§6 桜ケ丘の開発 大正〜昭和の住宅地開発 目次へ | |
岡野欣之助氏の開発 現在の桜ケ丘の形が出来たのは、大正の終わりから昭和の始めにかけて行われた岡野欣之助氏の開発によるものである。 桜ケ丘の地名の元になった桜並木もこの時、岡野氏と地元の協力で植えられたものである。 開発前後のいきさつやエピソードについては、保土ヶ谷区郷土史(昭和13)が「桜ケ丘」の項を設けてくわしく書いているので参照して頂きたいが、保土ヶ谷区郷土史の出版直後の昭和15年に大規模な地名改訂があり、分かりにくくなったと思うので、当時の地名については 下の図を参照してほしい。 |
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昭和初期の町名![]() |
岡野欣之助氏について 保土ヶ谷に住む大資産家で、現在の保土ヶ谷小学校のところに屋敷があった。16号線の向い峯岡,岡沢,横浜国大一帯の土地は全部岡野氏の土地であった。 岡野公園という広い公園を持っており、現相鉄の和田駅は当時「公園下」という駅名で公園行きの馬車が出ていた。 桜ケ丘の開発は岡野氏が私財を投じて行ったものであるが、その後昭和初期の不況時経営に失敗して岡野家は衰退した。 |
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次の3枚の地形図を比較すると桜ケ丘開発前後の状況がはっきり分かる。
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明治38年測量2万分の1(正式2万) 道路など江戸時代のまま |
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★金沢横町から桜ケ丘に上る広い自動車道は「かなざわかまくら道」という道路名で、ひらがな名から古道のような印象を与えるが、 地形図@とAを比較すれば分かるように、桜ケ丘開発のとき作られた新しい道である。 (古い道は郵便局前から月見台の裾を通り、「かなざわかまくら道」と交差して、桜ケ丘バス停と桜台小学校バス停の中間付近で桜ケ丘に突き上げていたと考えられている。地形的には「藤ケ谷(藤谷戸)」の月見台下の山裾を忠実にたどる道であり、桜ケ丘へ上る道の中でもっとも緩やかな坂である。) 「かなざわかまくら道」という道路名は、郷土史の立場からいうと誤解を招きやすい不適当な道路名であり、「岡野新道」と名付けるべき道である。 ★大正末に一応開発が終ったものの実際に人家が建ち始めたのは、昭和の4〜5年だという(保土ヶ谷区郷土史)。 |
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★岩中前バス停のある小公園に「耕地整理記念」の立派な石碑があるが、これが岡野氏の桜ケ丘開発の記念碑である。 石碑の裏にきちんとした楷書で開発のいきさつが書いてあるが、少々足場が悪いので転記しておく。 「昭和16年8月 保土ヶ谷町第二耕地整理組合」 による建立である。 丁度関東大震災をはさんだ時期で、震災により工事が一時中断したことが記述されている。 |
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此の記念碑は「保土ヶ谷町第二耕地整理組合」。「耕地整理」は土地を整理/開発して道路や住宅地を作る当時の法律用語。 現在の「農耕地整理」−「大型耕耘機が入りやすくするために農地を集めて整理する」とは意味が違う。 神明社鳥居前に「第一耕地整理組合組合」記念碑があり、混同しないこと。 |
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桜ケ丘の桜(桜の会) 桜ケ丘開発が完成に近づいた大正10年、岡野氏によって「桜の会」が発案され、多くの有志の賛同を得て実行に移された。 「桜の会」の目的は、桜ケ丘の道路の両側に桜樹を植え付けこの丘を桜の名勝地にしようとするものであった。 −−−−−−−−−−−−−−−−−−−− |
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昭和6年 保土ヶ谷俯瞰図(部分) |
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★戦中〜戦後 戦時中、天王町−星川の帷子川沿いの繊維工場が軍需工場と見なされ、米軍の集中爆撃を受けて壊滅した。 その時、焼夷弾のいくつかが誤って桜ケ丘にも落ち、学校は被爆しなかったが、かなりの民家が焼けた。著者は戦後、桜台小学校のプールのすぐ下の家を借りて一時住んでいたことがあるが、その家も空襲で焼けて焼け跡に建てたバラックであった。すぐ隣の家には丁度中学生の息子さんがおり、屋根を突き抜けて落ちてきた焼夷弾をふとんに包んで庭に投げ出したので焼けずに助かったという。 昭和32〜33頃まで、桜ケ丘のあちこちに空襲で焼けて土台だけになった焼け跡があちこちに残っていた。 |
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★町の変遷 最近は町の変化が激しく、ほんの数年前の町の様子さえ思い出せなくなっている。 配達/運送用に作られた「住宅明細地図」旧版が図書館に保存されており、町の変遷を探るのに最適な資料である。 (※紅葉坂の県立図書館付属の「かながわ資料室」など) 住宅明細地図見本 (昭和35年桜台小学校付近) |
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