインドでやってくださった。
鈴木: 結果論で見るとね、大変うまくいったね。
 ○: そうか、そうすると、やっぱり、ソニーが取り組んでいた領域というのは、日進月歩で、刻々と毎年、毎年、新機種を出していますよね。それに要求をメーカさんに出して、それによって部品メーカさんが育って、それのアプリケーション開発の役割をある意味では、
鈴木: おそらく、してきたんだと思う。
 ○: セットとして、まとめる立場から、半導体はこうあるべき、トランジスタは、ダイオードは、こう有るべき、ケミコンはこうあるべきと、次々に実験してやってきたんですね。
鈴木: おそらく、そうだと思いますよ。結果論として、
 ○: そういう雰囲気は分かっていたんでしょうね。今でこそ、ソフトの開発では、設計者自身が設計評価をやるアルファ・バージョンと、社内の専門家がやるベータ・バージョンと、顧客がやってくれるガンマ・バージョンという考え方が確立してきておりますが。
鈴木: セットメーカが新しいアプリケーションをどんどん進めていた時代だから、そういう意味では、何でも言うことを聞いてくれたんですね。
 ○: では、いよいよトリニトロンの話題に入るわけですけれど。
まあ、クロマトロンで苦しんで、いよいよ、井深さんが、辞めるかどうかという時に、トリニトロンの電子銃のアイデアが出て、それが、1967年ですよね。
鈴木: 67年に・・・
 ○: あ、ごめんなさい。66年の暮れに新しい電子銃のアイデアが出て、商品化できたのが68年10月ですから、2年近く掛かっている。この間ものすごく、苦しむのは、色選別機構のアパーチャグリルとそれを引っ張って支えるフレームの開発に1年近くかかるんです。
鈴木: そうですか。
 ○: トリニトロン電子銃の原理確認が出来たのが66年11月で、1年後の67年10月になって 初めてアパーチャグリル用のフレームが出来て、その形状に会ったガラスバルブの試作ができ、トリニトロンの本格的な試作の第1号が光ったのが67年の10月なんですね。
鈴木: はー、なるほど。
 ○: この時まで、ものすごく大変な苦労をしていた。
鈴木: ブラウン管サイドはしていた。
 ○: これはもう、1ダース以上の“死の谷”を潜り抜けて、ようやくここにたどり着いて、本格試作1号が光った。井深さんがそこに集まった連中に“皆さん、ありがとう。”と言って、涙を流されたという。
それでまあ、その直後11月になると、いきなりガタガタと組織が、変わるんですけれども、ソニーの中は、トリニトロンに集約されていくような感じで、いよいよ、ここでマイクロテレビのセットの開発をされていた沖さんのグループとクロマトロンのセットの開発を担当されていた金岡さんのグループが、統合されることになる。沖さんのグループの40数名の内、4分の3が第一開発部に入って来られて4課になる。やがて金岡さんのグループとドッキングする。
ここで、藤本さんの話しですと、18ヵ月パートを加藤さんと相談して、トリニトロンのテレビセットを開発する計画図表であるPERT、つまりスケジュールを作る。つまり、設計の活動を全部リストアップして、順序を決めて、時間を読んで、18ヵ月で開発し、設計をして生産を立上げ、販売するという計画を立てて、それを大西さんと加藤さんが井深さんに持っていったら、“ハサミを持ってきて半分にしろ”と言われた。18ヵ月だともう世の中、変わってしまっている。
西ドイツとイギリスのパルは本放送が始まるし、フランスとソ連もセカム方式を始めているし、日本や韓国はアメリカと同じNTSC方式ですが、テレビの受信世帯はその頃白黒テレビが2000万台の普及率です。もうカラー化が始まっているんで、カラーの普及率が1%を超えれば速いし、4%を超えれば、ソニーはカラーテレビの市場に参入できなくなる。間に合わないと言うことで半分にするって言うんで、年が明けて68年1月に、引越しをするんですね。
トの方針決定会議”っていうの沖さってですね、これを見ると、アンテナと電源仕様が決まってないけど、これでいこう、という役員会があって、その頃から最初のトリニトロンの第一号機となるKV−1310、これの鈴木さんが設計開発に関わられたモデルですね。18ヵ月を半分にするという、まだトリニトロンのブラウン管が、よれよれしながら、立ち上がっていく。第1開発1課がブラウン管の試作品を毎日5台とか10台とか、その内に使えるものがまだほとんど無い、使い込みにどんなご苦労があったか、その辺のところをお願いします。
鈴木: 非常に幸いなことに、偏向高圧回路は、白黒で相当きちっとベースが出来ていたんですね。だから、まあトリニトロンがゆえに放電が多いとかね、たしか高圧が19キロボルト位と電圧が高いから放電のストレスが大きいとか、言う問題はあったんだけれども、白黒で確立できた技術、ノーハウの延長戦上で、応対出来たと思う。そういう意味では、やることは、やらねばならぬことは、一杯あったけれど、高い壁は無かったような気がします。
が、トリニトロン故のユニークなシステム、これを使いこなす回路、技術、それに必要な部品の開発は、これは、非常に短時間の中でやらなければいけなかった。それは大変に苦労しましたね。
 ○: そうすると まあ、一番典型的なものは、トリニトロン独特の電子銃の構造にまつはるところでしょうか。
鈴木: 最初のKV−1310は、水平のコンバージェンスを合わせるために、アノド電圧より420v低い電圧をコンバージェンス電極に与えなければいけない。それも、量産可能な形で。これはどういう方法でやったらいいか。
 ○: そう、コンバージェンスという言葉が出ましたけれど、これはレッド・グリーン・ブルーのRGBの電子ビームを蛍光体上でぴったり重なるように調整する回路ですね。
 トリニトロンをやった時に、実は、はっきりしてないのは、単電子銃3ビーム方式のアイデアは、吉田さんが出した。これは、間違いない。これは、GEのポルタカラー・テレビを見て、衝撃を受けた。“これなら3本のビームが水平に並んでいるので、画面全体でRGBをコンバージェンスさせることは楽だ、従来は、水平ではなく、正三角形の各頂点に3本のビームを配列し、そのネックガラスの外から磁石を3本着けてそれらの位置や電流を調整して磁界に分布を与えて、その三角形のビームポジションを1点に絞るようなことをやっていた。それがえらい調整作業も大変だし、回路自身も大変で、設計者が苦労していた。それが、水平になれば、真ん中のグリーンのビームスポットに両側のレッドとブルーを水平に寄せるだけで済む。非常に楽だというんで、ショックは受けたんだけど、いかんせん、ポルタカラーは、ネックの中に三本の電子銃を横に並べているので電子銃が小さくで、画がうすぼんやりとして、暗い画面で、もう、電気を消して見ても、あれは、クロマトロンを見てたから、よけいそうでしょうね。
鈴木: そう、私もポルタカラーを見ましたが、暗くて、なんだこりゃと思いましたね(笑)
 ○: こんなの、商品じゃあない。しかし、その回路のシンプルさと言うので、ショックだったが、ではどうやって、電子銃のレンズを大きくするかというので、電子銃は一本にまとめて、大きいレンズにして、そこにRGB三本のビームを通過させてフォーカスさせれば良いと。その時に、ビームが電子銃の真ん中でクロスして広がっちゃうので、もう一回それを閉じなければいけない。
鈴木: 広がったやつをもう一度、蛍光面のところで一緒にするということをスタティックにやる。
 ○: 電子銃の一番画面に近い所に、電子プリズム(静電偏向電極)を、電子銃の頭に付けた。それを動かす回路、それが コンバージェンス回路。
鈴木: それが静的なコンバーニンス回路。
 ○: 静的なコンバーニンス回路。
鈴木: スタテック・コンバージェンス回路。
 ○: これは、トリニトロンならではのシィステム。
鈴木: シャドーマスクとは全く異なるシステムで、お手本がなかった。
 ○: 無かった。それを開発、
鈴木: 開発しなければいけない。技術的に一番簡単なのは、抵抗でアノード電圧を分圧してね、420V低い電圧をコンバージェンス電極に加えられれば いいんだけれど、その当時、そういう 高電圧に耐えられる抵抗素子は、入手出来なかった。
 ○: ほー。
鈴木: それでHCTというトランスを介して、パルス電圧を整流して420v電圧を作りました。高圧ブロックで作った高圧をコンバージェンス電極へ、それにHCTで作った420vを重畳してアノード電極へ供給、たしか積み上げたと思いましたけれどね。ステップダウンしたかな。ともかく、HCTを使わざるをえなかった。
 ○: とにかくそこで使えるような抵抗器が無かった。
鈴木: 無かったですね。あったにしても、KV-1310には開発していては間に合わなかったと思います。だから、トランスを使う方式を採用した。次のモデルでは、抵抗で分圧するという方法になりましたね。次の18インチのKV−1810では。
 ○: KV−1810では。これも、売れた機種ですよね。KV-1310では、つまりトランスを使って静的なコンバージェンスは、
鈴木: 画面のセンターでは、コンバージョンするようになった。
 ○: センターでは、
鈴木: きちんと合いました。
 ○: ただ、ビームを左右に振ると、
鈴木: コンバージェンス電極から画面までの距離が遠くなるので、ミスコンバージョンが発生して、ずれてきちゃいますね。それを補正する回路、これが水平ダイナミックコンバージェンス回路。これは、もう一つのHCTで、補正するような波形をコンバージェンス電極に重畳することによって、補正をかける。
これは、新しい原理で動くのだから他にお手本が無いし、商品として売れるように、量産可能なシステムの回路、部品を実現するのが、テーマですからね。今聞いて分かったのだけれど、井深さんが日程計画を半分にしたと言うことで、大変短い時間のなかでやったんですね。水平ダイナミックコンバージェンスシステムが最後まで回路集約が出来なくてね。全体回路集約会議の1時間前にようやく、目鼻がついた。最後まで、なかなか上手くいかなかったのはこの回路ですね。
 ○: 垂直の方は
鈴木: 垂直方向は、偏向する角度が水平に較べて狭いし、インライン並んだRGBのビームが上下するので、比較的容易に補正出来ます。偏向ヨークの磁界分布を工夫して垂直方向のミスコンバージェンスが出ないようにしましたね。それとは別に、ビームがこうなって捩れていると補正が必要になる。
 ○: ツイストする。
鈴木: ツイストしたり、あるいは こうビームが3本 左右に対象じゃあない場合。
 ○: 左右のバランスが取れていない。
鈴木: これはある程度ブラウン管製造のバラツキによって、発生しますので、これを補正する磁気回路を作る必要があったですね。
 ○: それは、電子銃をガラスに封じ込める精度であったり、電子銃を組み立てる時の精度であったり、電子銃の組み立ての精度は、京セラにガラスの組み立て部品を頼んで、京セラは、ものすごく素早くフィールドバックかけるという、すぐ対応してくれる。
鈴木: あ、ほんとですか。
 ○: そうゆうDNAを持ってたんですね。
鈴木: それはすごい。
 ○: やがて、彼等も、NC(コンピュータ制御加工マシン)を入れて、成形型の修正をもっとさらに早くするようになったのですが、それが京セラに稲盛さんが入る前からの、マイクロテレビの頃からでしたが、大越さんは、京セラが数人の時代から付き合いがあったので、大越さんの言うとおり、すぐ変えてくれるので、トリニトロンの試作が進むに連れて、精度は、上がってきたと思う。それでもやっぱり、電子銃の金属部品を沢山絶縁して組み立てる時は、絶縁セラミックを真っ赤に焼いて、そこに金属部品を食い込ませてから冷ますので、やっぱり精度は難しかったでしょうね。
鈴木: それは、知らなかったな。大量生産するためには、どうしてもブラウン管の製造バラツキもある程度許容出来るようなセットのまとめ方をしないと、ということで、最終的にどうなったかは、別にして、初期のモデルは、補正回路が相当入っていたと思います。
 ○: これ、村本さんが・・・
鈴木: 村本さんは、抵抗モジュールかなにか、回路モジュールもやっておられましたね。
 ○: コンバージェンス関係じゃあないか。
鈴木: おそらくさっきの、スタティックコンバージエンス用の分圧抵抗、それをセラミックの上に印刷して・・・
 ○: ブラウン管のなかに封じこんだ?
