雑感126 人それぞれの価値観 |
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2023/08/05 そこの川で初めて白いツルを見たと話してきた人は通勤7年目である。そもそも川ではなく運河であり、海だということも分かってはいないようだ。ツルではなくシラサギだろうと言っても、自分にはツルでいいと言う。その通りかもしれない。鳥の名など他人が勝手に付けたものだ。違っているのは言葉であって実際の体験ではない。 ひょうたん池の向こう岸に1メートルほどの真っ白い奇怪な物体があった。羽根を広げたアオサギだと認識するまでに何秒か要したのは、石膏の彫像のように見えたからだ。この時はカルガモの5羽は日陰にいたが、アオサギは陽射しの中で太陽に向かって立っており、羽根を干しているように見える。この写真はまだ鳥らしいが、最初に気づいた時は【20年間で初めて見たという奇妙なアオサギの姿】で紹介された姿勢で鳥に見えなかった。同時に喉を大きく震わせて聞いたこともない声を上げていた。 アオサギは全国に4万羽ほど生息しているという調査結果を何年か前に見たことがある。よく見かける鳥だが、そう思っているだけでは翼の先は白いのか黒いのか、嘴が何色か問われても答えられない。調べれば判るというのは自分は知らないということである。たくさん写真を撮っても細部まで思い出せるものは少なく名前もろくに思い出せないものも多い。いつになれば知っているということになるのか見当もつかない。 静かな海に顔を出す大きなエイと目が合った。それを「エイ」だと指さして教えてくれたのは伯父だった。それがいつの記憶か判ったのは最近のことだ。一枚の白黒写真が残っており、若い時の父親が中央で釣り糸にテグスを結んでいて、その前には父の弟がしゃがみこんで同じようなことをやっている。自分は伯父に抱かれて海の方を見ている赤ん坊だった。何も書かれていない写真を見て城ヶ島と断じたのは自分の母親で、半世紀以上前の記憶が残っていることを不思議に思いながら、誰が撮ったのだろうかと映っていないもう一人の叔父の名を挙げたりしながら昔話に花が咲いた。 城ヶ島には家族で何度も行っている。岩場を渉り歩いていた時に父が指差す岩の隙間を妹と二人で覗き込んだ。波打ち際からは離れており、ほとんど動かない水面から下は底の方まで透き通っていた。ネコザメが何匹も海面近くを横切り、ウミヘビが身体をくねらせながら海面に向かってくる。底の方には大きなエイが岩礁の上を這うように泳いでいた。 橋の上でやけに覗き込んでいる人がいるので何事かと目をやると、うっすら黒く丸いシルエットが見え、程なく長い尻尾が見えた。おそらくはアカエイで体長は1メートル弱ぐらいだろうか。初めは動いているように見えず死んでいるのかとも思ったが、急にマントを翻すと白い腹側を見せながらこちらに頭を向けた。ミズクラゲを除けば、運河の水の中に生き物をはっきりと見たのはこれが初めてだった。 生きたエイを見て、底の白い点々が貝殻であることに思い当たった。それまでは崩れた岩かコンクリート片だと思っていた。岸際の窪みは排水溝のようで、雑草群から雨水とともに有機物やミネラル分が運河に注ぎ込む。橋の下にはこの辺りにいるアブラコウモリや野鳥や昆虫たちの落とし物もあるだろう。 前方から同僚が二人歩いてきたのでエイを確認してもらった。立ち止まることになったので、ついでにスマホで写真を撮ると一人が「珍しくもないでしょう」と笑った。もちろん彼が言ったのはエイの知識のことで、ここでエイを年がら年中見掛けるといった意味ではない。 昨年は見なかった雌花を見つけた。雄花と雌花があることも知らなかったので、大して見てもいなかったのだろう。見ているようで見ておらず、知っているようで知らない。自分がそうなのだから他人のことなど責められたものではない。 初めて見るような気がして撮ったのだが、後で調べるとイタドリで、写真を見るにつれて初めてどころか昔よく見かけていた植物であることを徐々に思い出し、今も変わらずあちこちに生えているのを見つけていった。子供時分は名前を知らないまま見えるがままに認識していたが、大人になるといちいち見たり認識もしなくなり、細々と記憶に残った名前と古いイメージもやがては消えていく。 樹齢1000年と云われる鶴岡八幡宮の大銀杏は2010年3月10日未明に雹や雪混じりの強風により根元から倒木したが、現在では注連縄内の残っていた根から生えた木が成長を続けており、輪切りにされて移植された幹からも新たな枝が生えている。 横浜市によれば「今までの「街路樹管理事業」予算の中では、複数年に一度(市域全体を平均すると5年に1度程度)しか、高木のせん定を行う事ができない状況でした。このため、強いせん定をせざるを得ない事が多く、その結果、見苦しい樹形と景観になるだけでなく、太く育った枝を切るため樹木が傷ついて弱ってしまうことがありました。」 横浜市の【街路樹による良好な景観の創出・育成事業(通称:いきいき街路樹事業)】によると「平成21年度から「横浜みどりアップ計画」に基づいて、街路樹(高木)のせん定頻度を上げる「いきいき街路樹事業」が始まりました」とある。 びっしりとキヅタが絡んでいた交差点のイチョウは切株だけになっており、伐採する前から張り出されたと思われるお知らせが残されていた。その先にはもう1本の切株があり、造園業者のトラックと作業員が見えた。「この樹は、歩行者への交通の支障となるため伐採を予定しております。/※ご意見ご質問等ございましたら下記までご連絡ください/連絡先:横浜市 旭土木事務所」 イチョウの切株から新芽が生えていた。根が生きているようだ。 つい先月初めに剪定されていたイチョウは樹冠まで青葉で覆われている。 ようやくイチョウの実に気づいて写真に撮ることができた。250メートルのイチョウ並木の片側を見上げて歩てみたが、実があるのは2本で10本に1本もない。ほとんど雄木のようである。 3メートルほどのイヌツゲの木が緑色の実を付けていた。イヌツゲの実は初めて見たというより、花すら見たことがない。自分の中ではイヌツゲは小さな葉だけの木だった。いつからそう決めて確かめなくなったのだろうか。 どういうわけか花や実が付かないと思い込んでいる植物がたくさんある。イヌツゲもその1つで、葉の状態しか記憶にないため花や実には思いも寄らない。 ヘラオオバコと並んで1株だけイヌホオズキを見つけたのは7月のことだった。名前はGoogleレンズで知った。ただ、それだけでは他人に植物の名を聞いたのと同じである。つまり、この植物の特徴を掴んだのは自分ではなく他人だと自覚することから一歩を進めなければならない。 初めにイヌホオズキを知ってから10ヶ月ほど経って、イヌホオズキがようやく道端によく生えている雑草であることが判ってきた。ただ、ちょっと見ただけでは細かな種までは見分けられない。岡山の重井薬用植物園の【イヌホオズキ(ナス科)】によると、「大変種類が多いうえ、形態も似通っていて見分けが大変難しい仲間」とのことである。 花が咲いてやっとウツギの木があることに気づいた。そうすると隣のミヤマシキミの実と勘違いしていたものが実はウツギの蕾だったことに気づき、ミヤマシキミには実がないので雄株だったことに気づいたりする。きちんと見分けていることもあれば、すっかり混同していて名前を訂正していくこともある。この1年はそういうことの繰り返しであった。 大人ほどの大きさのウツボの水槽の前で、「凄い」と口にして母親は顔を近づけた。満開の桜より胴吹き桜を撮り、ウツボまで写真に撮っていた。一番長く立ち止まっていたのはウツボの水槽の前である。 去年まではウメの花見物は遠出するものと思っていた。遠出しないと見事なウメを見ることができないと思っていれば、身近なウメは気にも留めず大して見もしないものだ。 剪定した箇所に裂けた跡があり縦にひびが入っている。剪定した樹皮の片側が剥けているものはよく見かけるが、樹皮のひびは複数で長く、落枝したのかもしれない。 フェンスを破るほど根がぐらついたオオシマザクラには赤テープが貼られていた。 桜を植え過ぎれば空気の通りが阻害され、土壌は貧困になり、1つ伝染病に罹れば蔓延する可能性がある。 4月16日に相模原市運営のキャンプ場で倒木によりテント内の夫婦2名が死傷し、これを受けて18日に市は枯れた状態の桜の木9本を伐採した。4月17日には富士市で倒木が障害福祉サービス事業所の送迎バスのフロントガラスを破って2名が負傷した。人が巻き込まれずとも落枝や倒木は街路樹だけで年間5〜6千件ほど起きているようだ。 桜ぐらいは知っているつもりだった。けれども、実際に木になっているサクランボを認めたのは小学生以来のことである。 自分は植物には素人同然で、花が咲けば実がなるはずという当たり前のことすら失念してしまう。固定観念を払拭するために写真を撮り続けているようなものである。少なくともこの公園ではソメイヨシノを除くほとんど全ての桜がサクランボをぶらさげており、実がなければソメイヨシノと見当がつく。オオシマザクラの果実は食用で、黒く熟してくれば食べることができ、ジャムにされたり、葉は塩漬けで桜餅に使われたりする。黒くなった実を一つ食べてみるとほんのり渋みのある甘いサクランボだった。 子供の頃は名も知らぬままカイヅカイブキの葉を手に取って匂いを嗅いでみたり、ツクシのようにばらしてくっつくかどうか試したりしたものだが、自分で現実に確かめたり実践したりするよりも頭の中で胡座をかいていた方が遥かに楽である。子供時代に手放した自然体験を取り戻すだけでも容易なことではない。 これは実家近くの桜で、母親によれば美味しいサクランボが生るという。とすれば、やはり桜桃の類で、カラミザクラ(シナミザクラ)でいいのかもしれない。桜桃の実を特にサクランボと云う。 樹木に生る果実は気づかないことがある。歩道の樹木は人の背丈の枝は剪定されているので歩く時の目線では気が付かない。地面に落ちた実が目に入っても何が落ちているのか考えるうちに何歩かで樹木の下は通り過ぎてしまう。 カリンの知識が頭にあっても現実に樹木に生っているカリンは初めて見る。現実は圧倒的で、知識はたちまち現実に従属してしまう。 目の前にある植物は唯一無二の物である。現実に存在する植物種は膨大で、それぞれに無数の形態変化があり個性があり、書物やネットワークに収まりきれるようなものではない。知識は膨大な情報の集約というよりは形骸でしかない。 携帯やスマホでいつでも手軽に写真を撮れるようになったのは自分にとっては最近のことだ。通勤路で写真を撮り始めて2ヶ月が経ち、気になるものは何でも撮っていたら2千枚を超えていた。デジタル写真は手軽に記録に残せるが、それだけでは植物図鑑を見た程度にしか記憶に残らない。記憶に刻まれるものはその場で観察して発見したことである。 子供時代よりは生物相は豊かになっているように見えるが、自然観察を始めたばかりで発見続きだからそう思うだけかもしれない。 小学生1万人以上が参加した横浜市の【こども 「いきいき」 生き物調査】によれば、カワセミを見た小学生は21%である。小動物ではタヌキ22%、ハクビシン12%、アライグマ9%という数値も目を引く。自分も昨年は水の森公園でタヌキらしきを見掛けている。 冬になれば撮るものもなくなってくると思っていたが、どんなに寒くなっても次々に見たことがない花が咲き、冬に熟す実がある。 いつもの道はいつもと同じで何も変わらない。いつもの木もいつもと同じはずだからいつの間にか通り過ぎる。物事を一つ一つ点検して確認しながら歩かなくとも何もかも見えているはずだと思う。しかし、変わっていないのは頭の中の風景で、現実は常に変化しており昨日と同じ今日はない。 何百回、何千回とクスノキの前を通り過ぎていても、立ち止まってよく見ようとしなければ、緑の葉の中に緑の小さな実が生っていることには気が付かない。一生気づかなくても不思議はない。 初めからクスノキの実に気づいたわけではない。通い始めて何年も経ったある年に黒い実に気づき、その後は見つけられていなかった。見える範囲に実を付けている木がなかったのかもしれないが、そもそもかなり注意しないと見えはしない。 写真に撮ればはっきり見えるが、通勤中は時速5〜6キロほどで歩いてる。大きく枝を広げているクスノキも通り過ぎるのは秒単位である。クスノキだけでなくエノキの葉も入り混じっている。この速度では実の存在を知っていても見つけることができない。 クスノキの実ばかり気にかけていると葉芽の方には気づいていてさえ注意が向かない。これは欠点というよりも、人の知覚がそういう風にできているのだと思う。 死んだように見えるクスノキの切株から新枝が出ていることは多い。 見た目では生命活動が見られないクスノキもあるが、診断しなければ復活の可能性があるかどうかは分からない。切株に除草剤を注入した跡があってもヒコバエを生やしている樹木もある。植物は傷ついたり折れたりするとカルスを形成して身を護り、樹木などは必要とあらば傷が癒えて準備が整うまで休眠状態に入ることもあるそうだ。 このクスノキは花壇のもので、ぽつんと1本だけ剪定されている。日陰を作ってしまうためと思われる。通行の邪魔だからと人の背より低い枝は剪定され、老木は危険だからと剪定され、花壇に陽が当たらないからと剪定される。長屋門公園のように裏山をそのまま公園にしたような自然林に近いところでは植物層は安定するものの見かけ上は凡庸になる。 今は碑の下に帷子川捷水路トンネルがあり帷子川が流れ込んでいるが、50年ほど前の川はこの高台は迂回して流れており、周囲には畑も多かった。藪の中の小道を行くとこの碑があり、ヤマドリやウズラなどが棲んでいるのを何度か見掛けたことがある。たった50年前とも違っているのだから800年前は地形も自然もまるで違っていたはずだ。 大和大橋からは海底を見ようとしても満潮時には見えない。波が高くても潮の流れが速くても見えず、日差しが強すぎても逆光で見えない。このところは見えそうな時は海面の様子から分かるようになってきてはいる。クロダイは珍しくもなく週に何度かは姿を見る。しかし、大抵の人は橋の上から魚が見えることも知らず、シラサギにも気づかない。 画像検索ソフトを使えば簡単に植物が判るものと思っていたが、ソフトは写真からサンプリングした画像をデータベースとパターン照合して紐づいた説明から種名を引っ張り出しているだけなので、撮った部分や精度によって結果は大きく変わる。 確認すべきは現に目の前にある植物で、確認するのは自分である。ネット上の写真は種名が同定できているものもあれば属名程度のものもある。そこから似たものを取捨選択するにしても自分が確認することに変わりはない。