館主002  邪馬台国大和論のからくり

 
はじめに

● 邪馬台国に関する論争のタネはいろいろあるが、所在地に関しては九州とすることで余り論争のタネになることはなさそうに思える。郡から最も遠い邪馬台国までが一万二千里、倭国本土の末盧国までが一万里であることは明記されている。

● 末盧国が現在の唐津に比定され、そのことに大きな間違いがない以上、残り二千里の範囲に邪馬台国があるのだから、一里の長さに問題があるにせよそれまでの距離の比率からみて九州あるいはその近辺でしかあり得ないことは明らかである。このようにわかりきったことでありながら、邪馬台国畿内大和説は学会を二分する支持を得ているのである。

● 一体どのような根拠、あるいは論理でこの簡単な引き算の結果を変えることができるのだろうか。本稿では山尾幸久(やまおゆきひさ)氏と高城修三(たきしゅうぞう)氏、二人の大和論者の説をとりあげ、このマジックともいえるロジックを解明してみた。

T 山尾幸久・高城修三説の共通点

● 山尾氏の著書『魏志倭人伝』(講談社現代新書)が出版されたのが1972年、高城氏の『大和は邪馬台国である』(東方出版)は1998年である。山尾氏は日本古代史の学者であり、高城氏は作家であるが、紀年論や神武天皇に関する著もあり、古代史に造詣が深い。

● 著作の年月も離れ、専門家と非専門家でありながら、二人の論には非常に共通点が多い。高城氏は山尾氏の名を挙げていないから、おそらく独自に到達した結論なのだろう。

● それぞれが独自に研究し考察して同じような結論に達するということは、邪馬台国が大和にあるとするには、答えの範囲が限られていることを示していると考えて、この両氏の論を採り上げてみた。両氏の論の共通点をまとめてみよう。

1 伊都国から邪馬台国の一千500里は長里

● 共通点のひとつは、郡から邪馬台国までの一万二千里を伊都国までの一万500里と伊都国から邪馬台国までの一千500里に分け、伊都国から先、残り一千500里を一里=435b(以下「長里」とする)で計算することである。

● こうできれば距離は650キロになるので、九州から畿内大和の距離にほぼ等しくなる。倭人伝の距離記事から邪馬台国の所在地を畿内大和とするにはこの方法しかないことは明らかであり、大和論者の多くはこれを用いている。

● 通常であれば、郡から邪馬台国までの一万二千里は「陸行」「水行」の別はあるものの、距離自体は同じ基準で計測されたものと考えるだろう。ところが両氏は一万二千里という数字を伊都国までの一万500里と伊都国から邪馬台国までの一千500里を切り離し、一万二千里は性質の異なる数字が合算されたものとするのである。

● 郡をソウル付近と仮定して、海岸伝いに釜山に回り、九州北西の伊都国までの実距離は一千キロあまりであるから、ここまでは一里=100b(以下「短里」とする)程度である。伊都国を境になにゆえに一里=435bとなるのかが問題である。

● 山尾氏は一万二千里すべて「長里」だとしているが、伊都国までの旅程が四〜五倍も長くなり、その多くなった日数を基に距離を算定したので、本来なら二千里から二千500里くらいとされるべきところが一万500里とされたとする。残り一千500里は通常の日数から計算されたとする。

● 高城氏は前者が「短里」、後者は「長里」で、その混在に気づかなかったことが論争を長引かせているという。

2 伊都国からの一千500里は倭人からの聞き書き

● 伊都国までの一万500里と伊都国からの一千500里の算定が異なる理由として両氏が挙げているのは「郡使は伊都国までしか行かなかった」ので、伊都国から先の行程に関しては倭人からの聞き書きによるとする点で一致している。両氏の説の最大のポイントである。

3 一千500里としたのは、史書の編者

● つぎのポイントが「伊都国から邪馬台国までを一千500里としたのは、史書の編者」とすることである。

● 郡使は伊都国から先は自分で行かなかったので倭人から聞いた日数のみを報告した。その日数を「里」に換算し、「一千500里」としたのは、史書の編者であるとするのである。

● したがって、一万二千里という数字は、『魏志』倭人伝などの史書が成立して初めて知られた数字であって、それ以前は知られていなかったということになる。

4 報告は梯儁のときだけ

● 倭国を訪問した帯方郡の郡使は、詔書と印綬を届けた梯儁と狗奴との紛争時の張政の二回だけとし、倭人伝の記事はすべて一回目に訪問した梯儁の報告によるとすることも両氏に共通する仮説である。

