隠 蓑 の 間

 
みどころ

● この間には、館のあるじが
「世紀の大発見」という「延長前の紀年」を展示しています。

「延長前の紀年」は、この世には存在しないといわれていた珍しいお宝です。

●『書紀』の紀年は延長されているというのは定説なのですが、では、延長される前はどうだったのかというと、答えはありません。この間に展示したのは、その「延長される前の紀年」なのです。

● この紀年は『書紀』の編者がつくったものと見られます。史実ではありませんが、『書紀』編纂当時の人の歴史認識を知ることができます。

● こんなモノが見つかったからと専門家に鑑定をお願いしても「なしのつぶて」です。これまでのことがひっくり返るので、見たくないシロモノなのかも知れません。


 第一部
 紀年の考え方

 第二部 隠された紀年
 第三部 造作を伝える立太子記事の形


第一部 紀年の考え方

『記紀』の紀年

 建国の歴史は自然に出来るものではありません。国がつくるものです。ですから建国当時の歴史が二つあることはありません。『書紀』『古事記』という同じ時代を扱った二つの歴史書が同時に、それも両方とも勅撰でつくられたことは異常ですが、その二書に書かれた「時」がまったく食い違うことが、「紀年論」という奇妙な学問を生み出しました。

『日本書紀』と『古事記』の紀年対比(神武から崇峻まで)
天 皇 古事記
崩年干支
古事記
在位年数
書紀治世 書紀
在位年数
神 武 前660〜前585 76
空 位 前584〜前582
綏 靖 前581〜前549 33
安 寧 前548〜前509 38
懿 徳 前508〜前477 34
空 位 前476
孝 昭 前475〜前393 83
孝 安 前392〜前291 102
孝 霊 前290〜前215 76
孝 元 前214〜前158 57
開 化 前157〜前 98 60
10 崇 神 戊寅(318) 前 97〜前 30 68
11 垂 仁 前 29〜70 99
12 景 行  71〜130 60
13 成 務 乙卯(355) 37 131〜190 60
空 位 191
14 仲 哀 壬戌(362)  7 192〜200
神 功 己丑(389) 27 201〜269 69
15 応 神 甲午(394)  5 270〜310 41
空 位 311〜312
16 仁 徳 丁卯(427) 33 313〜399 87
17 履 中 壬申(432)  5 400〜405
18 反 正 丁丑(437)  5 406〜410
空 位 411
19 允 恭 甲午(454) 17 412〜453 42
20 安 康 454〜456
21 雄 略 己巳(489) 35 457〜479 23
22 清 寧 480〜484
23 顕 宗 485〜487
24 仁 賢 488〜498 11
25 武 烈 499〜506
26 継 体 丁未(527) 38 507〜531 25
空 位 532〜533
27 安 閑 乙卯(535) 534〜535
28 宣 化 536〜539
29 欽 明 540〜571 32
30 敏 達 甲辰(584) 49 572〜585 14
31 用 明 丁未(587)  3 586〜587
32 崇 峻 壬子(592)  5 588〜592
33 推 古 戊子(628) 36 593〜628 36

 表註
   1 推古以降『古事記』には記載がないので省略する。
   2 『書紀』の最後は持統天皇 治世は687〜697年の11年間
   3 神功皇后の崩年干支「己丑」は『書紀』からとった。


『書紀』は歴代天皇の元年の干支と元年から没までの紀年が記されているので、容易に西暦に換算できます。ところが『古事記』は収録する33天皇のうち15代に崩年の干支が記されているだけで紀年がありませんから、『書紀』と一致することが確認できる推古あたりから、干支1運(60年)以内に前代の没年を求めるというやり方で遡って西暦に換算します。

● この方法で成務までは天皇ごとの紀年が求められますが、崩年干支がないところは計算できません。開化の崩年干支がないので崇神の紀年はわからないし、続く垂仁、景行もないので垂仁〜成務3代は合計37年は分かっても、個々の紀年は分かりません。

●『書紀』の紀年は神武まで整然と書かれているのですが、ちょっと見ただけで作り物だと判断できます。一方の『古事記』崩年干支は一体史実なのか、つくられたものなのか、むずかしいところです。記録が連続する成務没から允恭没までの100年間の7代を見ても1代の平均が15年ほどですから、つくりものとは思えない数字です。

