2007連続講座 第2話 第2日 江漢五十三次画帖の解析(その2) まとめ目次へ | |
その2.広重53次のナゾと謎解き 広重53次には、以前から(昭和5年の時点から)多くのナゾが指摘されていた。その後80年間、ナゾは一向に解けないばかりでなく、ナゾが増える一方である。 ナゾが多いと言うことは「定説で説明できないことが多い」ということであり、これまでの定説が不十分/不正確だったことを示している。 江漢53次の出現で、これらのナゾが(昔からのナゾも/新たなナゾも)すっきり解けてしまう。 「江漢53次=広重53次のモデル」説が正しいことの何よりの証拠である。 |
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広重のナゾには、53次シリーズ全体に関わる包括的なナゾと個々の絵のナゾとがある。 包括的なナゾの例 ●広重最初の出世作が、生涯の最高傑作なのは何故か。 ●広重が東海道を旅していないのに、「現地を知らないと描けない風景」が含まれるのは何故か これらは美術界が数十年間頭を痛めてきた難題と思うが、「江漢の原画があったから」「江漢の原画を写したから」ということで簡単に説明が出来てしまう。 個別のナゾの例 ●箱根や蒲原の写生場所 ●異摺りや再刻版の謎 江漢図を含めて丁寧に比較することで謎が解ける。 これまでの広重研究や解説本で繰り返されて来た様々な説は、今になって見ると、すべてピントの外れたこじつけであった。 |
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異摺りのナゾ | |
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池鯉鮒と大津の背景の山が出たり入ったりしている。 これまでは、「初刷りには山があり、後刷りでは山が消えた」という前提で、山が消えた理由を詮索しているが、基本的な間違いである。 「初刷りには山がなく、後になって(何かの理由で)無理して山を入れようとしたが、技術的理由その他で結局山を入れることをあきらめた。」というのが正解である。 あとで無理して山を入れようとしたことは絵を見れば一目で分かることである。 山を入れたがった理由は、江漢図に山があるのでそれに合わせようとしたためである。 |
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江漢図「池鯉鮒」の山は、実は山でなく森である。それが分かったので山を入れることを止めたのかも知れない。 「大津」について、中右瑛氏の「安藤広重のナゾ」では、「ある長老」(何故匿名にするのか分からない)の談として、「大津の山は後から入れたことが明らか」としている。 この「後から入れた」について、美術界では「骨董屋やブローカーが(骨董価値を高めるために)流通段階で入れた」という意味に勘違いしているようだが、そうではなく、「保永堂が後摺りで無理に入れさせた」という意味である。 |
再刻版のナゾ 広重五十三次には「再刻版」という異版が6枚ある。 ●日本橋/品川/川崎/神奈川/戸塚/小田原 初版発売の数ヶ月後、改訂版に切り替えたもの。このシリーズ以外に例がないため、「再刻版」という呼び名も決まっていないが、本講座ではこの名称で統一する。 版画浮世絵の場合、改訂すると、版木を作り替えることになるため、大変な手間と費用が掛かる。そこまでして改訂した理由がこれまで不明であった。 |
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日本橋: 広重は、江漢図(A)を参考にしながらも、「人っ子一人通らない早朝の日本橋」(早起きの魚屋と七つ立ちの大名行列のみ)を描いた。(初版・・B1) 日本橋といえば橋から人がこぼれ落ちそうな雑踏を描くのが普通であり、保永堂は「賑やかな日本橋」に描き直しさせた。 広重は江漢図(A)の人物を初版(B1)に重ね合わせることで人数を増やし、再刻版(B2)とした。 すなわち「B2=B1+A」である。 江漢図には、実際には日本橋に居そうもない人物が含まれている。左隅の四人グループは、オランダ人の奴僕でありインドネシア人で、現地風俗の赤い頭巾と赤い腰巻きを付けているが、インドネシア人が長崎出島のオランダ人のお供で江戸に出て来た事実はなく、江漢らしいフィクションである。 (実景が売り物の)広重は赤い傘を生かして、これを大道芸人(住吉踊り)に改変した。 江漢図の和服の上に南蛮風の「ひだ襟」を付けた武士は信長時代の風俗で、一時代前の西洋かぶれの衣装である。広重はこれを覆面武士に改変している。 |
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ある美術館長が、江漢図は再刻版の人物の一部を間引いてコピーしただけのニセモノと、いとも気軽に断定している。すなわち「A=B2−B1」説であるが、魚屋だけ間引いた理由も、「A→BでなくB→A」と断定した理由も説明されていない。人物が(広重に較べて?)下手というのが唯一の理由のようだが、江漢はもともと人物は上手くない画家である。(「江漢真筆の人物と較べて、画帖の人物が下手」と言わないと根拠にならない。) | |
