庚申資料 |
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窪徳忠 「庚申信仰の研究」S36 (1980復刻)より抜粋
−福井県三方郡美浜町麻生− 家単位の庚申待 |
徹夜と就寝時の呪言 古くこの地方で、庚申の晩には徹夜が原則であつたことは、軸を翌朝までかけた儘にしておくことの他に、燈明や線香を一晩中たやしてはいげないという伝えによつて、明らかである。「お庚申さんは遅くまで起きているのを喜ぶから、徹夜をする」とのべた老人もあつた。けれども、明治10年代にはすでに、早げれぱ10時ごろ、遅くとも12時ころには燈明や線香をけして、就床するようになつていた。このように徹夜せずにねる場合には、つぎのような呪言めいた誦言をねる前に床の中で三度誦えなければならないとされている。その呪言は |
庚申さんの持ち物についてはさほど問題がないので省き、前述の「ショケラ」すなわち庚申さんが下げている半裸女人像についての伝承を記しておく。この女人像をショケラと呼ぶのは、福井の2−4の他には三重の1のみである。 以下各地に伝わるショケラの伝承が列記されているが、福井以外はすべて荒唐無稽の説である。 |
大畠注 女人をショケラと呼ぶのは「全国で福井の3例しかない」と軽視されることがあるが、証拠は数ではなく質である。 福井では @家単位の庚申待なので親から子に正確に伝わった。 Aショケラの名前だけでなく、ショケラが様々な悪いことをするので、庚申の神様が髪をつかんで封じ込めている」という的を得た伝承を伴っている。 B関西に近い地域 などから、証拠能力は高い。関西の初期青面金剛信仰におけるショケラの呼称と意味が正確に伝わり保存されたものであろう。 |
庚申待祭祀縁起 奈良県大和郡山市小泉金輪院 庚申待縁起 抑本朝一国一宇庚申天降らせ玉ふ青面金剛の尊影を供養し奉る事は、人皇四十二代文武天皇の御宇、庚申待の儀式を勤、青面金剛の法を行はせ玉ひて、閨月に庚申塚をつき、庚申塔をたて、年に六度の庚申待供養有し事、悉く本朝の国史に載玉ふ所尤大切也。所謂御祈願一天泰平、玉躰安穏、五穀成就、万民豊楽を願はせしめんがため、庶民に是を教へて、庚申待を勤めさせ、末代の今に至り、上天子より下民家の末々まで、年に六度の庚申待供養申事を、世に伝へ玉ふ。聖君の教へ、御いつくしみ、右かたく伏て仰くべし。是庚申待の其謂れ深きものなる故ぞ。今且く庚申待、庚申の霊験を略演明さは、夫人間の身としては、生れし其日より、病脳苦悩種々の災患を起せる霊鬼神身に付添て、身心を苦しめなやます事、人力を以て是をさくることあたわず。 庚申の日を以て、庚申待を勤め、供養礼敬せぱ、其日を主り玉ふ大自力青面金剛薬叉明王は、大悲の一門に普門の妙徳を開顕し、慈眼を以て衆生を見そなはしめ・大忿怒の形を現し、諸天善神無数億の眷属を具して、共に天降ましまして、人問の身を煩はす魂霊鬼神のたぐいをことごとくほろぽしたいらげ、徴細に降伏せしめ玉ふ、此尊の大悲願力にして誓の深く広き事を世間の小智にして、誰か是をしることを得んや、若此尊を供よふし奉らぱ、親り世に如意円満の妙珠を与へ、福徳智恵を施して、衆生の胸臆を照し、歓喜心を生せしめ、丹心堅固ならしめ玉ふ大青面金剛の霊験也。こゝを以て、青面金剛の霊験感応たやすく演明すに恐れあれとも、青面金剛深秘の宝蔵を開きて、自他無二、平等利益、徴妙不可思議の徳を得せしめん事を略しおはんぬ。 庚申待利益之概説 且諸難ヲ除キ、殊二三病ヲ遁ル。三病トハ、胴顕狂ノ三ツ也。況ソヤ其ノ他ノ疾病.一於テヲヤ。又此夜ハ物ヲ惜ムコトナカレ。此夜施ス所ノ物ハ、必七日倍ヲ得ルナリ。其霊験ノイト殊勝ナルコト、実.一尊トムペク崇ムペシト蘭云フ。 此教示テ疑ハズ守ル輩ハ、二世ノ諸願満足ス。若シ疑フ輩アラバ、阿^・無間・大焦熱ノ地獄二堕テ、万劫ヲ経テそ成仏得脱ノ果ヲ得ルコトナシ。庚申待ヲスル人、信心シテ他念ナク待パ、必三年ノ内;諸願成就スルコト疑ナシ。縁起如此也。 |