● しかし、日本に文字が伝えられたのは応神朝のころだから、それ以前の記録は信頼できない、という人もあります。崇神以前の崩年干支を記していないのは、このあたりから記録が始まったからで、かえってその方が真実みがある、ともいわれます。しかし允恭以降になって記録のない天皇の多いことも気になります。
 
● 一見本当らしく見える『古事記』の崩年干支は崇神以前の天皇にはありません。そうかといって『書紀』の数字はまったく信頼できないので、神武がいつころの天皇だったのか、誰でも気になりますが分からないのです。

● 
黒板勝美という博士が【神武天皇から開化天皇までは何等年紀を考察するに足るべき史料が遺されていないのであるから、神武天皇の御即位紀元は、学術的にいへば、之を不明とすべきものであって、必ずしも御代数と平均年齢とによって之を推算し、神武天皇の御即位が何年前であるかを定むべき必要を認めない】といっているくらいです。

『記紀』紀年の食い違い

● 紀年が『書紀』と『古事記』でこんなに違うのは基になった史料が異なるからだ、という説もありますが、この二書は天皇の命令で同時期につくられたのですから、当時入手できる最高の史料を用いた筈で、こうした史料が何種類もあるわけはありません。史料が異なったにしても、違うのは部分的で、このように全面的に違うことはないでしょう。また、『記紀』二書の天皇が代数・名前とも完全に一致しているのは、史料が同じだということの証拠です。同じ史料を基にしたのですが、何らかの事情でこのように異なる年表が出来上がったと考えるのが合理的です。

● 第10代崇神の没は『書紀』が前30年、『古事記』は318年ですから同じ天皇でありながら350年の違いがありますが、第19代允恭では『古事記』が454年没、『書紀』は453年没で、わずか1年の違いしかありません。安康以降も違いはありますが、允恭以前のようにどんどん差が大きくなっていくことはありません。延長されているのは『書紀』の全体ではなく、允恭より前で、允恭を境にして紀年の食い違う理由が違うとみられます。


● 允恭以前が延長されている、というのは半ば常識になっていますが、何をどのように延長したのか、最初からこのように長い在位年数が考え出されたのか、まったく判らないといわれてきました。しかし、『古事記』崩年干支がある天皇には二つの数字があるわけで、その二つともデタラメだということは考えられません。それでは数字を二つ書いておく意味がありません。二つあるのならどちらかが正しいと考えるべきでしょう。もしどちらを採るかといえば、もちろん『古事記』の数字です。『書紀』は「国撰」です。「国撰」は国家の威信のために造作される可能性があります。「私撰」の『古事記』にはその必要がありません。那珂博士は【允恭までは『古事記』が正しいと考えるが、安康以後は『書紀』が正しい】としていますが、史料をそのように使い分けるのは非常に危険です。とにかくここでは『古事記』に崩年干支がある天皇は、崩年干支が基になった記録で、『書紀』の紀年はこれを引き延ばしたものだと単純に考えておくことにして、問題が出たら改めることにします。

●『古事記』の崩年干支は崇神までしか書いてありませんが、古い時代の記録はなかったと考えるのも自然です。必要があって崇神以前の天皇の記録をつくるときには、『古事記』と似たような年数でつくるのが普通で、最初から『書紀』にあるような長い紀年をつくることは考えられません。

● こうした仮説を立証するには、何を措いてもそれらしい数字を見つけ出さなければなりません。『古事記』の記事には数字がありませんから。数字を探すのなら『書紀』です。同じ書の中に二つの数字があるのか心配でしたが、とにかく探すことにしました。それが「世紀の大発見」に結びついたのです。

 @ 神武紀から成務紀にわたって書かれた立太子記事は、延長前の紀年を隠すためのものである。

 A 立太子紀年は延長した年数である。 [没紀年]−[立太子紀年]=[延長前の紀年]

 B 立太子記事による紀年隠しは成務までである。つぎの仲哀以降允恭までは『古事記』崩年干支によって紀年が算定できる。つまり立太子紀年と崩年干支は同じ機能を持つものである。
 

