剣人型青面金剛の成立 2000/11/1 大畠 目次に戻る 江戸時代の少し前、太閤秀吉の晩年時代(1590〜1595頃)に「夜叉がショケラを持つ儀軌四手像」としてショケラ(女人像)が生まれた。 また「江戸時代のかなり早い時期(1640以前)に、ショケラを持つ六手剣人型青面金剛が生まれ、四天王寺のお札や掛け軸として固定し、全国に広まった。 以下、青面金剛展カタログなど残存する古い青面金剛像を参照しながら、剣人型青面金剛の成立について大胆に推定した。 |
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1.平安時代の末、「素人でも礼拝できる穏やかな善神像」が求められ、金剛夜叉明王(三面五眼六手)の姿から正面金剛夜叉(明王)の六手像(一面二眼)が作られたことをすでに述べた。 しかしこの像は次の二つの点で問題があった。 ●金剛夜叉明王の中二手は、鈴と鈷を持っているのではなく、鈴と鈷を使って「金剛薩多の威儀」という印を結んでいる。(弘法大師像なども同じ印) 鈴と鈷をバラバラにして持ち替えたり、鈴を鳴らしたりさせたのは儀軌から見ておかしい。 ●「穏やかな善神像」という注文にこだわったため、目を半分閉じて鈴の音に聞き入るやさしい姿になったが、これでは凶悪な病魔(伝染病)に力で対決する役割としては穏やか過ぎて力不足である。 |
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2.その後の青面金剛は原型の儀軌四手像の荒々しさを一部取り入れて折衷した六手像が主流になった。 (いざという時、昔の刺青を見せる「遠山の金さん」型ヒーロー) こうして出来たと思われる古い青面金剛の掛け軸が四天王寺に残っている。二童子の衣裳(細いズボン)や持ち物(箱)から古い時代のものと推定できる。持ち物は三叉戟、輪、弓と矢で、中二手は何を持っているかよく分かないが、ショケラではない。(青面金剛展カタログ) また青面金剛展カタログ表紙の厨子に入った六手青面金剛木像はこの時期の系統らしい古い様式である。 (二童子の衣裳と持ち物(小箱)が古風)。 六手の持ち物は三叉戟、輪、弓と矢、金剛鈴と金剛鈷である。 |
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3.一方で儀軌四手像をそのまま作ることも行われており、前記のように秀吉の家臣だった片桐貞隆は眷属の四夜叉にショケラを表す女人像を持たせるという工夫をした掛け軸(X1)を所有し信仰していた(1597以前)。
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4.X1で創造されたショケラ(女人像)を四天王寺の古い様式の青面金剛本尊の空いている中二手に持たせたることで剣人型青面金剛が生まれ、早い時期(1640以前)に四天王寺系お札や掛け軸として全国に広まった。四天王寺系のお札や掛け軸のデザイン(二鬼や四夜叉のポーズや持ち物も含めて)は初期に固定し、江戸時代を通じてほとんど変わっていない。 小泉庚申堂(1640頃)が建てられたとき、本尊掛け軸X1は儀軌四手であるにもかかわらず、「お前立ち」として用意された木像(T1)はすでに剣人型であった。 |
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追記 眷属の一人にショケラ様のものを持たせるという前例が毘沙門天図にあり、参考にされたかも知れない。 仁王経五方諸尊図(京都醍醐寺蔵)平安時代初期空海将来、空海入唐時代の中国で流布した図像 毘沙門天曼荼羅(ボストン美術館蔵) 平安時代末期 比叡山伝来 いずれも毘沙門天図に配置された眷属の一人が小人(男性)の髪を掴んでぶら下げている。原本の成立は平安初期と考えられる。(日本の美術315 「毘沙門天像」至文堂1992 p74および表紙裏) |
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追記:六手合掌型青面金剛の成立 |
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大威徳明王 軍茶利明王 降三世明王 金剛夜叉明王 |
(不動明王を除く)五大明王はそれぞれ特有の印を結んでいる。 金剛夜叉明王だけは、金剛鈷と金剛鈴という道具を使った印を結ぶ。(弘法大師像なども同じ印) すなわち鈴と鈷は「持ち物」ではなく、「金剛印」(仮名=儀軌には「金剛薩垂の威儀をなす」)なのである。 |
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ショケラを持つ直前の六手青面金剛(左図) 再出 持ち物は三叉戟、輪、弓矢、金剛印 「金剛印」の手が空いているように見えるので、剣とショケラを持た せたのが剣人型。 一方、「金剛印」を普通の印に変えたのが六手合掌型であろう。 合掌型は関西の絵図類にはほとんど見当たらない。 過渡期の石仏に「金剛印」を結んでいるらしい青面金剛が二三認 |