つまりは試行錯誤しながらでも実践経験を積んでいくしかない。仕事と同じである。 12年ずっと真横を通り過ぎてきた桑の木に花を見つけた。いつからか桑の木だということは知っていたが、花どころか実も見つけられなかった。伸びた枝先が時に顔に迫るような植込みで、見ていないとは言えないような狭い歩道である。 横浜市の【名木古木に指定されている樹木一覧】にこのケヤキは載っている。個人宅の敷地に3本、指定番号50009〜50011までが並んでいる。市が指定して管理保全しているものではなく所有者が届け出るもので、審査が通れば病害などについて助成金が出る。障害者手帳のようなものだ。 このケヤキは木材ではなく生木であり春になれば葉を付ける。今も近くには畑が少し残っているが、ここは元々厚木街道沿いの農耕地で、このケヤキは都市計画に伴って伐採された数知れぬ古木の生き残りである。 ヤドリギの実を食べた鳥の群れがこのケヤキで羽根を休めたらしい。ヤドリギは半寄生植物と云われ、戦略として地表ではなく樹上を選んだ植物である。成長すれば葉を生じて光合成を行い、エネルギーを自分で賄うようになる。 この立札は希望ヶ丘の名木古木指定の立札とまったく同じで、横浜市が提供するもののようだ。名木古木といった価値観は、安全より優先されることはないし、都市計画や経済活動より優先されることもない。 樹木の保存と明示されて移植されている樹木は初めて見る。このケヤキはここから2kmほど離れた住宅地から移植されたものである。 掲示板には「大木」とあるが、都会の中を移動するためには小さくせざるを得なかったようだ。頂部は剪定され、太い枝は片側にしかない。 LED電灯を持ち込む人が増えてからホタル見物には行っていない。月灯りで土の道を歩いていた時代は遠く、照明の無い未舗装路をまともに歩ける人がいなくなったということだろう。打ち上げ花火にレーザー光や音楽を付けるようになったのは、花火の光や音が現代人には物足りないのかもしれない。 2〜3年前にホタルを見に行った時に、懐中電灯を照らしっぱなしで歩き回る20人ほどの家族連れ団体と遭遇した。最初ガイドの説明を受けていたようだが、「水路やホタルに光をあてないように」注意するだけでは意味がない。目が暗順応するまではホタルの光は見えてこない。 遅巻きながら蛍狩りに大池公園に行った。ゲンジボタルは1匹から数匹が時々光ったぐらいだが、街灯がないので帷子川親水緑道よりははっきり見えた。土道は以前来た時よりも均されており、闇に目が馴れてくれば懐中電灯は不要である。もっとも、年齢を経るに従って暗順応は遅くなるようだ。百人ばかりと擦れ違ったが、足元をライトで照らしながら歩く人が1〜2割ほどはいて、時々ライトの光が目に入ってホタルどころか足元まで見えなくなる。「ライトを消してください」という声がしばしば聞こえ、自分もまた「ホタルはどこにいますか」と問いかけてきた40代ぐらいの男性二人組に、まず灯りを消すように言った。 写真を撮っていると買い物帰りらしい高齢の主婦に「カワセミがいますか」と尋ねられた。ご主人は80歳を過ぎて外に出ることがほとんどなくなったが、カワセミの写真をずっと撮り続けていたのだという。たぶんカワセミの土産話を持ち帰りたかったのではなかろうか。 類似画像検索系のアプリでは「コムラサキの実とヘクソカズラの実」といった複合的な結果は返ってこない。ムラサキシキブ、コムラサキ、ヤブムラサキ、オオムラサキ、ノブドウも出てくるが、ヘクソカズラは候補に挙がってこない。この抽出結果は統計であり植物の人気順のようなものだろう。AIは正しい結果を出すわけではない。プログラム言語に「正しい」という概念はない。正しいというのは事実でも現実でもない。 さいわいふるさと公園は1〜2分程で通り過ぎてしまうような小さな公園だが、既に自分は場所を選ぶことも季節を選ぶこともなくなった。どこに行っても新たな発見があるもので、必要なものは現実を見定めるための時間だけである。 ザクロの赤に気付くのは意識を向けるからで、注意を向けないと視界にあっても気づかない。 流通センター駅前の曲がり角のザクロに気づく人がどれほどいるだろうか。毎日通り過ぎる景色の多くは「いつもの景色」として固定化されているものだ。 この1年で希望が丘水の森公園には30回ほど行って、196種の動植物を見つけている。当然ながら見逃しているものもあるだろうし、雑草を中心としているので花壇のものはあえて撮らないこともある。それでもこの数は、撮り始めた頃には想像もしていなかった。 遊歩道の斜面にあるシラカシの切株に若枝がごっそり生えていた。シラカシやウメ、イチョウ、キンモクセイなど剪定して幹だけにしても死なない樹木も多いようだ。とはいえ、種ごとに剪定時期や方法は異なり、生育環境や管理者の目的によってもやりようが変わる。生命力が弱い樹木でも計画的に何段階かに分けて剪定すれば却って長寿命になることもあるという。 シラカシのような常緑樹や針葉樹は強剪定されて枯死したものも見かけるが、このように幾重にも若枝を伸ばしていた切株もまたよく見かける。 自分はこれを長くブタクサと思い込んでおり、後に母親もこれをブタクサと思っていたことを知った。近所でもブタクサと言っている人ばかりだと言う。職場でも同じことでセイタカアワダチソウと言っても名前にピンとくる人もいない。 帷子川では南向きの土手にセイタカアワダチソウが群生し、向かい岸にクズの群落がある。ブタクサは子供の頃の記憶にある。もしかするとクワモドキ(オオブタクサ)だったかもしれないが、名などどうでもいい。ホコリのように花粉を舞い上がる実物は知っていた。大人になるとブタクサが花粉症の一因と頭で知っているだけで現実は確かめもしなくなるようだ。セイタカアワダチソウで思い出すのは山崎ハコの『織江の唄』で、二番の歌詞で「月見草 いいえそげんな花じゃなか あれはセイタカアワダチソウ」と歌われていたのが耳に残っている。五木寛之原作の映画『青春の門』(1981年)のイメージソングで作詞も五木寛之である。劇中には使われていないが、テレビCMで流され、映画館の幕間にも繰り返し流されていた。 セイタカアワダチソウは虫媒花で、ブタクサのような風媒花ではない。 長く伸びた枝数が多く均等に近い間隔で花を付けているのが若い桜で、老木ほど長く伸びる枝数が減っていき花が塊で付くようになるそうである。 母親は胴吹き桜を可愛いと言って何枚も写真を撮った。 今でも母親は桜と言えば目黒川の胴吹き桜のことを真っ先に思い出す。胴吹き桜と言ってもピンと来ず、目黒川の名もすぐに思い出せないが、教えてみれば「ああ、そうだった」と笑う。 母親にとって一番の桜は胴吹き桜で、同じ日立ち寄ったドン・キホーテの水槽のウツボを思い出して「あれは凄かったね」と続ける。母親にとっては胴吹き桜もウツボも発見だったのだ。 2018年と翌年の冬の2カ年にわたり、大池公園のソメイヨシノには大規模な治療工事が施された。2016年度から樹木医による調査が開始され、病巣の除去ぐらいでは効果が見られなかったことから工事に踏み切ったという。この写真は工事後初の開花の様子である。いずれの桜も前年冬に強剪定で樹高を下げ、改良した土壌は防草シートで覆われている。 樹木医は全国に3千名ほどいて、神奈川県には200名ほど有資格者がいる。樹木医認定制度として1991年に林野庁が始めたものだが、現在は一般財団法人の日本緑化センターが樹木医の資格認定を行っている。 大池公園のソメイヨシノは花数がかなり減少しており、2016年頃からの調査では、過密の問題があったことや根こぶ線虫病や天狗巣病の蔓延が判明した。改良工事は終わっているがソメイヨシノの治療は今も継続中である。 てんぐ巣病は今のところは不治の病のようなもので、桜の名所のような密生しているところでは特に伝播しやすく、剪定や間引き、焼却をする他はなかったようだ。 ソメイヨシノは栽培種のクローンで環境変化や病気に対して強い遺伝子を産み出す術がなく、種もできないので自ら新天地を求めることもできない。 開けたところにはソメイヨシノに代わって天狗巣病に強いジンダイアケボノを植えたという。おそらく切株がソメイヨシノで、若木がジンダイアケボノだろう。ジンダイアケボノの花はやや濃いという。これまでただの色違いと思っていた桜もソメイヨシノの代替品種かもしれない。公益財団法人の日本花の会では2005年度からソメイヨシノの配布を中止し、ジンダイアケボノを推奨している。同会のホームページには401種の桜が載っている。 治療をアピールしたり理解を求めることにはそれなりの意味がある。見物客は樹木医や管理人のように事実確認を迫られたり世話をすることもない。花なら見事か地味か、剪定されれば可哀想とか無惨といった価値評価は現実とは別物で、何も理解していなくても価値評価はできてしまう。 人の手の届かないところに植えて密にもしなければソメイヨシノは自らの生命力を存分に発揮して自然樹形となり寿命も延びるかもしれない。自然競争に晒されることになるが、それこそが自然というものだ。人の価値観を植物に当て嵌めるということは、見た目に綺麗な植物を生かして汚い植物を刈り取るということでもある。 ソメイヨシノはこのように下の方が横に広がる樹形が自然であり、大木ほど広い土地が必要になる。歩道沿いや住宅地では横に張り出す枝は通行の便のために剪定されるが、老齢になるほど根から樹上まで水を運ぶ力が弱まるので根に近い枝からバケツリレーのように樹冠へと繋ぐ仕組みが必要になる。都市部の桜が病気に罹りやすく寿命が短いのは環境問題もあるが、低い枝を剪定してしまうことも要因の一つだろう。 この3本のソメイヨシノの大木の保全にはそれなりに管理も必要だろうが、それなりに敷地も必要になる。桜の名所と云われるところでは年間の管理維持費が千万単位だったりする。労務費や必要経費を考えれば当たり前のことで、美観を保つために税金が使われるところもあれば、毎年資金集めにボランティアが奔走しているところもある。 いつものように見るということはいつものようにしか見ないということである。葉に着目すれば蕾は見過ごし、花しか見なければ果実は見逃してしまう。小さな昆虫などには気づきもしない。脳内イメージは一点に固着しており写真のように見直して新たに気づくことは稀で、やがてパターン化して先入観となる。腰を落として顔を近づかなければ気づかないことは無数にある。葉の下に花や実を付ける植物もあれば、今まで見えなかった小さな世界もある。世界は平面ではなく立体で、植物も立体である。なおかつ経年変化する。近づいたり見上げたり見下ろさないと捉えられない特徴もあるが、それらは時々刻々と変化していく。 幹の途中に咲く花を胴吹き桜と呼ぶ。老齢の桜、特に樹勢が衰えてきた桜に特有の特徴で、幹や根に近い部分から吹き出すのは水を樹冠まで運ぶ力が弱いためである。低い位置の枝は通行の妨げになると剪定されてしまうが、老齢の桜にとっては生きるために必要なことだ。十分に水分と養分を行き渡らせることができるからこそ胴吹き桜の方が早く咲いて他の花が散った後も咲き続ける。高枝に届けるエネルギーを産むための若枝なのである。 花が咲いているから胴吹き桜と呼ぶが、要するに新枝であり、桜の木に特有なことではない。 人の怪我の治療の常識が変わっていくように、植物の治療の常識も変わっていく。ほんの少し昔には怪我をしたら赤チンを塗るものだったが、既に製造されていない。オキシドール(過酸化水素水)での消毒も最近では傷の治りを悪くするという見解も多勢を占め、流水で洗う処置が主流となってきている。木本の剪定時に癒合剤を使うようになったのもごく最近のことだが、宣伝効果も相まって、剪定時には癒合剤を塗らないと枯死するというのが常識のようになっている。人と違うのは癒合剤を塗れば安心とばかり、ばっさり切ることである。 東京都建設局では「高木取扱い予定」として、赤テープは更新予定、黄テープは移植予定、青テープは存置予定と明示した例がある。防犯の役割がある街路樹は更新される。別の例では赤黄の2色柄のテープが撤去、赤白テープは撤去対象外と公示されていた。青森の渓流の遊歩道では赤が危険、黄色が注意、あるいは監視木の日本語表示がある。これは伐採予定ではなく樹勢調査結果で、来訪者に倒壊や落枝の危険を知らせるためのものでもある。 日常では写真を撮らなくても旅先ではレンズを向ける。ダイサギは地元でも珍しくはないが、初めて撮ったのは日帰り旅行でだった。旅と日常とで根本的に違うのは見る姿勢や物の見方である。日常見慣れた景色や事物は見直すことにも飽きてしまい、頭の中のイメージは何年も何十年も昔のまま変わらずに留まっていることがある。 代価を払わなければ写真が手に入らなかった時代には見たことはその場で憶えたものだった。カメラは行事や旅行など特別な時にしか持たず、1枚ずつ慎重に撮って出来た写真はさらに何度も見返したものだ。今ではスマホでいつでも写真を撮ることができるようになり、その場で自分で憶えたり判断したりする必要もなくなってきた。ネット上では自分が撮るものより遥かに鮮明な写真や動画を見ることができるし知識もすぐに手に入る。そうした便利さは、個としての記憶力や行動力、判断力といった現実に対処する性能と引き換えになってはいないだろうか。 バードウォッチャーは遠くが見え、釣り人は水中が見える。それは知識というより技術であり経験と試行錯誤の積み重ねだろう。経験を言葉にしたものが形式知というものだが、形式知を知っただけでは技術は取得できない。運転免許と同じことだ。いつも見ていればかなり遠くからアオサギかシロサギかぐらいは見分けるようになってくる。護岸のブロックの高さは好都合なことに30センチで、直立姿がブロック3枚分もあればダイサギかアオサギだろう。 ダイサギなど珍しくもない。鳥など興味が無い。いつもと変わらぬ風景。そうなふうに人は現実ではなくほとんど頭の中の風景を見ているものだ。歩くためには前方に注意を払っていさえすれば十分なのだ。自分もまた同じで、運河に目をやることが多いだけである。毎日のようにサギ類を見かけるようになったのは今年になってからのことで、護岸工事によって生物多様性が豊かになってきたように思われる。 ツクシンボウは久しぶりに見た。鮮烈に憶えているのはツクシの味噌汁で、4歳か5歳頃のことだった。父親と妹と一緒に自分で摘んだツクシだった。長過ぎるものや緑色のものは美味しくないと言われて短いツクシを妹と競うように集めた。料理は母親がして父親が味見をしていた。おひたしにもしていたが、それは苦すぎたようで全部を味噌汁に入れていた。味噌汁は粉っぽく苦かったが、ツクシ自体は美味しかった。胞子が飛んだ長いものは苦味は減るが、その代わり味気ない。不思議な食感が忘れられず翌年もねだったが、食べたのは一度きりである。 