庚申口决 (三尸の害) 抑人間生ルル時三鬼有テ、人ト倶ニ誕生ス。ソノ名ヲ三戸ト号ク。胎内ニ九億ノ虫アリ。各毛穴ニ住ム。中ニ九ツノ悪有リ。 一ノ上戸ハ、名聞利養ヲ先ニシ、人ノ宝ヲ欲ル。一ノ中戸ハ、五味ヲ嗜ミ、旨酒美食ニ飽コトヲ好ム。餓ル時ハ腹ヲ立テ肝ヲ煎、.酒ヲ以テ無益ノ事ヲ起シ、主ノ命ヲ失ナフ。 九億ノ虫ノ中ニ九ツノ悪虫有ツテ、人身ヲ大ニ害ス。人ノ惜ム物ヲ欲シ、人ノ宜ク成ルヲ妬ミ、人ノ悪ク成ルヲ悦ヒ、人ノ闘ヲ好ミ、故無シテ人ヲ殺シ、我命ヲ失フ事、此虫ノ所作ナリ。乃チ身ニ無栄花ヲ好ミ、味ヲ求メ、無物ヲ願ヒ、財宝世二勝レテ貯ヘソト思ヒ、餓鬼ノ欲ヲ先ニシ、諸ノ悪事ヲ成シ、子孫ニ及ンデ大事ヲ闘キ、親子ノ中ヲ違ヒ、審属ヲ失フモ、此虫ノ所作ナリ。 同庚申ノ日専ラ障碍ヲ為ソト欲ス。此日三鬼忿ツテ人ノ善悪ヲパ梵天帝釈ニ告グ。此虫人ノ果報ヲ奪ヒ、命ヲ失ヒ、将ニ地獄ニ堕ントス。 一ノ上戸ハ頭ニ住ム鬼ナリ。捗瑞ト云。黒色ノ虫ナリ。形ハ人ノ如クニシテ、長サ三寸ナリ。庚申ノ日鬼ト成リテ人ノ命尾ヲ送リ出シテ、将ニ短成ントス。或ハ人ノ物ヲ欲シ、物ヲ妬ミ、常ニ物忘レ令メ、俄ニ心細ク成リ、繁怒ル夢ヲ見セ令メ、亡人ヲ夢見セシメ、喧嘩闘静ヲ起シ、時ナラズ腹ヲ立、老ズシテ歯落、眼闇ク、白髪ト成ルハ、此虫ノ所作ナリ。 大学匠善知識モ此鬼ノ崇ハ遁レズ。年二六度ノ庚申ノ日ヲ知ラズシテハ、二世ノ大願成就シ難シ。 |
大畠注 普通の庚申縁起には「青面金剛を信仰すると三尸の害から逃れられる」とだけしか書いてないが、金輪院の庚申縁起には「青面金剛が三尸を退治してくれる」と明記しその情景を生き生きと描写している。 ショケラが金輪院で最初に作られたのであれば、当然「三尸征伐」の場面をイメージ化したものと思われる。 三尸は「虫」というものの実は「鬼=霊魂鬼神」であることが各所に説明されている。 |
二童子衣装の変化 |
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二童子は「走り使いの少年」。古い時代には細いズボンをはき活動的だが、江戸時代になるとゆったりした 衣装に変わりスタイルが固定する。青面金剛図の時代判定の参考になる。 |
「日本の石仏」2001冬号 小花波氏「庚申塔」記事 「・・この半裸女人像をショケラと呼ぶ人があるが、それは間違いで、これはショケラではない。青面金剛の絵をなるべく多くの掛け軸で調査し、その変遷を眺めてみれば納得できるでしょう。・・」 「ショケラと呼ぶのは間違い」というのは数十年前からの小花波氏の持論であり、庚申研究者の間では定説のようになっている。 |
シヤ虫や去ねや去りねや我が床に・・・(平安時代の袋草子) シヤケラや去ねや去りねや我が床に・・・(庚申縁起) 窪徳忠氏「庚申の研究」のショケラ論 A)上記の歌から、シヤ虫もショケラも三尸虫を指すことは明らかである。 B)女人像は俗にショケラと呼ばれている。 C)窪氏の全国調査で、女人像をショケラと呼ぶ地域が福井などに3例あり、「ショケラが悪いことをするので庚申の神様が髪をつかんで押さえ込んでいる」という伝承が付随していた。 以上から、女人像は三尸虫退治を意味すると思われる。ただしショケラの起源やショケラの名称の意味は不明である。 この説は分かりやすいため、ショケラの名称が普及し研究者は「ショケラ」を使うようになった。 小花波氏は、「女人像が俗にショケラと呼ばれる」証拠がない。少なくとも関東地方には事例がない。ショケラが三尸虫を指すことは明らかだが、ショケラと女人像は別、したがって女人像は三尸虫とは無関係と主張した。 |
小花波氏が否定しているのは、B)の「俗にショケラと呼ばれる」の部分だけである。 C)の窪氏の全国調査では、女人像をショケラと呼ぶ地域が3例確かに出ている。 小花波氏の記事のように「ショケラと呼ぶのは間違い」と表現してしまうと、窪氏の全国調査3例を理由なしに抹殺していることになる。窪氏の名前を出すことを遠慮したためと思うが、誤解を招く表現である。 |
要は「女人像が俗にショケラと呼ばれる」を前提にして推論してはいけないというだけである。 大畠は次の順で推論しており、「女人像が俗にショケラと呼ばれる」を前提にしていない。 @ショケラは三尸虫のことである。(しゃく→しゃけらの誤読から始まる。) A金輪院の庚申縁起では「青面金剛による三尸退治」が強調されている。 Bショケラは仏典の「商羯羅/商羯羅妃」に通じるので、「三尸退治」を「商羯羅天退治」で表現した。半裸女人は当然ショケラと呼ばれていたはずである。 初期の時代にショケラの名称と意味が福井に伝わり、家単位の庚申講で正確に伝承された。 |
小花波氏の記事の後半「掛け軸・・」はまったく意味不明である。 多分「掛け軸などの絵も含めて検討したが、これまでの持論を変える必要があるようなことは何も発見できなかった」という意味であろう。「青面金剛展カタログ」を頭においていると思うが、このカタログにはショケラ名称の是非を論じるような材料は何もない。 |