皇 后 の 間

 
みどころ


● 戦後の古代史はヤマト征服のヒーローとして応神を大きくとりあげ、他方で神功皇后を抹殺してしまいました。しかし、実際の応神の治世は短く、存在は小さかったようです。

● 一方の神功皇后は初めて百済との国交をおこない、さらにヤマトの海外拠点をつくるなど、4世紀後半において重要な役割を果たした天皇なのです。

● このように重要な人物を架空としたことで、4世紀は謎に包まれてしまったのです。応神は虚像にすぎず、実像は神功皇后です。展示を通じ、皇后を見つめ直していただきたいと思います。



 はじめに
 第一部 神功皇后架空説
 第二部 神功皇后の実在性
 第三部 神功伝承の性格

 
 はじめに

● いまどき神功皇后が実在したなどと言おうものなら歴史を語る資格がないとされかねないようです。しかし、正史『日本書紀(以下書紀)』が摂政である神功皇后に独立した「紀」を設けるという破格の扱いをしているうえ、神功が産んだ応神は実在性が高いとされているのですから、その人物を架空とすることに素朴な疑問を抱いています。

● 天武が【諸家に伝わる帝紀と本辞の削偽定実】を命じたのは、朝廷人事の基幹となる天皇家と諸家の関係を記す【帝紀と本辞】を諸家が勝手に改ざんしている事態を糺そうとしてのことですから、その大元となる天皇家の系譜に作られた人物を加えるとは思えません。
 
● まして『書紀』編纂を命じた天武は継体、応神そしてその母神功につながる血筋です。天武は『古事記』の序にあるよように、国家運営の観点から系譜の造作を問題視しています。「八色の姓制度」は、そうした天武の意向により成立したものです。その天武王朝の始祖に、それもわずか300年ほどしか経っていないのに、架空の人物を配するとは考えられないのです。

● この館の展示を通じて、従来説が「造作」「誤り」としてきた『書紀』の系譜記事が、非常に正確であることを明らかにしてきました。そして『書紀』紀年延長や「先帝殺害、皇位簒奪」をめぐる雄略紀・継体紀にみられるように、「時」の造作はおこなっても「系譜」の造作はしていません。神功皇后の物語も、そうしたものの一つだと考えています。


 
第一部 神功皇后架空説


 
神功皇后新羅征伐の物語

● 蛇足になりますが、「神功皇后新羅征伐」と呼ばれる物語を抜粋しておきます。

● 仲哀が紀伊を巡幸中に熊襲が叛いたので急きょ紀伊の徳勒津から穴門(山口県)に向けて出発し、ヤマトに留め置いていた神功皇后に「穴門で会おう」と伝えたので、皇后は敦賀から出航し、二人は豊浦で落ち合い、そこに宮を建てました。

● 天皇が熊襲征討を群臣に諮ったとき、皇后が神懸かりして「熊襲の地は痩せていて、戦って獲る価値がない。海の向こうにみえる新羅には金・銀が沢山ある。私(神)を信じれば、刀に血塗らないでその国を服従させることができる。そうなれば熊襲も従うだろう。」と告げたのですが、天皇は神を信じないで「海の向こうには何もみえない。また、わが皇祖はことごとく神をお祀してきており、ほかに神がいるはずがない。」といったところ神が怒って「お前では国を保てない。皇后が身ごもっている子が国を得るだろう」と告げ、天皇は急死してしまいました。

● 皇后は神(住吉三神)のお告げに従って新羅に遠征、皇后の乗った船を魚が運んで瞬く間に海を乗り切り、大波が船を新羅の王城まで運び、お告げのとおり戦わずして新羅に朝貢の約束をさせ、筑紫に凱旋しました。臨月の皇后は石を抱いて出産を遅らせ、筑紫に帰り着いてから産まれたのが応神です。応神は皇后のお腹にいたときから神によって天皇の位を与えられたので「胎中天皇」といわれます。


 津田氏らの説

● この神功伝説を学問的に解明し、「架空説」の流れを決定づけた津田左右吉氏は、神功皇后の物語を【五世紀末期以来新羅が強大になり、日本の半島支配が動揺してきたため、日本の半島における支配権、とくに新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける必要を感じた】継体朝か欽明朝の頃作られたとして、新羅親征を中心とする物語であるとしています。