● 他の細々した点で異なることもあるが、距離に関する重要な点でふたりの論はほぼ一致すると言ってよいだろう。



U 仮説の検証

● では、これら四つの仮説が成立するか検証してみよう。

1 「一万500里」と「一千500里」は異なる基準でつくられた

(1)山尾氏の説

 @ 郡〜伊都国の1万500里

 @ 郡使は、少なくとも郡から末盧までの船行を、すべて日数で報告した。それを「里」に換算したのは郡の事務方である。

 A 郡使らは、目的地までひたすら直行したのではなく、上陸して自然・人文の諸相を見聞するのに相当の日数を費やした。このため通常の四〜五倍の日数がかかった。

 B 航海のみに費やした日数と止まっていた日数とが判然としなくなった。

 C このため、すべての日数を航海に費やしたとして報告したのが里数に換算されたので実距離とは異なる長大な距離になった。

 A 伊都国〜邪馬台国の一千500里

 @ 倭人から聞いた「水行十日、陸行一月」をそのまま報告した。

 A それを一千500里としたのは『魏書』の編者王沈である。

(2)高城氏の説

 @ 郡〜伊都国の一万500里

 @ 帯方郡とそれに属していた倭・韓の地では、道里に「短里」=「町里」(一町=百b)が一般的に使われていた。郡使は「町里」によって計測、記録した。

 A 伊都〜邪馬台国の一千500里

 @ 高城氏は、榎の放射状説はとらない。累積方式である。

 A 「南邪馬台国に至るには水行十日、陸行一月」は「水行十日」と「陸行一月」の間に「以上の道里は」の文言が欠落している。

 伊都国から投馬国まで水行二千里(奴国、不弥国までの二百里はこの中に含める)と邪馬台国への水行十日を合わせて水行三十日が大和への行程である。

 B この三十日の水行を一日五十里と唐の規程(『唐六典』)によって一千500里としたのは『魏志』の著者陳寿である。

 C 「陸行一月」とあるのは、伊都国から邪馬台国までの行程で、「水行」と併記したものである。つまり、水行は投馬国までの二十日とその先の邪馬台国までの十日に分けて記載してあるが、「陸行」は補助手段なので、伊都国から邪馬台国まで通しの行程として記載されたのである。

(3)山尾説の検証

 @ 氏は使者梯儁の任務について大きな考え違いをしている。梯儁は魏王から倭王に下賜された「倭王であることを認める詔書」と、「親魏倭王の印綬」の二つを、魏王に変わって女王に手渡すという重大な役目を帯びで下向するのである。

 途中の事故を防ぐ意味からも、行程はできるだけ短くするのが心得である。寄り道をしない場合に比べ四〜五倍もの日数をかけることはあり得ない。

 どうしても調査が必要ならば、帰途におこなえばよいことである。

 また、仮に調査をおこなって日数が延びたとしても、留まった日と移動した日が分からなくなることは考えられない。公式の旅であるから、記録担当者がついていたはずである。

 A 末盧国までの行程について郡使梯儁が日数で報告したものを、事務方が「里」に換算したとするが、なぜ末盧国まで換算して、投馬の「水行二十日」や邪馬台国の「水行十日、陸行一月」は換算しなかったのか説明が必要である。

 また、費用の計算は日数によるから、事務上里数を日数に換算することはあっても、日数を里数に換算することはないだろう。

 B 氏は通常の行程として水陸とも一日四〇里(十七キロ)としている。

 伊都国までの一万500里を逆算すると二百六十二日かかったことになるが、仮にこのように長い日数がかかり、長い距離とされたとしても、つぎに張政が出張する際、前回の記録を参考にするであろうから、歩いてみればその異常さに気づいたはずである。

 また、張政は争いの調停に出向いたのであるから、往路は急いだだろう。当然梯儁の記録と大きく食い違ったはずである。その報告を無視するような事務方ではあるまい。それでは仮説が成り立たなくなるので、張政による記録の補正はなかったとするのだろう。