○日本橋だけは、再刻版に改訂されたあとで、また最初の図柄「日本橋早立ち」に戻っているようである。 誰が見ても初版の「日本橋早立ち」は、東海道五十三次双六の「ふりだし」にふさわしい絵であろう。 |
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品川: 大名行列が尻切れトンボだったので、再刻版では人数を加えて長くした。全部を作り替えたのではなく、版木の一部だけ作り直している。江漢と較べると、日本橋と同じように、B2=B1+Aであることが分かる。 筆者が「再刻版のナゾ」と「53次のナゾ」の間の接点に最初に気が付いた一枚である。 |
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川崎: 初版と再刻版との間にあまり違いがない。 @ 富士の輪郭線が消えて白抜きの富士に変わった A イカダとイカダ乗りが消えた。 B 屋根勾配が緩やかになった。 C 弓なりだった船頭のポーズが変わった。 いずれも手間と費用を掛けてまで描き直すほどの改定内容ではなく、川崎再刻版の理由については仮説さえこれまで提案されていなかった。 |
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江漢図と比較すると、Cの船頭のポーズが主目的であることが分かる。 広重図の船頭は北斎53次「川崎」の船頭をコピーしたものである。(北斎の絵には「弓なりの船頭」があちこちに登場し、北斎の専売特許であった。) 北斎53次は、広重53次から見ると「追いつけ追い越せ」のライバルであり、保永堂の売り文句も「これまでの北斎53次とは全然違う実景の東海道五十三次・・」ということだったことから、「北斎のコピーだけは困る」として「江漢図通りの船頭」に描き直しさせられたものである。 |
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神奈川: 初版と再刻版との違いは屋根の勾配だけである。 江漢図通りに屋根勾配を緩くすると、海が狭くなりすぎるので、全体を縮小して描き直した。気の進まぬ仕事だったらしく、再刻版の出来はひどく悪い。 これまで誰も指摘しなかったのが不思議であるが、広重図の小舟の列は、1833年着工の岡野新田工事の測量舟である。 初版は、測量が終わって工事境界線に碇を下ろした小舟を並べた状態を広重が目撃したもの。 数ヶ月後、広重は再度ここを通りかかり(戸塚に所用−後述)、工事(杭打ち)が始まっているのを目撃し、再刻版に杭を描き加えている。 岡野新田工事は、広重東海道五十三次の中に、歴史的な事件が描き込まれた唯一の例であり貴重である。 江漢図には小舟の列が描かれていない。1833年着工の岡野新田工事が1813年の江漢図に描かれていないのは当然であるが、同時に「江漢図は広重図を単純コピーしただけのニセモノ」という説への反論にもなっていることに注意。(アリバイ−同じような事例が数ヶ所ある。) |
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戸塚: 戸塚の再刻版には論点が多い。 @「こめや」の板壁と格子窓 A二股の木が大きく成長 B川土手に藪が繁る C屋根の勾配 D馬から下りる人→馬に乗る人 E鎌倉道みちしるべ |
@ABは20年間の時間の経過を示している。 広重は現地確認のために戸塚に行ったにもかかわらず、現地の風景が変わったことを見逃し、20年前の江漢図通りに描いてしまった。そのことを(とくに板壁と格子窓)きびしく指摘されたため再度戸塚に出かけ、(半ば意地になって)現地風景を必要以上に(土手の藪まで)詳しく描き直した。 |
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![]() 広重の初版風景は江漢図そっくりであり、一方再刻版は大正時代の現地写真とそっくりであることから以上の推定が成り立つ。 |
Dの「馬から下りる人/云々」は、「思い込み」の恐ろしさを示す例である。 最初に「馬から下りる人/乗る人」と思い込んでしまったため、「下りる人を乗る人に変えたのは何故か」という問題設定になり、昭和5年以来、数十年の間、「気分転換」「縁起直し」「景気上昇を願って」などというこじつけの理由付けしか出てこなかった。 |
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正解は、どちらも「馬から下りる人」である。馬から下りるときは、乗るときの動作をそのまま逆にたどるのが正しく、梯子の上り下りと同じで、静止画を見ただけでは「乗ろうとしている」のか「下りようとしている」のか判定できない。 初版のように「後ろ向きに馬から下りる」ことは不可能であることが指摘されたので、「正しい馬の下り方」に訂正しただけの話である。 北斎漫画(1825頃)には普通の馬の乗り方のほかに、馬から後向きに飛び降りる曲馬(サーカス)の図がある。広重はこれを見て初版を描いてしまったのであろう。 江漢図には馬と馬方が居ない。1813年作成の江漢画帖では、1825年出版の北斎漫画を利用することが出来なかった。もし江漢図が広重を写しただけのニセモノなら、広重の馬をあっさりコピーしたはずである。(アリバイ) |
