言 葉 の 間
八色の姓
太歳 
暦 
舎人親王

讖緯説
帝紀
旧辞


干支
漢風諡号
紀年

八色の姓  
ヤクサノカバネ 

● 天武天皇十三年(六八四)十月に定められた。真人、朝臣、宿禰、忌寸、導師、臣、連、稲置の八種の姓のこと。即日、第一位の真人姓の賜与がおこなわれ、以後翌十四年六月にかけて畿内のウジに第四位の忌寸まで順次賜与されていくが、導師以下の賜姓は実施されなかった。八色の姓の賜与の対象にならなかった人々は、この後も旧来の姓を称したので、「天下の方姓を混(まろか)す」(天武十三年十月一日条)という当初の目標は実現せず、雑多な姓が残ることになった。一方、導師・稲置は計画のみに終わったので、実際にこういう姓は存在しない。しかし実施された忌寸以上の四姓と八色の姓の直前の大量の連姓賜与があいまって、朝廷の官人層の母体となる畿内のウジの範囲とその族姓の大小がほぼ確定された。

● 真人(一三氏)はすべて旧公(きみ)姓で、継体天皇以降の皇別を主体とし、それに応神裔を称し、継体天皇の近親である息長氏系を加えている。

● 朝臣(五二氏)は旧臣姓四〇氏、君姓10氏、連姓氏で、遠い皇別である旧臣系が中心。

● 宿禰(五〇氏)は臣姓一氏を除く四九氏が旧連姓で、その多くは天神・天孫の神別。

● 忌寸(一一氏)は一一氏のうち直姓一氏を除いて残りは連姓であるが、その大部分は本来直姓で、天武朝に連姓を賜与されたウジである。

● 八色の姓は諸氏の出自を基準にすると、天皇家との系譜関係の親疎によって諸氏を序列化したとみることもでき、これによって天皇を中心としたヒエラルヒーを樹立して、皇親の社会的地位を確立したという評価がされている。

● しかし、七世紀後半の氏族政策の流れの中でこれをみると、八色の姓は全体として公・臣・連・直・造といった旧来のカバネの秩序を踏まえつつも、大化の改新以後の諸氏の現実の地位に基づいて大氏・小氏・伴造などの氏上(ウジガミ)を定めて、新たに畿内の諸氏を区分しなおした天智天皇三年(六六四)の甲子の宣の施策を引き継ぎ、それを族姓の一元的な序列化として一層徹底させようとしたものとみられる。
 
● また一方で八色の姓は天武朝の官僚制度化の一環とも位置づけられ、族姓の確定を考選の前提条件にすることにした天武天皇十一年八月の考選基準詔、さらには同年十二月のウジの範囲の確定を目的とした氏上の選定などの政策と一連のもので、「氏姓の大小」を考選の基準とした『浄御原令』考仕令実施の前提となる族姓を確定するという意味を持っていた。

● 八色の姓の忌寸以上が、ほぼ令制の五位以上の官人を出すウジに対応しており、これによって畿内のウジと地方豪族の区別に加えて、上級官人層と下級官人層の出身氏族の差異も明確となり、令制下の支配層の階層構成の基礎が形つくられた。

(吉川弘文館『歴史辞典』より)



太歳 
 タイサイ

 ● 太歳とは木星のこと。木星は天を西から東へ十二年の周期で巡行することから、十二支と結びつけ、太歳干支として年度を表すことがおこなわれました。古代中国の暦法から生まれ、百済本記に用いられていました。


 

● 当時の暦「元嘉暦」と「儀鳳暦」はつぎのような関係にあります。

●「元嘉暦」は宋の何承天(カショウテン)がつくり、元嘉二十二年(445)から施行され、65年間使用されている。この暦はまもなく百済に伝わった。わが国への伝来は、『書紀』によれば、欽明十五年(554)百済から暦博士が来朝、また、推古十年(602)には百済僧観勒(かんろく)が暦本・暦法を伝えたとあるが、宋への遣使や百済との交流を通じて「元嘉暦」が部分的に使われていた可能性も否定できない。一方、「儀鳳暦」は麟徳(リントク)二年(665)に唐の李淳風(リジュンプウ)がつくり、64年間使用されている。わが国では持統六年(692)から六年間「元嘉暦」と「儀鳳暦」が併用され、文武二年(698)以後は「儀鳳暦」が単独で使用された。(小川清彦『日本書紀の暦に就いて』1946年より)