 C
 [延長前の紀年]による神武即位は西暦16年であるが、補正すると西暦99年となる。

 D 紀年をさらに分析すると、孝昭〜孝元と開化は大和周辺の土着豪族だが、擬制的同祖関係とするために皇統に組み込まれたと見られ、神武の直系は綏靖・安寧・懿徳のあと崇神に続くと推測される。この推測によれば、神武天皇即位は215年になる。ただし、これは史実ではなく、『書紀』編者が建国の歴史をその程度と考えていたことを示している。


第二部 「世紀の大発見」 隠された紀年


 立太子の紀年は[延長した年数]

●『書紀』の帝紀記事には即位、没のほか都を定めた年、先帝を陵に葬った年、皇后を立てた年、皇太子を立てた年などいろいろな「時」の記録がありますが、紀年に絡む可能性のある記事として「皇太子を立てた年」に目を付けました。皇太子の年齢から計算すると、生まれたときの父帝の年齢は50歳以上が多いのですが、ほかの記事をみるとほとんどの天皇は即位前に妃を娶り、子もいるのですから、この数字はつくられたものと推測しました。

●『書紀』の紀年は延長されていると考えれば、 [書紀・紀年]=[延長前の紀年]+[延長した年数] ですから、立太子の紀年は[延長前の紀年]か[延長した年数]のいずれかだと推定されます。

 
● 表1の[立太子紀年]の合計は302年、207年など端数なので、こちらは作られた数字ではないと推定されます。[没−立太子]は神武から孝元までの合計が200年、開化〜成務140年というラウンドになっていますから、こちらが作った数字だと判断されます。

● 崇神には崩年干支があるのですが、垂仁・景行二代の崩年干支が欠けているので紀年をつくるとすれば成務まで必要です。垂仁・景行・成務三代が88年ですから、成務没を355年として計算すると神武の即位は西暦16年になります。


 表1  「立太子」と「没」のセット
天 皇 没紀年 立太子紀年 没−立太子
神 武 76 42 34
手研耳  3  3
綏 靖 33 25  8
安 寧 38 11 27
懿 徳 34 22 12
孝 昭 83 68 15
孝 安 102 76 26
孝 霊 76 36 40
孝 元 57 22 35
302 200
開 化 60 28 32
崇 神 68 48 20
垂 仁 99 37 62
景 行 60 46 14
成 務 60 48 12
207 140


● 表1からはつぎのようなことが読み取れます。

 @ 『記紀』では皇列に入らない手研耳の在位3年が200年の中に含まれています。この数字が作られた時点では手研耳は天皇とされていたと推定されます.。手研耳が抹殺されたことについては「殺戮の間」をご覧ください。

 A 垂仁の62年ですが、50年引いた12年と考えられます。垂仁の治世は99年と長く、12年にするのには立太子が87年になってしまい、21歳の皇太子(68歳の子)ではあまりにおかしいため、50年引いた37年立太子にしたのです。垂仁〜成務三代は38年になり、神武即位は西暦66年になります。

 B 垂仁〜成務の合計が38年となれば『古事記』崩年干支による三代の合計は37年なので、この数字が紀年であることはまず間違いないと考えられます。この1年の違いは開化を挿入するとき垂仁〜成務に1年加えられたためと考えられます(詳細は後述)。


 
孝昭〜孝元四代は神武とは別系統

● 表1に戻って数字のつくり方を分析してみます。便宜上、手研耳を含めた神武〜懿徳五代と諡号に「孝」のつく孝昭、孝安、孝霊、孝元四代を分けてみました。仮に神武グループと孝昭グループと呼ぶことにします。開化は200年から仲間外れです。


 @
 二つのグループで200年を分けると、神武グループが84年、孝昭グループは116年ですが、神武グループに開化の32年を加えると孝昭グループと同じ116年になります。200年という数字だけでもつくられたことは疑いないのですが、さらにこのように二つのグループの数字を一致させてあるのは、つくられた数字であることが明らかなだけでなく、紀年をつくった編者がこのグループの存在を意識していたことを示しています。つまり二つのグループは並立した別勢力だったものを、系譜作りの際、直列につないだのです。『書紀』紀年でも懿徳と孝昭の間には1年の空位が置かれていますが、何らかの意味があることを示しています。