 C 伊都国からの行程についても同様である。梯儁は行かなかったとするが、もし行っていれば、伊都国までと同じゆっくりした旅を続けることになり(倭国内に入ってからも伊都国までゆっくりと旅をしたとしているので、伊都から先は倭の国内だから視察しなかったとはできない)、通常の四〜五倍の日数が報告されるのであるから、距離は六千里以上になってしまうことになる。それでは具合が悪いので行かなかったことにしたのだろう。


 以上のように、山尾氏の一万500里についての仮説は成り立たないことが明らかである。一千500里については「郡使は伊都国までしか行かなかった」の項で検証する。

(4)高城説の検証

 @ 帯方郡・韓国・倭国には、一町=百bを一里とする「町里」が存在したとする。日本には「町」という単位が未だに使われているから一応認めるとしても、それが帯方郡や韓の地にまで適用されていることについて全く論拠が示されていない。

 特に帯方郡は中国の植民地である。そのような性格のところが、本国と異なる「尺度」を用いるには、相当な理由がなくてはならない。

 仮に帯方郡が統治する朝鮮半島南部に「町里」が存在していたとしても、中華思想により自国文化に絶対の誇りを持つ中国人が、郡の報告書に東夷の単位を使用することは考えられない。

 A
 朝鮮半島南部から倭国にかけての広い範囲で距離単位「町里」が使われていたのであれば、対馬国や壱岐国の役人は自島の大きさを「町里」で把握しており、それを郡使に伝えただろう。

 そうすれば南北に細長い対馬島を「方四百里」としたり、対馬島の四分の一しかない壱岐島を「方三百里」などとすることはなかったろう。一町=百bとすれば対馬島は南北が七百(町)里、東西が百五十(町)里、壱岐島は方百五十(町)里くらいなのである。

 また末盧国から伊都国までの500里だが、末盧国を唐津市に比定する意見もあり、唐津〜伊都は三十キロ、三百里になる。

 このように倭人伝の里程が実測に基づくものとは言いがたいのである。

 B
 伊都国から先の距離を累積とするのはよいのだが、投馬国から邪馬台国までの「南投馬国に至るには水行二十日、南邪馬台国に至る、水行十日、陸行一月」とある記事を、「水行」は累積法で三十日としておきながら、「陸行一月」は伊都国から邪馬台国まで放射状的に読むとするのは、読み方の上から肯んじられるものではない。「南邪馬台国に至る、水行十日、陸行一月」はひとつの文章だろう。

 「水行十日」と「陸行一月」の間に「以上の道里は」の文言が欠落しているというが、自説に都合のよいように文言を加えたり削除するのであれば、どのような説も成り立つことになってしまう。このように恣意的な修正は認められるものではない。

 前述した山尾氏の「ゆっくり旅行」も珍説といえるが、この高城氏の論も奇論に属するだろう。

 話が逸れるが、山尾氏には珍説がもう一つある。

 氏は【其北岸狗邪韓国に至る】を説明するのに、【其北岸】とあるのは韓国の南岸=倭の北岸であるという説を展開している。

 海が「岸」であるというような説は外務省の役人なら随喜の涙を流すかも知れないが、「岸」という字は、水に削られた陸地(崖)を意味するというから、漢字の専門家が聞いたら目を回すだろう。閑話休題。


 C
 延喜式の出張規程(「主上計」)に都と太宰府は船の場合三十日と規定されているので「水行三十日」に一致すると言うが、邪馬台国時代は帆のない手漕ぎ丸木船だとされる。十世紀の船との一致を論拠にするのは無意味ではないだろうか。

 D
 氏によれば、伊都国から奴国までの距離を倭人に尋ねたところ「半日もかからない」と聞いたので、郡使が「一日二五〇町から計算して百里としたのだろう」と書いている。

 倭人から聞いた日数を距離に換算していたのであれば、投馬国までの「水行二十日」も換算して五千里と書かなかったのはなぜだろう。邪馬台国までの「水行十日」を二千500里となぜ書かなかったのだろう。

 「水行」は日数だというかもしれないが、陸行一月は七千500里と換算してよいはずである。推理の組み立てとして、非常にご都合主義なところが目立つ。

 E
 山尾氏は距離に関しては事務方に「丸投げ」しているが、高城氏は、不弥国までの距離は「里」で記録したとしているのである。そうなれば全体の距離をつかもうとするのが郡使の役目ではないのか。ここで換算して七千500里としては具合が悪い。あくまで史書編纂者の仕業にして、一千500里としなければならなかったのだろう。

