保土ヶ谷付近の交通路 学説の変遷 目次へ | |
1.これまでの学説 昭和始めの混乱のままである。 | |
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大正時代の学説 次のように言われていた。 鎌倉時代の鎌倉道は、古町橋を渡り、桜ケ丘に上って神奈川坂から保土ヶ谷宿(元町)に出ていた。 東海道も一部が山すそに移ったほかは、ほぼ同じルートを利用して保土ヶ谷(元町)に出た。 (武蔵国風土記稿、相模国風土記稿はほぼ同じような考えで書かれており、それを継承している。) 石野 瑛 横浜近郊文化史(昭和2) この説であれば保土ヶ谷は鎌倉時代以来、数百年続いた古い宿場ということになり、東海道はそれをそっくり利用しただけということになる。 |
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昭和初めの学説 鎌倉道の研究が進んで、鎌倉道は石名坂を越えていたことが分かり、学説が突然変わった結果、保土ヶ谷宿だけが取り残されてしまった。 石野 瑛 横浜市史稿1政治編(昭和6) これでは東海道は鎌倉道とは無関係なルートに設定されたことになり、保土ヶ谷宿の起源が何も分からないことになってしまう。 保土ヶ谷区郷土史(昭和13)では、やむを得ず鎌倉道とは別に保土ヶ谷宿を通る街道があったとしても不思議はないということにし、このルートを「古東海道(東海道の前身の道)」と名付けて、保土ヶ谷宿の成立を説明しようとした。 しかしこの道はつじつま合わせのための「想像」だけの道で、この道があったという資料の裏付けは何もない。 現在の保土ヶ谷前史(東海道以前の保土ヶ谷)はこの昭和13年の段階にとどまって、以後まったく進んでおらず、「保土ヶ谷宿の起源」について何一つ説明できないままになっている。 |
★保土ヶ谷区郷土史(S13)でいう「古東海道」とは、旧々東海道ではなく、上記の「東海道の前身」という意味に使っている。 すなわち旧々東海道より前の江戸以前の街道のことを言っているので間違えないように注意。 今となっては内容も完全に間違いだが、用語としても不適当で混乱に拍車をかける原因になっている。 |
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「古東海道」の用語は「古代東海道」すなわち奈良/平安時代の東海道(公道)の意味で使われることが多い。(もちろん保土ヶ谷にはそんな道は通っていない。) 保土ヶ谷史では「旧々東海道」より古い「古東海道」として使っているのだが、意味を理解している人はほとんどなく、「古東海道=旧々東海道」と誤解して勝手に納得しているようである。 ★神明社前十字路の道しるべ「古東海道」は不適当であるが、「旧東海道旧道」「旧々東海道」「古町街道」「鎌倉古道」であれば、どれでも問題ない。 |
2.新たな問題点 従来の考え方を根本的に検討し直す必要が生じた。 | |
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新たな問題1 古町橋は通れなかった。 地形図の等高線の検討から、鎌倉時代の元町橋(海抜2m)は海の中で通行できないことが分かった。当時の渡河点はずっと上流の和田橋(海抜5m)である。 ●一方、石名坂が鎌倉下の道であったことは確かである。和田橋から石名坂にかかるためには桜ケ丘の尾根を通るしかない。 ●戦国以前から鎌倉道とは別に境木を越える道があったことが文献上から知られている。 旧々東海道時代の慶長14年検地帳の地名から保土ヶ谷宿は元町ではなく、もっと今井村に近い法泉下であることが分かった。 古町橋が昔からの交通の要地というのは誤りである。 古町橋が通れるようになったのは江戸の少し前、戦国時代の中期からであり、それがきっかけとなって、以後保土ヶ谷の交通路はめまぐるしく変化する。 |
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新たな問題2 権太坂はなかった。 権太坂の着工が元治二年八月であることが「保土ヶ谷区郷土史」に明記されているが、この情報はこれまでまったく無視されてきた。 権太坂が出来たのは、東海道が始まってから60年もあとであり、東海道が新道になってからも、最初の10年間は権太坂はなかった。 初期東海道及び江戸以前の街道はどこを通って境木に達していたのだろうか。またその頃の保土ヶ谷宿はどこにあったのだろうか。 権太坂開削記事 保土ヶ谷区郷土史(S13)p1754 伝説の項に記載されたのが災いして、この記事は単に「権太坂の名前の由来」の資料としか扱われていないが、保土ヶ谷の交通路や保土ヶ谷宿の起源に関わる最重要な情報である。 |