長 寿 の 間 |
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みどころ ●『記紀』に記された天皇の長寿は、古代史の大きな謎のひとつとでです。神功皇后を含めた初代神武から応神まで16代の平均年齢は、『書紀』が105歳、『古事記』は97歳ですから、世界一になった現在の日本の女性より10歳以上も長寿だったことになります。とくに最高齢となる崇神の168歳などは、人間とは思えません。 ●【没年齢は天皇という偉大な人格を表現しようとする聖寿的なもので、伝えるうちにだんだん長寿になった】(那珂通世、三品彰英)といわれたり、古代には一年に春秋で二回、歳を数えたのではないかという【 一年二歳論】を唱える先生もいます。 ● なぜこのような長寿とされたのか、本当の年齢はいくつなのか。その答えは、コロンブスの卵のように単純明快です。しかも、紀年の謎を解く上で年齢が重要な手掛かりになることもわかりました。紀年の館を見ていただく上で参考になることが多いので、最初にご覧いただこうと思います。 ● 蛇足ですが、ひとこと 館のあるじは、『古事記』は『日本書紀』より後で編纂されたと考えています。「長寿の間」をご覧になるとき、頭の片隅に留めておいてください。 |
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第一部 『書紀』の長寿は計算上のもの 第二部 『古事記』の没年齢は古記録を基につくられた 第三部 没年齢は語る |
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天皇の長寿 ●『書紀』天皇の長寿を「紀年を延長した結果、計算上でなったもの」というのは、那珂通世氏ですが、三品彰英氏は「(『書紀』より先に編纂された)『古事記』も高齢なので、紀年延長の結果とは言えない」としています。 ● しかし、わたしは『古事記』が後で編纂されたと考えているので、紀年延長で長寿になった『書紀』に合わせて『古事記』も長寿につくったという見方をしています。 ● また、『記紀』とも紀年が延長された神武〜允恭に長寿の天皇が集中していることや、『古事記』が年齢を記すのが紀年延長された神武〜允恭であるのも、紀年延長と長寿が関係していることが感じられます。
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第一部 『書紀』の長寿は計算上のもの 編者は年齢を重要視していない ●『書紀』の没年齢は紀年延長の結果長寿になったことは明らかです。『書紀』には立太子の紀年と皇太子の年齢が記されており、没年齢はその年齢から計算されています。ただ、紀年を延長した上での没年齢なので編者もあまり意味のない数字と考えたのか、必ずしも計算通りではない天皇が多いのですが、計算した年齢を下敷きにした年齢であることは、神武・綏靖・仲哀・応神が計算通りとなっているだけでなく、景行の106歳は計算値143歳から、紀年を延長した年数37年を引いた数であることなどから明らかです。 ● 計算の基礎になった立太子の年齢ですが、立太子という制度自体が存在しない時代のことですから、編者が適当につくった年齢だとみられます。 表1 『書紀』の没年齢と計算年齢
編者は計算結果を使って数字遊びをしている 表1の内容を見ると、編者は計算で出された数字を尊重せず、いろいろにつくって楽しんでいるようです。 @ 計算通りなのは神武、綏靖、仲哀,、応神の4帝だけ。 A 懿徳から孝元まで記載がありませんが、計算値では意味がないと考え、記載しなかったのでしょう。 B 開化・崇神・垂仁三代の、115、120、140歳という数字のつくり方は、孝昭・孝安・孝霊の「延長前の紀年」(詳細は「紀年の間」)が15、20、40年とされているのと同じ手法です。 C 景行は計算値143歳との差が37になっています。景行は立太子が垂仁37年、『古事記』の没年齢が137歳と「37」が並びます。『古事記』崩年干支から計算した垂仁・景行・成務三代の在位合計も37年です。景行の年齢が古記録でなく、編者の造作だと推定されます。 D 仲哀は『古事記』も同じ52歳です。応神「胎中」天皇の父親ですから、あまり高齢とするわけにいかなかったので、古記録にあった52歳のままにしたとみられます。 E 神功皇后の100歳ですが、『書紀』編者が皇后の治世を201年〜269年の69年間と決めたとき(「皇后の間」に展示)、皇后の即位年齢が32歳であったため、100歳とされたと考えています。 |