スギナとツクシを別々に呼んでいたが、根を掘り起こして同じ植物と示してくれたのは父親だった。スギナの方は栄養茎で光合成を行う。節のところで抜いたり繋げたり出来るので、どこで繋いだか当てっこ遊びをしたものだ。 ツクシ誰の子スギナの子という言葉は聞くが、メロディは知らない。ツクシはスギナの果実のようなもので、最初にツクシという胞子茎が出て、それからスギナの栄養茎が出てくる。子供の頃から知っていたのは野遊びするのが日常だったからで、山菜を食卓に出さざるを得なかった第二次世界大戦を経てきた両親や祖父母の存在があるからだ。 ツバキは花ごと落ちるとか、実から油も採れるということは、幼稚園に通っている頃に上星川の祖母から聞いた。近くの杉山神社にはツバキがたくさん生えていた。 小学校からの帰り道で手持ち無沙汰に小さな黒い実を集めては手の中で転がしながら歩いたことがある。名前は知らないが、生垣にしている家は何軒もあった。1センチぐらいの俵型の実で、緑色のうちはちょっと引っ張ったぐらいでは取れないが、秋に濃い紫色になってくると房を掴むだけでヘタごとポロリと取れる。道に落とせば跳ね回る弾力があり、塀に強く投げつければ弾けて紫色の汁が付いた。 長い歩道橋からは無数の植物を見下ろすことができる。夏が近づとく毎年赤い花と淡黄色の花を目にしていた。しかし、ただ通り過ぎるだけで名を知ろうとはしてこなかった。 トウネズミモチの薬学情報では葉や実の化学成分や化学式も出てくるが、門外漢は鵜呑みにしたり信じたりすることしかできない。現代では類似画像検索で植物名が簡単に手に入り、類似種との違いや変種や雑種、環境や季節、成長変化などの情報を得ることはできるようにはなった。しかし、それは言わば他人に判断を任せたようなもので、自分では何も判断できていない。 公園の入口のねずみもちと歩道橋から見下ろす木が同じ植物らしいと分かってきたのは何日も経ってからのことで、そうしてやっとねずみもちがありふれた樹木であることに気づき出した。 【日本の生物多様性地図化プロジェクト】によれば大田区の在来植物種数は482で外来植物種数は446である。 公園入口の「ねずみもち」は左隣のクワの木と枝が交錯しており、行きは緑色の茂みにしか見えないし、往来の多い狭い歩道からの曲がり角なので注意はもっばら柵や人に向いてしまう。帰りには「ねずみもち」全体が目に入るが、通り向かいの消防署や環七通りの車列の方が目に入りやすく、立ち止まれば通行の邪魔になり注意はもっぱら曲がり角と人の流れに向く。ねずみもちという言葉は聞いたことがなかったから長い間知らない植物だと思っていた。名前を憶えるどころか名札の存在すら忘れて多くの木と同様に通勤風景の中に埋もれていた。 似たような花を咲かせた樹木が通勤路のあちこちにあり、それどころか通勤電車の窓から気付くようになっていた。目には入っていても気づかないことや知らないことの方が圧倒的に多いのではなかろうか。 葉を透かして側脈が明らかならばトウネズミモチという情報を手にしても、手が届かない木もある。公園の木なら葉を千切るのも気が引ける。ただ、実際に近づいて見れば花の形状や葉の大きさでトウネズミモチだとは何となく分かる。対象の大きさや距離、季節、臭いや感触、周囲の状況などほとんどの情報は自分の手中にある。Googleレンズなどの画像検索ソフトで調べてもこの木はなかなか特定できない。写真によってネズミモチだったり、トウネズミモチだったり、まったく別の植物名が出てくる。これを踏まえて語句をプラスして検索する「マルチ検索」をGoogleが最近発表したが、さらなる誤りを産むような気もする。Googleレンズの結果というものは、よく似た画像を探し出してランク付けして表示される。ランク付けだから100%の結果ではない。それはGoogleレンズの公式説明にきちんと書かれている。 樹木は植え過ぎれば日照条件が悪くなり成長が阻害され、病虫害が起きやすくなり、枯死に繋がる可能性も出てくるので手間がかかる。花や実で虫や鳥が集まりすぎても都市部では問題になる。なるべく常緑で花も実も付けない方が清掃の手間が減り、排水設備の故障も減る。もちろん植物が少ないほど虫害や鳥害も減り、維持管理費も減る。 ねずみもちの名札は平和の森公園入口の1つしかない。現実の植物は写真ではなく図鑑でもなく初めから名前があるわけでもない。人はいつから目の前にあるものを「知らない」と言うようになったのだろうか。 以前はこれを伐採と見做していて、葉も残さず幹を切ればそのうち枯死するものと思っていた。そのくせ何故根こそぎにしないのかとも考えなかった。なお、右手前の樹木は剪定されていないトウネズミモチの林に続いているが、奥の方の樹木は別種が混じっているようである。 栽培種は傷つけただけで死ぬような繊細なものもあるらしいが、少なくとも野生種や元種の植物は生命力が強く、その再生力は人間とは比べ物にならない。 目の錯覚を利用したトリック写真はいくらでも実例があるので写真では大きさが判らないということが判っていないのは写真の素人もいいところだろうが、ヒュウガミズキとトサミズキの葉は相似形なので写真だけで判断するのは無理がある。ヒュウガミズキの葉の大きさはせいぜい3センチほどであり、トサミズキの葉の大きさは10センチ以上のものもある。実際に見ても錯覚してしまうもので、葉に手のひらを当てたりして大きさを把握する余裕が出てきたのは写真を撮り始めてから半年ほど経ってのことである。 ぺんぺん草の花や果実は子供の頃からの馴染みだが、ぺんぺんの部分を果実(種)とは捉えていなかったし、これがナズナだと知ったのはもう少し大人になってからのことだ。 この1年で希望が丘ふれあいの森公園には30回ほど行った。5分と居ないこともしばしばあり、しらみつぶしに探しているというわけでもなく、たまたま気づいたものを撮っているだけである。それでも発見した動植物は100種になる。 ナナホシテントウは交尾している様子だが、ナミテントウ(いわゆるテントウムシ)の方はアブラムシを捕食しているようだ。子供の頃はナナホシテントウは少なく、ニジュウヤホシテントウが多かった。今思えばニジュウヤホシテントウでも艶やかな模様や模様の様子が変わっているものもあって、それはナミテントウの斑型あるいはヤマトアザミテントウだったかもしれない。 異種のように見えるかもしれないが、同じナミテントウである。京都産業大学の【テントウムシからトキまで生物の環境への適応について考える】によれば、ニ紋型、四紋型、斑型、紅型などと分類され、遺伝子の組み合わせによって形質が違ってくる。地理的な偏りもあるようだ。 ナンテンの実を意識的に探しているうちに平和の森公園のあちこちに生えたナンテンに気づくようになった。今までどうして見えなかったのか不思議に思うほどだが、これまでは名を知っているだけで現実のナンテンは雑草か雑木と見做していただけだった。 自分には自分の枠組みの中での現実しか見えないのかもしれない。日高敏隆の【ちくま学芸文庫『動物と人間の世界認識 ─イリュージョンなしに世界は見えない』】という論理は、確固たる学術としては認められないかもしれないが、人間同士の認識の違いならあっさり説明できる。 これこそが幼い頃手にした楕円形のネズミモチの実だ。ねずみもちが雌雄異株という記述は見当たらないが、平和島公園のもので実を付けている木は比較的日当たりがいい3割程度の木でしかなく、平和の森公園のものと比べると付いている実の数も多くないし樹高も低い。葉自体も長くとも7〜8センチ程度しかない。そして近くに並ぶ葉の長いトウネズミモチは光量が少ないためか実を付けていない。ちなみに長さは手のひらをかざして目分量で測っている。手のひらの幅は約10センチである。 実がネズミの糞のようだからネズミモチと名付けられたというらしい。言われてみれば飼っていたハツカネズミやハムスターの糞に似ている。小学生の頃にはそんなことは思わなかった。ネズミモチの名は知らなかったが、この実は知っている。大人になるまですっかり忘れていたが、今年になって名も知った。 いつまで経っても目の前にあるのは知らない植物ばかりある。写真分類のために取り敢えず名無しはなるべく避けてはいるが、どうしても判らないものもある。とんでもない見逃しや勘違いもある。1年越しに写真を並べてようやく正体に気づくこともある。この植物は最初はヤブランとしており、その後カンスゲとなり、今はノシランとしている。 山菜採りは土地に根ざして人から人へと実践知識として伝えられる技術である。山菜は地方(環境)によって毒性成分の割合が違うので見極め方から下拵え、調理方法まで異なる。野菜や果物も育て方や生育条件などによっては毒性が残る。技術は試行錯誤の賜で、一般に出回る知識は誰にでも通じる例え話のようなものである。 ノビルは子供の頃にはよく食卓にあった。よく洗った茎の先に小さな玉ねぎのような鱗茎が付いたものを小皿に盛って味噌を付けて食べていた。 ノビルとも言ったがノビロとも言って、茎の根元の方を摘んで鱗茎ごと地面から抜いて採る。ノビルはおかずというよりは酒の肴で、父親が好んだ。自分もたまには分けてもらって口にした。鱗茎と茎の根元のシャリシャリとした食感と辛味を愉しむもので、ネギとラッキョウの中間的な味である。 一度気がつけばどこにでもあることにも気がつく。何十年も気づかなかったものがどこにでもあることに気づくことが不思議である。 形式知だけでは車の運転はできないので自動車の免許では実技試験が必要になる。とは言え、経験を重ねても判らないことはある。実際自分はハシボソガラスとハシブトガラスをパッと見で区別することができない。すぐそばで横向きになれば「へ」の字型の嘴でハシブトとか、ジャンプしながら移動すればハシブトぐらいなものだ。現実を逐一確かめるよりカラスの一言で片付ける方が簡単だ。そうしても誰も困らないし、カラスも困らない。 ほとんどの人は蓮池に目をやるだけで近づきもせずただ通り過ぎていく。地元の人なら見慣れているだろうが、これまで自分は通勤路から外れず近づこうともしなかった。 ハスの花はわざわざ名所に出掛ける人もいるぐらいのものだ。それが通勤路の側にあるのだから、たった1分寄り道をすればいいことだ。 転勤のため、この日をもって大田区でのデータ収集は終了となる。1年弱の間に大田区で撮った写真及び動画は11307で、500種以上仕分けた。 こんなに鮮やかな赤い実が大量に実っていればすぐ気づきそうなものだが、まさにその「気づきそうなもの」というのが思い込みとか過信というもので、現実には目に入る物のうち僅かしか認識していない。つまり、見たいものしか見ていない。 タチバナモドキは7月には既に青い実を付けていたので、このピラカンサも同じような時期から実を付けていただろう。自分は7月から蓮池の前を何度横切ったか知れない。何かを見ればその他の無数の物事は見逃してしまう。たぶん人には現実のほんの一部しか見えておらず、その他のことは知っているつもりで見過ごすものなのだ。 蓮池前のピラカンサは生垣展示のタチバナモドキとそっくりである。実の色は成長過程で変化していくもので、地元や通勤路で今年まで気づかなかったことはたくさんある。知識が無かったのではなく、ただ見ていなかった。 平和の森公園の通勤路沿いにもピラカンサの実があった。あまり視線を向けなかったとは言い訳で、10年以上往復している道で植物を見直し始めてから気づいたことには変わりがない。単純に現実を見ていないか、あるいは自分が抱くイメージを現実と思い込んでいるのかもしれない。 初めて歩くところや旅行先では様々な物が新鮮に映るから発見も多い。しかし、普段から歩いているところはイメージが固まっていて、再確認もしくは破壊しないと発見には繋がらない。つまりは、知っているつもりで確認しない。固定観念や先入観は五感を妨げ発見には大敵となる。 鶴ヶ峰駅から帷子川親水緑道へと抜ける道は初めて通った。道を塞ぐようにたわわに実を付けたピラカンサが垂れ下がっている。これなら目に付く。見過ごすはずはない。そう思いはするもののピラカンサの名を知ったのもはっきり認識したのも今年が初めてである。 写真に何の説明もなく比較するものがなければ大きさは判らない。写真は部分的な視覚情報でしかなく、植物を特定するために必要な情報は撮影場所や日時や天候、環境など多々ある。 葉の形でも区別ができそうだが、実際の植物は同じ形の葉が同じように付いているとは限らない。根本か樹冠の葉か、陽の当たり具合や生育条件によって形も大きさも違う。丸かったり細長かったり大きかったり小さかったり、虫や病気に阻まれて変形することもある。 フイリマサキは平和島公園の外周に何本も植わっており、いくつかの木には名札もある。10年も前を通勤していて、今年初めて「フイリ」が「斑入り」の意味だと知った。そして、写真を見ていたある日、自分が子供の頃からこの木を知っていることに気が付いた。昔はこれを生け垣にする家がたくさんあった。なぜ忘れてしまうのだろう。 写真に小さな蕾が写っていることはかなり後で気が付いた。歩きながら何年も横目にしていても葉の模様しか目に入っていなかったことになる。思い込みのほうが現実よりも優先しているということだ。まずこれを何とかしなければならない。 街路樹ではなくフェンス沿いに繁茂しているフイリマサキを見て、よく見る生垣の1つだということに初めて思い至った。雑草や雑木と見做して通り過ぎ、生垣や街路樹という認識程度で素通りするのが長い間の自分の通常運転だった。見慣れた景色は固定観念と化しており、それを取り払っていかなければ見えてこないものがある。 この時点では平和島公園で見掛けるこの種のものは全てヤブランだと思っていた。花の色が違っても実の生る時期が違ってもそれは変種か個体差ぐらいに捉えていた。よく知らないものに対しては知らず知らず区別出来ない、あるいは区別しないでいい言い訳を考え出してしまうものなのだ。 役目を終えた花弁を汚いとかゴミと言う人がいる。以前亀戸天神でもそんな言葉を聞いたが、最近も亀戸天神に行った同僚が同じようなことを言っていた。 藤の花を見ようと思えば萎んだ花には気が付つくが、無数の果実には気が付かない。自分もまた花ばかり追っていれば、その後の実のことなど頭の中には無い。 美しいフジの花を求めれば萎んだ花は屑に見え、果実は見えもしない。審美的評価と実践的判断は別物である。 桜の木があちこちにあるように、フジもまた通勤途中や散歩途中に出会うありふれた植物である。けれども、そうと気づいたのはこの一年のことである。それまでは身近なフジにはほとんど気づかず、フジと言えば亀戸天神や小田原の御感の藤のような名所しか思い浮かべなかった。 