マハーカーラの謎4 大黒天の起源(その2) クベーラとマハーカーラの混交 マハーカーラ小目次へ |
最後の謎 チベットのマハーカーラも経典/曼陀羅のマハーカーラも、どちらも怖ろしい姿をしている。 怖ろしい姿のマハーカーラが、どうして福々しい笑顔/太鼓腹の大黒様の姿に変わったのかという最後の謎がまだ残っている。 胎蔵界曼陀羅のマハーカーラ(大黒天) チベット寺院のマハーカーラ 日本の大黒様 |
土着の財宝神クベーラ インドには(ヒンズー教でも仏教でもない)土着のクベーラという財富神が居る(下図)。 クベーラが大黒様の原型であることは、写真を見比べただけで、理屈抜きに明らかなように思われる。 15年前から正解は分かっていながら、これまでいくら探してもクベーラと大黒天をつなぐ手がかりが見つからず、歯がゆい思いをしていた。 それどころがクベーラは大黒天(福神)ではなく、毘沙門天(武神)の原型であることがよく知られている。 どこかでボタンの穴の掛け違いがあったにちがいないとは思っていた。 インドの財富神クベーラ 金袋と宝石箱を持つ 日本の大黒様 毘沙門天 |
これまで述べてきたように、マハーカーラは大別するとシヴァ神を踏む戦の神とガネーシャを踏む福の神がある。 ●戦の神マハーカーラは中国に入って明王と名前が変わって展開したため、マハーカーラの正体が分からなくなった。 ●福の神マハーカーラはモデルチェンジされず、チベット/蒙古(山寄り地域)では、初期の姿のまま伝わっている。 |
●福神マハーカーラには、もう一つの流れがあることがようやく分かった。 インド南部(海寄り地域)では、福神マハーカーラの名前はそのままだが、中味が土着の財富神クベーラに入れ代わった姿で伝わり、それが厨房の神「大黒天」とされていた。 (参考)玄奘三蔵の旅 645年頃、義浄の旅 690年頃、密教中国に入る(大日経翻訳)玄宗皇帝 725年 |
★「マハーカーラ−=大黒天」の最初の資料としてよく引用される義浄法師「南海寄帰内法伝」 西暦691年 インド旅行の途中、途中の寺々で見た光景を報告している。義浄のコースは、マレー半島−スマトラ−インドの南海コースである。 「西方(中国から見て西方)諸大寺皆食厨の柱側あるいは大庫の門前に木を彫りて、二三尺の形を表わし、神王となす。 その状、座して金嚢を把り、かえって小牀に居し、一脚地に垂る。」 「毎に油を持って拭い、黒色形を為し、マハーカーラという。すなわち大黒神なり。古代相承して曰く、これ大天(ヒンズー教のシヴァ神)の部類(眷属の意)で、性三宝を愛し、五衆を護持し、損耗なからしむ。求むる者情にかなう。・・・」 |
「座して金嚢を把り、かえって小牀に居し、一脚地に垂る。」を、日本の図像集や木像では次のように表現している。 図像集「覚禅抄」の大黒天 滋賀県明寿院木像 |
南海寄帰内法伝のこの文章が、インド出土のクベーラ座像や中国壁画のインド形式の毘沙門天像の姿とそっくりそのままであることをようやく発見した。インド南部の地方では、クベーラの姿をマハーカーラ(大黒天)として信仰していたことになり、クベーラと大黒天がようやくつながった。 まとめ ●チベット(山寄りの地方)では、シヴァ神を真似たマハーカーラの姿が福神マハーカーラとして伝えられ、今でもそのまま信仰されている。 ●インド南部(海寄りの地方)では、土着の福神クベーラの姿に置き換えらえたものが福神マハーカーラとして信仰されており、これが日本の 大黒天の原型となった。 日本の美術 No315 毘沙門天(1992至文堂)より 両図とも、腰掛に座って片足を地面に垂らし、左手にマングースまたはマングースの皮で作った金嚢を持つ。 マングースはイタチのような細長い動物で、皮を剥ぐと靴下のような形になり、そのまま財布として使ったらしい。 義浄が現地で目撃したマハーカーラはこのクベーラの姿だったのである。 |
まとめ 西暦690年頃、南海ルートの仏教では、クベーラの姿が福神マハーカーラとして信仰されていた。 義浄はこれを目撃して、「マハーカーラ=大黒天」の記事を書いた。 |
★笹間良彦著「大黒天信仰と俗信」(平成5雄山閣)には、チベットなど山岳部信仰の大黒天と、インド南部〜南方諸島の平野部信仰の大黒天とは別系統ではないかとしているが、それ以上のことは分っていなかった。 |
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