2.「郡使は伊都国までしか行かなかった」

(1)山尾氏の説
   長旅の上、さらに「水行十日、陸行一月」もあると聞いて断念した。必ずしも女王を訪問しなければならないというような詔ではない。

  氏は、二回目の使者張政は邪馬台国に行ったとしているが、里程に関する梯儁の報告を修正するような報告はなかったとしているので、実質的には行かなかったのと同じことになる。

(2)高城氏の説

 倭人伝に伊都国は「郡使往来常所駐」とある。国内深くまで郡使を入れることを警戒し、伊都国に止め一大率が監視した。

(3)山尾説の検証

 @
 伊都国までの距離について山尾氏の説明によれば、一万500里は日数から逆算したものであるという。氏の言う一日四〇里とすると末盧国まで二百五十日、そこから伊都国まで十二日、合計二百六十二日を要したことになる。

 たとえ「上陸して自然・人文の諸相を見聞するのに相当の日数を費やした」にせよ、そのような長期間旅を続けたのか疑問の第一である。

 A
 そして二百六十二日にくらべれば、その先の四十日は短いというべきで、断念する理由にはならないのが第二の疑問である。

 B
 第三の疑問は氏の使者梯儁の任務についての考え方である。

 郡使梯儁が倭に渡った目的は、統治するための現地視察などではない。梯儁の任務の第一は魏王から卑弥呼に下賜され、帯方郡太守に仮授された詔書と「親魏倭王」の金印紫綬を女王の手に確実に渡し、そのことを魏王に報告することである。

 倭国の使者難升米は京に詣で、魏王の引見を受け、魏率善中郎将とされた人物である。それほどの人物であっても、魏王は印綬と詔書を渡さなかったのである。詔書と印綬は目録のみ倭使に渡し、実物は郡に仮授された。仮受した帯方郡太守は詔書・印綬を間違いなく女王の元に届ける責任を負わされたのであり、梯儁はその責任を全うするためわざわざ倭国まで出張したのである。

その任務は魏王の代理として直接女王の手に詔書・印綬を渡すことによって全うされる。詔書と印綬は魏との冊封関係を確認し、かつ、その地の支配者であることを承認する重要な品である。決して他人任せにできるものではないからこそ、たとえ倭国の重臣であったとしても使者には渡さなかったのである。梯儁が勝手に渡す相手を変えることは許されないのである。

詔書と印綬を受け取るとき、女王卑弥呼は臣下として振る舞わねばならない。玉座に座して受け取ることは許されないのである。そのような品を自分の部下から受け取ることはありえない。

 氏は詔書と印綬の重みを無視し、使者の役割を軽んじている。伊都国から先、「邪馬台国」までの道のりが長いからといって、そこで倭の役人の手に委ねてしまうのでは特命大使として倭国まで出張してきた意味がなくなってしまう。それでは女王に印綬が渡ったことが確認できないからである。

 梯儁が倭人高官に渡した後「水行十日、陸行一月」もの長旅があれば、途中何が起きるか分からない。海難ならば海底に沈むだけだろうが、盗賊などに奪われれば一大事である。印綬・詔書を運んできた郡の使者梯儁が帯方郡の建中校尉という軍の将校であったのは、そのような、あってはならないことを防ぐ警備隊長の役割を持っていたからとも考えられるのである。

(4)高城説の検証

 @
「山尾説の検証」と同じである。

 A
郡使は現代の大使であるから、倭国に滞在する間は女王の都に駐まるのが当然だろう。

 国情を探られたくないため伊都国より先に郡使を入れたくないというのであれば、詔書と印綬の受け取りに女王が伊都国まで出てこなければならない。

 氏は郡使を警戒する理由として【わずか二年前に公孫氏が魏の討伐を受けて滅んだことや、太守が兵を起こして何かと高句麗や三韓に干渉するのを知って】とするが、女王卑弥呼が郡に行ったのは郡との往来を遮っていた公孫氏が滅び、郡戸の交通が復活するのを待つようにしてのことである。

 干渉されるのを嫌うのならば、わざわざ郡に乞うて洛陽まで使者を連れて行ってもらい、冊封の詔書や印綬を受けることはしないだろう。また、狗奴との争いに際して、戴斯烏越を郡に送って窮状を訴え、張政の来倭を仰いだことからも、「干渉を避ける」方針でなかったことは明らかである。