鈴木: 封じるという話しもあったけれども、私の知っている限りでは、中に入らなかった。最終的にどうなったのか、分かりませんけれどね。私の記憶の中では、高圧抵抗モジュールとして、最終的には水平スタティックコンバージェンス調整ボリュームも、セラミック基板上に付けてたモジュールを作り上げてくれましたね。
 ○: あー、
鈴木: ソニー電子でも製造してましたね。
 ○: ああ、そうですか
鈴木: HVRと言う部品名で、
 ○: 製造ライン立ち上げた時、大崎工場で、ある若い女の子のサブリーダーがね、ものすごく コンバージェンス調整で時間とるんですよ。それはね、トリニトロンはフォーカスが良いわけですよ。それでピシッと一点に合わせようとしているんですよ。10分も、20分もかかる。田中さんか誰かが後ろにきてね、もう良いよって言うんだだけれど、本人はビシッと合わないと気がすまない。人によって、ずいぶんバラツキがあったんだけれど、このくらいで良いかっていう子もいたけど、とにかくフォーカスがいい。
鈴木: ビームのフォーカスが良かったですからね。
 ○: そう、RGB三色がキチンと合うまで、インラインであれだけ、難しいんだから、デルタだったら・・・
鈴木: デルタだったら、大変でしたね。
 ○: ただでさえ、トリニトロン・ブラウン管は、パーツが多いので放電が起きやすいと、言われた記憶があるのですが、コンバージェンス回路まわりの放電問題というのは、どうでしたか。
鈴木:  KV−1310では、ネックに出ているコンバージェンス電極にアノード電圧に近い電圧を加える必要があったので、その絶縁には苦労しましたね。コンバージェンス電極のブラウン管内放電はあまり話題にならなかった。やはり、静電容量が大きいアノード電極からの放電によって、高圧発生トランスをドライブしているトランジスターの破壊、放電のサージが行きやすいビデオアウトのトランジスター破壊、サージが漏れて、どこか弱いとこがポンとやられる、そういう放電対策は大変でした。

 ○: そうですか、ブラウン管の放電対策に重要なT基板って言うのがありましたよね。ブラウン管のネックの電子銃の所に小さな回路基板がありましたが、あれは、コンバージェンスとは、関係が、
鈴木: 関係ありません。
 ○: コンバージェンスはむしろ、高圧ブロックとか、偏向ヨークとかと同じように、独立しています。
鈴木: T基板は、ブラウン管のアノード、コンバージェンス電極以外の電極に供給する電圧や信号を供給する回路です。
そこに、アノードから放電がバーンと落ちてきた時に、いかに、T基板以外に被害を及ぼさない様にするか
 ○: 信号系に・・・
鈴木: いかにT基板の中で、ブラウン管放電の影響を吸収するか。工夫がいっぱいあり、基板設計を間違うと大変なことが起きる。だから、放電管は、このT基板の中に配置するし、放電ループを考えた基板のパターン・レイアウトとか部品の配置とか、ノウハウの固まりでしたね。
 グラファイトコーテング、ブラウン管にカーボン塗ってアースを取っている。そのコーティングのアースを何処へ持っていくか、T基板の何処に持っていくかとかね。放電の影響を吸収する回路であるT基板と、それ以外の回路を分離するのは、重要な基本ですね。
 ○: これは、テレビで、ブラウン管という、なんていうか非常にパワーを食う、パワー系のエネルギーを最も消費するパーツがあって、そこに、パワーを供給するのは、電源から高圧、中圧系のフライバックなどのブロック回路があって、いわばそれは、筋肉とか骨格みたいなもので、そこに神経網で画像を作る為の信号系の回路がまた別にあるわけですね。その暴れものの「パワー回路とブラウン管」と、「信号系、いはば、神経網のようなもの、繊細なことをやる回路」と・・・、
板があった。重要な関所があったんですよね。
 ○: そこがその、放電と言う、雷が落ちるか、天災みたいなのが起きた時に、ここで食い止めて、神経網がやられないように、それで、全部食い止める。
鈴木: 全部は食い止めれない(笑)。やっぱり、漏れていっちゃう場合も有るので、神経網に保護素子を入れる場合もありました。
 ○: 神経網に及ぼす影響を最小限に抑える。
鈴木: まあ、T基板には大した部品点数は乗っていないんだけど、基板設計を間違えると大変なことになる。
 ○: それが、その12インチとか、17インチの大きな白黒テレビを、
鈴木: 通じて、まあ、こうやればいいんだなっていう基礎は、ノウハウとして、把握できていましたね。
 ○: その最初のトリニトロンの13インチの回路では、放電対策用の部品を幾つか開発して、回路図に乗っけなかったとか、隠したとか、いろんなパーツを開発したとか、その辺のバーツで鈴木さん関係されたことなど、

鈴木: 13インチのトリニトロン用として、特別にということでなくて、白黒の時に使っていた放電保護の為の放電管は、仕様変更はしたと思うんだけど、基本的には、同じものですね。加えて放電保護用にツェナーダイオードをどこかの回路に入れた可能性はありますね。放電管、ツェナーダイオード、バリスタそういうものを駆使して放電のショックを吸収するということをしました。
鈴木: こ岩間さんに言われたのかな、サービス部門や外部に出す回路図に放電管は、省いて出せ、と指示されたことを記憶してますね。
 ○: 関西の某社が、お店からテレビを早速買って調べたら、“サービスマニュアルの回路図には乗っていないけれど、実際に気になる、これ何だ”っていう話しを聞いたことがありました。当時は、各社が新製品をすぐ買いましたからね。サービスマニュアルは、系列店から手に入るし・・・
鈴木: そうですね。
 ○: そうすると、まあ、そういう、ノウハウ、部品のパターンとか部品とか、それでまあ、放電の問題は、岩間さんも、放電が問題だということ自体を、あまり早くコンペチターに教えるな、と考えた。
一方で回路設計する立場からすると 問題の現象を見つけること。現象の問題の構造をきちんと説明すること。その原因追求をやって、対策になる訳なんですけれど。放電という現象を見つけた、もしくは、その現象の性質をきちんと説明した、何回起こったとか、どのくらい大きいのかっていうことを、やっばり、技術をブレイクーするというか苦労されたというか、お有りじゃあなかったか。つまり、そういうことを やっておかないと、対策を取った後ね、もう一度、そういう現象確認して起こして、それが、どう減ったのかね。現象をきちんと説明しておかないと、対策の有効性の確認が出来ない。
その辺で、放電の問題というのは、待っていれば放電するわけでもないし、瞬間に起これば、瞬間に終りますよね。その辺は、技術の問題としては、非常に難しい問題。
鈴木: 難しい問題ですね、それでまあ、あの私個人としては、白黒時代に、ブラウン管の製造部門に派遣されました、ソニー電子へ。ブラウン管の製造部門で放電というものが、どういうふうに扱われているか。要するに、ブラウン管のエージング工程で高い電圧をかけ強制的に放電させるんですね。そのノッキングで電子銃のバリ取り等を行ってブラウン管を安定させる。実験で、ブラウン管に振動をかけると、バチバチ放電するとかね。製造の勉強に出されて、ゴミがはいったり、電極にバリがあったりするとこれだけ放電するんだな、ということを、勉強させてもらいました。後は、放電の時、どのくらいのショックがあるのか、残念ながら、まだ、簡単に計測する技術はなかったんだけれど、放電電流をコンデンサ蓄積させる方法で観察したら、だいたい、数百アンペアーの電流が非常に短い時間に起こる。それと、アードからどこかの電極に落ちた場合、それ以外の電極にも、誘起電圧が発生する。
 ○: 一個所でなくて、同時に、
鈴木: 同時に何個所にも影響があらわれる。従って、ブラウン管の全ての電極に対しての対応しなければいけない、ということで、その後の放電対策がとられましたね。
それと、ブラウン管は待っていても、放電しないので、シュミレーションできないかということで、アノードを、ある容量の高圧コンデンサでショートさせたり、デットショートでは、だめですからね。アノード電圧に充電したある容量の高圧コンデンサーをいろいろな電極につないで、実際の放電に近いような 疑似放電を起こさせたり。高圧リレーを使って疑似放電発生器を作って自動的に、バシャ、バシャ、バシャ。
 ○: ああ思い出した。
鈴木: 思い出したでしょう
 ○: 音を思い出した 朝から晩まで(笑)
鈴木: あれは誰が作ってくれたのか・・・、そういう放電のシュミレーション技術を確立していったのですね。
それから、ブラウン管サイドが色々の対策をやってくれましたね。ブラウン管の中をきれいにしたり、内装コーディングが削れてゴミが落ちないように、コーティング強度を増したり、電子銃電極のエッジのバリが無くなるように・・・
本当に効果あるのか確かめるために、放電カウンターが役に立った。これは誰が作ってくれたのかなー。
 ○: どういう仕組みのものなんですか。簡単に言うと
鈴木: 原理的には簡単になんだけど、確かコアを放電電流で磁化させる・・・。これはね、思い出せないな・・
 ○: いやこれ、私はね、鈴木さんが放電カウンター出来たって言ってね、自慢に来られたのを記憶してますよ。なにかコアにコイル巻いて・・・
鈴木: そうなんだよね。誰がやったか覚えていないな、放電が何処で起きたかを記録させて