小学校3年生の夏に引越した先の自治体名が芙蓉会で、その頃からフヨウが植物の名だということは知っていたが、それが実物の植物と結びついたのは半世紀後である。 大和大橋へのアプローチにはいくつもの植込み区画がある。信号待ちの間に眺めたり近づいたりすることもあるが、もっぱら信号機を見るから花が咲いていることに気づくのは偶然だ。これまではいつから咲いていたのかと思うぐらいで何の花か調べるようなことは稀だった。フヨウの名も2〜3年前に調べてこれがそうかと知ったぐらいである。 ある日、このホームページを実家のテレビに映して母親に見せながら話をしていると、赤ん坊の頃からずっと変わらないと言い出した。何故か完成された玩具は嫌がり、積木のような物を与えると一人でずっと遊んでいたという。じっと見つめていたかと思うと、組み合わせたりバラバラに分けてみたり、違う物と組み合わせたり、黙々と様々なことを試していたらしい。 赤ん坊は積み木で遊んでいるうちに物の形や色彩、大きさや重さ、性質や仕組みなどを段々と把握する。三角や丸、赤や青といった言葉や力学の知識は積み木遊びには必要がなく、そもそも言葉がほとんど理解できない。母は車に興味はないが、白黒写真の背景に並んだ車のうちの1台が自分の家の車だと指摘できるし、60年以上前の写真を見てこれは誰それのルノーだと言う。父を遊びに誘いに来るが、二人乗りだから母は乗せてもらえなかった。「座席の後ろなんかこんな狭くて」と手を広げてみせる。それこそが実践知識というものだ。 Googleレンズは類似画像のランキング表示で、ヘクソカズラ属の何種類かと類似種の一覧が出る。これは植物比較のための情報として利用でき、類似別種を識るきっかけにもなる。画像の一部に焦点を絞ると名前が絞られることもあり、それはその部分に特徴があるという示唆になる。便利なものだが、ヘクソカズラとは現実のどこにも書かれておらず植物図鑑で憶えた程度の集約的な知識では実際には判別が難しい。 類似画像検索は入り混じった画像では実に様々な結果を表示する。他国の植物も出れば、違う植物が1つだけ表示されたり、似た画像が見つからないこともある。そもそも写真は現実から切り取った視覚情報の一部に過ぎない。大きさや気候、周囲の環境、含まれていない情報は無数にある。葉は絞りきれないほど似たものばかりだが、花はそうでもない。花の部分だけ切り取ればアレチハナガサが高順位に表示される。全体ではヘクソカズラの葉と花が同一植物と誤認されて野菜のツルムラサキが上位に挙がる。もっと引きの写真では雑草扱いになる。 知っている植物の多くは花や実しか知らなかったり、葉しか見たことがなかったりする。名前を聞いたことがあっても見たことがない植物もある。植物には成長変化や環境変化や地域的な個性もあり、変種や雑種、類似別種もある。同じ場所でそれまで気づかなかった植物を見つけたことも一度や二度ではない。 確認しようとしなければヘクソカズラは目に入らない。気が付かないのではなく植物や雑草と捉えて纏めて見過ごすのである。雑草どころか橋や歩道としか認識しないまま通り過ぎることもある。ヘクソカズラは日本全土どこにでもある在来種で、手入れすればするほど競合種が一掃されて繁茂しやすくなる。植物相が安定した野山では隙間を見つけられず、草刈りの機会を狙って人里で芽を出すというのが雑草の一つの在り方のようだ。 名前は知らなかったが、ヘクソカズラの花は知っていて、葉や実の手につく臭いも知っている。けれども、実物には名札も無く、植物が名乗ることもなければ日常会話にも出てこない。花には花弁、子房、萼、雄蕊や雌蕊、花冠、花柱、花柄といった植物学上の言葉があり、憶えておけば識別の一助になるが、例えばヘクソカズラの花冠が5裂していることを知らないと識別できないといったことはない。花冠が5裂する植物は他にいくらでもあり、かなり近づかないと5裂していることは分からない。言葉で照合して識別するわけではなく暗黙知の領域でヘクソカズラだと判るものだ。 暗黙知の領域は膨大で、体験を伝えるには同じ経験を実践してもらう他はない。暗黙知から抜き出した形式知からは大半の情報と意味が失われてしまう。自分で知らないことは本質的に理解できない。例えば水泳の本は、泳げる人にとっては意味があるが、泳げない人や泳ごうとしない人にとっては無意味である。魚も形式知を理解できるから泳いでいるわけではない。 花や実は際立って目立つので区別しやすいと思っていたが、近似種との判別は果実の色や形だったり、芽の付き方だったり、葉の艶や大きさや厚みだったり、葉の裏の毛の多少や色彩だったりすることもある。長年フィールドワークをしている人たちはノギスや虫眼鏡、顕微鏡、採取道具、一眼レフなどを持ち歩いて研究を重ねたりしているが、自分はスマホで撮った写真を見比べたり、ネット上の写真と見比べて見聞を広げている程度である。 Googleレンズで出てくる「ブドウ属」といった結果の一つを受け入れたり退けたりするのは自分で、選択肢から1つに決めたり選択肢に無いと決めるのも自分である。さらに検分を続けるか、ブドウの一種で片付けておくかといった選択も自分で決めることだ。しかし、事実上仮に決めるぐらいしかできないかもしれない。DNA鑑定したり標本と比べても分類学者の見解は割れており、変種に雑種、栽培種も増えていくばかりなので決定論ではなく確率論を採らざるを得ない。 一方は花が咲き他方は蕾もないことがある。別種との誤認だったり雌雄差だったりすることもあるが、変種か雑種の場合もある。成長段階の差もあれば、毎年花を咲かせるとも限らない。生育環境や病害虫の影響も大きい。街路樹などでは花や実を付けないように剪定されている場合もある。植物種の形態的な特徴が特定時期の特定部位の微細な相違であったりすると観察の継続が必要になる。 ホタルブクロを初めてみたのは小学校3〜4年生頃のことで、こども医療センターへと抜ける「橋」の途中だった。橋と呼んでいたが、本物の橋ではない。雑木林の急斜面に板を敷き、手すり代わりにロープや竹、細い丸太を竹や樹木にロープで括り付けた手作りの「橋」だった。立ち木や急勾配を躱すために「橋」はつづら折りで、剥き出しの地面だったり、木の根の天然の階段もある。斜面の下方は竹藪で足元はクマザサの茂み、上の方も雑木がびっしりで、昼間でも見通しが悪く薄暗い。だが、20メートル弱のちょっとした冒険をすればバスターミナルのあるこども医療センターの広大な敷地に出る。 ホタルブクロの名をどうして知ったかは憶えていないが、たぶん父から聞かされたのだろうと思う。雑木林の「橋」を利用していたのは近所の数十軒ぐらいだろう。橋はこども医療センターと引越坂を繋ぐ近道で、別系統のバス停があった。橋を使えば300メートルばかり距離は近くなるが、虫が多い時期や雨の日、夜などは橋を通る人はほとんどいなかった。10年ほど前に訪れてみたが、橋の入口までの路地しか残っておらず、抜け道もなく雑木林は全て住宅地になっていた。 自分にとっては最も自然が身近にあったのは六ツ川に住んだ4年間だった。小学生の頃の南区六ツ川周辺には田畑があり、土道や砂利道も多く残っており、野原や雑木林が身近にあった。だが、虫採りをしていた雑草だらけの野山は畑を手放した農家の空地であり、ザリガニやメダカがいた小川は元は田んぼの用水路であり、そうしたものが有刺鉄線で囲まれてブルトーザーで次々と潰されていくのを見つめてもいた。自分は最期を迎えた里山の中で遊んでいたのだった。 これは萼の部分が盛り上がった変種のヤマホタルブクロである。里山が消えて緑のない都市となり、自分もまた長らく自然から遠ざかった。今は公園の中で昔あった自然のかけらを見つけて歩いている。 マリンタワーは1961年に開業した。自分にとってマリンタワーの展望台はいまだにこの姿である。最後に展望台に昇ってから40年以上経つのではなかろうか。ここには吸殻入れが置いてある。こういうものが街から消えていったのはつい最近のことで、JRのホームから喫煙場が消えたのは2010年頃のことである。 マリンタワーにはかつてバードピアがあって珍しい鳥類に触ることができた。はまれぽの【横浜マリンタワーの屋上はかつて放し飼いの鳥だらけだった!?】には「約150種1000羽が放し飼いにされていた」とあるが、その鳥の一覧が載った昭和51年3月当時の【リーフレット】が手元に残っている。 マリンタワーは2009年と2022年に改修された。これは2015年の写真になるが、外観は現在とさほど変わっていない。 前回この道を通った時にはマンリョウに気づかなかった。雑草や雑木といった固定観念や、冬は花も果実も無いといった先入観は無くなってきているが、視界の全てを同時には把握できない。それでもやっばり見逃した物があると、自分の観察眼の性能の悪さに呆れ、何度も調べたはずの植物名が思い出せないことに苛立って何枚も写真を撮ったりしてしまう。 自分は実を探さなかったわけではなく、萎みゆく花を撮らなかったわけでもない。萩の実は小さく、まだ色づかぬ蕾のようにも見え、小さな葉のようにも見える。しかし、それが認識できるまでは見えることはなく、したがってレンズを向けることも思い付かない。 ごちゃごちゃと雑多な種が密に生えているのが雑草というもので、歩きながら見分けようとしても目で捉えられるものは1つ2つぐらいのものである。 樹皮では葉ほどは区別できない。一瞥してクスノキだモミジバフウだと決めつけるのは簡単だが、見上げるとまるで違う葉が付いていることがある。樹皮の図鑑のようなものに掲載されている写真は標準的な樹皮で、例外まで網羅するのは不可能である。 新川崎に通うようになってから1ヶ月も経たず、既にこの公園だけで60種以上の植物を撮った。何度も撮っているため改めて撮っていないものを含めれば優に100種は超えるはずで、おそらく200種は見つけられると思われる。それでも見ているようで見ていないことは多々あるだろう。この写真でもヤグルマギクに何やら黄色い肢と腹の昆虫が留まっているようだが、撮った時にはまったく気づかなかった。 このケヤキの老木は通園路に近い枝や幹が剪定されており、背景の幼稚園にあるイチョウも低く剪定されている。幼稚園や学校では時折子供や教師が落枝や倒木に遭って重症を負ったり死亡するような事故が起きる。すると、当該地のみではなく全国の公共施設や自治体などで落枝や倒木の可能性調査が行われ、危険と診断された樹木は剪定ないし伐採される。 ヤドリギの実には粘りつくような細かな繊維がありトリモチとしても使われる。鳥の身体にぶら下がって遠くに運ばれ、羽根を休めた枝に繊維と一緒に小さな種が絡みついて芽を出す。昔は宿主を枯らすと見做されていたが、最近の研究ではヤドリギは宿主の成長を少し阻害する程度で、生物多様性の見地からは周囲に豊かな環境をもたらすものともされている。 引地川沿いの大和市ふれあいの森で正月に撮影した写真には偶然ながらユキヤナギが写っていたが、この時にはただの枯れ枝ぐらいにしか思わなかっただろう。枯れ枝で片付けるのは面倒が先に立つためで、アプリで調べても枯葉や枯木では絞りきれない。 大田区に転勤してきたのは2011年の春で、その時に流通センター駅前の交差点に噴水のように湧き出す白い花を初めて見た。 この時は桜は満開で、ユキヤナギの花はやや勢いを失って葉のほうが多い。子供の頃にユキヤナギを見た記憶は見当たらない。首都圏の公園に植えられるようになってきたのは近年のことではなかろうか。もっとも、自分はそう大して植物と接してきてはいない。植物と最も近かったのは小学生までのことで、その後は急速に離れた。自分にとっては雑草や雑木こそが自然で、いまだに公園や庭先の緑は作り物めいて見える。 この写真は中央が何の植物か調べるために撮ったものだが、同時にユキヤナギの葉が映っていることには後から気づいた。葉だけでは雑草としてしか捉えることができ、ユキヤナギは大和大橋のところにしかないと思ってもいた。つまり、場所と花しか記憶に刻まれていないのだ。 ユキヤナギは信号待ちで毎日目にする。四季変化も見ているはずだが、花弁が何枚かすら知らず、葉が何センチぐらいかと尋ねられても答えられないし、実も枯れた花と思って見過ごしている。 ユキヤナギは道の反対側にもびっしりと植わっているが、花が咲いていなければ雑草にしか見えない。 ユキヤナギもこれだけこじんまりと剪定されているのでサツキの類いだろうと思って素通りしていた。これがユキヤナギと気づいたのは今年の11月になってからのことである。通勤路沿いではユキヤナギの花は流通センター駅前でしか見掛けなかった。だからそこにしか無いと思ってきた。公園内を歩くようになったのは今年6月からである。 ユキヤナギの果実は洪水で剥ぎ取られると水面に浮いて遠くに運ばれる。水流に運ばれて分布を広げる植物である。大和大橋周辺に生えているユキヤナギの葉がヤナギの葉のように細長くないのは、冠水もなく水圧をかわす細い葉である必要が無いからだろう。陽光を効率よく吸収できれば十分なのだ。 ユキヤナギは根本近くまで刈っても毎年復活する。年に2度3度とユキヤナギは剪定されるが、余分な枝を刈ることで風通しを良くしたり、共倒れを防いだりして全体を生かしているようだ。 トウジュロは葉先がピンと伸びており、ワジュロは折れているというように簡単に見分けることができるのは突出しているからに過ぎない。植込みでは様々な植物が入り混じっており、これが見分けられるようになるとは最初は思わなかった。 この写真は左側の木の「デイゴ」の名札に気づいて撮ったものだ。遊歩道の左がキャンプ場の敷地で、右側が日本庭園、突き当りのブランコの向こう側に普段の通勤路がある。遊歩道の両側の生垣は全てユキヤナギである。デイゴに気づき、桜やススキは見れば気付くが、ユキヤナギは四角く剪定されているというだけで生垣で片付けていた。 ユキヤナギは他にも植えてあるだろうと思い付いたのは10月末で、平和の森公園の通勤路から外れて1分もしないうちに見つかった。 地元にもユキヤナギが植えられているところがあった。葉だけのユキヤナギは探せば出てくるが、探そうとしなければ見つけられもしない。これは雑木林の一角で、近所の人が路面に飛び出さない程度に刈ってはいると思うが、ほぼ放置された状態である。中央のクズの葉や右下のオシロイバナの葉と比べてもユキヤナギの葉はごく小さい。植物の葉は環境によって大きさを変えるし、成長過程でも変わる。花を咲かせる前のユキヤナギの葉は豆粒のように小さい。 ユキヤナギの葉の長さは指1本の幅かせいぜい2本程度の幅しかない。枝は固く葉の付け根にも丈夫そうなコブがあり、洪水に沈んでも水流に耐えられるので風にも耐えるだろう。ただ、花が終われば大量の細かな花弁が落ちる。紅葉が終わればやはり大量の葉が地面に降り積もる。