 B
 張政は狗奴国との争いから卑弥呼の死、臺与の擁立までかなり長期にわたって滞在していたことは張政が帰国するとき、新女王の臺与が【掖邪狗ら二十人を遣わし送らせた】とあることから明らかである。

 張政は二四七年に紛争解決のため倭国を訪れて以来、そのまま留まっていたのであり、この間卑弥呼の葬儀には必ずや参列しているであろう。郡使が滞在していながら女王の葬儀に参列しないことはあり得ないことである。

 径百余歩の冢や殉葬の奴婢百余人の記述もこのときの実見にもとづくものだろう(百余歩、百余人は修飾があるだろうが)。この一事からも「郡使は伊都国までしか行かなかった」とする氏の仮説は成立しないのである。

3.「日数を一千500里と換算したのは、史書の編者である」

(1)山尾氏の説

「水行十日、陸行一月」四十日を一千500里としたのは『魏書』の編者王沈である。

(2)高城氏の説

「水行三十日」を一千500里としたのは陳寿である。なお、延喜式に「都〜太宰府は船であれば三十日」とある。また「陳寿がその陸行一月から、『唐六典』に見える「陸行一日50里」という公務出張の規定を援用して伊都〜邪馬台国間の里数を求めたという榎の推定は間違っていない」としている。

(3)両説の検証

@ まず「日数を一千500里と換算したのは、史書の編者である」ということは「一万二千里という数字は、『魏書』や『魏志』が成立して初めて知られた数字」ということになるが、「一万二千里」「七千里」という数字は『魏志』以前から史書にあったものと推定される。

『後漢書』に【其大倭王居邪馬台国、楽浪郡徼、去其国、万二千里、去其西北界狗邪韓国、七千余里】とある。

『後漢書』総序の部分は『魏志』によったといわれるが、上記の部分は『魏志』倭人伝の【従郡至倭循海岸水行歴韓国乍南乍東到其北岸狗邪韓国七千余里】に比べ、表現が正確である。

 倭人伝は【従郡】とするだけで郡治からなのか郡境からなのか不明確だが、『後漢書』は【楽浪郡徼(境)】からとしており明確である。また狗邪韓国についても倭人伝は【到其北岸狗邪韓国】とあって、【其北岸】をめぐって多くの論議を呼んでいるが、『後漢書』は【去其西北界狗邪韓国七千余里】としているから狗邪韓国が倭国の西北端にある国であることが明瞭である。

『魏志』の方が早く成立したとしても、『後漢書』の編者が『魏志』の記述に疑問を抱き、正しくしたのであれば、その原史料が存在したのであり、やはり『後漢書』の記事を優先せざるを得ない。以上のことから推して、「万二千里」は『魏志』以前から知られていたことと言えるのである。

 A
 また「日数を一千500里と換算したのは、史書の編者」とすることは次の点でも疑問がある。

 山尾氏は一日の行程は水陸とも四十里としているから、氏が計算するのであれば一千六百里になったのだろうが、王沈がどのように考えて一千500里としたのかは不明である。いきなり一千500里という数字が出されている。この程度の差はおかしくないが、偶然にせよ、王沈と陳寿という別々の人が計算したのに同じ数字になるのは奇妙としかいいようがない。

 とくに山尾氏が「水行十日、陸行一月」の40日を対象として計算したとするのに対し、高城氏は水行30日、あるいは陸行30日を対象とした、としているように基礎の数字が異なるのに、同じ一千500里となるのは、答えが先にあったと見なされても致し方ないだろう。

 B
 また、高城氏の「陳寿がその陸行一月から、『唐六典』に見える「陸行一日五十里」という公務出張の規定を援用して伊都〜邪馬台国間の里数を求めたという榎の推定は間違っていない」としているが、陳寿は二九七年に死亡しており七世紀〜八世紀の『唐六典』を援用することはありえない。この部分は何かの間違いだろうと思いたいが、一千500里とした根拠でもあるので無視はできない。

4.「倭人伝の記事はすべて梯儁の報告による」

(1)山尾氏、高城氏の説

 両氏とも郡使の訪倭は倭人伝に記された二回だけとする。

(2)検証

 @
 倭人伝は「郡使往来常所駐」としている。「常に」とあるが、梯儁が初めての使者であり、都合二回しか往来していないのであれば、このような書き方はしないだろう。郡と倭国との往来は楽浪郡のころからであり、郡使は何回も訪れていたのである。

