メモ帳

出合った書籍や人の言葉から、気になったセンテンスを抜書きしたメモ帳です。
会社人間を卒業してから、それまでの3倍は読書をしたいと思っています。



伊江村(沖縄県)・戦争資料館にて(2005年8月3日)

米軍と話すときの心得(1954年10月)(阿波根 昌鴻)

  1. 手に何も持たないで、座って話すこと。
  2. 短期、悪口、、ウソ、いつわりを言わないこと。人間としては、軍人より農民が優れていることを自覚し、幼児に言い聞かす態度で道理を以って話すこと。
  3. この不幸な土地問題が起きたのは、日本が仕掛けた戦争の結果でもあり、我々にもその責任があることを忘れずに、米国民を不幸にするようなことはつつしむこと。



伊江村陳情規定

 これから鬼畜とたたかうには、こちらは人間になる。
鬼畜を打ち滅ぼす事はは難しい、生き返ってくる。だから鬼畜であるアメリカを人間に教育する。子供を教えるように誠意をもって教えていく。そのために「陳情規定」というものを作った。

「陳情規定」

  • 反米的にならないこと
  • 怒ったり悪口をいわないこと
  • 必要なこと以外はみだりに米軍にしゃべらないこと。
    正しい行動をとること。ウソ偽りは絶対語らないこと。
  • 会談のときは必ず座ること。
  • 集合し米軍に応対するときは、モッコ、鎌、棒切れその他を手に持たないこと。
  • 耳より上に手を上げないこと。(米軍はわれわれが手を上げると暴力をふるったといって写真を撮る。)
  • 大きな声を出さず、静かに話す。
  • 人道、道徳、宗教の精神と態度で折衝し、布令・布告など誤った法規にとらわれず道理を通して訴えること。
  • 軍を恐れてはならない。
  • 人間性においては、生産者であるわれわれ農民の方が軍人に優っている自覚を堅持し、破壊者である軍人を教え導く心構えが大切であること。
  • このお願いを通すための規定を最後まで守ること。




もったいない/松本泰道(2005年7月26日)

もったいないは漢字で「勿体」と書きますが、勿は<物>の牛扁を除いた漢字で、勿と物は同じで、勿(物)体ないは、「物の本質を無くすこと」と字書は教えてくれます。
つまり、そのものの持つ機能や価値を発揮することなく捨ててしまうのは、自然の恵みをむだにするので申しわけないことと悔やむ心根がもったいないの意味です。
この心根を忘れて、年に二千万トンの食品が捨てられて環境を汚すのです。食料や物品に限りません。時間をむだにし、人の親切を無視するのは人世を汚染することになります。
禅門では、もったいないを心根や理論にとどめずに身体で納得し、その理解を自分だけでなく、身近の人から身近の人へ、そしてすべての人に伝えようと実践します。


伊藤元重(東大教授)(2005年6月10日)

経済には、「マクロの鳥の目」、「ミクロの虫の目」、「大きな流れを読む魚の目」が必要だ。


自由と規律ーイギリスの学生生活ー/池田潔 (2005年4月)(若い時に感銘を受けた本の一冊です)

 その行為自体の善悪が問題なのではない。或る特定の条件にある特定の人間が、ある行為をして良いか悪いかはすでに決まっていて、好む好まないを問わずその人間をしてこの決定に服せしむる力が規律である。そしてすべての規律には、これを作る人間と守る人間があり、規律を守るべき人間がその是非を論ずることは許されないのである。
 イギリスの青少年は、学校で、家庭で、あらゆる機会に骨の髄に滲みこむまでこの服従の精神を叩き込まれる。

 イギリスのパブリックスクールの衣食住の面における厳しい耐乏生活(大学生活の贅沢に比べ余りに不均衡)は如何なる理由によるものであろうか。
学期初めの数日は正に地獄である。しかし、これに堪え、これを忍べば、やがて学校が苦しみのみではないことが判る。家庭生活では思いもよらない愉快が必ずそこに待っていることを悟る。
忍耐の精神がそこに生まれ、少年達自身は幾度か繰り返された経験をもとに、たとい無意識であるにせよ、人間の適応性を信頼して、正面から現実と取り組んでゆく勇気が起こるのである。

ースポーツマンシップー
 一定の範囲内より最善の材料を選び、個々の能力に応じてこれを適当な部署に割り当て、みずからの統率の才幹によってこれより最大の力量を発揮せしめるのが指導者たる主将の責務である。その素質の豊かなものは主将としてほとんど独裁に近い権限を与えられ、いよいよ天賦の才を磨く機会を得る。
 注目すべきことは、その才幹に恵まれないものがみずからの資質を明確に認識し、その最適と信ずる部署に甘んじ全体の利益に奉仕することを悦びとし、いささかの不満も無く指導者の命に服することである。
 秩序ある社会の運営もまた同じと彼等は考えるのである。万人が指導者たり得ぬとすればその間明確な一線があり、両者協力の効果を最大ならしめる手段の一として、前者に対する後者の服従が要求されるのは当然である。指導者が適切な指示命令を与えるのは横暴と異なり、団員が欣然これに服することは決して盲目的な封建思想の類ではない筈である。

