殺 戮 の 間

 
みどころ

● 大海人と大友、叔父甥で争われた壬申の乱、従兄弟の押磐皇子を狩り場に誘い出し、弓で射殺した雄略など、皇位継承をめぐる皇子どうしの争いは激しく、かつ陰惨です。

● こうした争いの記録を、一つ一つの事件としてみるのでなく、「先帝殺害、皇位簒奪」事件とその隠蔽工作としてみることで、『書紀』の謎解きが容易になります。

● また、事件の隠蔽という共通項を鍵にすることで、先の二つの事件だけでなく、継体の没に関して伝えられる異様な事件「辛亥の変」を解き明かすことにつながりました。

● 事件隠蔽にどのような方法がとられたのか。『書紀』編纂の謎がまた一つ解けました。

 
  
はじめに 明治の「弘文天皇」復位は天武の遺志に叛くもの
   
序の部 
  
第一部 雄略による押磐皇子謀殺は市辺天皇殺害
  
第二部 辛亥の変/辛亥の変と継体は無関係


 はじめに/明治の「弘文天皇」復位は天武の遺志に叛くもの

●『書紀』の紀年は允恭を境に前半は大幅に延長されていますが、後半も『古事記』との食い違いがあります。大きくは違わないだけに、大昔のことだからこれくらいは違ってもしょうがない、という見方がされています。

● しかし、かりにも天皇の命令で、しかも同じ時に編纂されているのですから、違うのにはそれなりの理由があるはずです。会社でも、社長の命令でつくるモノをいい加減にすることは許されません。古代でも、宮仕えの人なら同じ心境だろうと思い、とことん考えてみることにしました。そうしたら出てきました。『記紀』の違いは1年たりといえどもいい加減なものではありません。允恭の没年が1年違うのも、ちゃんとした理由があるのです。やはり天皇の命でつくられただけのことはあります。

● 紀年の延長は別にして、『書紀』の編者がそのほかにも紀年を造作しなければならなかったのは、すさまじいばかりの皇位継承の争いがおこなわれたからです。

● ヤマト王朝が始められたころ、天皇の位を継ぐのは末っ子だったようです。末っ子が継ぐと、年齢的にも次の後継者は兄弟でなく、子の世代になります。『書紀』を読むと、仁徳の時から、継承の仕方が長男が継ぐように改められたようです。ところが、現代のように継承順位が法律で決められているのではありませんから、長子からその長子に継ぐのでなく、長子が亡くなると弟が後を継ぐ、兄弟継承になってしまいました。こうなると、兄を除けば皇位が転がり込んでくることになります。こうして骨肉の争いが激しくなったのです。

● 今上天皇は125代ですが、この代数が最終的に決まったのは大正十五年ですから、つい最近のことです。明治三年に弘文、淳仁、仲恭が追加され、明治二十四年には南朝が正統とされ、北朝の5代は皇統から外されました。そして大正十五年、南朝の長慶が追加され、皇統が確定したのです。

● この中で、『書紀』に関係するのは、明治三年に天皇に追加された弘文です。弘文は『書紀』には大友皇子として登場しますが、天皇とはされていません。天智の後、天武の前の682年に即位した明証があるからということで復位されましたが、『書紀』は682年は天武元年としています。天智が没したのは671年12月3日です。『書紀』は越年称元法といって、天皇が没した翌年を次の天皇の元年としています。例外はありません。ですから、天智の没した翌年672年が天武元年になっているのは正しいのですが、もし、ここに弘文が入るとすれば、天武元年はもう1年後の673年ということになります。事実『書紀』は天武の即位を673年2月27日と記しています。

●「先帝殺害、皇位簒奪」というのは文字通り時の天皇を殺害して、殺害者が天皇になることです。古代史上有名な壬申の乱は天智の同母弟大海人皇子(のちの天武)と天智の子大友皇子という叔父・甥による皇位争いです。結果は大海人の勝利に終わったのですが、天武が編纂を命じた『書紀』に天皇としての大友の名はありません。明治になってから大友皇子が皇位についていた明証があるとして復位が決まり、弘文天皇とされました。