 ○: コイルの中のコアに磁気記憶させる。
鈴木: ブラウン管が放電対策した結果の評価を、定量的に、良くなったか、エージングで確認する時に立ち会って見ている必要がなくなりました。ただね、放電カウンターは自分でそれに関与したという、記憶がないんだなー。こういうものが出来てありがたいなと思ったけれど。
 ブラウン管側もいろいろ努力してくれましたね。
 ○: カーボン量を減らして水ガラスを増やして密着強度をあげたんですよ。
鈴木: 放電のストレスが小さくなるように、とかね、色々工夫はしてくれましたね。
ブラウン管の中のゴミを減らすように、ブラウン管の最後の組み立て工程で、電子銃をガラスで封じ込める前に振動かけて、
鈴木: あ、そうでしたね。
 ○: その振動機をブラウン管の製造工程に組み込む前に、私はそのバイブレーターの、 市販の按摩器を買ってね、ブラウン管のネックを下にしてバイブレーターでゴミ集めて写真に撮って、大崎の電子管事業部に回覧したんですよ。そしたら、振動でね ゴミ落とし機がラインに入ったんですよ(笑)。
鈴木: ああ本当、そりゃあいい。そのような地味な技術っていうのも非常に重要だよね。
 ○: 鈴木さんがね、“問題だあ”といわれる、“問題発生だ”とかね、そう言われた時に、なんていうか、ブラウン管屋とか半導体屋とかは、異常現象を見つけると、ものすごく喜ぶ。今まで無いこと“これは俺が見つけたんだぞって宣言する。それは江崎さんの時代からですかね。ビジコンの撮像管をつくって居た時にね、ビジコン管のガラスの側面が光ってね、薄くね、長いネオンのようなものが光ったんですよ。佐藤さんがね、“これは俺が発見したぞ。みんな、俺だからな”(笑)。
鈴木: なるほど、それは物理屋さんケミカル屋さんの立場としては分かるな。
 ○: そういう文化がある。鈴木さんの場合は、大きな声で、“問題だあ”って言うでしょう。小川君もそうゆう鈴木さんの直ぐ後から出てきてね、ニコニコして付いてくる。
鈴木: 小川君、彼は明るい男だったね。
 ○: 絶対に解決できるし、これ集中して皆で行けるって訳でしょうけど。あの言葉って、どういうニュアンスですかね。“問題だあ”っていって“どうする”とドスを利かせる感じじゃあないよね。鈴木さんが“問題だあ”といった時の、明るさというか。
鈴木: 僕は白黒時代を通じて、何度も厳しい状況に直面し、克服せざるを得ない経験をして、幸いに、どんな問題にも「解」がある、逃げなければ、苦労するけれど「解はある」という経験を積み重ねてきたので、問題、“うん、問題は問題だけと、必ず解決できる”。そういう気持ちはありましたね。
 ○: 解決して見せる、丁度いい仕事が降ってきたよと。
鈴木: そうかもしれない。
 ○: 鈴木さんが大きな声で向こうの方からね、“問題だあ”と言ってくると“オー”と思ってね。これ、解決するぞ。という宣言ですかね。
鈴木: そうかもしれない。
 ○: 解決して見せるぞという、雄たけび。
鈴木: それもあるかもしれないね。私は楽天家かな・・・
 ○: いやいや、根が明るいんですよ。まあ、そういう放電も、色々あったんだけれど、白黒時代から半導体の方も頑張るし、ブラウン管も頑張るし、それをきちんと回路として取りまとめていく。トランジスタも、非常に個性があって、調べてみたら、一本づつ全部周波数による増幅特性も違うものを、全部回路で吸収していくわけですよね。そして回路を開発してテレビセットを開発してゆくわけですね。
鈴木: 開発しながら、回路だけでは解決できない領域というのがある時は、デバイスに対して要求をしていく。
 ○: 半導体。
鈴木: 特に、半導体はそうですね。ブラウン管も、仙台のコアに対する要請もですね。
 ○: 普通考えるとですね。学生にこういうマイクロテレビやトリニトロンのケースを研究させると、“なんで、難しいことを3つも、4つも同時にやるんですか”。つまり、マイクロテレビの時も そうですけれど8インチのトランジスタテレビの時というのは、普通の真空管のブラウン管だったから駄目だった。ダメだったからといって、何もブラウン管用のガラスの成形まで頑張らなくても良かったんじゃないか。ソニーという小さな会社が一社だけで何もかもやらなくても良い。ブラウン管の開発だけでも大変なのに、半導体も、シリコンを結晶化して引き上げるのも大変なのに、回路も大変なのに。さらにそもそもこんな小さなテレビ売れるか。どれも大変なのになんで、一遍にやったんですか、というようなことを、質問されますね。普通だったら、まず、ブラウン管開発して、それをまず部品として売って、安定したら、トランジスタ開発して、それを売って。
鈴木: まさに、お互いに開発しながらやってきたね、ソニーは。
 ○: そうなんですね。
鈴木: お互いに開発しながら。
 ○: お互いに競争し合うように開発しながら、同時に
鈴木: 結果的には、ブラウン管も、半導体、仙台のコアも、みんなそうなんだね。
 ○: 順序があって、これが終ったら、この仕事と。
鈴木: いやー、ちがう、ちがう。
 ○: スビートが全然違う。
鈴木: 全然違うでしょうね。
 ○: だから、そういう意味からすると、ゲルマのトランジスタを中心になって開発した塚本さんにしても、シリコンのトランジスタを中心になって開発した川名さんにしても、原子物理の細かい研究をすることでなくて、アプリケーションに志向して、こういうものを作ればいい、っていうんで、トランジスタを作った。つまり、トランジスタ作ってラジオ鳴らしたり、テレビ映したいから、それに役立つトランジスタを作る為に、どこかで役に立つヒントを与えてくれそうな論文がでたら、すぐ、そのアイデアを自分達で実現しちゃうんですね。物理的にその部品の構造と、その構造を実現する製造プロセスとして実現してしまう。それによって、テレビが映る。その方が結局スビートが早いね。最近になって、ターゲット・ドリブン型の研究開発が大事だとは言われるようになりましたが、では、どうすれば良いかと言われると、実はその方法論が、まだ確立してないですね。方法論がないけれども、ここには、その雛形があると思うんですがね。
鈴木: あると思うな。
 ○: その為には、お互いに手を差し伸べあって、全体を理解しあって、一つの目標に向かってやる。いま、この瞬間に進化をさせるという信念を共有しているんじゃないですかね。
鈴木: 共有されていたんだね。それは、結果論から見るとすごい。我々を取り巻いているメーカさんも開発を伴った活動をね、一緒にやってきてくれた。それはなぜでしょうか。
 ○: その時に回路として、取り纏めや、編集者。
鈴木: 纏め屋であり編集者だね。たしかに。
 ○: 一つのアイデアではこんなことならない。
鈴木: ならない。
 ○: いっぱいアイディアが重なって、努力がうまくかみ合って、編み上げられないと出来ない。
鈴木: それは実現出来ないね。
 ○: 吉田さんは、それで、“一人では出来ないものをプロジェクトというんだ”と。“人間は、一人では、ほとんどのことを成し得ない。何人かの人が協力しなくてはいけない。企業も同じ、幾つかの企業が協力しない限りは、一つもできない”。その時に、回路というものは、さっき言ったように、鈴木さんは、回路屋としては、電源回路から、中電圧・高電圧回路と偏向回路などのパワー系を担当された。
鈴木: そう、主にパワー系。
 ○: パワー系は、人間の体で言うと、いわば骨格や筋肉等の設計に当たる物で、全体構想設計ですね。パワーが十分で、その各部署への電圧、電流が充分供給できているかという、いわばアーキテクチャのデザインということ。そのパワーの一番の消費者であるブラウン管というものをうまく働かせる。それで、一方、画を作るために信号を司るブロックもあり、そっちのトランジスタは、いわば神経網を司さどっている。非常にひ弱で、そこを分離してあげないと、いけない。ブラウン管周りと映像系周りのトランジスタは、直接会話し難いから、そのインターフェースとして、T-基板みたいなものを開発し、エネルギー伝達網と神経網を分離して、全体のアーキテクチャを取りまとめて行く時に、ブラウン管のあり方、トランジスタのあり方、その間のコアなり・・・ 
鈴木: いろんな部品をね。そういう意味じゃあ、何て言うかなー。お互いの、その時の技術レベルで、量産可能な開発課題を、お互いにガチャガチャ対話しながら・・・。
 ○: 擦り合わせていく。
鈴木: 擦り合わせて、今はここかな、この時期はね。
 ○: 今は、ここかな、と。
鈴木: 次はまだあるよ。
 ○: ああ。
鈴木: 次はまだあるよと、次々に、そういうターゲットが、幸いなことに、白黒の時も、どんどんブラウン管のサイズが、大きくなる。トリニトロンの時もそうですね。どんどん大きくなる、より広角になる。デバイス屋でも回路屋でも新しい可能性に挑戦したいのは技術屋の本能ですしね。だから、次があるっていうのを、皆な意識しながら、やってましたね、次がある。
 ○: 次がある。
鈴木: 各々の担当領域で、次のテーマとか技術的な方向性・可能性がある程度見えていた。だから、おのおのの専門家集団は、次も考えながら、一生懸命、やってくれてたんだと思う。トリニトロンが、ガンガン引っ張った。ある意味ではね。白黒の時代もそうだったけれど、引っ張ったことに対して専門家集団がキチキチと付いてきてくれたという感じはあるね。