 A 開化は神武グループに属しているようにみえますが、神武〜孝元200年と崇神20年は対としてつくられた数字で、最初からその間に開化32年を挟み込んで数字をつくることは考えられません。開化は紀年つくりの最初の段階では皇統譜に入っておらず、後で崇神の前に挿入された疑いが濃厚です。

 B 垂仁〜成務が37年でなく38年とされたのはなぜか、数字のつくり方を考えてみました。
崇神の20年、神武〜孝元の200年が決まった後に開化を挿入する必要が生じたとき、きれいな数字にこだわる編者は開化〜成務の合計を90年というきりのよい数字につくろうとしたのです。それには開化を33年につくらなければならないのですが、33年では神武〜開化が233年という奇数になってしまい、神武グループと孝昭グループに等分できません。偶数にするために開化を32年とし、1年を景行に加えたので垂仁〜成務37年が38年になったと推定されます。



 神武〜崇神220年、神武即位西暦99年

● 以上のように、『書紀』に隠されている紀年は神武即位〜成務没までが290年で、神武即位は66年になっていますが、最初につくられた時(開化が挿入される前)は神武即位〜成務没が257年、神武即位は西暦99年だったのです。(表2)

 表2 『書紀』に隠された紀年
天 皇 在位年数 治  世
神 武 34  99〜132
手研耳  3 133〜135
綏 靖  8 136〜143
安 寧 27 144〜170
懿 徳 12 171〜182
孝 昭 15 183〜197
孝 安 26 198〜223
孝 霊 40 224〜263
孝 元 35 264〜298
崇 神 20 299〜318
垂 仁 12 319〜330
景 行 13 331〜343
成 務 12 344〜355
仲 哀  7 356〜362
神 功 27 363〜389
応 神  5 390〜394
仁 徳 33 395〜427
履 中  5 428〜432
反 正  5 433〜437
允 恭 17 438〜454

● 神武即位は一応99年となりますが、孝昭〜孝元四代は神武とは別の王系とみられますから、この116年を抜くと、神武即位は215年ということになります。

 なぜ短い紀年をつくったのか

●『書紀』編者がこのような紀年をつくったのは国史編纂の史料を集めたとき、紀年に関する古記録としては崇神までの崩年干支しかなかったので、編年体の史書とするためには、古記録にない部分は編者がつくらざるを得なかったのです。詳しいことは「親王の間」に譲りますが、『書紀』は700年頃短い紀年で完成したものの、紀年が短いとして撰上が認められず、延長作業の上完成したのが現在の『書紀』だと考えています。


第三部 造作を伝える立太子記事の形


●『書紀』を編年体の史書とするため、編者は古記録にない部分の紀年は自分でつくったのですが、それは[延長前の紀年]= [没紀年]−[立太子紀年]という形で『書紀』に隠されていると説明しました。しかし編者は紀年を隠したことがはっきりわかるように、神武から成務の立太子記事をほかの代とは区別して書き分けています。立太子記事についてもう少し詳しくみておきましょう。


「紀年の隠し場所」を知らせている立太子記事の型

● 表3が立太子記事です。まず気づくのは神武から成務まで「立○○○尊為皇太子」という全く同じ形で書かれていることです。仲哀以降は記事がなかったり、『尊』が『皇子』と書かれ、『皇太子』が嗣・儲君などほかの言葉になっていたり、形が一定でなくなります。

 表3
立太子紀年              記          事
神武42
綏靖25
安寧11
懿徳22
孝昭68
孝安76
孝霊36
孝元22
開化28
崇神48
垂仁37
景行51
成務48
仲哀
神功
応神40
仁徳31
履中 2
反正
允恭23
安康
雄略22
清寧 3
顕宗 
仁賢 7