● しかし、大友皇子が皇位に就いていたのならば天武は叔父・甥とはいえ大逆の罪を犯したことになります。天智没は671年12月3日ですから大友天皇が在位したとすれば672年は大友の元年になるのですが、『書紀』は天武の元年としています。壬申の乱は672年の6月に勃発し、7月23日大友皇子の自害で終結したのですから、本来であれば天武元年は673年になります。『書紀』は大友天皇の治世を抹殺するために天武元年を繰り上げたのです。この忌まわしい事件を正当化するために考え出されたのが、大友皇子がまだ天皇になっていなかったとすることです。当然その治世も消してしまいます。天皇でありながら、大友皇子とされ、その治世は天武元年を繰り上げて消してしまったのです。

● 自らが「先帝殺害、皇位簒奪」をおこなった天武は国史編纂に当たって同様事件をすべて国史から抹殺するよう命じたのです。しかし「天網恢々疎にして洩らさず」、明治の人が余計なお節介をしたために、結果的に天武は「先帝殺害、皇位簒奪」をおこなった、ただ一人の天皇になってしまいました。なんとも皮肉なことです。

●『書紀』を探してみると、同じ手法を使って隠蔽されたと見られる事件がほかにも見つかりました。わたしはこの種の事件を「先帝殺害、皇位簒奪」と呼ぶことにしました。安康以降で『記紀』の崩年干支が食い違う雄略と継体も「先帝殺害、皇位簒奪」に関係があるのです。まず雄略から見てください。


 序の部


● この雄略の紀年問題を解くことで、いくつもの謎が解決します。『書紀』の造作は非常に複雑なので、結論を先に述べておくことにします。

 @ 『書紀』と『古事記』で雄略の没年が10年食い違うこと(紀479年没、記489年没)

 A 『書紀』と『古事記』で允恭の没年が1年違うこと(紀453年没、記454年没)

 B 呉(宋)と交渉のあった年が、『書紀』と中国側の記録『宋書』と食い違うこと(例:雄略十二年遣使、『書紀』は468年、『宋書』は477年)

 C 462年、宋に遣使した倭王は「世子興」と『宋書』にあるが、当時は倭王武とされる雄略の治世だと『書紀』はしていること

 D 雄略の没年齢が124歳と『古事記』にあること

 E 造作の概要

 安康が治世3年で眉輪王に殺害された後、履中の長子押磐皇子が皇位に就きました。『宋書』に世子興として出てくる天皇で、在位は8年間でした。『書紀』の編者は押磐皇子の治世8年を抹殺するために雄略の治世を繰り上げました。没年を489年から479年に10年と2年多く繰り上げたので、調整のため治世24年を23年に短縮、更に安康の治世は3年間はそのままにして、允恭の没年を1年繰り上げたのです。雄略の没年を繰り上げた10年の穴は、仁賢の治世1年を11年にして辻褄を合わせてあります。


造作前 『書紀』
允恭の没 454年 453年
安康の治世 455〜457年の3年 454〜456年の3年
押磐皇子の治世 458〜465年の8年 抹 殺
雄略の治世 466〜489年の24年 467〜479年の23年
仁賢の治世 498年の1年 488〜498年の11年


 
第一部 雄略による押磐皇子謀殺は市辺天皇殺害

● 雄略は天皇になる前に従兄弟の押磐皇子を狩りに誘い出し、「イノシシ」と間違えたふりをして皇子を射殺してしまいました。雄略が押磐皇子を殺害した事件は、この事件だけをとらえるのでなく、いくつかの事件と共通した「先帝殺害、皇位簒奪」事件として考えると、事件の性質も理解しやすくなるだけでなく、『書紀』編纂の上でおこなわれた「造作」も見えてきます。

● 市辺天皇という名は『記紀』の歴代としては出てきません。顕宗紀に【市辺宮に天下治しし天万国万押磐尊】とある
(註1)市辺押磐皇子(履中の長子)を仮に市辺天皇としておきます。市辺は安康と雄略の間に在位したのですが、雄略に「先帝殺害、皇位簒奪」され、『書紀』では治世も抹殺されてしまいました。この事件は、允恭の後継をめぐって皇太子軽皇子の廃嫡、眉輪王による安康殺害、雄略による押磐皇子殺害と続く一連の事件とみられるので、事件の初めからお話しします。

