書 籍 の 間

『書紀』研究の歩み

●『書紀』の成立について、岩波大系本解説にはつぎのようにあります。『書紀』編纂の全体を把握するのに格好なものです。

 
第一部 『書紀』成立

@ 『日本書紀』のでき上がった時は、『続日本紀』養老四年(720)五月癸酉の条に、「先是一品舎人親王奉勅修日本紀。至是功成奏上。紀卅巻系図一巻」とあって、明瞭である。ただ、ここに至るまでにどのような編纂の過程があったか。これより八年前の和銅五年(712)にでき上がった『古事記』の撰録と、どういう関係にあったかという点になると、資料が乏しいため的確なことがわからない。古来多くの学説が入り乱れて定説を得ない状態である。

A 『日本書紀』天武天皇十年(681)三月丙戌の条があげられる。その文には、【天武天皇十年三月十七日、天皇は大極殿にお出ましになり、川嶋皇子・忍壁皇子・広瀬王・竹田王・桑田王・三野王・大錦下上野毛君三千・小錦中忌部連首・小錦下阿曇連稲敷・難波連大形・大山上中臣連大島・大山下平群臣子首ら十二人に詔して、帝紀および上古の諸事を記し校定させられた。大嶋・子首が自ら筆をとって記した】とあって、このとき天皇の命によって、帝紀と上古諸事の記定が始まったことを示している。これに関連したことは『古事記』の序文にもみえる。

B 天皇は、初めは稗田阿礼を助手として帝紀旧辞の削偽定実を行ったが、そのことが困難であったので、想を改めて川嶋皇子ら集めた大規模な帝紀旧辞記定事業を始めたのである。

C これが天皇の時には功を了えなかったが、後の代々にうけつがれて、養老四年(720)に『日本書紀』となって結実したのである。したがって書紀編修の初めは天武天皇十年におくべきであるとするのである。

D そうはいっても、天武十年に、のちの『日本書紀』のような史書の形式内容が構想せられていたと考えるのではない。十年のは、あくまでも帝紀と旧辞を正しく記定しようとした事業である。その事業を代々進めていくうちに、おのずから『書紀』のような史書が構想せられたのである。だから、十年の事業は正確にいうと『書紀』の資料の整備である。ただ帝紀と旧辞は『書紀』の資料の核心となったものである。その意味で帝紀旧辞の整備は、『書紀』編修作業の第一の重要な階梯であると思うのである。

E 『書紀』は持統天皇の五年八月に、大三輪氏ら十八氏に、その先祖の墓記を上進させたことを記す。墓記とは祖先の墓誌銘のようなものであろうから、古来の名族たちにその先祖の功業について上申させたことになり、政府で行う帝紀旧辞の記定に対し、新しい資料を追加蒐集しようとする試みであると解するのが自然であろう。

F これによって、持統朝は天武朝の意志を継いで国史編修の事業を推し進めていたと考えてよいと思う。文武朝には際だった動きはみえない。これは大宝律令制定の仕事に忙しく、国史には手が回りかねたのであろう。

G 元明天皇は天武天皇の皇太子草壁皇子の后であったため、天武天皇の遺業の紹述に関心を持ったのであろうか、太安万侶に稗田阿礼の誦んだところを選録させた。和銅五年(712)にできあがった『古事記』がそれである。

H つづいて和銅六年(713)五月には、諸国に風土記撰述の命を下した。『風土記』が『書紀』の記事の材料となったという証拠は、現存の資料では『筑紫風土記』ぐらいしかあげられぬけれども、何らかのつながりが『風土記』と『書紀』の間にあったろうと想像することは許されるであろう。

I つぎには和銅七年(714)二月戊戌、従六位上紀朝臣清人、正八位下三宅臣藤麻呂に詔して国史を撰ばしむという記事が、『続日本紀』にみえている。この記事は多くの人によって『書紀』の編修に関係づけて解釈されるが、これを『書紀』編修の真の始めと解するにしては二人の官位の低いのが気にかかる。

J 筆者は、『書紀』編修の事業を天武天皇十年から断続はありながらも精神的には継承しているものと思うから、この記事はその事業への編修員の追加任命を指すものであろうと解する。

K 和銅七年(714)から六年たった養老四年(720)に『書紀』は完成した。その記事に、舎人親王がこれより先に勅を奉じたとあるので、その先とはいつであるかについても諸説はまちまちであるが、元明天皇の時であるとするのが穏当であろう。