 ○: 組織がうまくいっている時は必ずですね、専門家集団がいることが絶対必要ですが、それから組織を編成し、引っ張っていく集団がいることが大事で、そのバランスが大事なんですね。それから、だんだん組織が年を取ってくると官僚制が出てきて、専門家集団が冷却期に入る。引っ張り役の力が衰えてくるんですね。年齢とか制限条件とか手続き志向になり、目的志向が少なくなる。スビートが衰えてくる。組織がどんどん衰えて、進歩しなくなる、状況の進展もしなくなると、だんだん老化現象に入っちゃう。先ほども言われたように、白黒のマイクロテレビの時に次から次へと新しい大きなサイズが出てくる。トリニトロンの時にも、13インチから入って、18インチ、16インチ 次々と。それが見えていた。ガンガン引っ張った。
鈴木: あー、結果論から言うと商品化という旗印でガンガン引っ張ってという感じがするね。正直言って、良くついてきてくれたなー、ありがたいなー、という気持ちですね。
 ○: 言ってみれば、大工の棟梁っていうね。あれは、全体の躯体、全体構想を明確にすることですね。あとは、屋根屋さんとか、鳶職が基礎や土台を作るとかね、左官が壁をつくるとかね。だから、そのパワー系、筋肉骨格系のアークテクチャアーがまとめ役で、その全体の躯体というか、システムの中に位置づけて、信号系はここに置いて、ブラウン管駆動周りはここ、その絶縁系はここと、全体の配置を決めて、棟梁は全体の差配をする。引っ張り役ですよね。それが、左官が左官の領域を越えて口を出したり、古い組織になると専門職が皆なそこの通行手形を要求したり、鑑札を要求するようになって、専門の立場から、それはだめだとか、調整に対してストップを掛けたりするようになる。そういう意味では、ガンガン引っ張ったということと、付いてきてくれた専門集団が居た。
鈴木: その引っ張り方としてね、なんていうのかな、俺はこうやるから付いてこい、というような、引っ張り方でなくてね。なんて言ったらいいのかな、ようするに、お互いざっくばらんに、情報を共有する、あるいは、ターゲットを共有することによって、専門集団が、“俺がやらなきゃあいけないものは、こういうことだな”ということを、、厚木とか、ブラウン管とか、専門技術集団も、あるいは、優秀な部品メーカーも、自らそうやって、自分達で、ガンガンやってたと思うんですね。そういう環境が出来ていたような気がしますね。
 ○: 井深さんがね、このプロジェクトが終わったときに、“説得工学が必要だ”と言われたんですね。“非常に苦労した”と。あれだけのカリスマ性と、ポジションは社長で、説得力のある人が、そこで“本当に疲れたと”言われたくらいだったようですから、本当に大変だったんでしょうね。彼はトリニトロンのためにプロジェクトのマネジメント法を開発すると宣言して始まった訳ですから、その中で、一つの結論に達しているんですよ。それは、“目標はクリアーであること。そしてそれは一つであること”ということがありましてね。そして、後にそれをアメリカのNASAの長官のウエッブさんを訪ねて、“アポロ11号はなぜ成功したか”という議論をして、意見が一致していたんですね。新幹線の島さんとも、プロジェクトマネジメントで意見を交換しているんですね。それは、“目標は一つで、目的は複数だ”。“目的は複数で、変化させるんだ。参加してもらえる人の都合に合わせて変えるんだ”目標は変えちゃあいかん“と。今のアメリカのプロジェクトマネージメントの標準テキストだと、目標群があって、目的群があってと。
だからその、いま専門家集団が全体認識と情報を共有しあって、ターゲットを共有しあって、とおっしゃったけれど、そのことは井深さんが、カラーテレビを開発して、クロマトロンをやる時に、“家族みんなが夕食の食事しながら、見ることが出来るような明るいテレビ作ろう”、という明確な目標を設定されました。その短いセンテンスの中に、“誰が、どんな場面で、どんな内容を、どんなふうに、楽しむか”というクリアーなメッセージが全部入っている。
鈴木: 全部入っている。
 ○: ただ、これは、最後に 明るいってことに、こだわりすぎて、クロマトロンに行っちゃったんだけれど、(笑い)。一回は。だから、非常に明確で、アポロ11号が、“人類で初めて月面に降り立つ”という非常にクリアーな目標。それと、“東京と大阪を4時間で結ぶ超特急電車”といったら、非常に明確に4時間と。6時間じゃあだめだし、10時間じゃあだめだ 非常に明確ですよ。
鈴木: 非常に明確だね。
 ○: それで、アポロの時も、ドイツのナチのときにロケットを開発していたブラウン博士も、ロケットを飛ばしたいために、プロジェクトに入ってくる。多くの人に協力して頂く仕掛けであって、そうゆう目的群は沢山ある、そして目標をただ1つ共有する。ただ、一点クリアーに 明確にするというのはね、そういうマネジメントの仕事を、井深さん研究されていた。
鈴木: なるほどね。
 ○: それで今、鈴木さんと話して気が付いたのは、皆は、その先まで分かっていた。方向を。次に何処へいくかという。
鈴木: それを僕は、優秀な専門集団が、我々のニーズを聞きながら、自らの将来をある程度見ながら走れていたと思うね。そうであったからこそ、厚木の半導体もあんな早いスピードでパワートランジスターの開発を、次から次に出してきた。すごいことですよ。
 ○: ようやく、あれでトランジスタとゆうものが使えるようになって、大量生産出来るようになって、安く作れるようになって、役に立つものがね、トランジスタが本物になって、世界の最先端を切り開いていったんですね。
鈴木: そうだと思いますよ。素晴らしい人たちが大勢いた。僕は、やっばり、その人達が力を発揮できるような・・・
 ○: やっぱり、こう混ぜ合わせなんですね。刺激の仕あいでしたね。
鈴木: 刺激の仕あいですね。
 ○: それと、井深さんが、もう一つ仕込んだことがあった。外部と接触させる。だからね、彼は、説得するために、新聞発表しちゃう。トリニトロンの時もそうでした。マイクロテレビを仕上げる為に、天皇陛下を呼んでお見せしちゃう。見せちゃう。音楽家呼んじゃう。皆な尊敬されるような方を呼んで、売り込むんだよね。外部にね。それで、開発プログラムのPERT図の一番上の活動計画に、外部との接触活動が、時期を決めて織り込まれる。埋め込まれる。(笑い)それでね、外部と内部も同期を取るために、そうゆうマイルストーンがね、イベントとして埋め込まれる。
鈴木: それは、明確だね。
 ○: 明確なんです。戦略として。
鈴木: 皆 “えー?”、と言うけれど、 “あっ、そうか”と思ってさ、“しょうがない”とね。
 ○: “そうか、そんなに期待されているのか”、とかね。
鈴木: それは、“お前これやれ”じゃあないんだね。
 ○: そう
鈴木: 自ら分かるっていうのかな、おそらくね。
 ○: 納得して、自らを動かしているんですね。力ではなく。
鈴木: おそらくそうでしょうね。
 ○: この他にもいろいろあり、それを整理するのもこのインタビューの目的のひとつなんですが、さて、鈴木さんにお聴きしたいことが、まだまだいろいろあるんですけど。
いよいよ、もう一つの流れで、ETチューナの関係ですね。そこで、その流れの話しをお聞きしたいのですけれど。やっぱり、大崎のトリニトロンの成功をしてまもなくのことですね。トリニトロンの18型のKV-1821みたいな機種が出来ると、ガンガン売れて、お金がガンガン貯まっちゃう。さて、どうしようかってなことも、あるんですけれど、井深さんが引退されて後、ソニーの中で、大崎のテレビ事業部が、ソニーの中で初めて中期経営計画を作って、盛田さんに叱られた。「大崎にコンピュータを入れる」と言ったら、盛田さんにえらく怒られて、“大崎は反乱する気か”って、吉田さんと加藤さんがしょんぼり帰ってきて間もなくでした。あれは盛田さんのスタッフをやっていた安藤さんが丁度アメリカから返ってきて、その時大崎にいて、“中期計画をやろう”って言い出して、中期計画を立てるんですね。ソニーで初めての事業部長になった吉田さんは、大変張り切っておられた。さっきおっしゃったのはね。幾らでしたっけ。
鈴木: 売上、最初100億って言ってたよ。それはまだ、トリニトロンを発売する前ね。
 ○: トリニトロンで100億。
鈴木: トリニトロンを成功させて100億売り上げたら、この部屋を奇麗にしようねと。
 ○: 偉い人が大崎に見えた時のためのVIPルーム。
鈴木: そうVIPルーム、大崎の。ここ、もうちょっと奇麗にしよう。赤いジュウタン敷いて、あそこで言われたのを覚えている。
 ○: 大崎工場のVIPルームを。100億まで売ったら。
鈴木: そう、まだ覚えているね。その時はまるで夢の様な話だったけれど。直ぐに売り上げが何百億にもなったね。