 梯儁・張政の訪倭が記録されたのは、二人が特別な任務を帯びていたからだろう。記録はされていなくても、通常の視察で倭を訪れた郡使は、邪馬台国を表敬訪問しているだろう。それが大使の役目である。

 A
 また、張政が出張していながら、その報告が梯儁の報告に反映されていないとすることも疑問である。

 倭人伝の伝える情報は多岐に渉っており、一、二回の訪問で調べたものではない。中国は記録を大切にする。その中でも地理に関する情報は軍事上重要なものである。中国の持つ地理知識は、繰り返し報告された知識の積み重ねであり、一人の記述によることはないと考えられる。

 各地に出向く者は、その職務に関係なく、通行する地や目的地の情報を集め報告するのが職務の一端だったのである。報告者も正確を期するため、現地の人の情報を聞き、自分の目で確かめることを怠らなかったであろう。自分の提供した情報が国家の行動に直結するのである。決してゆるがせには出来ないことなのである。

5 補:「方位」について

  倭人伝は邪馬台国の方角を「南」としている。大和は「東」であるから、距離だけでなく方角についても見解が求められる。
(1)山尾氏の説

倭人が、上記行程のように遠いところを、どうして「南」などと大観的な言い方ができようか。

(2)高城氏の説

方位は日の出により知った。

(3)山尾説の検証

 @
 倭人は大観的な方角をつかめないというが、これは机上で物を考え、実際に歩いたことのない人の言うことである。

 梯儁が邪馬台国までの道程を尋ねた相手が難升米だとしてみよう。彼は少なくとも数回、伊都と邪馬台国の間を往復していることだろう。邪馬台国が畿内大和だとすれば、九州から大和までの方向は真東に一直線の、非常にわかりやすい地形であるから、曲がりくねった道を歩いても、全体として東に進んでいることは分かる。

その道を「水行十日、陸行一月」進み、九州に向かうときは四十日間真西を目指して進むのである。こうしたところであるから、一回でも歩いたことのある人なら大和を「南」という筈がない。

 A
 現代人である我々は、歩く場合には常に地図や案内標識をあてにしているが、古代人たちは太陽や特定の山などを案内標識として、常に方向に注意を払い、進んだ距離を記憶して進行方向を「大観的」に把握していただろう。こうしなければ、目標に向かって正しく行くことも出来ないし、元の所に帰ることも出来なくなってしまうのである。

 旅をする上で方向は最も正確さを必要とする情報なのである。

 B
 また、陳寿らが「倭の地が東西に横たわっているのを南に延びていると考えていた」とするが、郡使が東に向かって「水行十日、陸行一月」したと報告していれば、その認識を改めているはずである。

 「南に伸びている」認識が変わらなかったのは、「東に向かった」という報告がなされなかったからである。

 C
 別のところで「最初の郡使梯儁は伊都から先に進まなかったので、倭人から聞いたそのままを報告した」としている。そして「二度目の使者張政は邪馬台国に行ったのだが、距離や方向、戸数などについて前回の報告を修正する事項はなかった」としている。

 しかし、張政らも伊都国を出発する前に大体の旅程は尋ね、同じような答えをもらったことだろう。とすれば、前述したように九州から大和に向かう方向は非常に分かりやすいから、案内をした難升米らの方向認識が誤りであることがすぐに分かっただろう。そして、そのことが報告から漏れることもなかっただろう。ということは、張らは難升米のいう「南」に向かったのである。

(4)高城説の検証

 原田大六氏も太陽の出る位置で東を判断したとする説を述べているが、日の出・日没の位置は季節により変動するので、東西を基本方位とすることはない。朝日の昇るのは「東の方」であり、日が沈むのは「西の方」であって、それを「真東」や「真西」とすることはない。

 古代人であれば、太陽よりも月を利用して、方向だけでなく日にちの経過も知ろうとしただろう。月よりも確かな基本方位は動かない北極星のある北である。星の見える夜に確認しておけばよい。日中太陽が出ていれば太陽の中天が南であり、行動中の指針となる。小さな板に棒を立てた簡単な用具で中天は観測できる。