立 皇子神渟名川耳尊    
立 皇子磯城津彦玉手看尊 
立 大日本彦耜友尊
立 観松彦香殖稲尊
立 日本足彦国押人尊
立 大日本根子彦太瓊尊
立 彦国牽尊
立 稚日本根子彦大日日尊
立 御間城入彦尊
立 活目尊
立 大足彦尊
立 稚足彦尊
立 甥足仲彦尊

立 誉田別皇子
立 菟道稚郎子
立 大兄去来穂別尊
立 瑞歯別皇子

立 木梨軽皇子

以 白髪皇子
以 億計王

立 小泊瀬稚鷦鷯尊

為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子
為 皇太子

為 皇太子

為 嗣
為 皇太子
為 儲君

為 太子

為 皇太子
為 皇太子

為 皇太子



 表註 景行
紀は五十一年だが成務前紀には四十六年とあります。
 
●『書紀』には初代神武から欠かさず「立太子」記事が記されています。皇位継承者をあらかじめきめておく「立太子」の制度が確立されたのは七世紀になってからで、武烈以前の記事は『書紀』編者による「造作」だとする直木氏の説があります。

● では何のために造作したのでしょうか。とくに神武の場合は、天皇の没後帝位についた手研耳を倒した渟名川耳(綏靖)に兄の八井耳が皇位を譲った物語が記されており、物語では神武在世中には後継者をきめていないか、少なくとも渟名川耳を後継者に指名していないことは明らかなのですが、神武紀には【四十二年春一月三日、皇子神渟名川耳尊を立てて、皇太子とされた】と記しています。「立太子」は帝紀の必須項目ではありません。まして「ウソ」とすぐにわかることを、編者がわざわざ記しているのは、何かほかに大切な目的があってのことと考えました。

● とくに神武から成務までは全く同じ形の記事です。そして同じ型の記事が成務で終わっていることに注目しました。成務は崩年干支から「紀年を算定できる/できない」という、紀年を研究する上で重要な分かれ目になっている天皇です。その紀年算定ができない範囲と立太子記事の型の範囲が一致していることから、立太子記事は崩年干支の代わりに紀年を伝えるものだとわたしは断定しました。


 立太子紀年は延長した年数を示している

● もし立太子記事が崩年干支に代わるものだとすれば、どのような形で使われているのかがつぎの疑問になりますが、これについては『書紀』に記された「皇太子を立てた年」は没紀年と組み合わせ、その差が「延長前の紀年」であり、 [書紀・紀年]=[延長前の紀年]+[延長した年数]で、立太子紀年は[延長した年数]を示していることは先ほど述べました。


 
仲哀天皇からは『古事記』にバトンタッチされた

● このように「立太子」と「没」の紀年をセットにして記す形は第14代成務まで続きます。第10代崇神からは二つの記事が連続して書かれることはなくなりますが、「立太子」「没」がセットで記されていることには変わりありません。そして、成務のつぎの仲哀になると「立太子」記事はなくなってしまいます。次が応神「胎中」天皇ですから当然ともいえますが、応神紀では「嗣となす」とあり、仁徳は「太子輔」です。このように『古事記』の崩年干支がきちんと記され、それによって紀年が計算できるようになった途端に「立太子」と「没」のセット記事は形が崩れてしまうことがわかります。

● まるで『古事記』に崩年干支として書いてあるから、そちらを見てください、とでもいうようなやり方ではありませんか。そこでわたしは考えたのです。ひょっとしたら編者は本当に「『古事記』をみてください」と云っているのではないだろうか。もっと進めて考えるなら、そうするために『古事記』がつくられたのではないのだろうか、と。


● 話を整理しておきましょう。わたしは、崇神没を318年とする『古事記』崩年干支は古記録であり、『書紀』を編年体とするため神武〜崇神220年、神武即位99年とした紀年が『書紀』編者が最初につくりだしたヤマト建国の歴史であり、西暦前660年建国としてわたしたちの前に姿を見せている『書紀・紀年』の元の姿だ、という結論に至ったのです。そして、神武〜成務の「延長前の紀年」は [延長された没の紀年]−[皇太子を立てた紀年]=[最初につくられた紀年] という形で『書紀』に遺されましたが、古記録である崩年干支は『書紀』から切り離され、『古事記』の註記とされたのだと結論づけています。