 ○: ちょっと話がトリニトロンの開発のときに戻るんですが、トリニトロンのブラウン管開発に、ブラウン管の金型って、10億円位も掛かるんですね。旭硝子に断られる。岩間さんが“旭硝子に断られたよ”ってあっけらかんと吉田さんに言われる。その途端に、ある意味では、幾ら井深さんが肩入れをしているプロジェクトでも、トリニトロンの開発は中止ですね。とにかく当時は、ブラウン管用のガラスバルブを成形する会社は、一社しかない。ソニーは、「芝田ソニー」って名前のジョイントベンチャーをやっていたので、小さな10インチくらいなら、なんとか出来るかもしれないが、13インチはなかなか難しい。旭硝子としては、300億ちょっとの売上の会社が、新しいことをやって、そこに10億も投資するにはリスクが大き過ぎる。ソニー以外の10社以上の日本の全ての電気メーカは共通の金型が使えるシャドウマスク方式のカラーテレビを開発しており、政府もそれに肩入れしているのに、わざわざリスクを侵すことはない。しかし、ちょうど、そのころNECが滋賀県大津に工場、ガラス工場を作っていて、どうしても、ブラウン管に参入したいと思っていた。しかし、元旭硝子に居た人の話によると、旭には絶対に阻止するという考えがあったようですね。ところが、吉田さんが日本電子硝子の社長の長崎さんを知っていて、それで、お願いし、作って頂く、ということになるんですけれど。ソニーがいくらでも金があれば別だけれど、そのくらいの規模の会社でしたね。
それでまあ、話が戻るんですが、大崎にコンピュータを入れるというのを怒られて、中期計画を作る。後に社長になった安藤さんが“吉田さん、アメリカや他の会社は中期計画をやっています、大崎もやりましょう”ということで、またこれが、盛田さんから怒られるんですね。“大崎は、反乱を起こす気か。中期計画というのは本社が指示してやるべきことだ”。ということで、本社からの指示で、中期計画を全社始めることになったんです。
鈴木: はー、なるほど。
 ○: その時、鈴木さんが、3年間のインチサイズ別のテレビの製品ラインアップ計画を模造紙に書いたんです。
鈴木: あれが、テレビで初めての中期計画。
 ○: 最初の中期計画は、吉田さんが事業部長のとき始めたんですが、あの時は、トリニトロンの成功で、井深さんが会長に退かれ、次はいよいよ、ベータマックスということで、それを吉田さんを中心にした大崎がバックアップすることになって、その商品化が完了していた頃でもあったんです。しかし吉田さんは、本社の専務に移られ、その後アイワの再建に行かれ、盛田正明さんが、吉田さんの後を継がれ、テレビビデオ事業本部長になられ、テレビ事業部は、沖さんがサポートされる形になっていて、大賀さんがCBSから本社に戻られた頃です。実は、その前の中期計画では、吉田さんは、テレビで1000億円、ベータで1000億円を狙って居られました。テレビ事業部としては、中期計画は初めてではなかったんですが、まず技術展開をまとめ、それに基づく製品展開と、生産展開、売上・利益計画を、市場別に、インチサイズ戦略を基本に全体の整合性を取ってまとめたのは、初めてだったと思います。
鈴木: ああ、そうですか。
 ○: それで、その時。
鈴木: それは、何年。
 ○: それが、“ジェットセンサー”がそれで生まれた年ですから、えーと、
鈴木: 加藤さんが上司だった時代かな。いろんなことやっていて記憶が整理できていないので、少し混乱するけど。
 ○:74年が英国のブリッジエンド工場稼動開始、75年に27型発売、76年が32、ジェットセンサーにリモコンを組み合わせたKV2070発売とかね。
鈴木: これが出た年。
 ○: この前の年ですね。この中期計画は、75年頃ですね。75年というと誰ですか。
鈴木: 技術部長は、塩田さん。
 ○: 加藤善朗(かとお よしろお)さんは、テレビ事業部の技術部長から、本社のコンピュータ部長として行かれ、その後の塩田多喜蔵(しおだ たきぞう)さんが技術部長だったんですね。そこで、技術企画会議とか商品企画会議を毎週やっていて、鈴木さんが、この時の中期計画の16、18 22インチの商品ラインアップの中に、ロータリー式の丸くてぐるぐる回すメカ式チューナではなく、電子式のダイレクト選局型のETチューナの機種を三機種だけ導入すると計画した。そうしたら、中期計画審議会で、副社長の大賀さんに叱られて、“そうゆうシリーズもんじゃあ、駄目だ、やるなら全機種だと”。ところが、これが当時で価格にしてリモコンをつけると、2.5万円以上高くなるんですね。それではソニー商事は、絶対に売れないと反対するし、折角作りかけてきたなけ無しの系列店は壊滅する。それで仕方なく、三機種を一機種はずして、16インチだったか、18インチを外したのかな。
鈴木: 18インチを外したかな。
 ○: とにかく2機種だけETチューナにして、シリーズではなく、「ジェットセンサー」という2機種だけのネーミングで、電車の中吊りでやったら、結果としては、これが飛ぶように売れた。爆発的に売れてですね、在庫が足りない。それが76年。それで、大賀さんはよほど悔しかったんでしょうね。
ただ、その中期計画審議会の時に、値崩れしている13インチの市場で、どうしようかって、その目玉が無くて、アイデアが何も無くて、鈴木さんが、「美しい若者向けのテレビ」って書いてその枠をごまかしていた。大賀さんが「それはなんだ」って、鈴木さんが、「デザインが良くて若者が欲しがるようなテレビです」って言ったら。
鈴木: 良く覚えているね。
 ○: 大賀さんが、「うーっ」って言ってね。その前にETチューナの話が出ていたので、後になって、「では、13インチで10万円を切って出せ」と言うことになった。そして大賀さんがデザイン室で、デザインコンペをやって、10数台のモックアップモデルを作って、結局大矢さんのデザインが残った。
鈴木: 大矢君ね。
 ○: それで、13インチで、
鈴木: 10万円切る。
 ○: それで、塩田さんが困った。10万円どうやって切るか。沖さんが土曜日に技術屋を招集して1日中カンズメにして会議を開いて、「何故、13インチでETチューナをやらねばならぬのかを考えよう」と議論をさせた。それが、模造紙で書いた時のラインアップがそれで、その結果プラスチックの筐体に入った“サイテーション”が誕生した。結局それがきっかけで、その後日本のテレビだけでなく、オーデオ・ビジュアル器機は、全てプラスチックの筐体となるのですが、その切っ掛けとなった、ETチューナそのへんの流れを。どんなご苦労があったか。
鈴木: 私自身の苦労より、ETチューナは、宇都宮さんがメカチューナからの流れで担当されて、ソーワで作っていたのかな、これが、ものすごく、歩留まりが悪く作るのに難航してたですね。
 ○: ソーワ株式会社ですか。
鈴木: 確かソーワで作っていた。これをセットに本当に大量に使えるのかなー。という状態だった。何かのモデルを契機に、大量生産することになり、宇都宮さんにお願いしたり、私も生産現場に行ったりしたことを覚えている。それが、どのモデルか思い出せない。要するにETチューナを仕上げ、量産するというのが一つありましたね。それから、厚木が、ETチューナに対するニーズを的確に捉えて1977年に、非常に優秀なバリキャップを量産化してくれる。これね、ソニーのヒストリーで見たんだけれど、バリキアップの量産が始まったのは77年と書いてあったね。
 ○: ジェットセンサーの次の年ですよね。
鈴木: 次の年だね。やっぱり、そういうのがキッカケになるんだね。それから、厚木はETチューナ・選局システム・リモコンを導入するために、非常に重要なMOS、不揮発性メモリーも、良いものを作ってくれた。
それともう一つは、それからガリューム砒素トランジスタ、これは高周波特性の良い低雑音トランジスタ。これは、記録を色々探してみたんだけど、見つからない。すごく良いガリューム砒素トランジスタができた、と言う記憶があります。やはり、このジェットセンサーの モデルを苦労して建ち上げる過程で、おそらく、宇都宮さんがETチューナの設計、製造技術を確立したんじゃあないかなー。大分後の話だけど、宇都宮さんからチューナを引き継いだ熊本課長の時代に、ソニーは年間400万個を超える生産を達成し日本一のETチューナメーカになったことを覚えていますよ。そういう過程で、厚木がチューナ用の素晴らしい素子を開発してくれたという大きな流れがあったと思いますね。
 ○: そうです、それに厚木は、キャド(CAD)を使いました。このころの大崎のキャドは、かなり進んでいて、電気CADは、嵯峨根さんが開発したCADで、ベータマックス用のLSIの回路集約が完成していたんですよ。ソニーでは、芝浦工場と大崎工場が組んでやっていて、その頃日本では、世界を相手に、慶應、東大、日電、ソニーも中研等が組んで、“最小幾何学的自由度”という概念で、回路ネットワークを圧縮して計算する方式でやっていた。厚木は中立だった。大崎では、嵯峨根さんが、“スパースマトリックス法”で地道に、0を飛ばして0以外を拾って計算する方法で、唯一成功して成果を出していた。それが出来ていたので、ベーターマックスは、回路設計の集約も終わっていたのですが、当時は、吉田さんの考えで、LSIは他社には売らないという方針だった。ただ、ソニーの厚木工場は、中研とも、大崎−芝浦工場とも独立で、LSIのパターン設計や素子の選別法などに特化して行ったんです。
鈴木: なるほどね。
 ○: その頃は、厚木は、バリキャップのリアルタイムの測定をテラダインの測定器を使ってデータを取り、周波数毎の多次元データを組み合わせて、あれ何かペアーにしてお互いに合う形にして、やるんですね。
鈴木: そう、そう。1個のETチューナに使うバリキャップは、特性の合ったものを使う必要がある。チューナの中に、発振、同調回路は、何個所もあるんです。バリキャップに与える電圧で共振周波数をコントロールするので、バリキャップの特性が異なると、ETチューナとして必要な特性が出ない。だから、その同じような特性のものをペアで使う。