大きな葉よりも掃除に関しては手強いかもしれない。 ユキヤナギの名札は初めて見た。何よりここは公園で、植物は人の管理下にある。公園に必要なのは植物生態学より造園や園芸技術である。つまり、自然観察のつもりであっても造園技術の経過観察だったりすることもある。 返り咲きと言うべきだろうが、帷子川沿いの11月のユキヤナギに花を見つけた。 1本のユキヤナギの木に白い花が3箇所、5つだけ花が咲いている。他にもあるかと探してみたものの、ユキヤナギの花はこの1本だけだった。このユキヤナギは帷子川の土手に生えている。川沿いだからなのか葉が明らかに細長い。これならサツキと間違えることはない。 平和島公園の200メートルほど続くユキヤナギの生垣の中で、見つけたのはたった1本の木に咲く2つの花だけだった。 帷子川のユキヤナギの花は増えている。 大和大橋のユキヤナギにはツノロウムシが付いたものもある。初めは根元の奥にいて確認しづらくワタフキカイガラムシだと思っていた。 ユキヤナギは落葉樹なので紅葉する。赤くなるのはもう少し先のことだろう 二度咲きのユキヤナギは、紅葉の中で咲き続けており蕾もある。たぶん来年まで咲き続けるだろう。年を越せば早咲きということになるのだろうか。 ユキヤナギはすっかり紅葉しているが、花を付けた株が2つだけある。 本来は冬芽のはずなのだが、現に咲いている花がある。この場合は冬芽ではなく蕾と呼ぶべきだろう。 大和大橋のユキヤナギにも花が1つ2つ咲いているものがある。もはや遅咲きではなく早咲きというべきだろう。 一斉に蕾を付ける頃の葉は長くならない。おそらくは花を目立たせるため、なおかつ葉よりも花にエネルギーを注ぐため小さいままなのだろう。 アブラムシに襲われている枝の葉の方が長く、花が咲いている枝の葉は小さくアブラムシも少ない。花の時期は植物中の養分やエネルギーはもっぱら花で消費される。長い葉だけの枝は言わば戦時の兵站役で、アブラムシは兵站を襲っているわけである。子供の頃はアブラムシと言えばもっぱらゴキブリのことで、アブラムシ上科の昆虫はアリマキと呼んで区別した。今も関西地方ではゴキブリをアブラムシと言うようだが、方言ではなくゴキブリという言葉の方がアブラムシより後発である。 平和島公園内のユキヤナギの生垣には花を咲かせなかった株もある。 ユキヤナギの葉はシモツケの葉よりだいぶ小さいので現実に間違うことはほとんどないが、写真だけでは相似形なので見誤る。強いて言えばユキヤナギのほうが鋸歯が細かいぐらいだろうか。 同じユキヤナギの株でも花が咲いて実を付けた枝の葉は丸みがあって極小になり、花も実もつけなかった枝の葉は夏の葉のような大きさがある。 この写真がユズリハの最初の1枚で、名札にはトウダイグサ科と書かれていたが、現在はユズリハ科に分類されている。 今川公園にはユズリハがそこここで見られる。雌雄異株だが、これなら実を結ぶ機会はあるだろう。 手前にぼやけて写っている丸みを帯びた芽がユリノキの蕾らしい。撮った時には花に気づかなかった。葉に焦点を合わせればやはり他の物は見えないものである。これは仕方がないことなのかもしれない。葉の重みで枝が下に傾いていたのでしっかり葉の形が写せると思って撮った写真である。 ユリノキの実は下の方で花はもっぱら高い枝にあり、下から咲くのかと思っていたが、下方の枝にも花が咲いてきた。それでも斜面に登っても3メートル近く離れており上から花の中を覗くことはできていない。萼と花弁が混じったようなもの(花被片)は3片あり長さは5センチほどある。 平和の森公園のユリノキは高くて花を撮るために望遠にしなければならなかったが、この公園のユリノキは5〜6メートルのものと10メートルほどの木があり、葉は目線の位置にある。間近で改めて見るとユリノキの葉は大きく奇異な形で、キリの類かと勘違いしたほどである。 ユリノキは北米原産の木で、高さ50メートル以上に育つそうである。花の形から英名ではtulip treeと呼ばれている。ただし、木の花というものは上の方にだけ付いたり大木にならないと花を付けないこともあり、この公園の木は低く目線の位置には実も付いていない。 ヨモギは多年草で冬になっても葉が生え変わったりはするが、ずっと新しい葉を生やし続ける。ここは年に何度も綺麗に伐採されるが、ヨモギは最初に生えてくる植物の一つである。 ヨモギかどうか確かめようと葉を裏返してみたり葉を揉んで匂いを嗅いだりするもするが、それを忘れてしまうと写真だけではヨモギかどうかの判断は難しい。 繊維を採るためのカラムシの栽培種をラミー(Ramie)と言い、ラミーに巣食うカミキリをラミーカミキリという。左の大きい方が雌である。 立ち止まってカラムシの葉の上を少し見渡すだけで何匹か見つかる。国立環境研究所の侵入生物データベースの【ラミーカミキリ】によれば、イラクサ科草本の他にムクゲに発生することも多いそうで、中国から1860〜70年代に九州から侵入してから次第に北上してきている。今世紀に入ってから東京でも普通に見られるようになったようだ。 ずっとカナブンだと思っていた甲虫を捕まえて改めて調べてみると、日本甲虫学会の【東京港野鳥公園のリュウキュウツヤハナムグリ】という記事に辿り着いた。 リュウキュウツヤハナムグリはコガネムシと異なり光沢がある。毎年夏になるとこの甲虫が何十匹と橋の周囲を飛び回り、歩道には死骸がゴミクズのように落ちている。3年ほど前に数百匹が飛び回っていたのと比べれば減少傾向にあるが、おそらく増えすぎた末にバランスを取り始めたのだと思う。 レモンバームは流通名ではカラミンサとかカラミントなどと呼ばれ、様々な栽培種があるようだ。 花弁の根本の紫色は蕾の外皮の色である。レンギョウは外来種でチョウセンレンギョウとシナレンギョウがあり、交雑種が多い。まとめてレンギョウと呼ばれるが、交雑種はアイノコレンギョウとも呼ばれているようだ。またタイワンレンギョウという紫色の花もあり、それにはデュランタとかハリマツリという別名がある。 もしかすると昔はレンギョウをヤマブキと思っていたかもしれない。 葉の根元に僅かに蕾が見える。 長い間、冬のイメージは枯木と枯葉だったが、現実には冬になり正月を越しても花や実を見かけない日はほとんどない。温暖化云々を考えたくもなるが、冬にしか咲かない花や冬の果実もある。冬だから何も咲いていないだろうと思い込んで大して見てもいなかったらしい。 ロウバイはクスノキ目ロウバイ科の栽培種で、西日本では葉が落ちてから花が咲くらしい。 ロウバイはクスノキ目ロウバイ科である。 これはロウバイの実の残骸と蕾のようである。 蕾の中には咲きかけのものもある。 母親はこの写真を見て「気味が悪い」と言う。 ロウバイはクスノキ目ロウバイ科で、見た目は蝋細工だから漢字で蝋梅と書く。 このロウバイは満開のようだ。しかし、まだまだ蕾がある。 この殻の中に種が入っているが、小さくすぎて写真では捉えきれない。殻を触ると中から小さな胡麻のような種が転げ落ちてくる。 ワイヤープランツはミューレンベッキア(Muehlenbeckia axillaris or Muehlenbeckia complexa)の園芸品種の総称で、タデ科の蔓性植物である。鶴ヶ峰バスターミナル下の斜面に植栽されている。 ワイヤープランツは園芸の装飾用として鉢植えやバスケットに垂れ下がっていたり、芝生代わりに植えられているのも見かける。 フサオマキザルは雑食性で木の実なども食べるのだが、執拗にドクダミに手を伸ばして花房を採って口に入れていた。 1992/12/15に開園した希望が丘ふれあいの森公園は、高低差10メートルほどのなだらかな丘の斜面に作られた公園で、面積5,636平方メートル、横切るだけなら80メートルもなく1分で通り過ぎてしまう。 遠出すれば見たこともない植物の写真がごっそり追加されて、それを仕分けるのに何時間か掛かる。しかも再確認するためにはまた時間を掛けて見に行かなければならない。それより自分の足元を探し切れていない。近場を歩くだけで毎日平均2種類発見している。それを思うとなかなか足を伸ばせないところはある。 希望が丘水の森公園には何度か来ているが、10年ぶりぐらいだろうか。マップは反対側の入口にもあるが、ヘラオモダカのイラスト入りのものは公園の中である。 池の奥が帷子川源流点でヘラオモダカが群生しているが、歩道からは少し遠く、目視では点々と見えるものが白い花なのか照り返しなのか、そもそもヘラオモダカかどうかも判然としない。 群生するヘラオモダカを池の正面からスマホで拡大するとこの程度にしか映らない。形状や生え方はヘラオモダカらしい。 この消費カロリー早見表というのは旭区内のあちこちの公園で見かける。問い合わせ先は旭区役所福祉保健課健康づくり係とあり、旭区グリーンロード構想の一環である。 ある日、大規模な除草の跡があった。入口の案内板には「周囲の自然を含め源流を保全しています」とあるが、これは「生物のための樹林」に指定されていない箇所のようである。左奥の杭から向こう側は除草されていない。 入口のガーデンスペースのところは地元の人が草刈りや手入れをしているのを見かけていたが、これは自治体からの委託業者が保全した結果だろう。 現代都市では山菜や薪や炭を採るために山に分け入ったりすることもなく、農業や林業を営む者は減る一方で、自然というものは散歩やジョギングを愉しむための景観でしかなくなってきている。そもそも里山の景観は、生活の必然のために自然を利用してきたことで保たれてきたものである。つまり、現代都市では人が自然に介入する機会がごく少なくなったために、造園や土木業者による定期的な伐採と除草で自然を撹乱してバランスの採れた景観を保っていくしかない。 「旭ウォーキングムーブメント創生」というのは2019年に旭区誕生50周年プレイベントの合言葉である。横浜市の【ウォーキングイベント「あさひ まちウォーク」を開催します】に記者発表資料がある。 「帷子川の源流の一つがこの希望が丘水の森公園の湧水です。源流となる湧水がこのような市街地の中に残されていることは 大変珍しく貴重な環境です。 周囲の自然を含め源流を保全しています」とあり、マップには「湧水点」と表示されている。また約半分ほどの区域を生物のための樹林として「生物(野鳥や昆虫)のための保護区域」として立入禁止にしている。文責は横浜市緑政局 西部公園事務所である。「旭区グリーンロード 南希望が丘陽だまりの道」は【旭区グリーンロードを歩いてみませんか】にマップを含めて情報が掲載されている。 3ヶ月ほど前の除草が既に判らなくなってきている。 公園の入口にも周囲の住宅の庭にも外国産の珍しい植物が植えられている。ガーデニングは在来種も外来種も帰化植物も栽培種もお構いなしである。現実問題として都市の中ではビオトープは不可能だろう。 希望が丘水の森公園は帷子川の源流が湧き出す沼地はあっても、流れ出る川は見当たらない。湧出する水は一旦排水口に吸い込まれて地下へと潜る。 希望が丘水の森公園の半分は保護区域で、写真左の湧水池を含む森林は一般人は立入禁止である。 横浜市環境科学研究所の【所報】第44号(2020年3月)には希望が丘水の森公園池でタモ網を使った調査結果が載っているが、「泥の堆積によって池の水深が10cm未満となっているため、魚類の生息に適さない環境」とあり、湧水池で確認された生物はアメリカザリガニ、ヤマアカガエル、フロリダマミズヨコエビ、シオカラトンポ、ヤスマツアメンボ、ヘラオモダカ、オオフサモ、ツリフネソウの8種となっている。 排水口の縁に首輪を付けたネコが乗っていた。カエルかザリガニでも狙っているのかほぼ動かない。あまりに動かないので写真を撮ってみた。 この日は保護区の林の奥からチェーンソーの音が響き渡っており、住宅地に接している樹木を剪定しているらしかった。 猫以外の動物の姿も何度か保護区の林の中に見かけている。敏感に姿を隠すため写真を撮る以前に目で追うのが難しく、離れてもいるので猫の歩き方ではないことぐらいしか判らない。アライグマやハクビシン、アナグマやタヌキは横浜市内にも生息しており、時おり駆除のニュースを見かける。 毎年4月から9月はアルバイト増員で大規模な除草が行われる。細かな剪定や刈り残しは造園業者だけで年がら年中あちこちでやっているようだ。通勤路だから気になったことはいつでも確かめることができるが、除草の公示もろくに読まないどころか気が付きもしない。まともに目を通したのは今年が初めてである。 平和の森公園では9月末ぐらいから薬剤を塗られた樹木を見かけるようになった。【区内公園の樹木における「ナラ枯れ」の発生について】に報告があるが、ナラ枯れとは「ブナ科樹木萎凋病」の通称で特定昆虫を介した伝染病のようだ。クスノキにも様々な病気や虫害があるようだが、クスノキに限定した詳しい情報はほぼ見つからない。【クスノキ枝枯れ症状の発生に関与する炭疽病,クスクダアザミウマと環境要因の関係】は、「速報」という但し書きがあるもののほとんど唯一のネット上で見つかった調査研究資料である。 万騎が原小学校には2029年3月まで建替工事をする旨の公示があった。 この日は朝から風が強く、高校の正門には真新しい掲示があった。「強風時には構内の樹木の枝が落下する恐れがありますので、一般の方の校内の通行はご遠慮願います」。国土交通省の国土技術政策総合研究所の【街路樹の倒伏対策の手引 第 2 版】には街路樹が対象だが、事故の実例写真を含めた詳細な分析と点検や診断方法、対策などが掲載されている。 今宿庚申塔には文字も刻まれている。はまれぽの【旭区の三叉路のド真ん中にある邪魔な像の正体は?】に地元での取材情報がある。今宿には20ほどの庚申塚ないし庚申塔があるという。 今川公園の入口近くにも水路がある。これは方向からいって早咲きのウメがあった辺りで帷子川本流に合流しているようだ。 この辺りには前世紀までは藁葺屋根が存在しており、茅を葺き変えているのを何度か見たこともある。もっとも、職人が少なくなって改築に近い費用が掛かるという話も聞いたことがあって、現在では茅葺屋根の家屋を新築することは建築基準法で禁止されている。瓦屋根にしてしまえばもう茅葺きに戻すことは出来ない。 少なくとも半世紀以上ここにある火の見櫓。 立札の下には鳥のカラー写真が3枚あり、ヒヨドリ、アオジ、シジュウカラの簡単な説明がある。アオジは聞いたことがない。「チョッピーチョ」と鳴くとある。試しに検索すると「チョッピーチョ、チチクイチリ」と続くようだ。 今川公園は1992年開園で、その前までは畑と雑木林しか無いようなところだった。管理しているのは造園業者や設備管理業者の4社で構成される横浜市指定管理者の「緑とコミュニティーグループ」で、現在は市内12箇所の公園を管理している。 