小泉信三の見解(引用)
「かく厳格なる教育がそれによって規するところは何であるか。正邪の観念を明確にし、正を正とし邪を邪としてはばからぬ道徳的勇気を養い、各人がかかる勇気お持つところにそこに始めて真の自由の保証がある所以を教えるに在ると思う。」

(1949年第一版)


田沼武能(日本写真協会・会長)(2005年4月11日)

老舗の櫛店の主人から聞いた言葉を忘れない。「職人は一生一人前じゃない、と。一人前と思ったら腕は上がらない。もっといい写真を撮れると思うから続けられる。これ以上の写真を撮れないと思ったら止める。」


小泉信三(自由と規律/池田潔著の「序」より)

 特に知らなければならぬことは、世界の健強なる国民が、大学以前の青少年に、人間の尊貴とその義務の重きことをいかに教へ、彼らの道義心の涵養と道徳的勇気の鍛錬とをいかに行いつつあるかといふことである。附け焼刃でない民主主義の確立は、ここから出発しなければならぬ。(昭和24年8月中旬)


三法印/釈尊

・諸行無常  ・諸法無我  ・涅槃寂静


デジタルは文化ではない/千住博(2005年2月8日)

 イマジネーションとコミュニケーションのあるものすべて芸術です。
与えられている情報は同じなのに、受け手によって天と地ほど違うものとして受け取られるように、記憶や経験にかかわる相対的なことをデジタルが伝えることができるのでしょうか。
技術として正しく使うことが文明で、その使い方が文化のなのです。自動車のように等しくすべての人が享受できるものを文明といい、その乗り方が文化なのです。


有馬秀子/「ギルビーA」マダム (故人)(2005年1月19日)

 私の人生に目的はありません。生きていること自体が目的であって、それが私自身の生きがいに通じているのです。


私が目指すもの/アービン・ラズロー(ブタペスト会議主催者)(2004年12月11日)

 新しい文明を目指して、新しい価値観を誕生させること。また統一した科学論を打ちたて、きちんと説明できるようにすることです。科学理論の統一、人間の意識との連携ができれば、結果的に世界平和、人類の平和につながると思います。
 ブタペストクラブの大きな使命は「惑星意識(地球に生きる人間の意識であり、自然との一体感を持つこと)」です。


阿久悠 書く言う(2004年12月4日)

 善人には壁ばかりに見え、悪人には隙間ばかりに見える・・・・それが法律だ。
現代では「隙間論」が多数のような気がしてならない。壁は隙間を教える道標のようなもの・・・。これでいいのだろうか。ああ虚無。


検索エンジン/井上雅博(2004年11月19日)

 利用者から見れば、一つ目は検索を含めた情報を求めるサービス。二つ目は人をつなぐサービス、いわゆるコミュニティー系のサービス。掲示版やチャット、ゲームなど、同好の士が集まって情報交換するようなサービスの束があって、プログも含まれます。三つ目は、物を探すサービス。いわゆるeコマース系のサービスです。ショッピングやオークションが該当します。


法華経を生きる/石原慎太郎(2004年11月14日)

 いいかえれば、哲学とは自分がこうして生きているということ、ここにこうして存在しているということについて考えること、そしてその人生をひたして流れていく時間とはいったい何なんだろうと考えることです。つまり哲学とは「存在」と「時間」について考えることそのものです。

 釈迦の言葉を綴った「スッタニパータ」に「あるがままの現実をみなさい。そして智慧を持って、勇気を持ってものごとを解決していきなさい」とありますが、その智慧とは「空」ついて知ることだと思うし、勇気とはものごとの本質は変化だという真実を心得、「無常」に耐えるということだといえます。
 だから西欧の哲学では、「現実の背景に真実がある」としますが、東洋、特に仏教の哲学では、「変化の止まぬところにこそ真実がある」ということになる。


飢餓海峡/水上勉(2004年11月12日)

 真実をつきとめるということは、事実をつきとめるより困難だ。


養老 孟司(2004年9月3日)

  • 人間のやる事は全て脳の働き。
  • 脳の入力(インプット)は「五感」であり、出力(アウトプット)は骨格筋の動き。
  • 脳は入力と出力の間に納まっている計算機。
  • 脳は、入力・出力の関係を捉えて、その中の共通の規則を取り出してゆくという性質を持っている。入力と出力が関連していないと、脳にとって意味が無い。
  • 出力(筋肉の動き)があると、入力(五感で捉えること)が変わる・・・これをまわしてゆくことが脳にとって意味がある。

「複雑系経済学」/複雑系入門/井上崇・福原義久(2004年8月29日)

