生首持ち型の成立事情 大畠洋一 目次にもどる 岩槻型などと違って、「生首持ち型」については、成立時の事情を推定するためのヒントが残されており、面白い研究テーマである。 |
ポイント1 生首(剣-首)の初出は享和3年(1718)10月だが、同じ10月に「剣−鈴」が2体作られている。 年表参照 3体の注文を受けて、3体並べて作成、うち2体を完成/納入したところで、「剣−鈴」に何か不都合が出たため、3体目は、途中で急きょ生首に模様替えしたらしい。※ |
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![]() 享和3年10月 剣−鈴 2体 |
![]() 享和3年10月 剣−首 1体 |
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上図説明 剣-鈴でほぼ出来上がっていたものを、急きょ剣-首に変更した。 | ||
※「鈴→生首」に途中変更した証拠 享和3年の最初の生首は一回り小さい。 鈴の形がほぼ出来上がっていたのを、生首に変えたためではないか。 鈴に較べて生首はずしりと重たい。 つり下げるときに手首に力がかかる。それが手首の角度に表現されているのではないか。 |
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![]() ![]() ![]() 初出の首は小さい 手首の形を比較 |
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「金剛印」→「剣ー鈴」が不都合とされたことには、心当たりがある。ポイント3参照 話は500年前の平安末期にさかのぼる。 日本最初の青面金剛木像(東大寺、国の重要文化財)が作られた時の事情である。 |
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ポイント2 「剣+鈴」のモデルは、 3年前の柏の「金剛印」らしい。6本の腕や手首の形が一致している。 人の作品を見て模写しただけでは、これほど細かいところまでには一致しない。型紙の原紙を入手している。 |
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![]() 石工A.柏・金剛印 金剛鈷+金剛鈴 |
![]() 石工X.印西 生首 |
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石工Xは、石工Aの弟子で、享和3年にのれん分けしてもらい、柏から約10km離れた印西で独立したものであろう。 独立した石工Xは、師匠の「金剛印−金剛鈷-金剛印」などを参考にして、「剣-鈴」を自分の作品であることを示す独自のデザインに決めようとした。 |
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初仕事で3体の注文を受け、「剣-鈴」を2体作ったところで、何か問題が起き、作り掛けの3体目は「剣-生首」に変えた。 |
ポイント3 「剣-鈴」の問題(推定) | |
平安時代の日本最古の青面金剛木像(6手)では、金剛夜叉明王の金剛印を普通の鈴に変えたため、基本的な儀軌の誤りとして批判され、青面金剛像として継承されず、1体作られただけで終わった。 金剛印は「金剛鈷-金剛鈴一体」の印であり、鈴単独で持つのはおかしいという理由であろう。 詳細 下記「金剛印」 ミスを修正した6手像(天王寺最古の画像を写した深大寺木像 剣人型の少し前の6手像)では、金剛印に戻されている。 印西の石工は、青面金剛の金剛印を普通の鈴に変えた。少なくとも形の上では全く同じミスである。 大昔のことを知っている先輩の石工に、「剣-鈴は絶対ダメ」と注意されたのであろう。 |
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平安時代の日本最古の青面金剛木像(6手)では、金剛夜叉明王の金剛印を普通の鈴に変えたため、基本的な儀軌の誤りとして批判され、青面金剛像として継承されず、1体作られただけで終わった。 金剛印は「金剛鈷-金剛鈴一体」の印であり、鈴単独で持つのはおかしいという理由であろう。 詳細 下記「金剛印」 ミスを修正した6手像(天王寺最古の画像を写した深大寺木像 剣人型の少し前の6手像)では、金剛印に戻されている。 印西の石工は、青面金剛の金剛印を普通の鈴に変えた。少なくとも形の上では全く同じミスである。 大昔のことを知っている先輩の石工に、「剣-鈴は絶対ダメ」と注意されたのであろう。 |
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以上総合して 「金剛印」→「剣−鈴」→「剣−生首」 |
平安時代の金剛印問題 |
青面金剛は、病を流行らせる悪鬼(4手)だったが、改心して病を駆逐する善神(6手)になったとされる。 |
平安後期、日本で初めて青面金剛善神を作るとき、金剛夜叉明王を下敷きにした。名前が似ていただけの理由である。 専門家だけしか扱えない「凶暴な悪鬼青面金剛」ではなく、女子供でも礼拝できる「穏やかな青面金剛善神」という注文に答えて、 振り上げていた刀を腰まで下ろし、鈴を鳴らして音に聞き入る穏やかな姿としたが、それがあとで物議を引き起こす。 批判が多く、日本最古の青面金剛善神であるにもかかわらず、結局、この姿を引き継いだ木像、画像、石像は作られなかった。 この姿が一基しか作られなかった理由は謎とされるが、これまで仮説も出されていない。大畠は、次のように考えている。(詳細別項) @凶悪な病魔と闘う神としては表情が穏やか過ぎる。 A金剛印の道具の1つである金剛鈴を単独に鳴らすのはおかしい。 |
![]() ![]() ![]() 金剛夜叉明王の金剛印 → 最初の6手青面金剛善神 剣-鈴 × 鈴の音に聞き入る 改良型 金剛印に戻る 最古画像を元に作成 |
金剛鈴と金剛杵を構えた金剛印がバラバラに使われており、儀軌の常識に反すると言うのが最大の理由だったのであろう。 儀軌にうるさい人にとっては、「金剛鈴を鳴らす」などいう動作は耐えがたかった。 |
欠点を修正して作られた次の6手像(天王寺最古の掛け軸※−−剣人型が生まれる少し以前)では、金剛印が復活している。 (この掛軸は剥離と加筆がひどく、今は肝心の部分が見えないが、この最古の掛軸を元に江戸時代に作られたと思われる深大寺の木像 上右図 からの推定) |
柏の金剛印 → 印西の剣−鈴 × |
左の「金剛印」 を元に、右の「剣+鈴」を作られたことは証明済みである。。 平安の木像と、全く同じミスを繰り返したことになり、不都合と批判され/あるいは判断して中止したのであろう。 平安のミスを繰り返した。「前車の轍を踏んだ」 |
追記 印について解説 |