● 氏は新羅親征の史実性を検討し、皇后による親征はなかったと結論づけ、さらに進んで、仲哀の九州行幸もなく、応神の「胎中天皇」の物語もつくられたものとしています。そして【何故に応神の生誕にこういう異様の説話がつくられたかは問題】としながらも、物語を作った目的は、あくまで【韓地経略の起源を説くため】といいます。

● 直木孝次郎氏は津田氏の説をさらに進め、神功伝説は後代に起きた事件の反映だとして、以下の事例を挙げています。

 @ 仲哀の急死と斉明が新羅親征伐の途中、筑前の朝倉宮で急死した事件とが似ている。

 A 斉明が中皇命(ナカツスメラミコト)と呼ばれたらしいが、仲哀もタラシナカツヒコの諡号を持つ。これを漢字に翻訳してみると、いずれも「中天皇」となる。その両者がともに北九州出征中に、神の怒りに触れて急死し、死後朝鮮出兵が決行されたなど類似の重複は、単なる偶然の一致とはみなせない。仲哀急死の一条の成立には、斉明朝の史実が影響していると考えるのが穏当である。

 B この説話の骨子は、新羅征討に出陣した皇后が、将来天皇となるべき皇子を筑紫で産み、大和へ伴い帰った、と言うことであろう。そうしたことが事実として古代史上に、ただ一回だけある。大海人皇子の后ウノノササラ皇女(後の天武の皇后、持統)が、皇子とともに斉明の西征にしたがい、斉明の死後、筑紫大津の行宮で草壁皇子を出産し、やがて大和に帰還したのである。この部分も従って、推古朝以降の成立とすれば理解しやすい。

 C 皇后が大和入りに際して戦ったカゴサカ・オシクマ両王は、神功の産んだ応神にとっては腹違いの兄に当たり、皇后にとっては、カゴサカ・オシクマ両王を滅ぼすことは、我が子応神の地位を安泰ならしめることを意味する。それはちょうど、大津皇子を滅ぼすことによって、我が子草壁の皇太子としての地位を固めようとした持統の立場に、よく似かよっている。


 
津田、直木説に対する疑問

 神功皇后伝説がつくられたとされますが、つくられた目的がはっきりしません。津田氏は、【新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける】ためとするのですが、もし、そうであれば、船を魚に運んでもらったり、波の助けで船のまま内陸部にある王城に乗り込んだなどという荒唐無稽な話を載せるはずがありません。もっと具体的に支配に至った経緯や支配した実績を述べるのが普通です。

 神功皇后の物語は『書紀』編纂以前から広く知られていたと見られますが、【新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける】ような情報は国内に広く知らさなければならないことではありません。広く知られるには別の理由があったと考えます。

● 物語を作った目的とされる【新羅に対する優越性を歴史的に基礎づける】ことと仲哀の急死はどのような関係があるのかも分からないことの一つです。津田氏は皇后の新羅親征がなかったのだから仲哀の九州行幸はなかったとしますが、『書紀』完成から半世紀も経たない762年、朝廷が新羅との戦いに臨んで香椎廟に捧幣していることから見て、仲哀が北九州香椎で死去したことは広く知られたことだったと考えざるを得ません。香椎が宮でなく廟と呼ばれていたことも仲哀の死との関係が窺えます。

 直木氏の反映法について

 @ 直木氏は反映法を持論としており、神功伝説についても斉明・持統両女帝の事績の反映としています。反映法の弱点は、可逆性のないことです。神功皇后の物語から斉明天皇の事績との共通点を見つけ出すことはできても、斉明天皇の事績から神功皇后の物語を作り出すことはきわめて難しいでしょう。神功皇后の物語を分解して、似たような事績を他の天皇の事績から見つけ出すことは容易ですが、反対に数多ある事績の中から適当な材料を見つけ出し、神功皇后の物語を作り出すことは容易ではありません。

 A 物語を作り出すには筋書きが重要です。筋書きが存在したのなら、それに沿って適当な材料を選ぶことは比較的容易です。神功皇后伝説にしても、神功皇后が新羅を征伐したという程度の伝承を基に、これだけの物語を生み出すことは不可能でしょう。『書紀』の編者がそのような才能に恵まれていたとは思えません。神功皇后伝説には、相当程度の筋書きが伝承されていたと考える方が妥当ではないでしょうか。