「複雑系」とは
システムを構成する要素の振る舞いのルールが、全体の文脈によって動的に変化してしまうシステム

  • 経済は「ゆるやかな結合系」(ゆるやかにつながったネットワーク)である。だからこそ分散している自律的主体が同時並列的に行動することが可能になる。
  • 社会や経済の現象には、優位なものをますます優位にする自己強化過程が働いている場合が多くある。(良循環/ポジティブフィードバック、悪循環/ネガティブフィードバック)
  • 収穫逓増発現機構の概念
    生産規模(規模の経済)・結合の範囲(範囲の経済)・時間経過(学習の効果)・使用連結(連結の効果)
  • 良い戦略は周囲の状況に合わせて時々刻々と変化しており、「いつでも最適な戦略」はない。

ラインフォルト・ニーバー(2004年4月27日)

 神よ 願わくは 変えることのできるものを変える勇気を、変えることのできないものを受け入れる冷静さを、そして 変えることのできるものと 変えることのできないものを識別する知恵 を与えたまえ。


石川光男(2004年3月5日)

 単純系、複雑系は人間のものの見方の違いであって自然そのものの違いではない。
人間の世界観が変われば違った特性が見えてくるにすぎない。


五木寛之(2004年11月26日)

 書き手と読み手が一期一会の出会いをし、そこで何か思いがけない奇蹟のようなことが起こった、というのが本当の意味での読書体験なんじゃないだろうか。


安西祐一郎(2003年12月10日)

人間の発達は

  • 痛みを共有できる力(愛着)
  • コミュニケーションの背景を共有できる力(友達)
  • 知覚できない過去・現在・未来の時空を共有できる力(想像)
  • 自己を客体化する力(個人)
  • 他人を尊重する力(共生)

などの新しい力を生涯にわたって獲得していく過程であると捉えることができます。


長谷川慶太郎(2003年9月6日)

 あらゆる面で過去の経験と、その総括と言うべき「常識」が音をたてて崩壊・消滅する時代、これが21世紀初頭の世界全体に共通した現象。


篠田桃紅(墨象作家)(2002年7月16日)

 目標など定めたら、道草や遠回りがきかなくなるに決まっているので、この世に満ちているいいものをきっと見落としてしまう。
目標など無くとも、自分の方向を持つことができれば、生命はもともと不安定なものと思いますから、不安定な中での歩みができると思います。


京都大学(2002年7月15日)

 「ナンバーワン」よりも「オンリーワン」を目指せ。


マンスフィールド(2002年1月22日)

 日常の些事によってではなく、国家と世界に変化をもたらす本質的な課題に対していかに立ち向かったか。
我が上院は、それによってこそ真価が問われなければならない。


長谷川慶太郎(2001年9月21日)

 物不足が解消したら、市場は一変して買い手市場になる。
いまお金がどちらへ流れているか。明日はどちらに流れるか。株価の予測はそれにつきます。
どんな相場にも思惑(先見性)はつきものです。そして思惑というのはかならず行きすぎます。相場に行きすぎはつきものです。


D・Jシュワルツ(2001年9月10日)

 知識は潜在的な力にすぎない。知識はそれが建設的な方向に用いられる時のみちからとなる。夢見ることの出来る人は、その夢を実際の場に適用して成功することもできるが、単に事実を知っているだけの人は、つまらぬ「もの知り」で終わってしまう。


柴田恵理子(2001年8月15日)

 演出家は稽古の間中、百通りの観客の存在を想定し、百通りの観客にななって場面を見る。
俳優に対しては、言葉が心に素直に落ちてくるか、行動や動作は自然に湧き出ているかをチェックし、演出の統一感のために何が必要かを説明する。
他のクリエイティブスタッフとの話し合いの時は、その戯曲をどの様に調理したいかを説明し、装置や衣装や照明や音楽を作る人達のアイディアをつき合わせて、全てが融合して昇華するような方向に持ってゆく。


暗夜航路/志賀直哉(2001年8月31日)

 そしてその客用の間の真中に八十近い白髪の老人が立てた脛を抱くようにして、広い裾野から遠くの中の海、夜見が浜、見保の関、さらにそと海まで眺められる景色を前に、静かに腰を下ろしている。・・・
この老人にすれば、これは毎日見ている景色であろう。それをあかずにこうして眺めている。いったいこの老人は何を考えているのであろう。もちろん将来を考えているのではない。また恐らく現在を考えているのでもあるまい。長い一生、その長い過去のいろいろな出来事を老人は憶い出しているのではあるまいか。否、それさえ恐らく、今は忘れているのだろう。老人は山の老樹のように、あるいは苔むした岩のように、この景色の前にただそこに置かれてあるのだ。
そしてもし考えているとすれば、それは樹が考え、岩が考えるていどにしか考えていないのだろう。謙作はそんな気がした。
彼にはその静寂な感じが羨ましかった。

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