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◆NHKの美術クイズ番組で、「こめや」看板に引っかけて「米相場が上がる」ことを祈願して再刻版を作ったという答えが「正解」とされていたがとんでもない説である。米相場が上がるというのは米価が上がることで、江戸市民全員の生活を直撃して「打壊し」などの都市暴動にも発展しかねない重大事件である。「米相場が上がる」ことで幸せになる江戸市民など一人もいない。 | |
E鎌倉道みちしるべ(再刻版のナゾとは無関係) 吉田橋の道しるべは近くの寺に保存されているが、広重図と似ていないことが以前から指摘されていた。江漢図の道しるべは形や字体が現地のものとよく似ている。 |
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小田原: 再刻版の違いは、背景の箱根山の描き方だけである。したがって、これまで次のような議論が行われていた。 「違いは山の表現方法だけである。」「広重が老成したあと、若いときの奇抜な作品を恥じて描き直した」「五十三次を描いている過程で、山、樹木、家屋など風景の表現方法について開眼し描き直した。」など。しかし時間的に見て、初刻と再刻版の間は数ヶ月しかなく、広重が「老成」したり、「開眼」したりする暇はなかったはずである。 広重は小田原まで行っていないと思われる。広重は江漢「小田原」を見て初版を描いたが、実は江漢の山は箱根ではなく「大山」であった。 出版後、山の間違いに気が付いたため、箱根山らしく描き直した。(再刻版には両子山がちゃんと描いてある。)ただそれだけの話であり、画風とか開眼とかという高級な話ではない。間違いを指摘されて正しく描き直したという点では戸塚と同じケースである。 江漢の五十三次に何故「大山」が紛れ込んだのか疑問だったが、カシミールで検討した結果、江漢図は「田村の渡し」から見た大山であることが分かった。 東海道沿いの平塚馬入橋の大山は、丹沢表尾根が張り出して大山らしくない山容である。ここから相模川を4km遡った田村の渡しでは大山の形がかなり改善される。 田村の渡しから、田村大山道を通って四つ谷で東海道に戻り、藤沢に出れば、それほど迂回にはならない。 江漢「大山」は同じ東海道旅行の中でのスケッチだったのである。 |
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第2話の追記 (詳細は省略) 二川/石部ほか 「江漢図は広重図のコピーではない」ことは証明された。したがって「広重図は江漢図のコピー」ということになるが、実はそれだけでは説明が付かない絵が数枚ある。 (1)広重は、平塚/大磯までは旅して、江漢図を修正していると思われる。これは別に考えよう。 (2)二川と石部には、江漢図のコピーというだけでは説明できない正確な山が描かれている。 江漢画帖は江漢の遺作で、効果の死後、遺言通り、岐阜大垣の江馬春齢の元に届けられたが、その際、画帖だけでなく、画帖作成に使われた資料一式も江馬家に送られて一括保管されたと思われる。資料の中には、写真鏡で取材したときの原スケッチ、取材ノート、人物モデルに使われた続膝栗毛口絵も含まれていた。 広重はこれらを全部活用して、東海道五十三次を作り上げたと思われる。20年も前に発行された続膝栗毛口絵がモデルであることを簡単に発見したのも、江漢図だけでは分からないはずの猿ヶ馬場の柏餅屋の看板を描くことが出来たのも、関係資料を入手していたからである。 資料には、江漢画帖に使われなかった山のスケッチや、アングルの違う山のスケッチも含まれていた。 |
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●二川には、新幹線から見える実在の尾根が描かれている。江漢図は猿ヶ馬場の実風景で、この尾根がない。 ●石部の背景の山は、両図とも同じ日向山(にっこうやま)だがアングルが違うので形が違っている。江漢図を見ただけでは広重図は描けない。 いずれも広重が江漢の原スケッチを入手していたとすれば説明が付く。 |
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残り4枚のモデル 広重55枚中51枚は江漢と同じ図柄である。 残り4枚は広重のオリジナルかというとそうではなく、やはりモデルが存在する。 京都:東海道名所図会と伊勢参宮名所図会 江漢図は京都御所の正確なスケッチ 江尻:東海道名所図会 日本平からの展望図 江漢図は、海上から見上げたサッタ山 宮:熱田神宮 端午の馬の塔の行事 モデル不明だが、尾張名所図会に類画あり。 赤坂:北斎53次「御油」をモデル※ すなわち広重図の99%にモデルがあることになる。 ※北斎53次は広重53次のライバルとして研究されており、モデルにされているのは意外な発見(大畠) 他にも北斎53次の人物が広重のモデルにされている例があるが、当然江漢図には写されていない。(アリバイ) 以上 |