舎人親王  
トネリシンノウ

●【天武の第三皇子(註)で天武五年(676)生まれ、天平七年(735)、60歳没と伝えられる。母は天智天皇の皇女新田部、子の大炊王は後の淳仁天皇である。奈良時代初期には皇室の長老として尊敬された。日本書紀編纂の責任者として著名。日本書紀完成から3ヵ月後、右大臣藤原不比等が没すると、知太政官となり、太政大臣を統括する立場に任命され、薨去までその位にあった。元正・聖武2代の天皇に皇親として仕え、奈良時代前半の皇親政治の中心的存在であった。神亀五年(728)に詔を出したとき、右大臣長屋王より上の位置に署名して、稀有なこととされているが、天武天皇の皇子として政治的権威を持っていた。没後太政大臣を贈られた。758年、子の大炊王が淳仁天皇として即位したのに伴い、翌年、「崇道尽敬皇帝(スドウジンケイコウテイ)」の称号を追贈された。】

●701年当時、兄二人はすでに他界(686年大津皇子。689年草壁皇子)しており、発言力は強くなっていたと考えられます。当時は二品。『書紀』完成を目前に控えた養老二年(718)、一品となりました。(朝日新聞社刊『歴史人物辞典』より)



讖緯説  
シンイセツ

●「讖」は未来の予言、「緯」は儒教の経書の経(タテイト)に対して、それを補うものとしての緯(ヨコイト)の意味で、七経と『論語』について、それぞれ緯書がつくられた。中国において前漢の末より盛んになり、六朝にかけて多くの緯書がつくられたが、隋の煬帝が緯書を焼却したため、現存するものは少ない。唐以後は次第に排除されるに至った。この思想はいろいろな要素を含み、王の徳に応じて天皇より命が与えられ、暦数・暦運によって帝王の政治が変化するという時令説、政治と自然現象の間に天の遺志が存在するとして、帝王の徳が高く、善政を敷けば瑞祥が現れるが、悪政をおこなえば天災地変が起こるという、天人感応説、そのほかわが国で強調されたのは災異瑞祥説で、暦数による甲子革令、辛酉革命、すなわち十干十二支の組み合わせによって、甲子の年は政令を改める、辛酉の年は天命が改まるとされた。(吉川弘文館『歴史辞典』より)


帝紀 
 テイキ

●『古事記』序文では帝紀は帝皇日継・先紀などと書き換えられています。帝皇日継という言葉は、帝紀が歴代天皇の皇位継承の次第を記した記録であったという性格をよく示しています。また『書紀』の欽明二年三月、皇子女を列挙した条の分注には、『帝王本紀』というものを引用して、【その書はしばしば伝写される間に誤りを多く生じ、本によって兄弟の順序が乱れている】ということを述べています。この帝王本紀は帝紀と同類のものであるとみてよいでしょう。帝王本紀に異本が多くあったというのは、『古事記』序文に帝紀や旧辞には異本が多くあったというのに全く合致するからです。

 ●帝紀の具体的な内容は、『古事記』の文から推測して、天皇の名、皇居の所在、治世中の重要事項、后妃・皇子女の名、それに関する重要事項、天皇の享年、治世の年数、山陵の所在などであったろうとみられます。(岩波大系本より)



旧辞 
 キュウジ、クジ

●『古事記』序文では本辞・先代旧辞などともいわれます。旧辞の内容は帝紀と同じように、『古事記』の文から推測するほかありませんが、まず神代の諸伝説、歴代天皇の巻巻の諸説話、歌物語の類だろうと考えられます。これを伝承の性質から分類すると、第一に祭祀に関連して伝えられたもので、祭祀の思想を内容とするもの、天の岩戸、天孫降臨の物語の類、第二に、氏族によって伝えられたもので、氏族の歴史を内容とするもの、中臣氏の伝えた建御雷神の物語、猿女氏の伝えた天宇受売(アメノウズメ)、仁徳紀の雁の卵、枯野の船などに分けられるというのが、武田祐吉氏の説です。(岩波大系本より)