 B また、『書紀』編纂からわずか50年足らず前の斉明や、編纂の当事者でもある持統に関する出来事を架空の物語の題材に採り上げるのは、時間的にも早過ぎると思います。


 
第二部 神功皇后の実在性

● まず、皇后の実在性が高いと考えている理由を説明しておきます。

 @ 皇后が息長を名乗ること。

  息長氏は天武が定めた「八色の姓」で最高位の真人とされています。これは息長氏と継体のつながりが非常に強いことを示しており、その継体の血を引く天武が、架空の摂政に「息長」を名乗ることは許さないでしょう。皇后がオキナガタラシヒメの名を持つことは、継体が応神五世の孫とされる事と無関係ではないと考えています。勿論「オキナガタラシヒメ」という名が後世に付けられたかも知れませんが、そうであればなおさら上記のことが言えます。

 A 漢風諡号に神の一字が付けられていること。

  わたしは淡海三船がつけたという漢風諡号を重視しています。淡海三船は壬申の乱で天武と戦い敗死した大友皇子の曾孫です。三船が現代には伝わらない情報をもとに諡号をつけたと考えるからです。神武・崇神・神功・応神と四帝にだけ「神」をつけたのも、何らかの意味を持つと考えています。

  神武は言うまでもなく始祖です。神武と同じくハツクニシラスという称号を持つ崇神は神武系と「孝」系を統合した大和統一王朝の初代だと考えています。このことから神功皇后も一つの王朝の始祖だと推測しています。後代の継体は天武につながる王朝の始祖といわれますが、神号は付けられていません。継体が応神の末裔を名乗ることから考えると、神功皇后は継体につながる王朝の始祖だと考えられます。応神は神功皇后が摂政とされているために、神号がつけられたもので、応神に始まるとされる河内王朝は神功皇后が始祖であり、継体王朝につながると考えると全体が見えてきます。

 B 皇后の没年に太歳を記すこと。

 『書紀』は歴代の元年に太歳を記しますが、元年以外に太歳を記す例外が4箇所あります。手研耳の没年、神功皇后三十九年と皇后の没年、天武二年です。中でも没年に太歳を記すのは手研耳命と皇后だけで、二人とも天皇でありながら「先帝殺害、皇位簒奪」で抹殺された疑いが濃いのです。また、天武二年は大友皇子抹殺のため、天武元年が繰り上げられたので、元は二年が元年でしたから、元年以外で太歳を記してある4箇所のうち3箇所は「先帝殺害、皇位簒奪」に絡んでいるということになり、神功皇后は天皇だった可能性が高いといえます。

  『書紀』神功皇后紀摂政三年の条に【春正月、誉田別皇子を立てて、皇太子としたまう】とありますが、神功は誉田別皇子(応神)の摂政ですから、皇太子にするというこの記事は間違いだと考えることも出来ますが、勅撰の史書でこのようなミスが見逃されるはずはありません。これは神功が皇位にあったことを後世に伝えるため、編者がこのように書き残したのであって、神功が摂政でなく天皇であれば、まったく矛盾のない文章になります。

 C 神功の没年について少し詳しく検討しておきます。

 ア 『書紀』の記す神功没「己丑」は269年です。神功紀の朝鮮関係記事は干支2運繰り下げると史実に一致するものが多いとされますが、これは話が逆で、もともと神功の没年が389年であったのを2運繰り上げたことにともない関連記事も2運繰り上げられたと考える方が合理的です。そのまま繰り上げれば、神功の治世は242年〜269年となるのですが、元年を201年として、ヒミコの時代に合わせたのです。

  朝鮮関係記事の繰り上げについて補足しておきます。『書紀』の編者は朝鮮関係記事のうち神功皇后と応神の記事を。干支2運繰り上げただけではありません。神功皇后の没を389年とすると応神元年は390年です。『古事記』によれば没が395年ですから繰り上げの対象もそこまでのように考えますが、『書紀』の編者は応神の在位を延長された年数41年として、390年から41年後の430年までの朝鮮関係記事を干支2運引き上げました。そのため本来なら仁徳の事績となるべきことが『書紀』では応神の事績として記されています。