 ○: ペアで2個使う。
鈴木: 数個使う、具体的な個数は覚えていない。
 ○: 組み合わせで使うんですか。
鈴木: 組み合わせで使う。それはチューナの性能にとって非常に重要ですよ。
 ○: それで何点か特定するんで、多次元データの分類問題になるんですね。相関のある多次元データの問題は、ベータマックスのファインパタンのLSIの設計のとき、CADでバラツキを調べるシミュレーションの問題でもあったんですよ。それで、ソニーの中では、大崎と厚木は割合親しかった。試作のLSIのトランジスタのパラメータのデータは、厚木からもらわなくてはならない。当時、大崎工場では、ブラウン管の画面データを何点かを製造工程でリアルタイムで測定し、それを、日本でも初めてだった構外型の非同期LANで結んで、本社の大型計算機で解析するシステムを開発して使っていたんですよ。 
鈴木: 思い出した、思い出した。
 ○: それのバリキャップの半導体の分類を製造ラインに入れたんですかね。その為に、歩留まりが大幅に上がって、コストが下がった。
鈴木: ああ、そうだよね、だからこの時期は、ちょうど、1977年ジェットセンサーのモデルをやろうという、よい切っ掛けだったんですね。
 ○: たぶんね、ソニーは、カラーテレビとして日本メーカの中でドイツに入ったのが一番早かった。ソニーは、独自のトリニトロンをやっていたので、世界で最も多いカラーテレビの放送規格だったPALシステムの特許をクリアーできて、最初に、ヨーロッパに参入できていた。そして、ドイツは、ETチューナが市場に出始めていて、デザインも、良かった。だから、ETチューナのラインアップは、ソニーが一番ニーズが強かったわけです。
鈴木: そういう意味では、世界で一番早いマーケットを知るチャンスがあった。
 ○: ああ、なるほど、市場と会話して、
鈴木: 会話してかな、それは非常に我々にとって、良いモチベーションですね。そういうものを眺めながら、ある程度我々なりに、日本の中にいただけでは分からない流れが見えますからね。そういう流れに乗る意味でラインアップを組んだっていうか、企画した。
 ○: 流れが見えた。そうか、そういう意味ではね、ドイツのETチューナを使ったテレビを見た時には、皆なショックをうけた。
鈴木: ショックを受けたね。赤外線リモコンもヨーロッパが早かった。
 ○: 世界で一番進んだマーケットに出していたから、世界の流れが分かった。これからの流れが分かった。
鈴木: まあ、当時は、ヨーロッパでで、あんなすごいもの出している。俺達も負けないという そんな気持が関係者にはあったと思うね。
 ○: ところが、ソニーは半導体持っている。キャドは進んでいるし・・・
鈴木: チューナも自分で作っている。
 ○: チューナも自分で作っている。ソーワは自分の系列ですよね、
鈴木: 自前でそういうものは出来る。
 ○: 全部自前で出来る。 
鈴木: 自社で出来る。
○: そうか、それで、そのジェットセンサーからサイテーションに行って、サイテーションは、ある意味では、従来のテレビを覆すようなプラステックのキャビに入っていた。それまでは、木目調のベニアの木の箱に入った、家具、アメリカではブラウングッズといって居りましたが、家具だったんですね。それが、そのサイテーションを機に初めて脱皮する。
鈴木: 脱皮しましたね。
 ○: 全く新しい。
鈴木: 大賀さんは大したものだ。
 ○: 大したものですね。新しい流れを作った。その流れを決定的にしたのは、この後のプロフィール、そして今のオーデオ・ビジュアルの製品は、全て黒い色が基調のプラステックのキャビに収まった製品になった。
鈴木: そうゆう意味では、1つの変局点だったんですね。
 ○: さらに、ETチューナになると、変化がでてくる。
鈴木: リモコンがやりやすくなるし、デザインの自由度も増える、それで、商品としての魅力も付けれられる。思い出したんだけれども、何んとかセットをリモコン化したいという開発意欲は、メカニカル・チューナの時代からあった。
 ○: メカニカルチューナにモーターをつけた。
鈴木: そう、プランジャーをつけてね。
 ○: プランジャー?、モーターじゃあなくて。
鈴木: そう、プランジャー。こう引っ張る、ガチャン、ガチャン、ガチャンと回すような。ブランジャーで引っ張るようなモデル。インターネットで検索し調べたら1975年頃のモデルで、大分出していましたね。あれは、開発の岡田さんにやって頂いたのかな。
 ○: 第一開発部の岡田さん
鈴木: 岡田久男(おかだ ひさお)さん。電源のオン・オフと、チャンネルを順送りでね。ガチャン、ガチャンと、こうブランシャーで引っ張って、チャンネルを変えていく。このような、リモコンを出したんです。ETチューナが、出来ると、そんなガチャン、ガチャンはいらなくなり、電子的に選局ができる。その頃に、ワンチップマイコンが出てきて、それが、使えないかなー、ということで、選局システムや画面表示に使った記憶がある。そうすると、そのロム(ROM)を変えると、機種対応とか設計変更対応がソフトで簡単に機能を変えられる。たまたまね、佐々木君という、マイコン大好きな若い人がいたんで、「おい、やってみないか」ということで、彼が最初のモデルをやってくれた記憶があるね。
 ○: 何年頃でしょうか。
鈴木: 何年頃かなー。これはやっぱり、ゼットセンサー?。ちょっと待ってね。あの、最初にETチューナを使ったリモコン付きモデルが出たのは何時だったかね。
 ○: ETチューナのですか? 
鈴木: あ、ジェットセンサーだ
 ○: ジェットセンサーは76年でした。
鈴木: 具体的なモデル名は思い出さないな。ワンチップ・マイコンを使うと、設計が、今の言葉でいうとソフト的に出来る。
 ○: 柔軟性が出てくる。
鈴木: 柔軟性が出てくる。ということを初めて経験した。というか、こういう流れになるのかなー、という。
 ○: ソフトだけ変えれば機能が変わる。
鈴木: 機能が変えられる。
 ○: すると、仕向け地向けの別な商品が回路や物理的なものを変更せず、ソフトを書き換えるだけで、簡単に変えられる。
鈴木: 変えられる。
 ○: その時にソフトのROMというのは、EP-ROMを使われたという話しですか。
鈴木: 動作プログラムをROMライターで焼いて実際の回路で動作確認をして設計が完了したらカスタム仕様のワンチップマイコンにしてもらう。ROMライターは一度書いたら終わり。書き換え可能なEP-ROMが出るのは、少し後だったと思う。たしか、厚木のEP−ROM、不揮発性メモリーのおかげで、ETチューナの選局システムや、リモコンでいろいろな操作が出来るようになったんだと思う。最終的に、早い時期にPLLシンセサイザーチューナ・選局システムに進んだのも、厚木の貢献は大きいと思いますよ。
 ○: その辺がね、気になっている。ソニーがEP-ROMみたいなものを作ったという話しと繋がるけれど、それを真面目にやったらね、全くちがうソニーの半導体の発展があったんじゃあないかね。
鈴木: かもしれないね。非常に残念なことに、ワンチップ・マイコンっていうのは、厚木がやらなかったですね。
 ○: ソニーは、CMOSで遅れをとった。
鈴木: これがあれば、確かにね、ニーズドリブンで我々がそうとうリード出来た領域だと思うね。
 ○: ソバックスを止めちゃったからね。
鈴木: そうなんだよね。
 ○: 川名喜之さんは、それをものすごく、悔やんで居られますね。多分これは、トリニトロンのためにね、ソニーの中の資源を全部こちらに集中するというんで、そのCMOS     については、井深さんが、ウンと言わなかった。川名さんによると、それの特許をね、買いに岩間さんが行って、失敗して帰ってきた。それを羽田から、“ソニーは一足遅れで駄目だった”と、兄貴の盛田さんに報告するっていうことがあったようです。ソニーはその頃は、ベータも含めバイポーラの高密度アナログのLSIで、世界の最先端を走っていて、逆に、CMOSでは後手に回ってしまった。しかし、EP-ROM、不揮発性メモリでも、ソニーがトップを切っていた。今で言うフラッシュメモリーですね。
鈴木: そう、それで、選局システムやリモコンで、これが最初だと思うけれどね。
 ○: かなり使っていた。
鈴木: かなり使っていた。
 ○: 使い方としても、使用量としても、かなり進んでいたんじゃあないのかな。
鈴木: 厚木の不揮発性メモリ、書き換え可能メモリは相当進んでいたと思うよ。
話は変わるけど最初に そのメカでガチャガチャ引っ張ってた時には、超音波リモコンだった。これはドイツの製品から勉強したんだけど。赤外線リモコン。ジェットセンサーのリモコンから、赤外線リモコンを導入したですね。導入当初は、色々苦労がありましたけど、その時期に導入して良かった。その、おそらくセット本体だけでなくコマンダーにも、マイコン使ったという記憶がある。それは、チャンネルの切り替え、ボリューム、その他色々なリモコン機能の設計検討をROMライタで処理出来ますからね。その時の我々の実績が認められて、トリニトロンカラーTVのリモコンシステムがソニー標準になった。驚いたことに、今でも使われている。ここにリモコン、ある?
