1.幕末の道 助郷の道 目次へ 道しるべの調査の中で、幕末に保土ヶ谷への新道が作られたらしい例が2件見つかっている。 いずれも嘉永6年(ペリー来航の年)である。 ペリー以前からの黒船の出没で、浦賀警備のために金沢道の公用荷物が増え、助郷が負担耐え切れなくなったことへの対策と思われる。 |
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●天保8
米船モリソン号が浦賀に強行入港、浦賀奉行が砲撃。(モリソン号事件) ●嘉永2 英船マリナー号 江戸湾を測量して下田に入港。 |
東海道が始まった頃は、東海道の宿場の町から人足や馬を出していた。やがて近隣の村からも出すようになり、助郷と呼ばれた。交通量(公用の荷物)が増えるに連れて、助郷は年を追って広がり、幕末には片道3時間以上の村まで及んだ。 片道3時間の場合、前日のうちに宿に着いて仮眠し、1日働いて、また宿で仮眠して翌日帰ることになり、3日間かけて1日分の手当しか貰えない全く割に合わない仕事なのである。 |
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本来「助郷」は、原則として人足や馬は宿場が用意し(100人/100匹)、一時的に不足する場合のみ、近隣の村が手伝うという制度だった。 東海道の公用の旅に必要な人夫を近くの村の助郷で賄うという街道の制度自身が、時代とともに交通量が増えるにつれて無理になってきており、その矛盾が村と宿の両方にしわ寄せされてきたのである。 助郷のための新道工事は、幕府と村人の板挟みになった村の指導者が考えた苦肉の策であったろう。 |
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桜ケ丘五叉路(ビール坂) 嘉永六年 「新道供養塔」「道祖神」 | 磯子区森ヶ丘 嘉永六年三月 馬頭観音像 |
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森村(屏風ヶ浦)→森ヶ丘![]() |
二俣川邑 清水勝右衛門/帷子町○○○○ | 世話人 森公田村 浜田与兵衛/雑色村 川嶋善兵衛 |
「従是(これより) 保土ヶ谷」 | 「北 ほどがや道」「南かまくら道」「東 森村」 |
(ルート)二俣川−市沢町−新桜ケ丘−桜ケ丘−保土ヶ谷問屋場 | (ルート)森村−森ヶ丘(峠)−関の下−保土ヶ谷宿 |
桜ケ丘「助郷の道」のルート 古道ハイクを参照 |
桜ケ丘から市沢町を経て、二俣川に至る道。「相州道」「相州街道」と呼ばれた。 |
(武蔵国風土記稿) 神戸と星川の間に一条の往還あり。相州道へ至る間道なれば、土人「相州道」と呼ぶ。 |