 註1
 【市辺宮に天下治しし押磐尊】という顕宗紀の記事は、消し忘れたのではなく、押磐皇子が抹殺されたことを伝えるために、編者が書き入れたと考えられます。造作した場合何らかの手がかりを残そうとしているのです。



 
軽皇子廃嫡事件は安康と押磐皇子の謀略だ

● 仁徳が皇位継承制度をそれまでの末子継承から長子継承に変えてから、兄弟間の皇位争いが激しくなりました。その最初の犠牲者が木梨軽皇子です。軽皇子は允恭の長子で皇太子でしたが、「軽皇子と同母妹の軽大娘皇女が通じている」と讒訴するものがあり、皇太子を廃されただけでなく、弟の穴穂皇子(のちの安康)によって殺されてしまいました。

● この事件は穴穂皇子が仕組んだ皇位簒奪劇とみられます。穴穂皇子は皇太子軽皇子を追い落として皇位を奪うことを計画し、従兄弟の押磐皇子に「成功したら皇太子にする」という密約を持ちかけ、二人でタブーとされる同母兄妹相姦をでっち上げたのです。後に軽皇子、穴穂皇子の末弟の雄略が押磐皇子を殺害する事件が起きますが、殺害の理由に【安康が押磐皇子に位を譲ろうとした】からと言っています。これは安康が押磐皇子を皇太子にしたということです。


 
安康を殺害したのは妃か

● 安康の皇后となった中蒂姫は天皇の叔父に当たる大草香皇子の妃だったのですが、ある事件が発端で安康が大草香皇子を攻め殺した挙句、妃を自分のものにしたという経緯があります。中蒂姫には眉輪王という連れ子がありました。即位して三年ほど経ったある日、安康は后と山の別荘でくつろぎ、后の膝枕で転寝をしているところを、近くで遊んでいた眉輪王によって刺し殺されてしまいました。父の敵を討ったのです。しかし母親の側で遊んでいるような幼い子供が一人でできることではないし、現場にいたのが三人だけとすれば、すくなくとも中蒂姫は殺害を止めることはできたはずです。殺害を手伝ったのか、あるいは后が亡夫大草香皇子の敵を討ったのでしょうか。


 
雄略に謀殺された押磐皇子は天皇だった

● 物語では、安康が殺害されたことに怒った安康の末弟大泊瀬幼武皇子(のちの雄略)は葛城の円大臣の家に逃げ込んだ眉輪王を追って、とうとう大臣もろとも焼き殺してしまったと伝えます。このとき兄皇子二人も殺害しているのです。事件はさらに続いて雄略が押磐皇子を狩場に誘い出して殺害し、安康の後は自分が皇位に就いたとあります。

● しかし末弟の雄略(『古事記』はこの事件が起きた当時雄略はまだ童男だったとしています)がほかの兄二人を差し置いて安康の敵をとるというのもおかしいし、雄略がその同母兄二人を殺害しなければならない理由が『書紀』の話ではよくわからないのです。

●『書紀』は押磐皇子謀殺事件が安康の事件に続いて起きたとしていますが、疑問があります。有名な倭の五王を伝える『宋書』には460〜462年、世子興の遣使を記しています。『宋書』に登場する倭王讃・珍・済・世子興・武五王のうち、雄略は武に比定されています。『宋書』の記事を正しいとすると、462年当時雄略はまだ天皇になっていなかったことになります。とすれば安康が462年まで皇位にあったことになりますが、安康の没については『書紀』が456年としているし、『古事記』の記述からも462年まで在位していたとするのは無理があります。

● また、長期間空位が続くのは許されないことですから、安康と雄略の間に「世子興と名乗って宋に遣使した天皇」が在位したと考えるのが妥当でしょう。したがって雄略は安康事件から6年以上経ってから即位したことになります。そして、雄略は皇位に就く直前に押磐皇子を殺害したのですから、押磐皇子は皇位にあったとしてよいでしょう。