L このように天武天皇の皇子が編修総裁の任に当たったのは、天武天皇の遺業の継承であることが強く意識せられていたからであろうと思う。

M 舎人親王の下で、編集の実務に従った人は、上記の紀朝臣清人、三宅臣藤麻呂の名が知られているほかは明らかではない。『弘仁私記』序には太安万侶の名があるが、どこまでその記事に信憑性があるか疑わしい。太安万侶は『古事記』を撰録した人であるから、かれが『書紀』の編修にも関与したとすれば、もっと『古事記』を主張するような形が『書紀』にあらわれるべきではなかろうか。ところが周知の通り、『書紀』の内容をみると、『古事記』に概して無関心であり、変に無視したような所もみえる。『古事記』に精魂を込めた太安万侶が、こうした『書紀』の編修態度を是認したであろうか。それははなはだ疑わしい。

N ともかく『書紀』の編修は、天武十年(681)に始まり、養老四年(720)に及んだ39年もの長い事業である。初めは帝紀・旧辞の校訂整理であったが、次第に事業を拡大し、正史としての体例を定めたりするのに、多くの時間を費やしたのであろう。

(小島憲之)


 
第二部 研究・受容の沿革(岩波大系本より抜粋)


 
古代における訓古的研究

● きわめて近似した性格を持つ典籍として相前後して著作されながら、『記紀』両書の成立後の運命には、大きな違いがあった。というのは、『古事記』が久しい間ほとんど後人の注目をひかず、十八世紀に入り、本居宣長がその価値を力説するに至るまで、古典として重視されなかったのに対し、『書紀』は成立直後から講書が開始され、その後も常に古典として重んぜられてきて、古写本にも八世紀にさかのぼるものをはじめとし、『古事記』のそれに比べて遙かにその数が多いのである。

●『書紀』完成の翌年に当たる養老五年(721)、早くも宮廷においてその講義がおこなわれ、その講義の内容を記したものとして『養老私記』の名が伝えられている。その後、弘仁三年(812)・承和十年(843)・元慶二年(876)・延喜四年(904)・承平六年(936)・康保二年(965)と、平安朝において六回の講書が行われた。
 講書に当たった博士たちは、漢唐訓詁学の影響を受けた訓詁学者であって、『書紀』の全体的な性格をとらえる姿勢には欠けていたが、訓読・語義等についての実証的説明にその仕事をほぼ限定していた。それらの成果は、「私記」の形で記録され、現代の研究者のために貴重な資料を提供している。

● このような古代講書の成果を集大成したものが、文永十一年(1274)卜部兼文の行った講義をその子兼方が編輯した『釈日本紀』である。その内容には創見とすべきものが乏しいけれど、「私記」をよく集成し、分類整理し、後の世に伝えた功績は大きなものがある。
 そして、書紀に対する古代的な訓詁の学は、この集成事業を以て一応終わりを告げ、『書紀』の「研究」は、従来とは性質を異にする神道家の神学的論議に変じていったのである。


 
中世における神道家の利用

● 鎌倉・室町時代以後の『書紀』は、もっぱら神道家により、神道の源泉としての神典として尊重されることとなった。関心は神代巻のみに集中されて、歴史的記録の部分はほとんど顧みられなくなってくる。もともと日本の民俗信仰は、理論的教義をもたない祭祀の儀礼を主内容とするものであって、「神道」と呼ばれるような思想体系は存在しなかったのであるが、中世に入って、大陸思想を付会した伊勢神道・吉田神道・山王一実神道・唯一神道等の神道教義がはじめて成立し、神道五部書等の「神典」が新しく偽作されると同時に、『書紀』もまた神典として尊重されるようになるのであった。とくに神代紀がほかの諸巻とは格別の取り扱いを受け、注釈書が数多く出現したが、すべて空理空論で埋められており、『書紀』の学問的研究のために、今日読むに値するものはないと云っても過言ではない。


 
近世における学問的研究(注釈的研究)