●『書紀』編者がつくった紀年で垂仁・景行・成務三代の紀年を37年としていることからみて、『古事記』に書かれた崩年干支は編纂以前から存在した古記録であることは明白で、編者は古記録として遺されていたものと、自分たちがつくったものとを厳密に区別して扱っているのです。


「延長前の紀年」は国内説明用に遺された

● 紀年を延長した後に「延長前の紀年」をこのような形で遺したのはなぜでしょうか。『古事記』に註記したのは古記録ですから、延長したからといって消してしまうことができないのは史書編纂に携わる人にとっては常識でしょう。しかし成務天皇以前の「延長前の紀年」は史実とは関係なしに編者がつくったものですから、後世に伝える価値のあるものとはいえません。また『古事記』の崩年干支とは別にしてあることからも、遺した目的が異なるとみられます。

●『書紀』は完成翌年には早くも宮廷で講書がおこなわれています。講書は当時の支配層・知識層を対象にしたのですから延長した建国の歴史がそのまますんなりと受け入れられたとは思えません。受講者から質問や異議が出て当然です。長い紀年が古くから伝えられていて、それを収録したのなら問題にならないのでしょうが、『古事記』に記されたような史料が伝わっていたのですから、講書に参加するくらいの人たちは、ヤマトの歴史がそう長くないことは認識していたでしょう。そこに同世代の『書紀』の編者がつくった異常に長い紀年を出して、「この紀年を正しいとせよ」といっても受け入れられないのは当然です。そのようなことをすれば、紀年だけでなく、生まれたばかりの『書紀』への信頼が得られなくなってしまいます。「国史」として、威厳を持たせ、広めていくには納得させることが必要で、講書はそのためのものだったはずです。

● 講書の記録が残されていますが、そこには紀年や『古事記』に関する質問があったとは記されていません。このことは質問が出される前、講書のはじめに紀年と『古事記』に関する説明がおこなわれたとみてよいと思います。紀年を延長した経緯と同時に、『神武の紀年は76年と本文には書いてあるが、実は綏靖を皇太子とした42年は延長した年数で、これを引いた34年が正しい紀年なのだ』という説明がおこなわれ、延長された紀年は無視するように言われれたのでしょう。神武〜成務の立太子記事が同じ形にされているのも、わかり易くするためだったのです。


 
むすび

● 時間軸のない歴史は「昔話」になってしまいます。日本の古代史には時間軸がないので文献学と考古学はいつも責任のなすり合いをしています。日本の陵墓には墓誌がありませんから、時間軸を決めるのはやはり文献になるのでしょう。しかし文献学のエライ先生方は各人各様の時間軸を作って、お山の大将を気取っています。

「世紀の大発見」はこうした状況の解消に役立つことでしょう。『古事記』の崩年干支を『書紀』の編者がが古記録として使っていたことがはっきりしたことだけでも大きな前進です。また、崇神以前の紀年は『書紀』の編者がつくったもので、史実ではありませんが、少なくとも現代の先生方が作ったものよりは、信頼が置けると思います。

● 作られた紀年であってもそれを通して知り得ることはいくつもあります。架空の標本のように言われていた八代の実在性が感じられようになりました。また神武〜孝元八代が神武系と孝昭系の二つに分かれ、その接点に崇神が位置することが分かり、崇神が「初国知らしし天皇」とされた理由もはっきりしました。

●『書紀』の記述が信憑性の高いものであることが分かったのは、重要なことです。古代に限らず家系によって社会的序列がきめられる社会では、家系に対する関心が強いのは当然のことです。古代ヤマト国では天皇家を中心としてヒエラルキーが構成されていましたから、天皇家の系図は最も重要なものだったのです。天武が【我が朝廷の縦糸と横糸をなす大切な教えであり、人々を正しく導いてゆくための揺るぎない基盤】としたのも、こうした社会事情を踏まえてのことです。

● したがって天皇家の系譜を造作するということは安易におこなえることではなかったのです。『書紀』には系図一巻が添えられていました。国として系図を認定したのです。そして『書紀』はその系図を文章化したものです。そのような系図を、簡単に「つくられた」とするのは、心すべきことだと考えています。


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