  また、神功は即位した363年には32歳とされます(在位69年で百歳没)が、389年没とすると在位27年、年齢は59歳で、ごく自然です。「己丑」という干支も讖緯説とは何の関係もありません。このような数字や干支をわざわざつくって、2運繰り上げて記すような手の込んだことはしないと思います。

 エ 『書紀』応神紀三年に【この年百済の辰斯王が位に就き】と言う記事があります。この年は壬辰(392)で『三国史』と一致しますが、神功が己丑389年没としてその翌年を応神元年とすると、壬辰(392年)は応神三年です。応神の治世は390年から394年までの5年間だったのです。神功が没したとき応神はまだ25歳ですから、即位する年齢としては普通です。応神の子沢山からみると、天皇は子づくりに専念し、政務はもっぱら神功が担当していたのではないかと考えてしまいます。武神とされる応神ですが、スーパーウーマン神功が母です。意外とマザコンだったのかもしれません。4世紀後半は応神の時代と言うより、神功の時代だったのです。

 D 仲哀の没年齢が『記紀』で一致すること

  神功皇后の実在を裏づけるもっとも確実なものが、応神「胎中天皇」の存在です。応神「胎中天皇」の存在は父親とされる仲哀の52歳という没年齢からも推察されます。仲哀は『書紀』の紀年が延長され、各天皇が長寿とされた中で、没年齢が『古事記』と一致するただ一人の天皇です。このことは、古記録が52歳であったことだけでなく、加齢できなかったことを示しています。在位も『古事記』の7年に対して『書紀』九年とほとんど延長されていません。このようにほかの天皇とまったく違う扱いがされている理由は、応神の誕生は仲哀の没後であるという伝承があり、これを変えることはできなかったためと推察されるのです。紀年を延長して仲哀を長寿にすれば「子づくり」はおかしくなります。死後に生まれた応神の親であるためには、これ以上加齢できなかったのです。

 E 神功皇后を邪馬台国の卑弥呼に擬定していること

  神功皇后を邪馬台国の女王卑弥呼に擬定していることは定説ですが、『書紀』編者が神功と卑弥呼を同一人物だと考えていたかといえば、そうではないと断言できます。編者は延長した紀年をそれらしく見せるために、中国の史書に出てくる卑弥呼と神功皇后の時代を一致させたに過ぎないのです。

  前述した元年以外に太歳を記した4件のうち、1件は神功皇后三十九年ですが、この年は卑弥呼が魏に初めて遣使した239年に当たります。編者が紀年を延長する際、まず決めたのは、神功の治世を卑弥呼の時代に合致させるためだったと推測されます。『書紀』の編者は神功を卑弥呼に比定するというより、卑弥呼と同時代の人にして、「中国の史書にこのように載っていますよ」という形で神功の時代を裏付けして見せただけです。そのため神功皇后三十九年には元年にしか書かない太歳を、それも大書しているのです。このように重要な役割を架空の人物に負わせることは考えられないことです。

 F 『書紀』が独立した「紀」を設けていること

 『書紀』は勅撰であり、我が国で最初に編纂された国史です。その国史に天皇にのみ許される「紀」が設けられているのは天皇以外では神功皇后ただ一人ですが、国史でこのように扱っても編纂当時の人にとっては特別奇異なことではなかったのです。『書紀』編纂は天皇の地位を固めるために編纂されたと言われますが、その国史にはっきり架空とわかる人物を天皇として扱うようなことをすれば、かえって天皇の権威を貶めることになってしまいます。

  当時の貴族たちの社会的序列は天皇家とのつながりを基準に決められたとされますから、各氏族はその祖先に関しては非常に神経質になるのは当然です。まして、基準となる天皇家の祖先に関することです。架空の人物の入り込むことは容易に許されることではありません。初めて編纂された国史に、天皇でない人物を天皇と同格に扱っているのですから、各氏族からもそれにふさわしい人物として認められていたと同時に、物語の内容も伝承として認められていたに違いありません。