● 近世における儒学を中心とする学問の興隆は、日本の古典に対する学問的研究の発達をも促した。ことに、国学の成立により日本古典を対象とする文献学的研究が学問の一つの重要な領域を形成するに至ったことや、儒学においても、荻生徂来の古文辞学の創唱、清朝の学会の影響下に発生した考証学派の出現、洋学をもふくむ自然科学や経世論の発展に伴う実証的精神の育成などの事情が相まって、『書紀』に対しても、中世にはみられなかった客観的・実証的な研究を発展させるにいたるのである。しかも、それは古代の講書の場合よりはるかに体系的な形を整えてきたのであって、江戸時代に入って、はじめて『書紀』研究が学問化したということが許されるかもしれない。

● この時代の古典研究の中心作業をなした観のある注釈書の著作のうち、今日まで学問的にもっとも高い位置を占めてきたのが『日本書紀通証』と『書紀集解(しっかい)』である。
 前者は思想的には神道家に属する和学者谷川士清(たにがわことすが)が延享四年(1747)に刊行したもので、字句の訓と義とを典拠にしたがって明らかにしようとした、最初の学問的注釈書である。後者は、漢学畑の学者河村秀根、益根父子二代の努力になるもので、天明五年(1785)の成立である。

●『書紀』は古典の文辞を修めて成したものであるとの前提に立ち、中国の内典外典から典拠とおぼしいものを求めることに、最大の努力が傾注されている。大陸舶載の典籍から字句を多く借用しているのが『書紀』の重要な特色であるから、その典籍の解明に大きな力を注いだ『集解』は、後の『書紀』研究のために計り知れぬ大きな利益を与える成果を遺したのである。
『通証』と『集解』は近世書紀研究史上の二大高峰であるのみならず、今日に至るまで『書紀』全体にわたる注釈書として双璧の地位を失っていないのである。

● しかし、本居宣長が寛政十年(1798)に完成した『古事記伝』に比べれば、古典研究として著しい遜色があることは、否定しがたい。何故ならば、『記伝』が訓義や字義の注解においてきわめて実証的な成果を上げるにとどまらず、古代人の風俗・習慣・思想等についてもすぐれた理解を示したのに対し、『通証』と『集解』からは、そのような歴史的感覚をほとんど看取できないからである。成立以来長年月にわたり忘れられていた『古事記』が宣長一代の努力で、今日なお容易に凌駕しがたい卓越した注釈書を持つに至ったのに反し、多年継続して研究されてきた『書紀』が、かえって『記伝』に匹敵する注釈書を持つことができなかったのは、皮肉な運命というべきだろう。


 
近世における学問的研究(高等批評的研究)

● 近世の学問の実証主義的思考は合理主義の傾向を示し、神典として仰ぎみられてきた『記紀』に対して、批評的眼光を注ぐことにもなった。当時天皇は主権者としての地位を失っており、皇室の起源を説いているが故に『記紀』の神聖不可侵のものとする政治的必要の存在しなかった歴史的条件が幸いして、はじめて『記紀』を合理的な認識の対象として見ようとする態度が形成されたのである。

● 新井白石が享保元年(1716)に著した『古史通』、山片蟠桃の『夢の代(しろ)』享和二年(1802)、上田秋声の『胆大小心録』文化五年(1808)などがあり、神代説話を後世の作為としたり、神代ばかりでなく神武天皇以降仲哀天皇の部分までをも客観的史実の記録とは認めがたいとするなど、後年の津田左右吉の研究とほぼ一致する結論を示すなど、その先駆的意義は高く評価されねばならない。

● 合理主義の精神は、『書紀』の紀年の客観的な不合理性をも看破させるに至った。神武天皇元年辛酉から600年を減じなければ外国との年紀が合わないことをはじめて唱えた藤貞幹の『衝口発』天明元年(1781)に対して、本居宣長は『疳狂人』の一撃を与えてこれを葬り去ろうとしたが、宣長の門人である伴信友さえも、「日本年紀考」(『比古婆衣(ひこばえ)』所収)を著して、『書紀』の紀年が辛酉革命の説によって作為されたものであることの論証を行うに至り、やがて明治の学会でその説はいっそう推進されることとなるのである。


 
天皇主権体制の成立と記紀神話の政治的役割

● 近世封建社会において、比較的自由な学問的批判の対象となり得た『記紀』は、王政復古に始まり、明治憲法の制定によって確立された天皇主権体制の下で、主権者としての天皇の神聖な地位の起源を権威づけるための文献的典拠として絶大な政治的役割を発揮するにいたった。而も憲法と教育勅語とに集約された「国体観念」が、公教育における授業の中で児童・生徒に説示されるようになった結果、「国体観念」の歴史的源泉とされる『記紀』の初伝が、学校教育の普及を媒介として広範な国民層に注入せられるにいたった。