今川公園にはムベの棚がある。すぐ側にはバスケットゴールがあって20人ばかり子供が集まっていた。 野鯉が波紋を広げるこの池も帷子川水系だろう。 紅白に塗り分けられた昔のマリンタワーの姿は今も記憶の中では優勢を占めている。山下公園には臨港鉄道の高架があり、貨物列車が時折通った。高架下には土産屋や小さな軽食屋などがあり、公園通りにもパラソルを屋根代わりにした飲み物やアイスを売る屋台が並んでいた。 「全国都市緑化フェアは、国民ひとり一人が緑の大切さを認識するとともに、緑を守り、愉しめる知識を深め、緑がもたらす快適で豊かな暮らしがある街づくりを進めるための普及啓発事業として、昭和58年(1983年)から毎年、全国各地で開催されている花と緑の祭典です。」(公益財団法人 都市緑化機構) 公益財団法人 都市緑化機構によれば「都市緑化をテーマとした30年以上の歴史を持つイベントです。他の緑のイベントと比較しても、イベント集客力の効果は非常に高く、安定した集客が期待できるイベントです。」 自然状態でこのような景観にはならない。園芸植物として取引されている7割が外来種だそうで、ここもそうだろう。そもそも自然環境保護の見地でガーデニングが行われるわけではなく、あくまで鑑賞目的であり概念は全く異なる。不自然とか自然という見方を当て嵌めることも無意味である。 都市の緑地化とは、個人レベルではガーデニング、自治体レベルでは造園を組み込んだ都市デザインのことで、それが集客力がある観光資源となりうることを具体的に提示するのがこの都市緑化フェアである。既にある野山や自然林や自然水系が観光資源となっている都市でも観光ルートの緑化整備によって観光客の増加が期待できるというわけだ。 母親は全国都市緑化よこはまフェアよりボートレースの方に見入っていた。 希望ヶ丘駅近くの山田稲荷の参道にはヒサカキの木が並んでいる。 清来寺には除夜の鐘をつきに2度行った。1976年と1977年だったと思う。 清来寺に併設されている清来寺幼稚園には弟が通ったので、ここにも何度かは足を踏み入れている。 新編武蔵風土記稿によると、当初は厚木村の天台宗の寺で1227年に法運律師が浄土真宗に改めたとあり、「開山法運律師、健治元年七月二十四日に寂すと云、法運は中興の開山なるべし、慶安二年高十石の寺領をたまふ」と記述されている。 横浜市歴史博物館の2022年の企画展【追憶のサムライ】に清来寺蔵の江戸末期制作の「夏野の露」という絵巻物が出品されたらしい。これは同ページによれば「畠山重忠の事績をたたえて、後世に顕彰のため有志が制作した絵巻、歌集」とある。 2015年に清来寺を訪ねた【旭ガイドボランティアの会】によれば、清来寺は琵琶湖から厚木に移り、1624年にこの地に移ったそうである。1649年に十石を拝領した時の三葉葵の御朱印は「武蔵国都筑郡今宿村清来寺」宛で、畠山重忠を讃えた「夏野の露」には19代住職の曽我宥欽の名が記されている。 柱に「横浜市/災害用井戸/協力の家」の金属プレートがあり、同じものはあちこちで見かける。横浜市の【災害時等の衛生対策に関する情報】に詳細があるが、令和5年3月末現在の災害用井戸は旭区に229箇所、最多は泉区の310箇所である。水色のプレートには注意事項が書かれており、使用前に配布されている「水質検査試薬で井戸水を検査」してから飲料水としてではなく生活用水として使用し、「水質保持とポンプ等の点検を兼ねて、週1回以上井戸水を汲んでください」などと記載されている。 取引先から直帰となったので東急線と相鉄線の直通電車にしようと思ったのだが、待たねばならなかったため結局使わなかった。代わりに横浜駅で特大のポスターを撮った。 実に久しぶりに訪ねた大桟橋は展望デッキとイベントスペースと化していた。 大さん橋で母親は「何もなくなった」と口にした。 北光丸は実際にあった帆船ではなく、旧函館商船学校で机上操帆訓練用教材として大正12年に制作された模型で、全長6.5メートルある。 昔の大桟橋にはたくさんの飲食店や珍しい舶来品などを扱う土産物屋が立ち並んでおり、羽田空港のような人の往来や賑わいがあった。屋内が巨大なイベント空間であることを歩いて確かめ、自動販売機で買った缶ジュース片手に窓から見える港の景色を眺めて一休みし、船の模型をしばし眺めてこの場を離れた。 どういうわけかこの鹿の首の剥製は建物が変わってもずっと飾ってあるが、この辺りに鹿はいない。昔の金持ちの家には狩猟はせずとも虎皮の敷物やクロコダイルの剥製、そして鹿の首などが飾られていたことを思い出させる。 ちびっこ動物園では鳥インフルエンザ流行のため「当面の間ニワトリとの感覚を空けて」ビニールカーテンを設置していた。 田んぼの用水路にはオレンジ色の鉄バクテリアが見られた。 1972年に「こども自然公園」の名称に変更されていたが、地元では「大池公園」と呼ぶ。ここには殺した大蛇を祀って弁財天を建てたとあるが、白根不動の蛇塚の説明書きでは殺したとまでは書かれておらず祀った先も白根不動ということになっていた。 以前の京浜運河の左岸はU型鋼矢板を並べた土留めが赤黒く錆びついていた。毎年春になると護岸近くに魚の群れがいるらしいことには気づくが、それは海面近くの光のさざめきのようなもので、海底が真っ黒なので魚の形はほとんど分からない。はっきり見えるのは夏が近づくと跳ね上がるボラぐらいだった。 職場の人には京浜運河を川だと思っている人も多く、京浜運河や大和大橋という名も話題に出てこない。川と言い、橋と言えば通じるのだ。150メートル幅ほどの運河は内陸運河ではなく海路運河で、潮流の関係で流れもあり朝と夕方とでは逆向きに流れることもある。京浜運河はここだけではなく、港区から横浜の鶴見区までの陸地と数々の人工島との間を隔てるいくつもの水路が京浜運河と称されている。 海面は常に揺れ動いており、潮が満ちれば岩場は底に沈み、風が吹けば白波が立ち、雨が降れば濁りもするし、小さな船の航跡すら海面を掻き回す。何も見えない時の方が多い。しかし、この運河は明らかに以前よりは透明度が増している。岸辺で釣り糸を垂れている人は多い。夏になれば頻繁に見かけるようになる。キャッチ・アンド・リリースする釣人ばかりではない。クーラーボックスが傍らにあることも多い。もちろんそれは魚を持ち帰って料理するためだろう。 橋の上を歩いていると海の方にも目をやるが、警笛や緊急車両のサイレンに注意を向けたり、渋滞の列が動かなければ事故かと振り返りもする。同僚の車を見かけて手を振ることもあれば、カラスの一声に照明灯を見上げもする。濃い雨雲の動きを追って天気を予想することもあれば、今日の手始めにやるべき事を数え上げて気づかないうちに橋を渡り切ることもある。 大和大橋を渡ったところは雑草だらけになっていて何がどう生えているのか見当も付かない。自然発生だと思うが、右岸にたくさん植えられているユキヤナギを探してもここには無い。種が風で飛ばされることもなく、鳥や昆虫によって運ばれもしないようだ。 ユキヤナギのある交差点は大和大橋の入口で、そこから350メートルほどで城南島に辿り着く。京浜運河を渡る大和大橋自体は長さ200メートル、幅40メートルほどだが、なだらかな坂になったアプローチ部分が長い。流通センター側で100メートル、城南島側で50メートルはある。 2019/06/12から2020/06/29の工期で東京都港湾局の発注で京浜建設が受注して護岸改修が行われた。橋の真下辺りの護岸は元々鋼矢板ではなかったので何も変わらなかったが、U型鋼矢板は生物共生式の護岸パネルと岩場の組み合わせに変更された。それから1年も経った頃、黒い海底に白く斑点のように砂地が広がってきた。 大田区の緑は自然保護の結果ではなく土木造園技術によるデザインでありガーデニングで、定期的に剪定や除草が行われている。剪定前は雑草の塊にしか見えなくても、除草や剪定で見分けやすくなるものもあれば、幾何学的な飾り物と化して却って判らなくなるものもある。 雑草は人が手入れするからこそ生えてくるところがある。植物相が定着した林の中で雑草が少ないのは堆積した腐葉土で地表まで光が届かないからである。これを応用した園芸技術として腐葉土やウッドチップ、玉砂利などを敷いたり、見た目の良いグランドカバーと呼ばれる植物を植えたりすることがある。 環七通りは都大橋を通って大和大橋へと続く。橋脚は同じ構造である。橋脚には横ずれを見込んだ張り出し部分があり、そこに土が堆積すれば雑草ぐらいは生えてくる。 写真の上に写っているのは造園業者の仮小屋で、作業員を送り迎えするバスや刈り取った草や機材を運ぶための車輌がある。雑草には在来種もあれば外来種【侵入生物データベース】もあり、東京都が定める【在来種選定ガイドライン】もあるにはある。プロの監督の元で計画的に作業するとは思うのだが、外来種だけ刈り取るのは無理だろう。 10月25日の朝に富士山がすっぽり雪を被っていた。ビルの隙間が額縁のようになって大きく見える。初冠雪は9月30日だったらしいが、富士山までは直線距離で95キロあってそこまでは見えない。なお、甲府地方気象台の【気候・気象観測統計】には「富士山と甲斐駒ヶ岳の初冠雪の観測記録[PDF]」があり、最早記録は2008年8月9日である。 京浜運河で浚渫作業が始まった。クレーンや掘削機などの重機と待機小屋やトイレまでセットになった浚渫船が新たに設けられた桟橋に横付けされた。 クレーンは泥袋を運搬船に移すためのもので、少し吊り上げた袋の口を3人か4人がかりで縛る。 平らな浚渫船は自走しない艀のようなもので横付けのタグボートで運ばれてきたりする。 船が通るたびに警戒船が動いて白旗で誘導していたが、本作業は7日前後ぐらいのものだった。 浚渫作業が終わると、藻類の緑が少しは鮮やかに見えてきた気がする。 左岸にはネコは降りられないが、右岸ではよく見掛ける。エサをやる人間もおり、釣り人が残していくものもある。岸辺の小魚や雛や卵、ハタネズミぐらいはいるかもしれない。 この桟橋は残すのだろうか。暗くなると安全のためのランプがずっと点滅している。 この日初めて長屋門公園に行ってみた。といっても水の森公園からは歩いて5分ほどしか離れていない。ただ、既に夕方だったのでほとんど写真は撮らなかった。 この公園には阿久和川の源流の一つがある。 水が豊だった、この地域では、横を穴掘っていく「横井戸」が活躍していました。この横井戸は、左・右・正面の三方に掘られています。横浜市 長屋門公園には植物の名札はないが、立札ならある。 長屋門公園は開園三十周年とある。 長屋門の中には和泉区和泉町から横浜市に寄贈された18世紀末の旧安西家主屋が移築されている。左は土間への入口である。 長屋門自体は1887年にこの地に建てられたもので、正式には旧大岡家長屋門という。二階はかつて養蚕に使用されていたそうで、戦後はしばらく診療所として用いられてもいた。門の左は納屋土間から土蔵(穀倉)へと繋がる構造になっている。 長屋門の右側が住居部分で、やや広い間口がある、二階は住居と養蚕室に使われていた。現在は管理事務所と集会室になっている。 長屋門から左の坂を少し行くと今ではあまり見ない竹垣が続く。 長屋門は昔は野山と湿地帯だったところに立つ診療所だった。 水源から約300メートルに亘って小川が流れており、湿地帯の一部は自然保護のため立入禁止になっている。 シロダモの花は確かに咲いており、実の時期も終わってしまっていた。 長屋門公園には掲示板があり、自然観察会での写真が貼り出されていた。 旧大岡家長屋門は明治時代からここにあったもので、近年まで診療所として利用されていた。1987年に横浜市に寄贈されてからは公園の管理事務所となり、様々なイベントを開催している。 この種のほぼ雑草の名札は他の公園では見たことがない。 白糸の滝のほとりに「万葉集」巻二十に採録された防人の歌が石碑に刻まれている。「我が行の息衝くしかば足柄の峰延ほ雲と見とと偲ばね/服部於由」 服部於由は都筑郡(現在の旭区を含む)の人で、この防人の歌は「私の旅が長いためにため息がでるように恋しく思う時は、足柄山の峰にかかる雲を見て心を和らげなさい。恋しく思うことは分かるが、あまり心配して身をこわすより心を慰めながら無事に私の帰るのを待ちなさい。」と解釈されている。 白糸の滝は自然の滝としては横浜市最大で幅9.1m、落差5.5mだったが、1991年の護岸工事で幅7m、落差3.2mに改修された。 中学生時分から白糸の滝の位置は変わらず、改修されてもさほど印象も変わらない。最初からこれが自然の滝とは思えなかった。当時ここに足を運んだのは緑色の花弁の桜があると聞いたからで、友達数人と行って緑色というよりは黄緑色に近い花を見つけた。今もあるかどうかは知らない。 地元の人ばかりの参拝の列に30分ほど並びながら神社のすぐ近くまで宅地が迫っているのを眺めていた。 元々は源義家の名により1063年に社殿を造立したのが白根神社(白根不動)の起源である。 白根不動に流れているのは帷子川の支流の中堀川である。 白根不動には龍が祀られている。 横浜市の【白根不動の龍】の民話によれば、龍が清水の中のジュンサイを食べに来ていたそうである。 明治始め頃、二俣川の大池(こども自然公園)に大蛇が棲んでおり、その死後に祀ったものという。碑には「妙法蛇之塚」とある。傍らには「白根福寿白蛇弁財宮」と赤に白抜きの真新しい幟もある。 自分が幼稚園に通っていた頃、母親は氷川丸のレストランで夜遅くまで働いていた。その頃は従業員のための浴室があったという。 「かもめの水兵さん」がメリケン波止場から叔父を見送る歌だとは初めて知った。自分にとって横浜の童謡と言えば野口雨情の「赤い靴」や「青い眼の人形」である。 2022年の5月ぐらいから通勤路でいつも見かける植物を少し本腰を入れて調べて憶えてみようと思い始め、まずはスマホで写真を撮ってみたらどうだろうと試み始めた。 「ねずみもち」の後ろに野良猫がいたのでついでに撮った。野良犬は都会からはほとんど姿を消したが、野良猫は多い。野良猫に餌をやれば、おこぼれでカラスも増える。餌が与えられなくなれば東京都の10万匹の野良猫はゴミを漁ったり魚や鳥や小動物を狙うようになる。猫は元来が肉食動物である。猫ちゃんはドラネコになり、サザエさんが追いかけることになるわけだ。 仕事で少し遅くなった日に、いつもの電車を諦めついでに通勤路を外れて初めて平和の森公園の中に入った。既に18時を回っており大して時間はない。 平和の森公園には意外に起伏もあり、丘の上の広場に出た頃にはうっすら汗を掻いていた。 広場の周囲には木のベンチやテーブルがあり、降り出した雨の中、1人だけテーブルに顔を突っ伏して眠っている男がいた。