● 雄略が押磐皇子を殺害した理由に【安康が押磐皇子に位を譲ろうとした】と言っていることや、顕宗紀に【市辺宮に天下治しし押磐尊】とあることも裏付けとなります。世子興は市辺天皇(押磐皇子)だったのです。この事件の真相は、安康の没後、皇太子であった押磐皇子が皇位を継ぎ、数年を経た後、成人した雄略が、本来なら自分たち允恭系兄弟に回ってくるはずだった皇位を履中系から奪いかえそうと「先帝殺害、皇位簒奪」の挙に出たということです。

● そうであれば、眉輪王が逃げ込んだ円大臣の屋敷を攻め、眉輪王と円大臣を殺害したのは雄略でなく押磐皇子だと考えるほうがよさそうです。雄略の兄二人を殺害したのも押磐皇子でしょう。どさくさにまぎれ皇位争いの対抗馬を亡き者にしたのです。雄略は後に円大臣の遺児、韓媛を妃にして清寧をもうけていますから、眉輪王と円大臣を殺害したのが雄略でないのは明らかです。雄略はもっとも残虐な帝王とされていますが、それは濡れ衣だったのです。

● 天武の祖先は継体です。継体の皇后手白香は仁賢の皇女ですから押磐皇子の孫になります。こうしたことから雄略が悪者にされたのでしょうか


『書紀』は市辺天皇の治世を消した

● 雄略の崩年干支は『古事記』が正しい

● 上記のように安康と雄略の間に「市辺天皇」が在位したとすると、市辺・雄略の治世はどのようになるのでしょうか。

●『書紀』は雄略の没を479年としていますが、『古事記』は10年あとの489年としています。『宋書』記事からみて『書紀』の紀年は疑いがあるので、『古事記』の489年没として考えてみます。雄略の在位を23年とするなら、467〜489年が雄略の治世となり、458年から466年まで9年間世子興が在位したとすれば、『宋書』との整合がとれます。(表1)

 表1 『古事記』崩年干支による雄略治世の推定
天 皇 書紀在位 古事記 推定在位 在位年数
允 恭 〜453 〜454 〜454
安 康 454〜456 455〜457
市 辺 458〜466
雄 略 457〜479 〜489 467〜489 23

● 『宋書』と雄略紀の比較

 @ 雄略紀には呉(宋は三国時代の呉の故地なので、『書紀』では宋と呼ばず「呉」としています)との交渉記事を3回載せています。『宋書』と『書紀』を突き合わせて、雄略の治世を調べてみましょう。

 『書紀』雄略紀の呉国関係記事
雄略天皇六年(462)夏四月、呉国が使いを遣わして貢物を奉った。
同   八年(464)春二月、身狭村主青と桧隈民使博徳を呉国に遣わされた。
同   十年(466)秋九月四日、身狭村主青等が、呉国の献上した鵝鳥を云々(帰国)
同   十二年(468)夏四月四日、身狭村主青と桧隈民使博徳とを呉国に遣わされた。
同   十四年(470)春一月十三日、身狭村主青らは、呉国の使いと共に云々(帰国)

 『宋書』の倭国関係記事(460年以降)
大明四年(460)十二月、倭国遣使、方物を献ず
大明六年(462)三月、倭国王世子興を安東将軍と為す
昇明元年(477)冬十一月、倭国遣使、方物を献ず
同 二年(478)五月、倭国王武遣使、安東大将軍と為す
建元元年(479)五月以後、安東大将軍倭王武を鎮東大将軍と為す(『南斉書』)

● 六年遣使は世子興の事績

 雄略紀六年(462)の記事は呉の使者が貢物を持ってきたというのですが、倭王が呉から「安東大将軍」などという称号を与えられるのは倭が呉の冊封体制の下に入っていることを示すことですから、呉の側から倭に「貢物を奉る」ことはあり得ないことです。『書紀』が雄略六年とする462年ですが、『宋書』には倭王世子興を安東将軍に除したと記されています。使節は460年に渡航し、462年に帰国したとみられ、『書紀』にある記事はこの帰国のことだと推定されます。