● 古代・封建社会においては、わずかに支配階級や少数知識人の知的教養の一部として知られているに過ぎなかった『記紀』の初伝が、国家権力の強制によってほとんど全国民に浸透せしめられるに至ったのは、有史以来未曾有の現象と云わねばならぬが、とくに神代説話や神武天皇以下の天皇系譜が日本歴史の教科書に歴史的事実として記載せられ、しかもそれが「国体観念」の「淵源」として権威づけられたのであるから、その出典としての『記紀』もまた「神聖な古典」として特殊な権威を付与され、江戸時代のように比較的自由な姿勢を以てこれに対することは困難となったのであった。

● 明治憲法下では、学問の自由は保障されず、「国体観念」の神聖を脅かすおそれのあるような学問研究はきびしく抑制せられていたので、明治以後の記紀研究には、ある点で江戸時代よりもかえって後退した面さえ生じているのである。


 
明治以降敗戦以前における学問的研究

● 明治以降における西洋近代科学の移植による学術研究の急速な進展にも拘わらず、前項に述べたような歴史的条件に制約せられ、『書紀』に対する科学的研究は順調な展開を遂げることはできなかったけれど、そのような情勢の下でも、江戸時代にその萌芽を示しつつあった『記紀』に対する研究は、一部の学者の間で長足の進歩を遂げ、今日に至るまで学会の共同遺産として研究者の共通の基盤となっている優れた業績を生み出したのである。

● 明治二十年代から三十年代にかけて、『書紀』の紀年に対する批判的研究が学会でにわかに活発となり、星野恆・菅政友・吉田東伍・那珂通世らが競って論文を発表した。それは前代に伴信友が企てた試みをいっそう精密に進展させたものであって、『書紀』の所謂神武天皇紀元が辛酉革命説により机上で作為された観念の産物であり、客観的な歴史上の年代に比べて大きな引き延ばしの行われていることが、ほぼ学界の定説化するに至った。それは、もっぱら神武天皇以後のもっとも古い部分に関して論ぜられたところであるが、欽明天皇紀前後の比較的新しい部分の紀年にも問題があり、歴史的事実のためには『書紀』紀年の修正を必要とすることが、久米邦武・平子鐸嶺・喜田貞吉らによって論証せられた。これら一連の研究により、『書紀』の紀年に対する学問的批判が高度に推進されたのは、不朽の功績であったと云ってよいであろう。

●『書紀』の紀年ばかりでなく、『記紀』の伝える神代物語に始まる皇室起源説話、神武以下歴代天皇の系譜、とくにその初頭の部分等に対する批判的研究の形成も、不可避となってきた。明治憲法体制確立以後、『記紀』の科学的研究は困難となり、せっかく江戸時代に山片蟠桃等が示した鋭い問題提起も、久しく忘れ去られる状態が続いたのである。
 
● そのような停滞を打ち破り、『記紀』の所伝に対する徹底した科学的批判を推考して、前人未発の巨大な業績を築き上げたのが、津田左右吉であった。『記紀』の伝える神代および神武以下歴代初頭の皇室起源説話の体系が、素材として民間説話を含み、また歴史的事実を反映する部分もあるにせよ、全体的な構想としては、六世紀前後の大和朝廷の官人により、皇室の日本統治を正当化する政治的目的を持って作為されたものであり、神武天皇以下仲哀天皇にいたる歴代天皇の系譜と共に、客観的史実の記録ではないこと、応神以後の所伝についても、天皇の系譜を除けば、正確な史実の記録からでていない作為された説話・記事のきわめて多いこと、とくに『書紀』については、漢籍・仏典の文章を借りた潤色が多く、天武・持統紀三巻を除くと、陳述史料としてはそのまま信憑しがたい記事の少なくないこと等、今日ではほとんど古代史研究者の常識となっている学会の最大公約数的命題が、津田の一連の著作により、はじめて公然と提示されたのである。

