「古鎌倉道(鎌倉古道)」について 目次へ
鎌倉道の定義 鎌倉道(鎌倉古道=古鎌倉道)の定義について鎌倉道の研究者は次のように定義している。 1)阿部正道氏:神奈川の古道 鎌倉幕府以後、各地から鎌倉に向かった中世古道の総称である。武蔵国風土記稿や相模国風土記稿では、「古の鎌倉街道」「鎌倉古街道」と呼称。 鎌倉幕府を開いて以来、各地から鎌倉に向かった道で、徳川氏が江戸を政治の中心にするまでの400年にわたって人馬に踏みしめられ作られていった中世の道。 2)芳賀善次郎氏:旧鎌倉街道探索の旅(上道、中道、下道) 江戸時代に、それ以前の古道を総称して名付けたもの。 古道の研究家は、多少の異論はあるもののほぼ阿部氏の定義にしたがっているようである。 ★鎌倉時代に、鎌倉に異変があったとき、各地の武士団が駈け参じるための軍事道路すなわち「いざ鎌倉」の道が本来の鎌倉道である。 |
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<前期鎌倉道と後期鎌倉道> 戦国の中期頃、各地の交通路が山から川沿い海沿いに変わる時期がある。 海面の低下(海退)によりこれまで通れなかった水際に道が開け、道筋が一斉に変わったのである。 こうして出来た新しい道も「東海道が出来る以前の中世の道」という定義から、「鎌倉古道」と呼ばれる。 鎌倉時代の「いざ鎌倉の道」と区別したい場合は、「前期鎌倉道」「後期鎌倉道」として使い分けることが必要になる。 室町〜戦国時代の交通路については資料が乏しい。軍記などに出てくる断片的な記事から推定する事が多い。 |
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<江戸時代の鎌倉道> 江戸時代に「鎌倉見物のための新しい道」がいくつか開け、やはり「鎌倉道」と呼ばれた。戸塚吉田橋から分かれる「鎌倉道」や上大岡−日野を通る「鎌倉街道」がそれである。 これらの江戸時代の鎌倉道は、「中世の道ではない」ので、上記定義での「鎌倉古道」ではない。 本著では「江戸時代の鎌倉道」「鎌倉見物のための鎌倉道」と表現しているが、個々には後期鎌倉道と区別できないことが多い。 ★後期鎌倉道のうち、江戸時代になって栄えた道は「江戸時代の新道」扱いになり、おとろえた道は「古道」扱いにされる傾向がある。 |
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実際には、更に複雑な事情があり分かりにくい。 1)これらの主要鎌倉道だけでなく、「鎌倉道に出るための枝道」も鎌倉道と呼ばれた。明治時代、郷土研究の草分けである柳田国男らが全国の研究家のネットワークを使って各地の鎌倉道の地名を集め、地図上に書き込むことを試みた。 鎌倉中心とした放射状の線が浮かぶことを期待しての作業であったが、日本中が鎌倉道の網で覆われてしまった。主要鎌倉道と区別するために「鎌倉道の枝道」と表現されることがある。 2)鎌倉道の名称が「鎌倉へ行く道」の意味をはずれ、「主街道」「公道」のニュアンスで使われる例があるらしい。芳賀氏によると北条氏の小田原へ行く道や太田道潅の江戸へ行く道までが「鎌倉道」の名で呼ばれていることがあるとのことである。 |
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「横浜の古道(横浜市教育委員会文化財課)」(S62初版)では、鎌倉道の名前の複雑さに辟易し、次のようなコメントで一括処理してしまった。 「鎌倉道の名称は時代により変化し、そのコースも変化している。本著では鎌倉道の記述を一切削除する・・。」 古道の研究に当たって「鎌倉道」はその80%を占める。「鎌倉道」と名の付くものをすべて削除した「古道の研究」は抜け殻のようなものである。 |