 ○: ありますよ。これ。
鈴木: このマーク。このマークがね、私が座長を務め藤岡君が事務局で、ソニーの標準にしたフォーマットのマーク。
 ○: 四角の中にRのマーク。
鈴木: Rがあって、おそらく一本縦線Iが左側に入っていると思う。
 ○: 赤外線の、ここから赤外線が出る。
鈴木: そう。要するにリモコンのコマンダーから出る信号の変調の仕方を変えて、どういう操作をしなさいという。
 ○: フォーマット。
鈴木: フォーマットを作った。
 ○: あー、そうですか、この赤外線の半導体とか、センサーの半導体は、やはり厚木ですか。
鈴木: 初期の頃は残念ながら厚木ではなかった。どこから買ったのか覚えていないけれどね。発光と受光のダイオード、
 ○: ベータマックスやる時にね、電源が独自で、ベータはコールド・シャーシで、テレビはホット・シャーシで、両者を絶縁するために、光で信号やり取りすることになったような。
 鈴木: あ、光絶縁の話ね。ちょっと待ってね、思い出せない。
 ○: 組み合わせる時に、ソニーでは、光伝達素子が進んでいたので、電気絶縁カップリングがうまく行ったような気がする。 電気-光の信号変換系で・・・
鈴木: 光絶縁カップラーは、どこかで関与したことあるなー。
 ○: 電源関係は、第一開発一課の大越さんも絡んで、トランスを使わないで、ホット・シャーシにはなるけれど、海外への対応もでき、コストダウンができるというので、吉田さんが一生懸命熱心に、使うよう、回路屋さんにも要請された。
鈴木: ああそうだ、テレビセットとビデオの信号端子をフォトカップラーで接続したんだ。
 ○: 社長になった盛田さんは、ベータの商品コンセプトを、テレビとVTRを合体させるっていうんで、“ビデオ・テレビ”という言葉でベーターマックスを発表して行きましたから、テレビとビデオが一体になんですよね、その技術は。“テレビの連中は、こんな電源を使っているから”って、ベータのプロジェクトマネージャの河野文雄(こうの ふみお)さんから言われて、私は、攻撃されているように感じました。
鈴木: やっと思い出した。ビデオとテレビを組み合わせた最初のモデルを。ベータマックスとテレビの間のビデオ信号のやりとりを絶縁型フォトカップラーでやったことを思い出しました。
 ○: ああ、そうでしょう。
鈴木: ということは、厚木だね。
 ○: そうでしょう。最初は、ビデオテレビって言ったでしょう、75年に。
鈴木: そう、あれ、テレビの下にベータマックスを収納したモデル。私が関係しました。 ○: ああ、そうですか。
鈴木: だけど、とってつけたような、企画で、こんなの売れっこない・・・。
 ○: ベータのデッキにチューナが着いていないんですよね、最初、SL-6300。
鈴木: そう、テレビとベータのビデオ信号の授受をフォトカップラーやりましたね。
 ○: それから、リモコンのフォーマットのソニー標準を作って、それが今も、使われている。
鈴木: いまだに使われているね。だから今の液晶のテレビもプロフィールのコマンダーでコントロール出来るよ。
 ○: なるほど。それは、全メーカ共通で、
鈴木: いや、ソニー標準です。オーディオ、ビデオ、・・・全てのソニー製品の標準。
 ○: あれそうか。チャンネル等の信号ソース選択を右にするか左にする、逆にボリュームを右にするか左にするかで、ものすごくもめて。盛田さんと大賀さんがもめて、鹿井さんが間に入って困って、ヤングラボに調査させて・・・
鈴木: ヤングラボに調査させて、データに基づけは、文句は言えない。まあその、パルスのコードは、それとは関係ないけどね。
 ○: そうですよね、信号のフォーマットと、レイアウトの割付の標準化ですから。
しかし、こうやってリモコンになって、本体から余分なものをどんどんなくなっていった。それと同時に音声多重とか、キャプテンとか、文字多重とか、VTRとか色々な情報ソースが出てきて、モニターという概念が出てきて、テレビからチューナを無くした、そのプロフィールという、デザインにマッチしたヒット商品が出てくる。そして、このプロフィールというテレビモニターが、放送局のスタジオで使われるとか、ショールームで使われて、ビジビリテイが上がったこともあって、皆なこれに殺到していき、プロダクツスタイルの流れが決まる。全世界で、サウジアラビアから中国に至るまで、皆なこのスタイルにAV器機の流れが統合されていったんですね。
鈴木: すごいね。そのときの一機種からですからね、あのモデルでね。
 ○: あの時のサイテーションは、一機種で10億円の広告費、これは大賀さんが言うんだからしょうがないんだけど、前代未聞ですよ、私の知っている限り。ソニーの中で一機種に10億円広告費。10万台売ったって、大賀さん自慢されているけれど、一台当たり一万円の広告費ですよね。で、それでもようやく、認知率が3%で。
鈴木: 原価率良くない。
 ○: 原価率良くない。ギリギリで。沖さんのインタービューの時、ぜひ、その辺をお伺いしようと思っておりますが、それで、どうしてコストダウンをやられたのか、という話しはインタービューしたい。まあ、それで10万円のテレビ10万台売った頃に、KV-1845っていうのは、ソニー初の家具型のコンソールタイプで16万4千円のテレビが12月だけで4万台以上も売れた。それで16万円のテレビが30万台の300億円の売上があった。KV-1845って、今、誰も忘れたテレビが稼ぎ出していた。
鈴木: そういう貢献があったんだ。
 ○: 付加価値率が、これは、べらぼうに良くてね。キャビの中はがらがらで、50パー超えた付加価値率だった。
鈴木: これね、非常に簡単で、安いシャーシが使えたという記憶があるね。
 ○: これは、儲かって儲かってね。つまりアメリカのサンディエゴに工場を作る時に、お金が余っちゃっていて、いくら工場を国内に作っても、使い切れないんで、海外に工場を造ろうということを、盛田さんが言い出した。芝浦のオーディオに言ったらオーディオは、韓国その他フィリッピン等に色々工場作って、でしょう。しかしそれでは、数億円しか使えないんでね。それで、盛田さんは、お金の使いみちに窮して、その時に、大崎は、加藤さんが、英語で言葉が通じるアメリカかイギリスに作ろう。作るべきだ、というんで、議論を始めた。当時、アメリカが、ドルがおかしくなってきて、やがて、アメリカのサンデイエゴに、70億で工場を作ることになった。
KV-1845の回路が簡単なシャーシだったと今の話ですが、シャーシ戦略とか、その 鈴木:さんが、中期戦略の上で、また技術的な戦略考える上で、シャーシ戦略とか、その後、大分後になりますが、岩城さんが大賀さんの下で副社長をやられたときに、外部のコンサルタントを大崎に入れて、シャーシ戦略を“プラットホーム戦略”と呼び替えてかやられたようですけれど、そのへんの話しをお願いします。 
 鈴木: あの、トリニトロンというのは、さっきも言ったんですけれども、13インチから導入して、次に18インチ、10インチ、16インチとサイズ展開をしてゆく、偏向角も90度から114度へと。同時にブラウン管自身も、技術的完成度を高めるために、開発、改善アイテムを入れて進化して行ったんですね。
 ○: 同時開発。
鈴木: 同時開発だから、たとえば、13インチですが、最初に ネックにコンバージェンス電極端子がついていた。オムツみたいな、絶縁のカバーを付けてコンバージェンス電圧を供給していた。で、次の18インチでは、アノードボタンを2軸にして、真中ピンにはコンバージェンス電圧を、外側の電極にはアノード電圧を加える構造にした。そのために2芯で2重に絶縁した高圧ケーブルが必要になった。
 ○: 電圧を絶縁した、
鈴木: そう、それから、ダイナミックコンバージェンスの合わせ方も、コンバージェンスヨーク方式を、18インチの最初のモデルでは、トライしているとかね。要するに、トリニトロンは、色々開発アイテムを試しながら、最適システムというものを、追求し、同時に、それに対応しながらセットも回路開発、デバイス開発を盛り込んだシャーシを次々に設計して行ったわけです。例えば、18インチ114度偏向のトリニトロンを使ったセットでは、偏向電力の増大に対応して、サイリスタGTOを使った水平偏向回路を導入し、20インチでは、効率がよく自由度の大きいスイッチング電源システムを導入しました。最初の段階は、“基本シャーシ”というネーミングだったと思うけれども、インチサイズを新しくおこす度に、最適設計して、これは、上手く出来たから、これを基本シャーシにしようやと・・・。トリニトロン最初のKV−1310はAシャーシ、その後のモデルでBシャーシに発展してきます。それは、おそらく森尾さんがやった10インチとか、そういうもののノウハウを入れながら、ブラウン管の変化に対応しながら、より生産性の高いBシャーシ、これを基本シャーシに。それから20インチのセット設計でいろいろな開発要素を盛り込んで作ったシャーシ、これをGシャーシという名前で、標準シャーシ、標準じゃあない。標準と言うのは、あとの呼び名だね。基本シャーシにしましょう。で、基本シャーシをもとに、どのように製品ラインアップを展開していくか、同時に技術要素の組み合わせを考えた。標準化じゃあないですね。それで、ほぼ、20インチ、27インチを出す頃までに、基本シャーシのラインアップが、確立出来ていたと思います。
 ○: なるほどね。幾つかのそのインチサイズが出る毎に基本シャーシが生まれて、 27インチが出来た頃に大体基本シャーシが揃った。
鈴木: 基本シャーシは、これだけ持っていて、これを展開していけば、全てのラインアップは埋められると。
 ○: 技術会議のときには、“ではこの機種は、何シャーシを使うか”で議論がされるようになった。
鈴木: 基本シャシをベースにしてトータル的な商品戦略というのは、組み上げられていった。あと、どんなフィーチャをつけていくかということで。
 ○: それで、その、私が思い出すのは、ソニーは、16インチが凄く強かったことですよ。私は、オイルショックの時かな、生産管理をやっていたんですが、テレビの市場が直ぐ回復するか判らなかった。そこで、量販店のお店にヘルパーで、販売の応援にいったんですね。で、“絶対にまた、今週の週末には、お客さんが来てくれて需要が上がる”と思ったら、一週間経っても、翌週になっても、上がらないんですよ。ただ、その時お店で売った時にですね、買いに来たお客さんに、「何人の御家族ですか」と聞くと、夫婦二人か子供一人ですという場合は、何畳間ですかと聞く。すると大体“6畳間”と答えてくれる。「だったら、16インチがいいですね」というと、「あー、そうですか」、「それなら、この中で16インチで、一番きれいで一番安いのが良いですよ」と言うだけ。お客さんは、「これが一番きれい。一番安くて一番きれいだよ」。「これソニーだよ」。と言って買う。すぐ買う、速い。