 
第三部 神功伝承の性格

● この物語は、まず「胎中天皇」つまり天皇の死後に後継者が誕生したという皇統の継続性を疑われかねない事実が存在し、その継承を正当化するために作られたのであって、「新羅親征」は単なる口実に過ぎないのです。したがって、「新羅親征」の史実性を云々するのは無意味なことです。神功皇后物語の周辺を推理してみます。


 
仲哀天皇

● 景行と仲哀、成務は三人兄弟で、末弟の成務が皇位を継いだのですが嗣子がなく、没後次兄の仲哀が継承しました。仲哀について『古事記』は【穴戸の豊浦の宮と筑紫の訶志比の宮に坐して、天の下を治めた】とだけ記し、仲哀記に大和は出てきません。仲哀は兄の景行と同じように若いころから九州方面へ遠征の旅に出ていた、というより九州に常駐していたからこそ、このような事態になったと考えられます。景行は仲哀が若いころに亡くなったといいますから、成務が亡くなるまでかなり長い年数、仲哀は九州に居を構えていたのでしょう。穴門や香椎の宮は、皇位とは関係なしに成務が亡くなる以前から構えていたとしても不思議ではありません。

● 仲哀は熊襲との争いが取り沙汰されますが、熊襲はヤマトタケル(景行)によって一旦制圧された民ですから、そのために常駐する必要は少なく、むしろ当時のヤマトはその発展段階から見て、海外との交易を進める段階にあり、穴門や香椎はヤマトの前進基地としての役割ばかりでなく、交易の権益をめぐって古くからの松浦・壱岐・対馬の交易ルートを握る伊都など北九州西部の既存王国に対抗するための拠点としての役割を帯びていたと考えられます。これら既存王国とは一応の朝貢関係は築かれているものの、文化的先進地域であり、独立王国的色彩の強いこれら諸国への押さえとして、そして出雲地方への押さえともなる要として穴門は重要な位置を占めていたのです。

● 末弟の成務については『記紀』とも記事は少なく、国境を定めたり、国造や県主を定める国の体制固めに力を尽くしたとされるので、仲哀との間で、内政と外交とを分担して国政に当たったのでしょう。
 成務が亡くなったとき、仲哀は大和に戻ることを拒んだのでしょうか、そのまま九州に宮を置いたと『古事記』は記します。もしそのとおりだとすれば、7年間も北九州が都だったことになりますが、ヤマト王権がまだ全国制覇の途上だった時期に、天皇が長い間大和を留守にすることは大和の豪族たちが認めることではありません。帰らなければ別の天皇を擁立したでしょう。


● 無理のない考え方をすれば、仲哀は穴門に居を構えていたのですが、天皇就任に伴って九州で娶った神功皇后を連れて大和に戻り、7年後に何らかの事情があって自ら出馬したのではないでしょうか。皇后を九州に連れて行ったのはいわば里帰りです。このように考えれば、神功皇后もヤマト内に顔を知られていたので、天皇が急死した後、皇后が継いだとしてもヤマトが驚かなかったことが納得できます。

● 仲哀は熊襲征討についての神託を信用しなかったので神罰を受けて死んだというのですが、この話は神と仲哀というより、仲哀と神功皇后あるいはその支援豪族との間に起きた政策路線をめぐる諍いと見られます。

● 物語では熊襲征伐となっていますが、熊襲のために天皇がわざわざ九州まで出かけることはないでしょう。仲哀が皇位に就くためヤマトに移った後の穴門の宮には、しかるべき人物が配されていたはずです。わたしは武内宿禰ではないかと推測しているのですが、熊襲程度のことなら、そこで始末できることです。この諍いには、高句麗・百済・新羅・加羅諸国など半島諸国との交易関係のあり方や、壱岐ルートと沖ノ島ルートの海上権争いなど、もっと大きな対外政策について意見の対立があり、仲哀はその路線争いに敗れて殺害されたと考えています。


 
仲哀の急死と「胎中天皇」

● 仲哀が死去した後に応神が出生したことは史実なのでしょう。このことは仲哀の没年齢が『記紀』で一致することが立証していることは前述しました。仲哀、神功皇后と応神をめぐる物語は仲哀が突然死去(殺害されたか)し、応神は天皇の死後、それも二年後に出生するという皇位継承に関しての異常事態が発生したため、これをもっともらしく説明し、生まれた応神が仲哀の正統な後継者であることを主張するためにつくられたのが「胎中天皇」物語なのです。