テーブルの上にリュックを置いた私服姿で、仕事帰りか遊びに来ているのかも判らない。ビルも見えず車の音も聞こえない。山中のようだが、広場を横切ると木々の隙間から池が見えてきた。 霧雨に濡れるデッキに人の姿はない。タナゴかクチボソぐらいはいてもおかしくないが、池は濃い緑色に染まっており何も見通せそうにない。アメンボはたくさんいたが、随分久しぶりに見たような気がする。 通勤路の小橋が見えた。何故あそこから一度も降りようとしなかったのだろう。 中の島で流れを分けてひょうたん池で合流させるといった設計は本物の川のようだが、ほとんど流れてはいない。 あちこちにブクブクと勢いよく水と泡が吹き出しす噴水がある。浄化した水を撹拌しながら酸素濃度も上げているのではなかろうか。 環七と公園の間には隙間があり立入禁止になっている。時おり作業服は見かける。橋脚設備や電気設備、排水設備の点検や補修、保全作業をする人たちである。風が吹けば枯葉や千切れた雑草が橋脚設備の隙間に入り込み、雨が降れば土砂と一緒に草木が通路に流れ込んで排水設備を詰まらせる。設備近くは雑草の刈り込みが頻繁に行われているが、保全作業は果てしない掃除である。倒木や地崩れで都大橋が損傷しないように、公園の斜面の下には分厚い土留めの石垣があり、水色の鉄柵も頑健な構造のようだ。鉄柵は石垣に据え付けられているだけではなく、斜面に打ち込んだ杭から伸びた鉄パイプで補強されている。そこに何やら穴が掘られていた。写真を撮ってみると、奥の石垣に寄せてある黒い棒状の束が何かはよく見えないが、公園の石垣に沿って1メートル間隔ほどで穴があり、バケツと穴掘り器が転がっている。穴掘り器はバケツで先が隠れているが、杭打ちに使う仙吉の複式ショベルだろう。 通勤路から1分と離れていないところにハスが花開き、アメンボもいればカメやカエルもいる。 近頃の猫には観察されるばかりだ。こちらが遠慮しながら看板に目を通さねばならない。「この自然観察園は、 水生植物を中心とした自然形態であり、公園利用者が水生植物や昆虫を観察しながら楽しむことのできる水辺空間であります。また、水生植物に池水の栄養成分を吸収させることにより水質の浄化を図っています。」 20数点の生垣展示は早足に通り過ぎていては葉ばかりの生垣である。名札だけ読んで通り過ぎるだけでは目立たぬ花や実には気づきもせず、名前も実物も記憶に残らない。 ひょうたん池の上の方には噴水広場がある。そこから30メートルほどは子供が水遊びできそうな透明な水が階段状に流れ、ひょうたん池に続く自然風の川とは小さな橋で区切られている。その橋の近くに柵で囲われた循環濾過設備がある。循環濾過装置はプールについているものと同じ種類のもので、位置からしておそらく噴水と池の両方の水を濾過してポンプで循環させていると思われる。 「ねずみもち」は斜面に生えており、根元の下には電設引込用ポール周りに計測器や変圧器らしきものがあるが、これはケーブルの方向から見て都大橋用の電気設備だろう。大きなグレーチング蓋が付いた排水溝もあり、そこに雨水管の3本が繋がっている。短い橋脚と公園の石垣の始めが直結しているが、そこからが都大橋であり、公園と都大橋の間にある関係者以外立入禁止の通路の終点でもある。 南天のど飴は甜めたこともあるし、イラストや写真を目にしたこともある。そしてここには「なんてん」の名札があり、通勤時には本物が目に入り、写真に映り込んだりもする。しかし、名札のないナンテンを識別できるようになったのは今年の9月末になってからである。 入口辺りにカラスがよくいるのはエサを探しているからだろう。ここにはエサとなる木の実もあるが、ハシブトガラスは主に肉食だから魚や昆虫なども食うし、猫の食うようなものは大概食べる。池が汚れるとか衛生上の観点からといった理由で、この公園には餌やりを禁止する看板がある。特にネコにエサやり禁止の看板はあちこちにある。東京都だけでも野良猫は10万匹ぐらいはいるらしい。衛生上の理由ではあるだろうが、年に2万匹の猫が殺処分されているのが現実で、そのうち4分の3が野良猫である。(犬・猫の引取り及び負傷動物等の収容並びに処分の状況:環境省)餌をやって猫を繁殖させているのも人間なら殺すのも人間で、野良猫を可愛がる人もいれば苦情を訴える人もいるし、引き取って育てる人もいれば殺処分する人もいる。 ろ過装置、真空ポンプ制御盤、高圧受電盤や電力盤、電灯盤など大きな電気仕掛けはひょうたん池と噴水広場の中間付近に集中している。浄化槽やポンプ制御盤は下流に当たるひょうたん池の数カ所にあり、平和の森公園の水系は、浄化した水をポンプで循環させ噴水装置で酸素供給する仕掛けによって水棲生物に適した環境に維持管理されている。平和の森公園の運営費は年間1億円を下らない。 ひょうたん池のデッキの外れにフェンスで囲われた浄化槽があり、焦げ茶色に塗装された噴水制御盤が設置されている。浄化槽の大きな鉄蓋と共に小さ目の蓋が並んでおり、たぶんバルブやモーターが埋まっていると思われる。柵の中には余った電源ケーブルが目立たぬところに丸めてあるが、公園内に電柱はなく地中送電である。 ひょうたん池の上流には噴水広場があり、そこから200メートル以上にわたって流れが造られている。ひょうたん池にも何箇所かノズルが突き出ているところがあるが、昼間には通らないので噴水演出は見たことがない。 真空ポンプ制御盤は噴水を出す時には動いているのだろうが、自分が見かける時刻はいつも圧力計は0である。 平和の森公園の北側の電源系統を制御するこの装置は人の背丈以上あり、消化器の入った赤いボックスがフェンス内に併設されている。 工事していたことも忘れた頃に公園入口の土留めに目をやると、かなり様相が変わってた。鉄柵は網状のフェンスになり黒い土留めが追加されている。以前写真を撮ってから既に2ヶ月近くが経過しており、時々目に入るといってもそんなものだ。通路に積まれていた黒い棒は土留め用の杭だったようだ。以前はダダ漏れだったが、表層の土砂が排水設備に流れ込むぐらいは避けられそうだ。フェンスも網状になり落ち葉や枯れ草の舞い込みも減るだろう。以前と比べて格段に頑健さは落ちたが不要だったのだろう。環七の排水設備の防護に主眼が置かれたということだろう。1982年5月22日開園の平和の森公園は40周年を迎えている。元々ここは埋立地で公園自体が鉢植えのようなものだ。憂慮すべきは崖崩れより冠水である。公園の歩道のほとんどに雨水を逃がすための側溝があり、あちこちにグレーチング蓋がある。歩道際も頻繁に下生えを刈り込んでいる。 黒い杭も黒い土留めも木材のように見えるプラスチック成型の擬木だろう。そう思って自転車用通路に回って確かめてみた。30センチほどの高さの土留めでも以前には無かったから遥かにマシだ。土留めなので鋼材が仕込んであるとは思うが、見た目どころか触ってみても丸太や角材を錯覚させる凹凸が刻まれている。 平和の森公園の通勤路の途中に階段があり、右に行けばひょうたん池で、左に行けば第3保管所の前に出る。自転車用通路のようなものなので滅多には通らない。 京浜運河の浚渫作業とほぼ同時期に電車から見えるあちこちの川でも浚渫作業が行われており、平和の森公園にも泥を吸い出すコンプレッサーが浮かんでいた。 氷点下となった朝、自然観察園には氷が張っていた。 ひょうたん池まで氷が張っており水鳥たちの姿はない。 街中では見かけなくなった霜柱が立っている。家と職場を往復しているだけでは霜柱も見ないが氷柱も見ない。 ナラ枯れの掲示はところどころ剥がされている樹木もある。林野庁の【ナラ枯れ被害】に詳しいが、秋から春にかけてナラ菌を媒介するカシノナガキクイムシの侵入を防ぐためには、ビニールシートを巻き付けたり、この公園のように粘着剤などを塗布したりするようだ。 歩道に嵌め込まれたプレートには梅が大田区の区の花で、江戸時代には梅の名所として知られていたことが記されている。梅屋敷の名は文政年間に東海道沿いにあった薬屋和中散の敷地3000坪に数百本植えた梅と花見茶屋に由来する。現在は聖跡蒲田梅屋敷公園として残されており、傍を走る京浜急行には梅屋敷駅があり、駅に通じる梅屋敷通りがある。 2021年の9月頃から平和島公園の東側の一帯が白いパネルで囲われていった。近くの駐車場も2年ほど前に作られたもので、その時と同じパネルのようだった。これは【日本セイフティー株式会社 アドフラット ホワイト】ではなかろうか。防塵性や遮音性に優れ、表面が平らなので通行人の衣服や身体が触れても引っかかることもないらしい。 工事の説明書きを見たくて通勤歴11年目にして初めて公園に踏み入った。朝の8時前で工事の音も聞こえず誰もいなかった。白いパネルは誂えたようで違和感はあまりない。ただ、上にスライドされたパネルが1枚だけあって隙間からU字溝用グレーチング蓋が見えていた。冠水しやすいことに気付かずに排水口まで覆ったようだ。それほどピッタリ収まるパネルということではある。右の仮囲いはトイレで、こちらも改修するようだ。 建設業許可票によれば大田区役所が注文主で伊藤組と池上建設が請け負っている。 工事車両の入口にはキャスター付きのカーテンゲートが設けられ、鉄板で養生した車輌用通路が奥に続いている。 令和3年9月上旬〜令和4年6月下旬(予定)の工期でキャンプ場の改修を行うとある。 平和島の通勤路沿いはヤマモモやクスノキのような常緑樹が多いが、広葉樹も少しは植えられている。この年は例年より紅葉が遅く、大して色づかないまま落葉する木が多かった。 長いスロープは全長約250メートルの平和島第2歩道橋で、羽田線を跨いで東京流通センターの北側に出る通勤路である。 オレンジ色のネットフェンスは歩道の片側に置いてある資材を覆うためのもので、工事予定地を囲むバネルの仕切りは既に完成している。 この駐車場は2020年に新設されたもので工事の際にはやはり白いパネルで囲まれていた。 最初はスマホで写真を撮ることに慣れなかった。しかし、それより撮っていることを気づかれたくないという気持ちが先に立つ。 8Kよりは4K設定の方が処理が速くてブレないかもしれない。色々試しながら撮っていたら、この日は353枚もの写真や動画が保存されていた。 都内の公園や街路樹で見掛けるねずみもちはほとんど環境省の【生態系被害防止外来種リスト】に載っている中国原産のトウネズミモチであるらしい。しかし、一般社団法人 日本生態学会の【都市域森林群落における外来種トウネズミモチ…】によれば、「トウネズミモチは実生の成長段階において光要求性の高い種」のようで、在来種のネズミモチは日陰でも育つ。そうすると棲み分けができそうではある。 7月15日は予約開始の日だが、朝はキャンプ場に誰もいないように見えた。実際には16日からの3連休から人を受け入れるのだろうか。キャンプ場エリアには「関係者意外立入禁止」の札が立っていて予約した人しか入れないことになっている。看板だけだから入れないことはないが、遠慮して欲しいということだろう。 連休明けの朝にはテントが1つ、遊歩道から少し離れた木立の中に見えた。帰りには小雨が降る中、炊事棟に20人ぐらい大人や子供が集まってバーベキューをしていた。ほんの半世紀ほど前の横浜には土道や砂利道がたくさん残っており、焚火のための赤錆びて黒焦げになったドラム缶や灯油缶を道端でよく見かけたものだ。自然の中に町を造る発想と町の中に自然を造る発想は真逆で、自然に対する感覚もまるで違う。 これまでも公園の中でテントを張ったりバーベキューをしたりしている人たちは見かけた。夕方は楽しそうに見えるが、朝の通勤時間に芝生の真ん中にぽつんと張られたテントには違和感がある。通勤路からは丸見えで、中の遊歩道は犬の散歩で通る人もいれば、ジョギングをする人もいる。 平和島公園に日本庭園風の散歩道がある。この竹垣の門の左に僅かに写っているのがシロミノマンリョウで、これに気づいたのは12月のことである。 ゴールデンウィーク中にクスノキ林に花壇が作られていた。 「テイカズラ」はもちろん「テイカカズラ」のことだろう。定家の名の由来を失念している人はネット上にも多く見受けられる。人が付けた名など植物には関心無いだろうが。 ここはササ類が繁茂していた場所で、民家を取り壊してマンションを建設する際に防草シートを敷いた。既に2年ほどが経過してマンションは完成しており、不動産の完成予想図によれば緑地になるようだ。「緑地化」というのは人工物を撤去して植物を増やしていくことを意味するわけではなく、もっぱら雑草や雑木を除去して人間にとって見栄えのする園芸植物を植えることのようだ。つまり、雑草や雑木は緑ではなく廃棄物でしかない。 町中の公園に鳥獣保護区があり、しかもそこに動物園があるというのは珍しい。二俣川の大池公園も鳥獣保護区であり小動物もいるが、ここは60種400点と規模が大きい。 会社から10分ほど歩くと夢見ヶ崎公園がある。新川崎の駅のすぐ西に見える丘陵地帯である。 右の階段が付いているところが直径15m高さ1.8mの円墳、加瀬台2号墳らしい。 川崎市戦没者慰霊塔は1960年7月に建てられたもので、高さ17メートルの塔に、明治以降の戦争戦没者と戦災者8167柱が祀られているそうである。 夢見ヶ崎公園は昭和25年に開園となった6.6ヘクタールの公園で、丘陵に沿っているので細長い形をしており、長辺は650メートルほどである。 加瀬台古墳群には11基の古墳が確認されている。写真は4世紀後半の白山古墳と7世紀代の第六天古墳のものだが、両古墳とも慶應義塾大学による調査後に開発によって削られて現在では見ることができないとある。 地図の東が新川崎駅のあるJR貨物の新鶴見機関区で、緑に囲まれたところが加瀬台とか加瀬山と呼ばれる丘陵地帯だったところである。現在は丘陵の西側の半分近くと南側が部分的に開発されて、残ったところが夢見ヶ崎公園として保存されているが、見つかった11の古墳のうち4つが湮滅している。 太田道灌は最初はこの加瀬山に江戸城を築こうとしていたようだが、天照皇大神宮に参詣した後に見た夢でこの地を諦めたと伝えられている。 加瀬台9号墳は23.5×21.5m、高さ2.7mの円墳ということだが、土盛りのような丸い地形が残されているだけである。登ってみると上は若干均されていて祠が建てられている。もちろん、これは後に鎮護のため造られたものだろう。 標高は35mである。 加瀬台古墳群のある加瀬山には、この了源寺の他に、熊野神社、天照皇大神宮、寿福寺がある。 夢見ヶ崎動物公園の開演時間は午前9時から午後4時までなので、会社帰りではほとんどの動物舎は締まっており、事務所も締まっている。ただ、動物園として独立しているわけではなく夢見ヶ崎公園の一部であり、はっきりした境界もなく入場料を払うところもない。 