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第二部 『古事記』の没年齢は古記録を基につくられた ●『古事記』の没年齢は何らかの古記録を基に造作したものとみられます。その造作ですが、神武から開化までは『書紀』編纂より早い時期におこなわれ、崇神以降は『書紀』の長寿に合わせるため、『古事記』の編者太安万侶がおこなったと推定しています(詳細は後述)。 ● 日本に文字が入ってきたのは4世紀後半応神のころというのが定説です。文字のなかった頃の年齢記録は残りにくいとされていますが、『古事記』の没年齢は造作の根拠になる古史料があったとみられます。文字は応神の時代よりもっと早くから使われていたと考える方が、いろいろな点で矛盾が少なくなります。 神武〜開化は干支60で「加工」 ● 太祖神武は137歳と長寿ですが、つづく綏靖・安寧・懿徳の三代は45、49、45歳と普通の年齢です。諡号に「孝」のつく孝昭・孝安・孝霊3代は93、123、106歳と長寿が続きますが、孝元は57歳と普通に戻ります。 ● 長寿の四天皇から干支一運60歳を減らしてみると、神武〜開化9代は77、45、49、45、33、63、46、57、63歳となって、全体として自然な年齢になります。 ● 干支は応神朝の頃に百済から伝えられたとされますが、崇神から崩年干支が伝えられていることから、崇神の頃には記録方法として既に用いられていたと考えるほうが自然です。 『書紀』神武〜孝元の紀年は『古事記』没年齢からつくられた ● 神武〜開化の年齢が造作されたのが『書紀』編纂以前といったのは、『書紀』の神武〜孝元の紀年は『古事記』に記された没年齢を下敷きにして作られているからです。このことは『書紀』と『古事記』が共通の史料を用いていることを意味しますから、『古事記』の没年齢は太安万侶のつくったものでなく、もっと古い時代の記録だとしてよいでしょう。さらにそのことは欠史八代といわれる天皇の記録が古くから残っていたことの証左にもなることです(詳細は「隠蓑の間」)。 崇神〜応神は100で「造作」 ●『古事記』の崇神以降に天皇の没年が干支で記してありますが、これは編者の太安万侶が古記録によって書いたものというのが定説です。この崩年干支古記録と一緒に年齢も遺されていたとわたしは考えています。崇神にはじまるこの一群は100という数字を使って造作されたとすることで謎が解けます。 @ 崇神・垂仁・景行・応神の四天皇は100加算、成務は50加算、仲哀の52歳は『書紀』とも一致するので古記録のままでしょう。 A 成務が100でなく50加算とされているのは、仲哀を52歳としなければならなかったからです。100加えて145歳にすると、甥の仲哀より100歳も年上になってしまうので、50加算の95歳としたのです。 B 崇神〜仲哀五代の推定年齢と『古事記』崩年干支を組み合わせ、生年を推定してみました。
C 驚いたことに成務と仲哀は同い年なのです。このことは景行の子オオウス、ヲウス(ヤマトタケル)が双子兄弟だという景行紀の物語を想い起させます。 D さらに「延長前の紀年」(「隠蓑の間」)によれば垂仁・景行・成務の37年は12:13:12と分けられているので、これを挿入してみると、景行と成務は4歳違いとなって、親子でなく兄弟ということになります。景行・成務・仲哀は祖父・父・甥の三世代となっていますが、実は三人兄弟なのです。また、崇神から仲哀まで各代の年齢が矛盾なくつながることから、崇神没戊寅は一説にいわれる258年でなく、318年であることが確認できます。 E 神功皇后の没年齢100歳は『記紀』で一致していますが、『書紀』の記述に『古事記』が合わせたものです。皇后の即位は32歳ですから生まれは332年、311年生まれの仲哀とは21歳違いで、おかしな年齢ではありません。皇后の没年己丑を389年としてみると58歳で、これも普通の年齢です。皇后の「己丑没」は古記録だったのですが、皇后が摂政とされたために『古事記』に註記できなくなり、『書紀』に記載したと考えています。 F 応神は仲哀の子ですが、仲哀の没後に生まれたので「胎中天皇」といわれます。応神を30歳没とすると、仲哀の没後2年以上の空白が生じるので大きな問題ですが、『書紀』の紀年引き延ばしの際、7年から9年へと2年だけしか延長されていないこと、『書紀』で神功皇后三年に3歳で皇太子とされていることなど、「2年」が絡む記事が多いので、応神30歳は確かな伝えだと考えています。 G また、応神は父の仲哀が没した後に生まれたというのですから、生年が推定できます。仲哀没の翌年生まれたとしても363年生まれですから、394年没とすれば32歳にしかなりません。このことからも没年齢130歳は100加算されているとするのが的外れでないことがわかります。 仁徳〜允恭はいろいろ ● 仁徳から造作方法が変ってきます。