鈴木: ほんと・・・。
 ○: まず、16インチに絞り込んだら勝てる。一番安いし、一番きれいだもの。これどうして、あれが安かったか。16インチ、なぜあれが安かったのか、
鈴木: 一言で言うと、13インチのシャーシをほぼそのままで使ったんですよ。
 ○: あー。
鈴木: シュミレーションしたら13インチのシャーシを、少しパワーアップすれば16インチは出来そうだ。
 ○: 16インチは、18インチのシャーシがありますよね。普通だったら、18インチのシャーシ使うのが余裕があって、
鈴木: そう、技術的には楽だけど。
 ○: 楽ですね。設計としては、13インチは16インチに持ち上げようとすると、
鈴木: ちょっと、無理しなければいけない。
 ○: 無理しなければいけない。
鈴木: 結果的には無理ができたわけね。ギリギリのスペックで、出来たんですよ。
 ○: だからある意味では、その18インチのシャーシは余裕がありすぎる、最初から16インチで設計しようとすると、やっぱり、余裕持っちゃう。
鈴木: 安全を見て余裕持っちゃう。それにね、確か、16インチは、べらぼうに、短期間でやらなきゃあいけないプロジェクトだった思います。ブラウン管が出来たから、半年で商品化しろ、と言われた記憶がありますね。その時、苦し紛れで、それまでにあるシャーシをどれか引っ張ってくるしかない。18から降ろすか。13から上げるか。で、18から降ろすと、実際に計算してみたら、全然違うのね。原価がね。
 ○: 原価が。
鈴木: 大幅に高い。
 ○: それは、まあ、そうすると、やがて、このシャーシとこのシャーシと組み合わせて、良いとこ取りするってこともあったんですか。
鈴木: 当然ありました。いろいろな領域で開発を進めていましたので、シャシ毎に新しい回路、部品を積極的に採用してゆきましたから。
 ○: あったんですね。 技術企画会議で議論されて、このシャーシとこのシャーシのこのブロックや、このキーパーツを使うとか。つまり、言ってみると、遺伝子アルゴリズムという最適化手法が有るのですが、良い遺伝子の、雄・雌を組み合わせて作っていって、そして、子供達をいろいろ作って。その時にですね、遺伝子を二つ取り出してきて、二つに切り離して、良いと思われる方を選び出して、その二つを組み合わせて、新しい子供を作る。ある意味では、各シャーシが有限の遺伝子のパターンであって、それを、どう組み合わせたら良いか、議論というか検討しつつ、そういう組み合わせをしてたんですかね。
鈴木: ま、そうですね。
 ○: では、16インチを半年でつくれと言われたら、これを引っ張ってくる。
鈴木: 基本的に。
 ○: ベースはあくまで、あくまで13インチですね。13インチのBシャーシにすると。
鈴木:13インチ・シャシをベースに、パワーアップすべき所の方向付けをする。
 ○: つまり、アーキテクチャを決める。
鈴木: そこまで決めて、機種担当者に任せる。
 ○: では、それでパワー系の大きなシステムの骨格は決まっていると。そのコストも。
鈴木: 相当な精度で見積もりができた。
 ○: なぜ、ソニーの16インチが安いことが判ったかというと、実はね、当時ね、各メーカが、出荷台数を通産省に報告してたのですよ、インチサイズ別で。それと、出荷総額を毎月報告したんです。
鈴木: それで分かるんだ。
 ○: それでね。金額は、インチサイズ別の報告はしてないんですよ。ところが、回帰分析、線形モデル入れて、逆算するとね、逆行列を取ると見えるんですよ。
鈴木: なるほど。
 ○: ところがね。季節的な変動があっても、16インチが増えていたり、18インチが増えていたりするんで、しかし、同時に動くので、そのわずかな違いから、情報を取り出さなければいけない。その技術はね、信頼性グループには、特殊な回帰分析のソフトを開発していたんです。それで、それをやったらね、ソニーの出したデータから、ソニーの蔵出し価格を推定したら、かなり正確に推定でき、比較すると、16インチと22インチは、他社に比べてかなり安くかった。
鈴木: 安かった。
 ○: どうして、それが、
鈴木: ブラウン管も安く出来たと思うよ。同じ偏向角・ネック径で、電子銃の構造も13インチと同じ。画面サイズに関係するところを物理的に大きくした。ただ、量産試作のブラウン管はフォーカスが甘く、このままでは商品として出せませんと、荒木さんに直訴し、改善していただいた記憶があります。
 ○: なるほどね。しかし、最終的には画質も良くなった。ただ、非常に悔しい思いがありましたのは、結局その後、16インチは、圧勝したために、他社がどんどん引いちゃった。ソニーが一番安くしてたから、儲からない。その結果、16インチの市場が減って、ソニー商事がね、16インチはいらないって、言い始めた。それは、ブラウン管が2002年に、松下さんが、“フラット化と高精細度化が進んで、シャドウマスクでは、市場について行けなくなった”と判断をした。それで急速に、皆な、もう薄型になるから、お店の店頭からいらないって言われて、ブラウン管は姿を消すことになった。松下が音を上げたのが、きっかけで、コンペチターが居なくなると、あっという間に、市場が無くなっちゃう。自分で負けたような気もしますね、自分で仕掛けて自分で負けたようなね。
鈴木: もったいなかったね。
 ○: もったいないことをしましたね。
鈴木: そうだね。
 ○: 16インチは、ソニー電子の工場が作れる最大の機種で、大崎工場も、一の宮工場が作れる最小の機種で、アメリカのサンデイエゴ工場も、イギリスのブリッジエンド工場も、どこでも作れるインチサイズで、あそこがクッションになっていて、生産在庫出荷計画の調整の要になっていたんですね。
鈴木: アロケーション。 
 ○: そう、アロケーションを16インチを中心にやる、世界の生産展開戦略の要になっていた。
鈴木: それが、だめになっちゃった。
 ○: それが、崩れていった。
鈴木: あーそうか、やっぱり16インチは、ブラウン管も安く出来たんだ。ソニー電子で出来る最大と考えるとね。もったいないことしたね。
 ○: もったいないことしましたね。まあ、色々のことがありました。
さて、最後に一番苦労したこととか、嬉しかったこととか、思い出に残ること等をお願いします。
鈴木: 今振り返るとあまり苦労したという思いは無いですね、正直に言って苦労の連続だったかもしれないが、チャレンジの連続だったから、苦労という気持ちは、あまりなかったですね。
 ○: むしろ、面白かった。
鈴木: 面白かったね。
 ○: そう。
鈴木: こうやって、振り返ってみると、本当に、新しい課題へのチャレンジ、素晴らしい経験の連続が、私にとってのトリニトロン・プロジェクトでしたね。喜び、嬉しかった思い出がありすぎて・・・
 ○: そうですか。(笑い)
鈴木: 立ち上げから参加したプロジェクトがソニーのビジネスとして、非常に重要に位置づけになるのに貢献できたこと、プロジェクトを一緒にやってきた人たちが、その後の仕事でも素晴らしいい活躍をしたことは嬉しいね。多くの人がこのプロジェクトを通じて成長したよね。私にとっては、素晴らしいプロジェクトに参加する機会に恵まれ、多くの素晴らしい人達とめぐり合い、素晴らしい経験を人生の財産として持てたということが一番嬉しいですね。
 ○:最後に、若者向に向けた言葉、仕事とは何かとか、トリニトロン通じてのメッセージとか。
鈴木: 私の経験を通じて言うと、どんな課題や問題でも、必ず「解」はある。逃げないで、自分を信じチャレンジすると必ず道は見つかりますよ。
 ○: むしろ、問題見つけて。
鈴木: 問題、課題を見つけてチャレンジする。
 ○: 自分の為にも、見つける。
鈴木: 問題を、自ら課題を見つけて解決していく。なんていうかな、エンジニアとしての、達成感を自ら持てるように。人から評価される、世間から評価されての達成感だけでなくてね、自ら、自分自身で達成感を持つ。そのためには、自分で課題を見つけて、逃げないで、をきちんと解決した時に、一番大きい達成感を味あえると思う。
それから、あと一つは、やっぱり、人との連携プレーというのは、ざっくばらんに、情報を共有する。それによって、自分も自分というものを気づく場面も多いし、相手も、自分がやんなきゃあいけないところとか、自分の役割とかを気づいてくれて、非常に良い連携ができる。だから、ざっくばらんな情報共有とかコミュニケーションがものすごく重要だと言う事をトリニトロンを通じて、勉強しましたね。
 ○: それは、仕事をしたり、プロジェクトという他の人との組織としてできるから、それでコミュニケーションが出来るというか、逆にいえば。
鈴木: 逆にいえばね、そういうことが出来る組織やマネジメントの環境があったんだね。
ターゲット、目標の明確化、これは一つのキーでしょうね、絶対にね。非常に幸いだったのは、さっき、 唐沢さんも言われたけれど、吉田さんにしても、井深さんにしても、非常にクリアーな目標をくれた。くれたと言うと可笑しいけど、目標に向かって自分の信ずる、自分がやらなければいけないと、感じたことをやっていけば、ゴールへいけるなー、というようにね。我々の時代は、恵まれていたかも知れないけれど、目標はクリアーだった。プロジェクト全員の人が、「お前、あれやれ、これやれ」じゃあなくてね、皆が「おっ、あそこだ」と分かるような目標、そういうキーワードを出すというのは、エンジニアリングのリーダーシップとうい点で、非常に有効じゃあないかと思うし、ついて行き易いですよね。優れたリーダーと、枠に縛られない(枠を意識しなくてよい)活動が可能な組織、マネジメント環境で仕事が出きた我々の時代は恵まれていたと思うね。
 ○: 今日は、大変技術的な話しでしたけれど、鈴木さんの体験を交えながら、色々幅広く、お伺いすることができて、ありがとうございました。
鈴木: お役に立てたかどうか、昔のことを、久しぶりに思い返すよい機会でした。 ただ、きちんと思い出せなくて、申し訳ないと思っています。
 ○: こういう生の記録ですね。これどうまとめるか決まっていませんけれど、まとまったらね、若い人たちには、教材に使えればとか考えておりますので、その節にはよろしく、お願いします。
鈴木: 出来ることは、やりますので
 ○: 長時間、今日は ありがとうございました。
また、記録ができたら、お目通しいただいて、修正、追加 お願いします。

終わり




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