昨年はクラウドファンディングによって医療機器を一新したそうである。 天照皇大神の社は直径27mの加瀬台7号墳の上に元弘年間に建てられたものである。室町時代後期に江戸城築上のために太田道灌はこの地を二度訪れている。最初に訪れた時に、一羽の鷲に自分の兜を持ち去られる不吉な夢を見て諦めようとしたが、再び天照皇大神に参籠した際に東北の空天に丹頂が舞う夢を見て、江戸城はここではなく東北の地に建てることにしたと云う。これがこの地が夢見ヶ崎と呼ばれるようになった所以でもある。 この地は元々は加瀬山と呼ばれており、鎌倉時代中期頃に加瀬左近資親が築いた加瀬城跡も史跡として残っている。太田道灌の逸話として有名な山吹の里がどこにあるかは諸説あるが、この加瀬山も名乗りを挙げている。「幸区は、2012年8月1日に山吹を区の花として制定しました」とある。 里山ガーデンはズーラシアと隣接した花と緑をテーマにした公園施設である。2017年に第33回全国都市緑化よこはまフェアの一環としてオープンした。それからほぼ毎年春と秋にガーデンフェスタを開催しているが、訪ねたのはこの時だけで、母親に請われて付き添いとして出かけたのである。 入口のWelcome gardenのデザインは広報親善大使として選ばれたタレントの三上真史で「園芸大使」としても親しまれているらしい。 ここはかつて雑木林や田畑があったところだが、日本庭園ではなく西洋庭園になっていた。テーマは都市の緑化なので、木造家屋に合った自然を模した庭ではなく、鉄筋コンクリートに合ったインテリアデザインのような庭である。 写真の右下の人は植物そのものを見て接写しているが、他の人は歩く姿勢を崩すことなく視線は風景に向いている。つまり、デザインを見ている。 当時の自分の視線も大多数の人と同じく立った姿勢からの遠景や俯瞰で、個々の植物を見ようとしなかった。そういう見方ではどんな植物があったかなどはほとんど思い出すこともできない。 母親がカメラを持っていったのだが、機械物が苦手なので代わりに撮った写真である。 いずみ野駅からの和泉川沿いには農地が広がっていて、防草シートあるいは除草シート、防草マットなどと呼ばれるものが延々と敷き詰められていた。防草シートは農地や個人宅の庭や公園でもよく見かけ、樹木の治療に伴う土壌改良にも用いられている。公園や庭などでは景観上、その上に砂利やチップを敷いたり芝やクローバーなどの地被植物を植えたりして見えなくしてもいるようだ。防草シートには耐用年数がありいずれは撤去しなくてはならないが、アスファルトやコンクリート、人工芝や除草剤などよりは土壌の健康を損なうことなく維持ができるそうだ。 防草シートは基本的には埋め立てずに土壌を保持しつつ遮光することで雑草の繁茂を防ぐためのものである。むろん敷く前に除草したり整地することが必要になるが、目的や環境によって様々なものが販売されている。ただ、スギナなどのように地下茎を張る植物には別対策が必要になるそうだ。舗装路はまだ真新しく、川沿いなのでいずれ桜並木か花壇にでもするのだろう。 防草シートは歩道の花壇などの下地にすることもあり、そうなると歩いていても判らない。近頃は都市部の雑草問題を解決する有効な手段の1つとして取り上げられたりもしている。 この写真は母親がデジカメで撮ったもので、実家から歩いて数分のところである。 サギ類は生物多様性の証左として都市部では受け入れられるが、これが田んぼや畑となると踏み荒らして餌を探すので農作物被害を引き起こす害鳥となる。これを「踏害」と言う。 ほんの一昔前まではこうした光景が鶴ヶ峰駅の方まで延々と続いているのが帷子川だった。雑草の生い茂る川辺や空地、野原は子供の頃には冒険と発見の場で、綺麗も汚いも無く自分自身が真っ黒になるまで踏み入っていたものだ。 「注意/この階段は川の一部です。/雨が多く降ると、階段の上のところまで川の水がきます。/雨の時や雨の後など水の多い時はときはキケンですから階段の中に入らないでください。」 大雨の時などはこの上に付いている回転灯が光ると書かれている。 神奈川県全域・東京多摩地方の地域情報誌「タウンニュース」の2021年の記事に【帷子川 水質向上で生物増加】という記事があった。詳細は横浜市の【横浜の川と海の生物(第15報・河川編)】にある。 矢畑・越し巻きの碑には「北条勢から射た矢がこの辺り一面無数に落下し、矢の畑のようになった」と記載されている。この先には小さな図書館(現在は鶴ヶ峰コミュニティハウス)と公園、プールがある。ここには中三の夏に受験勉強のために通っていたことがある。当時は雑草に埋もれた白ペンキ塗りの板か角材に黒い筆文字の碑で、左は畑で右は雑木林、正面は低い野山を背景に林の陰から3階建ての図書館が覗いていた。二俣川駅に「重忠最中」の売店があった頃のことで、重忠最中は長らく姿を消していたが、現在は白根にある別の和菓子屋が復活させている。 畠山重忠公碑の下に川を通すトンネルが出来たのは1988年で、それまで帷子川は離れたところを流れていた。大規模な河川工事は今も続いており、かつて自分が知っていた帷子川とは位置も様相も変わってきている。つまり川を建て替えたようなものである。自分が今宿南町に移り住んできた頃は登記された廃材が目立ち排水で泡立っていることもあったが、しばしば台風で氾濫して何もかもが洗い流される暴れ川だった。母親が星川に住んでいた頃には夏に泳げるほど美しい星を映す川で、反物の水洗作業をする川でもあり染物工場が上星川に残っている。 カワセミはよく見かける。ただ、カワセミは飛んでいるから気づくもので、慌ててシャッターを押しても川と植物が写っているばかりである。 帷子川ではまた新たな整備工事が始まっていた。水流を新川に逃して一度旧川を枯渇させてから工事するようだ。神奈川県の【河川整備基本方針と河川整備計画】の中に帷子川水系河川整備計画のPDFファイルがある。計画当時は下流域の処理能力は毎秒100トンほどで、これを最大流入量毎秒350トンにするそうだが、横浜駅近くは開発が遅れており進捗は7割を超えたところである。都市計画を実行するためには、田畑や野山を切り崩したり並木を刈り倒したりもすれば、住民を立ち退かせて建造物を壊したり、古い道や古い河川を埋めたりすることが必要になる。整備工事とは古い物を壊して新しい物に置き換えていくことである。 帷子川は何度も大雨で氾濫している。よく憶えているのは30年ほど前の台風の時で、実家近くの道路では乗用車の屋根まで沈むほど水位が上がった。横浜駅前も何度か浸水している。横浜市の【川のはなし】のページに「帷子川の由来と河川改修」にいくつか具体的な写真が載っている。 帷子川の源流は道路や住宅の間に水路としてしばらく顔を見せては、また地下に消えていく。 見た目には川というよりドブだが、希望が丘水の森公園からの帷子川源流である。 帷子川の旧川は、整備して再び流れを取り戻すところもあれば完全に埋め立ててしまうところもある。ここには元の川の形と護岸が残っている。170メートルほどUの字を描いて歩くと元の道の先に出るだけで道としてはほとんど意味がない。アスファルト舗装と土の境界がはっきりしているのは除草シートを取り去った跡で、この残し方から推察すれば花壇になりそうだ。 国土交通省の説明によれば、捷水路(しょうすいろ)とは「河川が弓のように曲がっている部分をまっすぐに直して、洪水を安全に流し下すために削り開かれた人工の水路をいいます。」 手前が帷子川の本流で、奥が希望が丘水の森公園から二俣川を経て流れる帷子川の支流で、帷子川捷水路トンネルの前で合流している。 帷子川の水は澄んでいるが、小魚などは見えない。道端で言葉を交わしたご老人によれば上流の方にはたくさんいるそうで、自分は単に目が悪いだけだろう。コイやカメなら見えるのである。 正面が希望ヶ丘から二俣川へと続く支流で、右側が帷子川の本流である。昔は本流は右上のマンションの前を流れていて、公園のところは畑で、そこまで丘陵があって商店や飲食店、住宅が建っていた。かつてここにはアルバイト時代の同僚の家があり、偶然出遭って飲み屋で何回か話をしたことがある。どこに移り住んだのかは知らない。飲み屋ごと消え失せた。 帷子川捷水路トンネルが完成したのは1988年3月である。 自分の母親の生家は星川で、子供時分には帷子川で泳いだり水遊びをしていたそうだが、現代の子どもたちも同じ川で遊んでいる。どこそこでカメやザリガニを捕まえたとか、赤い目ならシマヘビだよという話声が響いて聞こえた。 帷子川の名前の由来には定説はない。神奈川県の【帷子川水系の紹介】によれば、太田道灌の平安紀行に天王町付近の地名に「帷子」があるという。 子供の頃にはこの遊水地まで水が上がっているのを何度も見ている。下りたことはなかったが、手摺りが付いた階段が付いていて、犬を散歩させている人が上がってきたので入れ替わりに下りてみた。 セイヨウヅタに覆われていてよく見えないが、ここが畠山重忠公碑直下の帷子川捷水路トンネルの出口になる。西川島町の方にはもっと大きな帷子川分水路トンネルがあるらしいが、行ったことはない。神奈川県と横浜市の【帷子川分水路】によると「帷子川分水路トンネルは、全長約5.3km 幅11.2m、高さ9m で新幹線のトンネルより一回り大きく、水路トンネルとしては国内最大級のものです。」 自分が引っ越してきた当時はここに川はなく、急勾配の谷間に雑木林と小川があり住宅が点在するところだった。右側の歩道を少し行った帷子川親水緑道は元々の谷間の様相を色濃く残しているが、何も知らなければ帷子川からポンプで水を汲み上げて自然風の小川を模した公園に見えるかもしれない。実際は小川ではなく帷子川の方が人工物である。畠山重忠公碑がトンネルの上に作られたと現地で写真を撮っても気づかない人もいる。事実と想像はまったく異なることがある。 この新造された川の上にはかつて何十軒かの家々があり、谷戸の自然があった。伐採された古木は数知れない。当たり前のことだが、古くからの町や自然を改変しなければ都市計画は出来ない。 畠山重忠公碑の鉄柵にある銘板はクロガネモチの陰にある。「帷子川遊水路トンネル/1988年3月/横浜市下水道局/延長 141.1m 高さ 9.548m 幅員 16.30m/施工:鹿島・奥村・保土ヶ谷建設共同企業体」と記されている。河川は「下水道」に当たることを改めて思い出した。 帷子川本流の中に初めて鯉以外の魚影を見た。これまでは覗き込んでもなかなか見えなかった。たまたま流れが穏やかで風もなく天気の良い日だったのかもしれない。 そもそも小さな魚影がどんな風に見えるものか知らなかったのかもしれない。一度捉えれば魚の動きにしか見えないが、これまでは川底の水草かゴミがうごめいているとしか見做さなかったということだろう。 一緒に買い物に連れ出っていた母は自分より目が悪いが、しばらくは目を凝らすようにして指し示す先を探していたが、やがて手摺りにしがみついた。その時、足元の真っ黒な塊が動きだした。それは何百匹か何千匹かの稚魚の群れだった。母は面白い面白いと口にしながら見入っていた。 川底を覗き込んでいると、ベビーカーを押して通りがかった二人の若い主婦も川底を覗き込んで驚いていた。みな地元の人間である。子供たちが釣り道具を持ち込んだり、川面に下りて何やら採っている姿は見ているだろうし、鯉以外の魚の話も耳に入っているはずだ。しかし、聞くのと見るのでは大違いである。 近くには支流からの流れもあり、カワセミをよく見かけるところでもある。稚魚が集まっていたところは護岸近くの草陰で水が滞留するところでもあった。 「●ルートについて/鶴ヶ峰駅と上川井町の帷子川源流域付近を帷子川に沿って結ぶ約6kmのコースです。コース途中には由緒あるお寺や、全長約300mの水路橋、源流域には自然の景観をそのまま残した小川アメニティーもあります」。由緒あるお寺とは清来寺のことである。 区役所に近く、畠山重忠公碑が見える小さな公園の前に大きな案内板があった。昭和14年、昭和59年、改修後の帷子川の地図、鶴ヶ峰周辺史跡マップ、畑やわら編著「畠山重忠」からの図版がある。 土日は遠くから訪れたと思われる人たちとよく擦れ違うようになってきた。旅する者は服装や持ち物も違うし、案内地図らしきものを手にしていたりする。そもそも歩の進め方や目線の配り方から違うので見当が付く。 前々日からの暴風雨での倒木で遊歩道が塞がれており、1人が通る分だけ枝が避けられていた。 たぶんエノキの枝を誰かが折って通れるようにしたのだろうと思う。 倒木したのはエノキとミズキとクワの木である。かなりの傾斜があるが、土砂崩れほどではなく地盤が緩んだことで根が浅い若い木が倒れたのだと思われる。残った根に支えられているのか単に引っかかっているだけなのかは判然としない。 ここはかつて帷子川本流だったが、現在では増水時の水量を逃がすための水路となっている。帷子川本流から分かれて住宅地の間を縫って、大きく半円を描いてまた元の本流と繋がっている。 水流はごく浅く透き通っていてアメンボはいるが、魚の姿はない。 帷子川捷水路トンネル完成の翌年、1989年に帷子川親水緑道は開園している。 大田区ではオナガガモも見るが、ここではカルガモやマガモばかりである。 鶴ヶ峰の北側には急勾配の下り坂がいくつもある。U字谷状のいわゆる谷戸で、白糸の滝がある白根不動の方には「谷戸入口」というバス停がある。駅の近くは高層マンションがあり商店や住宅がひしめくが、相鉄の窓外からは鬱蒼とした森が続くところが見え、駅から5分と歩かずこのような風景になる。横浜市の【谷戸のまち横浜】によれば横浜にはかつて3700以上の谷戸があり「1994年には2467か所」に減ったそうだ。 この辺りは昔のままの小川沿いの土道が続いており、中学生の頃に何度か足を踏み入れたところである。右側の崖の20メートルばかり上に鶴ヶ峰駅がある。 昔の記憶にあるのはこのような小川と湿地帯と陽も射さぬ鬱蒼とした雑木や竹林だった。 これまで何度か小川が濁っているのを見ているが、この写真も大雨の後である。 横浜にはクロマドボタル、ムネクリイロボタル、オバボタル、カタモンミナミボタル、スジグロボタルなどの陸生ボタルが生息しているが、水生のゲンジボタルやヘイケボタルは民間での幼虫の放流によって増加傾向にある。ここ帷子川親水緑道でも十数年前からゲンジボタルやヘイケボタルの幼虫の放流が行われているようだ。 会社帰りに親水緑道に寄ってみた。ホタル見物らしき人たちは5〜6組で静かなものだった。着いたのは7時半頃で気の早いホタルを10匹ほど確認できただけである。ここの歩道は足元を照らすライトが設置されており、歩道と小川もごく近い。ホタルは照明を避けて茂みの中を飛んでおり、1〜2匹が時折見えるぐらいだった。 |