● この物語は九州で応神を産んだ神功皇后が大和へ帰還する日を遅らせ、時間稼ぎするために神功のブレーンが作り、流布させたのであり、後世につくられたものではありません。津田氏が指摘しているように、内容が荒唐無稽に近く、不合理かつ、お伽話的な要素が多いのは、生まれてくる応神が神によって天皇の位を授けられたのと同様に、神功の新羅遠征も神によって助けられたとして、この一件はあくまで神、それも大和に馴染みのない住吉神の意向であるとするためなのです。

● 応神の生誕地は北九州ですが、このような異常事態を説得できたのは、大和から遠く離れた地で起きた出来事だったからで、大和で起きたのでしたら認められることではありません。このことからも応神が北九州で誕生したことは史実だと判断されるのです。

● このように神功伝説は応神生誕の秘密を誤魔化すため生誕の当時つくられたものですが、ヤマト朝廷が応神誕生を疑ったとしても、受け容れざるを得ない事情があり、そして一旦受け容れると決めた以上はその口実として、積極的に物語を広めるよう努力したのでしょう。神功の生存中にこのような物語が流布されたからこそ、神功皇后は広く人口に膾炙する伝説上の人物になったのです。津田氏が言うように物語が欽明の頃につくられたのであれば、物語を世に広めなければならない理由もなく、『書紀』に採録されてから世に知られたのでは、このように早くから有名な存在にはならなかったでしょう。


 
神功は天皇だった

● 神功皇后は応神の摂政とされていますが、仲哀が没した直後に皇位を継いだと考えられます。いくら神のお告げだとしても、これから生まれる予定の胎児を天皇の位につけ、母皇后が摂政に就くなどということは絶対にあり得ないことですから、仲哀の死後は皇后が位を継いだと考えるのが常識的です。もし空位が生じたら、大和のオシクマ、カゴサカ兄弟のいずれかが即位するのは当然で、ヤマトへは仲哀の死の報せと共に神功皇后が即位した報せを届けなくてはならないのです。

● 神功は応神を産んだ後、武内宿禰の助けを得て仲哀の遺児カゴサカ、オシクマ皇子兄弟の抵抗を退けて大和に入るのですが、この神功の大和入りを東征としたり、攻め上ったという言い方がされます。それにしては戦いはあっけなく終わっています。この時代のヤマトは勢力拡張期にあったとみられますから、外部からの侵攻があれば、強力な反撃に出る力を持っていたでしょう。それが、小さな諍い程度で終わったのは、ヤマトと外部勢力との戦いというより、王権内部の争いとして、多くの豪族は戦いの帰趨を見定めようとしていたのではないでしょうか。神功には成務の側近であった実力者武内宿禰がついているだけでなく、天皇であるという大義名分を持っていたことが大きな力となったのです。

● 神功はお産を名目に、大和入りの時期を遅らせていたのですが、大和に上るまで2〜3年、ヤマトは空位になっていたはずで、カゴサカ、オシクマ皇子兄弟による皇位就任がなかったのは不思議としかいいようがありません。両皇子の母親オオナカツヒメは景行の孫とされますが、年代が合わない(景行と仲哀は兄弟)ことや景行に絡んでいることから、わたしは神功皇后とオオナカツヒメは同一人物ではないかと疑っています。

● 神功皇后が応神を産んだのが33歳ですが、初めての子としては遅すぎます。仲哀とオオナカツヒメ(=神功皇后)の間にカゴサカ、オシクマ皇子兄弟があり、その後末子として生まれた応神が皇位継承者とされたのですが、応神の出生を疑う勢力がカゴサカ、オシクマ兄弟を擁して反旗を翻したのではないかと想像しています。しかし神功の年齢から見て(仲哀没時31歳)、カゴサカ、オシクマ皇子兄弟も10歳前後でしかないと推定されるので、神功が遠隔地にあったまま皇位を継ぐことができたことと照らし合わせてみると、ヤマトには有力な後継者が見当たらなかったのでしょう。


