雑感61 〜 日本と西洋の建築観 Previous 雑感メニュー Next
 材料を生産するために高度の技術が介入することによって、材料は自然材への依存度をますます希薄にしていき、その結果として、人間の建築は他の動物の巣との間の距離を拡大したのである。(長谷川堯『生きものの建築学』)

 古代ギリシアの神々が神話に変わっていく時、自然はゆっくりとギリシア人の意識から切り離されていった。アダムは知恵の実を食べ、ヒトは万物の霊長と変わる。
 西欧は自然を手なずけながら加工していく。大地を石や煉瓦やアスファルトで覆い、街路樹を植える場所に穴を開ける。柵の中に緑を許し、雑草を芝生で置き換え、木を無機的な形に整形し、河川を直線に変えていった。人間の住む家もまた自然材から人工素材へと進歩した。
 日本は現代に至るまで自然に溶け込む木の家を造り続けてきた。庭園は自然の形をそのまま模しており、自然の不完全さに美を感じていた。庭から縁側、障子を隔てて、畳の間まで自然を入れていた。
 時にはその材料が産出されたそれぞれの国や地方の風土をさえ思い浮かべることができたのだ。(長谷川堯『生きものの建築学』)
 西欧から建築の技術を輸入し始めると、日本の都市風景は雑然としてきた。それは西欧の自然観との不協和音に他ならない。