V 結語

● 両氏がこのように共通した結論になるのは不思議ともいえるが、考えようによっては当然のことなのかも知れない。

● 郡から一万500里のところにある伊都国が西北九州であることは動かせない。その伊都国から邪馬台国まで一千500里であることも動かしようがない。この一千500里を当時中国で使われていた一里=435bで計算すれば約650キロ、丁度九州から畿内大和の距離になることに注目したのが大和論者たちである。

● ところが伊都国までの一万500里は「短里」と仮称される単位で計られているとされる。このため、伊都国までと伊都国以後での行程を切り離し、「伊都国から邪馬台国までの一千500里は一里=435bによる里程である」とするには、どのような理由付けをするかが焦点となる。

● その理由として考えられたのが「郡使は伊都国で止まり、その先には行かなかった」とすることである。 郡使が邪馬台国まで行ったのなら、伊都国以後も「短里」で計らなければならなくなる。

● そのため「伊都国から先のことは倭人から聞いた情報である」とするのだが、倭人から聞いた日数を郡使が「里」に換算したのでは、また「短里」になってしまう。

● そこで考え出されたのが、「伊都から先は日数で報告し、史書の編者がその日数から一千500里と作り出したものだ」という仮説である。

●「郡使の訪倭は二回だけで、記録は梯儁の時のものだ」としたのも、いろいろな報告があれば当然修正されてしまうような情報(山尾氏のいう郡から伊都国までの日数など)を生かすためである。

● ここまでの論理の流れは必然的で、二十七年隔たった二人が同じ答えに到達したとしても不思議ではない。

● しかし、四つの仮説に対する検証で述べたように、両氏の論が成立しないことは明らかである。とくに立論の要となる「郡使梯儁は邪馬台国に行かなかった」とする仮説において破綻を見せている。

● 正始元年に郡使が「邪馬台国」を訪れたことは倭人伝の記事からも明らかであるし、「詔書と印綬を女王卑弥呼に齎らす」ためにはるばる下向してきた梯儁の任務から見ても、邪馬台国を訪れなければならないことは明らかである。

● 梯儁は通常任務で出張するついでに届け物を預かってきたメッセンジャーではない。また張政は卑弥呼が亡くなったとき倭国に滞在していたのである。それでも邪馬台国には行かなかったというのだろうか。

● 仮説は事象(記事)を矛盾なく説明しうるものでなければならないが、両氏とも「伊都国に留まって当然」としているだけである。梯儁あるいは張政が邪馬台国まで行ったとすれば両氏の主張する一千500里=650キロ=邪馬台国大和説は根底から崩れてしまうのである。

 
おわりに

● それにしても、なぜこれほどのエネルギーを傾注し、無理な論を組み立て、挙げ句の果てには学者としての資質を疑われかねない珍説奇論を展開してまで大和に邪馬台国を持ってこないといけないのだろうか。読み終えての率直な疑問である。

● 邪馬台国とは別に、大和に優れた文化を持つ国があったとすればよいのではないか。

● 同じような発展段階の国が大和にも九州にもあったとしてはなぜいけないのだろうか。

● なぜ大和に邪馬台国がなければならないのか。なにが何でも箸墓を卑弥呼の墓にしないと気が済まないのだろうか。

● しかし、頭脳明晰なお歴々が、このような論を心底から信じているとは到底思えない。邪馬台国が大和にあったとは信じていないが、倭人伝をどのように読んだら邪馬台国大和説が成立するかを考えているのではないだろうか。

● 福沢諭吉は弁論・討論に巧みだったという。論じ合う題材に「烏が黒いか白いか」を選び、相手に「好きな方を取れ。私はどちらでも勝つ」と言ったそうである。これはゲームなのである。

● ゲームとしてみれば、山尾氏の論はきわめてすぐれていると言えるだろう。倭人伝の一言一句も修正せず、大和説の成立を説明して見せたのである。しかし、これを論拠にして大和国家の成立にまで論及することは避けるべきだろう。そこは学問の領域である。


 参考文献

  魏志倭人伝/山尾幸久/講談社現代新書/1972
  大和は邪馬台国である/高城修三/東方出版/1998
  吉野ヶ里と邪馬台国/松本清張/日本放送出版協会/1993
  古代史疑/松本清張/日本放送出版協会/1982
  中国正史日本伝(1)/石原道博編訳/岩波文庫/1994

   出 口   紀年の館ご案内    館主の間