● 津田の研究が、記紀の所伝をそのまま客観的史実となし、これを「国体観念」の「淵源」として権威づけてきた国家権力の基本政策と到底両立しがたいものであったことは明白である。満州事変から日中戦争を経て太平洋戦争に突入する昭和十年代の極端な言論弾圧時代に入ると、津田の研究もついに迫害を免れることができず、昭和十五年(1940)『神代史の研究』等の著作が発禁処分に付せられ、次いで津田は、これらの著作により皇室の尊厳を冒涜したとの理由で有罪の判決を受けるに至った。

 
戦後における記紀の政治的権威の消滅と学問的研究の進展

 略


紀年論の沿革
( 笠井倭人著『倭の五王』より抜粋)

● 紀年論の主な史家の説を掲出しておきます。

 
江戸〜明治期

● 紀年論はこの時期に興り、そして一気に最高水準に達したのです。

[瑞渓周鳳(ずいけいしゅうほう)]
紀年研究は、紀年そのものを対象とするより前に、中国の史書『宋書』『南書』などにみえる倭の五王がどの天皇に当たるかということから始まりました。京都相国寺の住持瑞渓周鳳(1391〜1473)が文政元年(1466)に著した外交史『善隣国宝記(ぜんりんこくほうき)』の中で始めて『南書』の五王関係記事を引用し、履中・反正・允恭天皇等との比定をこころみたのが初出です。

[松下見林]
徳川時代に入り、京都の儒医松下見林(けんりん)(1637〜1703)が元禄六年に出版した『異称日本伝』は古代から明代にかけて出版された中国・朝鮮の書籍の中から日本関係記事を抜粋し、重要な課題については国内史料を駆使して、自己の見解を書き留めたもので、とくに倭の五王については、王名比定にまで進め、以後の研究の定点を樹立したといえます。

[新井白石]
見林の『異称日本伝』から約20年後の正徳六年(1716)、儒学者新井白石(1657〜1725)が『古史通或問』を完成させ、五王比定法を大きく進展させただけでなく、『書紀』紀年への疑惑と『古事記』紀年への信憑性を述べている。笠井倭人はその著『研究史倭の五王』で【『書紀』紀年に対する不信は、今日においては、もはや国民的常識となっているが、その構造性に透徹した史眼を向けた最初の学者こそ、実はこの白石だったのである。】と称賛の言葉を述べています。

[本居宣長]
国学者本居宣長にとって、漢文で書かれ、中国風の編年体をとる『書紀』は許せないものであったようです。それに対して『古事記』は古伝承をそのまま記したものであり、上代の真実を伝えたものとして重視したのです。宣長は【『書紀』の年紀は左右に疑わし】としながら、一方では『古事記』の崩年干支は「漢意のさかしら」とみなし、もともと稗田阿礼が誦習した帝紀・旧辞にはなかったものであり、太安万侶が「一書」によって自ら書き加えたものとして、自説には採用しませんでした。

[伴信友]
本居宣長を師としながら、師とは異なる角度から合理的な紀年研究を進めました。『日本紀年暦考』(1847)において、『書紀』の紀年が讖緯説に基づくこと、神武天皇即位が辛酉年とされたのは『書紀』編纂の時であること、『書紀』の太歳干支が『百済本記』によったものであることなどを指摘し、紀年論に大きな足跡を残しています。

● 江戸時代の紀年論は、『書紀』の紀年への疑念に始まり、それが『古事記』とその崩年干支を尊重するという傾向を生み出したのですが、紀年論に関する大方の方法と視点は既にこの時代に出てしまったといえます。

[修史局派と那珂通世]

● 明治二年(1869)四月、史料編集国史校正局が設置され、明治八年に修史局と改名されました。重野安鐸(しげのやすつぐ)、菅(かん)政友、久米邦武、星野恆(わたる)といった錚々たる学者を抱えて、水戸学派の皇国史観を退け、重野が「学問は遂に考証に帰す」と称えたように、厳密な史料批判に立った学風をつくっていました。
この修史局派と半ば連携しながら明治の紀年論をリードしていったのが那珂通世です。明治11年(1878)に「上古年代考」を発表しましたが、これは「我ガ紀年、信ズルニ足ラザル者、皆安康以前ニ在り」として安康以前の『書紀』の紀年を疑い、朝鮮史料との比較によって神功・応神紀の紀年が干支二運だけ繰り上げられているとしました。これはさらに考説を加えられて明治二十一年(1888)『日本上古年代考』となり、明治三十年(1897)、不朽の名著とされる『上世年紀考』に結実しました。