『古事記』は応神までは神と人の中間といわれる「中巻」ですが、仁徳からは人の世とされる「下巻」になることと関係があるのかも知れません。巻によって年齢の造作方法が変わるのは、造作が安万侶によっておこなわれたと考える一つの根拠です。 @ 仁徳の83歳は在位年数33年に50を加えたとみられますが、この50は100の半分ではなく、仁徳の没年齢だと推定しています。父応神が30歳没とすると、仁徳はどんなに早く生まれても父応神が14、5歳、没時には仁徳が16、7歳にしかなりませんから、在位33年とすれば没は50歳くらいです。 A 履中は在位5年で没年齢は64歳ですが、父仁徳が50歳没とすると親子が逆転してしまいます。弟の反正も在位は5年、60歳没ですから父親と同年齢になってしまいます。 B また、末弟允恭の没年齢は78歳、在位が17年ですから即位は62歳になり、兄の反正は60歳没なので、ここでは兄弟の年齢が逆転しているだけでなく、父仁徳より年上になってしまいます。 C 兄弟が仁徳の即位後に生まれたとすると履中、反正の没年齢は半分の32歳と30歳と推定されます。二人とも在位は5年ですから、即位は28歳と26歳になります。 D 允恭天皇の没は78歳でなく、『書紀』で紀年とされている42年が没年齢だと推定しています。『古事記』の没年齢を『書紀』の紀年とするのは孝元57、崇神68に例があります。允恭の没年齢を42歳とすれば、在位17年ですから即位は26歳になって三兄弟の年齢がつながります。允恭がなぜ78歳とされたのかは解明できていませんが、あえてこじつけるなら120(干支二運)−42=78 としてつくられたとしておきます。 以上をまとめたのが次表です。
『古事記』長寿は『書紀』の紀年延長に合わせたもの ●『書紀』は天武が壬申の乱でおこなった「先帝殺害、皇位簒奪」と同様事件を抹殺しました(「虐殺の間」に展示)。これによって数代の天皇が抹殺されたのですが、『古事記』の天皇は『書紀』と完全に一致しています。このことは『古事記』が『書紀』より後で編纂されたことの明証といえます。『古事記』の編纂に着手したのは『書紀』の紀年延長が決まってからで、崇神以降の没年齢は『書紀』の紀年延長に合わせるため、編者太安万侶が造作したと推定しています。 ● 崇神から応神という一群の天皇の年齢が100(あるいは50)を引くと通常年齢になるということは、三品彰英氏のいうように天皇を敬う気持ちからだんだん長寿になったというようなものでなく、明らかに同一人による造作で、100という中国好みの数字を使う手法からみても、造作は太安万侶によると断定しています。 |
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第三部 没年齢は語る 景行・成務・仲哀の三代は兄弟 ● 前出のように景行・成務・仲哀の三代は兄弟です。当時は末子相続でしたから成務が天皇になり、仲哀は早世した兄景行に続いて征討のため九州に在住していたのが、成務が没したのでヤマトの王に推されたと考えるほうが、九州に宮を置いたことや神功皇后の東征を理解しやすくなります。 ● また、景行・成務・仲哀の三代が兄弟なのは、オオタラシヒコオシロワケ(景行)、タラシナカツヒコ(仲哀)、ワカタラシヒコ(成務)という名からも推定できます。オオは長男を意味し、ワカは一番末、ナカは三人兄弟の中を指し、末子のワカ(成務)が皇位を継ぎ、没後継嗣がいなかったので次兄のナカ(仲哀)が後を継いだと考えれば、当時は末子継承であったこととも整合します。 ● オオタラシヒコを偉大な天皇、ワカタラシヒコを若い天皇、タラシナカツヒコを中継ぎの天皇とする説もありますが兄弟の名と考えるほうが自然だと思います。 ●『古事記』には垂仁とヒバスヒメの間に生まれたのが、イニシキノイリヒコ、オオタラシヒコオシロワケ(景行)、オオナカツヒコ、ヤマトヒメ、ワカキノイリヒコの5人とありす。オオナカツヒコがタラシナカツヒコ(仲哀)に、そしてワカキノイリヒコがワカタラシヒコ(成務)につくられたとも考えられます。 景行は天皇ではなかったのが挿入された ● 景行・仲哀・成務三兄弟のなかでも景行は疑問の多い天皇です。末子継承の順で成務、仲哀は皇位に就き、長兄の景行は皇位に就かなかったのですが、地方豪族を擬制的に天皇家に結びつけるために皇位に列せられたと考えています。天武の定めた八色の姓で「別」とされるのは、地方の景行天皇系豪族です。 ● 崇神に始まる崩年干支の記録が、続く垂仁・景行に記されていませんが、没年齢も崩年干支も伝わらなかった景行を挿入したため、垂仁の崩年干支を消して、ぼかしてしまったとも考えられます。 ● 景行が挿入される前の37年ですが、2代で37年を3代に分けるとき、景行と成務が兄弟であることから考えて、景行の挿入前の紀年は垂仁が12年、成務が25年だったと推測しました。これで計算すると、垂仁の生まれは278年、父崇神28歳の子で、330年没、年齢53歳ということになります。成務は垂仁33歳のときに生まれたことになります。 ● そうすると、垂仁は278年生まれ(崇神28歳のとき)330年没、成務は311年生まれ、景行は成務より2、3歳上と見ればよいでしょう。仲哀が父ヤマトタケルを早くに亡くしたと物語は伝えていますが、仮に景行が308年生まれ、25歳没として332年、仲哀22歳の時ですから、ヤマトタケルの物語とよく合致します。このように景行は皇位に就かなかったため没年齢や崩年干支が伝わらなかったので、37歳はつくりものだと判断されます。 仲哀と応神は実の父子ではない ● 応神の没は崩年干支に従えば394年です。没年齢30歳とすれば、生まれは365年ですから父仲哀の没362年との間に丸2年の空白があることになり、二人は親子ではないことになります。 ● 神功皇后は仲哀の没後、応神の摂政でなく天皇の位に就いたと考える方がいろいろなことが理解しやすくなります。いくら皇后の力が強大だったとしても、胎児を皇位に就けることはできないでしょう。まして大和にはカゴサカ皇子、オシクマ皇子という仲哀の遺児がいたのですから。 ● 皇后が大和に入るときカゴサカ、オシクマとの戦いが小規模で済んだのも、皇位に就いているという大義名分があったからと考えれば理解できます。成務の腹心だった武内宿禰が皇后側に参じたのも、皇位というものの存在があってのことか、あるいは皇位の重さを知る宿禰の入れ知恵でしょう。 ● 皇位に就いていた神功皇后が摂政とされたのは、皇后即位の事情が「先帝殺害、皇位簒奪」(詳細は「殺戮の間」)に当たると天武が疑って、皇后が皇位に就いたことを認めなかったからです。 雄略の124歳は没年齢でなく、治世24年を伝えている ● 上述したように、『書紀』の紀年延長に合わせて『古事記』の没年齢が長寿に造作されたのですが、雄略の124歳は紀年延長とは関係ありません。この124歳という数字は没年齢ではなく、『書紀』が雄略の紀年を繰り上げる造作をおこない、紀年24年を23年に1年短縮したので、雄略の治世が24年であることを伝えるために『古事記』の編者太安万侶がつくり出したものとわたしは考えています(詳細は「殺戮の間」)。 |
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むすび ● これまでの古代史学では、年齢に関して冷淡だったと思っています。年齢のように、訳の分からないものを手がけても、成果を得られないだけでなく、馬鹿にされるという雰囲気も感じられます。年齢に対してまともに取り組んだ学者はなかったといえます。「一年二歳論」という際物的な論も出されましたが、ピタリとはまることはありませんでした。 ●『古事記』が崇神168歳、垂仁153歳、景行137歳、成務95歳と並ぶ中で仲哀のみ52歳とされ、しかもこの52歳は『書紀』とも一致しているにもかかわらず、何ら考究の対象として採り上げようとしていないのです。『古事記』宝算のように、一瞥すれば、ある程度の造作方法が浮かんでくるような簡単なものですら「天皇をたっとぶ心からだんだんに長寿になった」などとして、研究する対象ではないと最初から放棄しています。 ● しかし、『古事記』は神武から允恭まで、つまり『書紀』が紀年延長をおこなった天皇の宝算はすべて記載しています。この一事を見ても、紀年研究に宝算を組み合わせなければならないことが分かります。 ●『古事記』の長寿は三品彰英氏のいう聖寿的なものでなく、『古事記』編纂時の造作によるものです。年齢の解読によって景行・成務・仲哀三帝が兄弟であることがわかり、雄略の124歳のように年齢を示すだけではない場合のあることも判明しました。「殺戮の間」に展示してあるように、顕宗の没年齢38歳や継体の43歳なども、紀年を解読する上では重要な鍵になります。したがって没年齢を紀年と関連づけて研究する意義は十分にあるのです。 ● 一言で「造作」といいますが、数字を造作するのは容易ではありません。とくに紀年のように生年、没年だけでなく立太子、即位、後継者との年齢差などいろいろに関連する数字を矛盾なくつくることは不可能といえます。いくら注意してつくっても必ず矛盾が出てきます。紀年の矛盾から没年齢を解明し、没年齢の矛盾から紀年を解明するよい手掛かりになります。 |
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順 路 紀年の館ご案内 出 口 |