姓 
 カバネ 

●  =皇別と称する諸氏が持ち、姓の中でもっとも尊重されたが、天武天皇のとき、臣の一部は朝臣(第二位)に昇格、元の臣は第六位の姓となる。

● 連 =大和朝廷時代の主として神別の諸氏が称した。臣と並ぶ有力豪族が多く、大伴連・物部連からは大連が任ぜられて朝政を担当。天武天皇が八色の姓を制定するにおよび、大伴・石上(物部)ら有力な連は第三位の宿禰に昇格し、ほかは第七位となる。

● 君・公 =主として継体天皇以後の諸天皇を祖とする公姓十三氏は、天武天皇の時に真人と賜姓され、八色の姓の第一等となった。君姓の者は多く朝臣と賜姓。

● 朝臣 =八色の姓の第二位。主として皇別の氏に与えられ、平安時代以後、皇子皇孫に与えられた。

● 直 =国造に多く大化の改新後、郡司とその一族に多い。

● 別 =主として古来の地方豪族が称した。

● 神別 =『新選姓氏録』にみられる分類で、古代、神々の子孫と称した氏、たとえば天児屋命アメノコヤネノミコトを祖先とした藤原氏の類。

(広辞苑より)



干支 
 カンシ、エト

● 十干十二支のこと。[カンシ]と読み、幹枝の意で[エト]は俗称。中国の原子説五行『木火土金水』を陽の兄(え)と陰の弟(と)に分けた十干 甲(コウ・カッ・きのえ)乙(オツ・イツ・きのと)丙(ヘイ・ひのえ)丁(テイ・ひのと)戊(ボ・つちのえ)己(キ・つちのと)庚(コウ・かのえ)辛(シン・かのと)壬(ジン・みずのえ)癸(キ・みずのと)と十二支 子(シ・ね)丑(チュウ・うし)寅(イン・とら)卯(ボウ・う)辰(シン・たつ)巳(シ・み)午(ゴ・うま)未(ビ・ひつじ)申(シン・さる)酉(ユウ・とり)戌(ジュツ・いぬ)亥(ガイ・ゐ)を組み合わせた紀年法です。

● 年の表示は甲子の次が乙丑、丙寅、丁卯と進み、10年目は癸酉で、十二支は二つ余りますから、次は甲戌、乙亥となっていきます。十干が一順するごとに十二支は二つずつずれて、六十年で一巡(61年目で元の甲子に戻ることから、還暦という言葉が生まれた)するので、これを一運といい、二十一運(1260年)を一蔀ホウといいます。『書紀』は例えば「雄略天皇元年春三月庚戌朔壬子(三月一日が庚戌で壬子の日という意味で、庚戌、辛亥、壬子と続きますから、三日ということになります。月は干支と関係ありません)」というように年の表示は元号紀年により、日付は干支によっています。

● 読み方ですが、「え(兄)」の時、たとえば甲寅はキノエトラと続けて読みますが、「と(弟)」のとき、たとえば乙卯はキノトのウと「の」を入れて読みます



漢風諡号  
カンフウシゴウ

● 天皇の名は現在でも漢字2字でつけられますが、このようになったのは『書紀』完成後の八世紀後半、淡海御船(三船)がそれまでの天皇につけてからのことで、それまでは大泊瀬幼武天皇(オオハツセノワカタケスメラミコト 雄略天皇のこと)というように和風の諡号でした。また天皇という称号も七世紀頃からで、それまでは大王(オオキミ)と呼ばれていたようです。ちなみに淡海真人御船は壬申の乱で天武天皇に殺害された大友皇子の曾孫です。


紀年 
 キネン

●「紀年」とは「元年からの年数」のことです。『書紀』はすべての天皇に「紀年」を記していますが、このように元年から数えるようになったのは、かなり後になってからのことと見られます。

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