● 明治二十一年に那珂が雑誌『文』に発表した『日本上古年代考』に対して、修史局の重野は『文』編集部の呼びかけに答えるかたちで自説を発表しました。これは、『古事記』の最も古い写本である真福寺本にみえる分註崩年干支を重視して、紀年訂正を試みたものです。これに触発されて、那珂も『古事記』尊重に傾き、崩年干支の実年代比定を試みています。そして、見林以来の倭王讃=履中説を捨てて、新たに讃=仁徳説を打ち出したのです。また菅政友も『古事記年紀考』(1891)において、崇神天皇以下の崩年干支は「古伝ヲソガママニ伝ヘタル」とし、それに拠って紀年の再構成を試みています。これは、現在では定説化している感じのある崩年干支の西暦比定と同じものですが、成務崩年(乙卯)から崇神崩年(戊寅)までを、干支一運内の37年とするか、2運の97年にするか、『キメ難シ』としながらも、後者を採っています。前者を採れば、崇神崩年は西暦三一八年となります。

[上世年紀考]

● 江戸時代からの紀年論の成果や紀年再構成に統計学的手法を用いる明治の英国大使館外交官アストンの方法も踏まえて総合的に紀年論に挑んだのが那珂の『上世年紀考』です。これに対して、三品彰英は『増補上世年紀考』(1948)の「解題」でつぎのように絶賛しています。

●【そこに使用された資料と、採択された研究法と、又到達された結論とに於て、それが当時までの学会の成し遂げた成果の綜合的最高峰であったばかりでなく、将来の学会に対しても亦動かすべからざる定石を据えられたものと云って過言ではない。】

● 那珂の『上世年紀考』は江戸時代以来の紀年論の到達点といえます。これは六章にわたり、「古代年紀の延長」「暦法の始まり」「辛酉革命のこと」「神功・崇神の二御代の考」「国史と韓史と紀年の比較」「古事記の崩年干支」について、多大な史料を引いて考証しています。那珂は『書紀』の紀年を疑い、それが著しく延長されているのは讖緯説に拠って神武即位紀元を定めたためであり、そのため神功紀は韓史と比較して干支2運繰り上げられているとしました。歴代天皇の没年齢が延長されたのも讖緯説によるとします。その一方、菅政友の説を継承して『古事記』の崩年干支を重視し、それが残されている崇神から推古に至る時代については、外国史料の分析を通じて得られた知見をもとに崩年干支の実年代比定をおこなっています。それは三品彰英が予言したとおり、現在においても歴史学会の「動かすべからざる定石」として君臨しているのです。「倭の五王」の初めとなる「讃」を仁徳天皇に比定したのも那珂に始まり、これも今日では定説化しています。

● 戦後の歴史学から那珂の説に異論があるとすれば、崇神崩年を二五八年としたこと、および、仲哀崩年の壬戌年(362)にみえている「夏四月、倭兵大いに至たる」の記事と関係づけて、神功皇后の新羅征討を肯定していることでしょう。
那珂は、『続日本紀』から延暦九年(790)の「津連真道等の上表文」を引いて、神功・応神の治世が百済の近肖古・近仇首王の時代(346〜384)に当たることを主張する星野恆の説を、「誠ニ不易ノ格言ナリ」と支持しています。『古事記』が伝える雄略天皇の崩年干支「己巳」を「己未」の誤写とし、『日本書紀』のそれと一致させようとしたのも那珂に始まります。これらは、先ず初めに「神功は架空の人物である」として歴史から排除してしまう戦後の歴史学とは違い、那珂が率直に史料に向かい合った上での結論といえます。

● 明治に紀年論が噴出したのは、「万世一系の天皇」を国家の根本においた維新政府が明治五年十一月九日の太政官達によって太陽暦を採用し(明治五年十二月三日をもって明治六年一月一日と改定)、その六日後には神武天皇紀元を制定して、即位を西暦紀元前六六〇年としたことも少なからずあずかっているとみられます。翌年には神武天皇が即位した正月元日を太陽暦に換算して二月十一日とし、紀元節と呼ぶことが定められました。『日本書紀』の紀年に疑念があるにも拘わらず、あえて紀元節なるものを制定したのですから、当然、異論が噴き出して来ます。明治の紀年論の盛行は紀元節制定の賜であったともいえますが、それを学問的な紀年論へと導き、その時代の成果を総括したのは、やはり那珂通世の功績と云わねばなりません。