 
応神は仲哀の子ではない

● 応神が30歳で394年没ということは生まれが365年、仲哀の死から2年の後になるので大きな問題ですが、『書紀』の紀年引き延ばしの際、七年から九年へと2年だけ延長されていること、さらには『書紀』で神功皇后三年に3歳で皇太子とされていることなど、「2年」が絡む記事が多いことから、2年の空白は確度の高い伝えであって、応神は神功の子ではあっても仲哀の子ではないことはほぼ間違いないといえます。『古事記』が応神の没年齢を30歳(130歳)としているのは、この間の事情を充分承知した上でのことでしょう。

● 仲哀が亡くなったあと神功が女帝として君臨したことは確実といえますが、仲哀の子を身ごもっていたと言う名目が必要だったのは当然です。皇位を継いですぐに大和に向かわないで九州に留まっていられたのも、出産してからと言う理由をつけて、ヤマト側に認めさせたからでしょう。何の理由もなしに九州に居るのは許されないことです。女性の出産は最大の理由になります。しかし、仲哀の没と応神の誕生の間に二年という時間があるのは、仲哀の子を身ごもっていたと言うのはつくり事で、後になって身ごもって、話の辻褄を合わせたと言うことになります。

● 沙庭での神の審判の様子に始まって、「胎中」の応神に神が天皇となることを認めたこと、そして遠征のため出産を遅らせたことなど、すべて仲哀を殺害し皇位を簒奪した行為を正当化し、応神の生まれ月が合わないことを糊塗するための演出で、筋書きを書いたのはもちろん武内宿禰でしょう。この筋書きにあるような新羅の財宝を大和へ持ち帰り、人々に見せて納得させるために、実際に北九州勢力を使って出兵したのが『新羅本紀』に【新羅第十七代奈勿尼師今九年(364)夏四月、倭兵大いに至る】とある侵略ではないかとも想像されるのです。


 
神功皇后は景行の子?

● しかし、いかに武内宿禰が側についていたとはいえ、神功の身分が相応のものでなければ皇位につくことが認められないのは当然です。『書紀』は神功皇后を開化の末裔としていますが、むしろ神功の系譜を整えるために開化が皇統に列せられたのではないかと疑っています。想像を膨らませるなら、神功皇后は景行と岡(遠賀)あるいは伊都の媛との間に生まれ、そこで育てられたのではないでしょうか。このように考えると神功が皇位を継いだことと話が合います。たとえ言い訳するにせよ、応神を仲哀の子としてヤマトの人を騙し通せるものではありません。応神が仲哀の子でないことを疑いながらも受け容れるには、神功が皇統の血をひいていることが決定的に重要です。

● 神功が景行につながる傍証と私が考えているのが神功と日向のつながりです。応神は二度も日向から媛を迎えていますが、このことは神功と日向との間にかなり強い絆が存在することを示しています。神武東征前の都としては年が経ち過ぎているし、それまでの天皇にはなかったことですから急に古い付き合いが復活するのもおかしなことです。わたしは景行が日向の高屋に長年滞在し、現地の女性との間に子をなしていることと、神功が景行の子という関係からではないかと考えています。日向は神功にとって父の故郷なのでしょう。もし神功が神武と全く関係のない系統の出身でヤマトを乗っ取ったとすれば、日向とは無関係のはずです。景行が日向に居を構えたのは始祖神武の故地だったからかもしれませんが、神功の場合は景行を介して日向とつながっていたのです。

● ではなぜ神功はそのまま景行の皇女とされなかったのでしょうか。おそらく北九州の県主の媛と言う母の身分が問題だったのでしょう。それに北九州ではほかの豪族に結びつけて系譜をつくることもできないので、神功の生地を大和に移し、開化をつくりだして、その後裔としてしかるべき身分の母親を持つようにしたのではないかと考えています。想像ですが、皇后が初めて大和入りした時、身元引き受け的な役割をしたのが和珥(春日)氏で、それと引き換えに和珥氏の祖先開化王を皇列に加える取引がおこなわれたのではないでしょうか。和珥氏は応神・反正・雄略・仁賢・武烈・継体・欽明・敏達の后妃を輩出しており、このような豪族は葛城氏、蘇我氏以外にはなく、天皇家と特殊な関係にあります。継体を擁立した物部氏、大伴氏らさえ継体と姻戚関係は結ぶに到っていないのに、和珥氏だけは姻戚となっているという特別な地位が生まれた背景に、河内王朝の始祖に関わる秘密が隠されているのではないでしょうか。

● 武内宿禰は成務と同い年ですから、景行とは2、3歳違いくらいでしょう。戦いに明け暮れる景行に同情し、九州遠征も何かと援助していて、ひょっとすると宿禰は神功が生れ落ちたときから見守っていたのかもしれません。九州に長期滞在する仲哀に神功を娶わせたのは宿禰の仕業とも考えられます。宿禰は何とかして景行の血筋を皇位に就けたかったのだろうと想像しています。景行の生まれを309年、神功の生まれを331年とすると、景行が23歳、おそらく景行の没年くらい、それだけに武内宿禰には思い入れがあったのでしょう。


 
皇后が大陸文化をヤマトに広めた

● 神功が大和に入った4世紀後半の中頃から古墳の副葬品が馬具など大陸系になり、韓史にも倭国との交渉記事が多くなるなど、朝鮮半島との国交が本格化したことが窺えます。当時の北九州は半島との接触も多く、大和より文化先進の地です。神功が大和入りするにあたっては、警備も兼ねて相当数の九州人が同行したでしょうから、これにより九州の先進文化が急速に大和に拡がったと考えられます。また彼らは海人ですから、内陸の大和を好まず、交易のことも考えて海に面した河内に進出したのでしょう。
 
● 神功・応神朝になってからヤマトの文化が大きく変化しただけでなく、半島との国交に積極的になった裏には、九州の先進文化を身につけ、国外を重視する素養を備えていた神功の存在があったのです。天皇となった神功の主導でヤマト政権と半島諸国との国交が始められたのには、神功の里である北九州の王家の助けが大きく貢献したことは間違いないでしょう。



 
むすび

● 最近女性天皇を巡る論議が盛んです。女性天皇第一号は推古天皇とされますが、神功皇后こそ最初の女性天皇なのです。推古天皇は聖徳太子に国政を任せていましたが、九州に生まれ育った神功は異国とも言える大和の地で乳飲み子の応神をかかえて孤軍奮闘し、しかもヤマト国と朝鮮半島各国との国交を開くという画期的な業績を挙げたのですが、「先帝殺害、皇位簒奪」の疑いから『書紀』では天皇の名を奪われ摂政とされてしまいました。

● そればかりでなく、戦後は「学問」の名の下、架空の人とされ、歴史から抹殺されようとしています。このような女帝に復権の光を当ててあげたい。『書紀』では抹殺されながら、明治になって天皇に列せられた弘文天皇(大友皇子)の例もあります。大友皇子と同じ理由で皇統から外された手研耳命、神功皇后、押磐皇子皇子、大郎皇子に歴史上の正しい位置に戻っていただきたいというのが館主の願いです。


 補 神功皇后に関する後世の伝え(森浩一『記紀の考古学』より)
       
 @ 承和十年(843)三月、盾列山陵で二度の山鳴りがした。翌月、朝廷では奇異のこととして図録を調べてみると、二つの盾列山陵の北が神功皇后陵、南が成務天皇陵だとわかった。今までの混乱の原因は、ひとえに口伝に頼っていたからだと述べている。

 A 十世紀には、神功皇后陵と信じられている古墳があって、その古墳は山鳴りなど「神功皇后の祟りがあるたび」に朝廷は使者をだして謝っていた。
「先年、神功皇后の祟りがあった折、弓と剣を誤って成務天皇陵に収めたので、今回改めて神功皇后陵に奉った」と述べている。皇后は十世紀に特別に意識された人物であった。

 B 源頼朝の妻北条政子は夫の死後は尼将軍と称されたように、代々の将軍の後見をしたが、嘉禄元年(1225)七月に死んだ時、『吾妻鏡』は神功皇后の再来としている。

 C 応永二十六年(1419)、対馬に朝鮮の兵船二百隻あまりの大群が来冦したとき、女の武将が活躍して撃退し、それが神功皇后だったという噂が都でひろまったことを、貞成親王は『看聞日記』に記録している。

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