 
近代 大正〜第二次大戦終戦まで

 ● 明治期に大きく花開いた紀年論ですが、言論弾圧が強まるにつれて花は急速にしぼんでしまいました。冬の時代です。その中で津田左右吉、橋本増吉二人の功績が大きく光っています。津田については紀年論というより、『記紀』全体にわたる論ですから、紀年論としてはわずか橋本一人ということになります。
 橋本は紀年を讖緯説によって再構成する手法を用いて、神武〜允恭のつくられ方を分析しています。後年三品彰英はその著『増補上世年紀考』(1948)において【細かい点での異論はあるが、大筋においては橋本氏の論を認める】としています。

 
現代(私論)

● 戦後「国体」のくびきから解き放たれたはずですが、紀年論の停滞は解消していないように見受けられ、いまだに明治の域を超えないとされています。

● 三品彰英氏は、治世年数を否定あるいは訂正しようとする者がその一方で皇代数を信じていることを問題にして、代数と治世年数の取り扱いを三つの立場に分類しています。

 (1)代数と治世年数とを共に信用して書紀の伝えをそのままに肯定しようとする立場

 (2)二者何れか一を信用し、それによってほかを否定乃至訂正しようとする立場

 (3)二者共に信用し難いとして、ほかに資料を探求する立場

●紀年論が本格化する以前は(1)の立場、それ以降は(2)の立場だとして、氏は(3)の立場を将来に置いて展開されるべき一つの方向ではあるまいかと示唆しています。

● 現代の研究は氏が予見したように【二者共に信用し難いとして、ほかに資料を探求する立場】が主流となっていますが、【二者共に信用し難い】まではよかったのですが、『記紀』二書を捨てて【ほかに資料を探求する立場】をあまりに強くしたため、紀年論研究は迷路にはまり込んでしまいました。つぎの言葉にあるように、紀年論はもう一度『記紀』に戻って、その中に答えを見いださなければならないのです。

●【『記紀』の成立に関する従来の論議は、多く外在資料の評議に終始する傾きにあって、記紀そのものの実態に即した分析研究がおろそかにされがちであったが、客観的に外在的な資料の乏しい事実を確認すれば、文献学的な方法を基礎とする内在的批判の方法とも称すべきものが要求されてくる。そして、この方法をもって、時代的にも内容的にも成立的にも無関係であり得ぬ二書(『記紀』)を研究するとき、『古事記』が『日本書紀』研究の外在資料として利用され、逆に『日本書紀』が『古事記』研究のそれとして利用されるので、その本質の解明に益するところが多い。】(梅沢伊勢三『記紀批判』 1937年)

●【考古学や年輪年代学や数理文献学と云ったものは、紀年論の成果を検証し傍証するものであるが、紀年論そのものではない。紀年論がまず成さねばならないのは、崩年干支と紀年が表現しているものは何であるか、紀年的世界とは何であるかを、『古事記』『日本書紀』という史料そのものと向かい合うことによって明らかにし、その原史料を復元することでなければならない。】(高城修三 『紀年を解読する』 ミネルヴァ書房 2000年)



参考文献

 
 「臣」「連」はどんな姓だったのか/高橋啓二/季刊邪馬台国86号/梓書院

 記紀の考古学/森浩一/朝日新聞社

 研究史倭の五王/笠井倭人/吉川弘文館

 口語訳古事記/三浦佑之/文藝春秋社増補上世年紀考/那珂通世・三品彰英/養徳社

 古事記と日本書紀の成立/梅沢伊勢三/吉川弘文館

 地域と王権の古代史学/原秀三郎/塙書房

 東洋史上より見たる日本上古史研究/橋本増吉/東洋書林

 日本紀年論集/辻善之助編/東海書房

 日本古代国家の成立/直木孝次郎/講談社

 日本古代の氏族と天皇/直木孝次郎/塙書房  

 日本古典の研究/津田左右吉全集/岩波書店

 日本書紀/日本古典文学大系/岩波書店

 日本書紀 全現代語訳/宇治谷 孟/講談社

 日本書紀朝鮮関係記事考証 上・下/三品彰英/天山舎

 日本書紀の謎を解く/森 博達/中公新書

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