● 雄略八年の遣使はねつ造記事

 雄略八年(464)から十年(466)の遣使記事に対応する『宋書』記事はありません。この期間は表1からも雄略の治世ではありません。記事に書かれた出発の時期が航海には不向きな2月だったり(通常は4月出発)、帰国も台風シーズンの9月としていること(通常の帰国は初冬)、使者の身狭村主青ら二人は帰国して2年後にまた使者に選ばれるのですが、命がけの旅をするこの時代に、このような使者選びは考えられないことや、かれらが呉国からの贈り物として持ち帰ったという鵝鳥は従順を示すといわれ、呉国から倭国に贈られるには相応しくなく、むしろ呉に持っていくために準備した鵞鳥が食われたのではないかなど、全体が編者によりねつ造された記事とみられるのです。なぜ「ねつ造記事」を載せたのかは後で説明します。

● 雄略十二年は宋の昇明元年(477)

 雄略十二年(468)〜十四年(470)の遣使に対応する『宋書』の記録はありませんが、雄略の遣使は1回だけとみられますからこの遣使は『宋書』にある

 ・昇明元年(477)倭国遣使、方物を献ず。

 ・同 二年(478)倭国王武遣使、安東大将軍と為す。

 ・建元元年(479)安東大将軍倭王武を鎮東大将軍と為す。(『南斉書』)

という一連の記事に該当するとして誤りはないと思います。

● 表1にあるように雄略元年を467年として計算すると雄略十二年は478年になり、『宋書』の477年と1年の違いになります。逆に477年が雄略十二年にあたるとしてみると、雄略元年は467年ではなく466年になり、『古事記』の没年489年は雄略二十四年になります。したがって、『宋書』の記事と『古事記』の崩年干支を正しいとすれば、雄略の治世は466〜489年の24年間だということができます。(表3)

 表3『古事記』崩年干支による雄略治世の推定(修正)

天 皇 書紀在位 古事記 推定在位 在位年数
允 恭 〜453 〜454 〜454
安 康 454〜456 455〜457
市 辺 458〜465
雄 略 457〜479 〜489 466〜489 24

● 雄略没124歳は在位24年を伝えるための太安万侶の工夫だ

 そこで雄略の在位が24年であることを示す手掛かりがないか探して見ました。『古事記』には雄略の在位年数は記されていませんが、没年齢を124歳としています。『古事記』で没年齢が百歳を超える天皇は「中ッ巻」の崇神から応神に集中していて、「下ッ巻」では雄略だけになります。「中ッ巻」では元の年齢に百歳加算されたと考えても不自然ではない例が多いのですが、雄略の場合100歳減らすと24歳になりますから年齢ではないようです。『古事記』がこのような長寿としているのに、『書紀』が年齢についてまったく触れていないのも不思議です。どうやら没年齢124歳は年齢でなく、在位24年を伝えるとみなしてもよさそうです。

● つまり雄略の治世は、元は466年〜489年の24年間だったものを、『書紀』編纂のときに457〜479年に繰り上げると同時に在位も23年間に短縮したと考えられるのです。このことは『古事記』崩年干支が正しいことを立証するだけでなく、『書紀』の雄略十二年は『宋書』など外国の史料からの引用でなく倭国独自の史料によると見られることから、『宋書』と『書紀』という二国の史書の記事が一致する初めての例といえ、同時に讃以降続いた遣使がヤマト王権によっておこなわれたことの明証といえます。

● 雄略治世の繰上げは「先帝殺害、皇位簒奪事件」抹殺のためだ

 @ 雄略の治世を466〜489年とすると、安康(455〜457年)の後を継いだ市辺の治世は458年から465年までの8年間になります。(表3)

 A『書紀』の編者は市辺の治世を抹殺するため雄略の治世を繰り上げたのですが、8年でよいところを10年繰り上げたのです。これは間違えたのでなく、編者の遊びです。その余分に繰り上げた2年を調整するために治世24年を23年に短縮し(元年は9年繰り上げ)、さらに允恭の治世に1年食い込ませたために允恭の没年が『書紀』と『古事記』で一年食い違うことになったのです。

 B したがって允恭の崩年干支が『記紀』で1年食い違うことについて、江戸時代の学者本居宣長が【甲午の年は、書紀では、安康天皇の元年である。これは允恭天皇の没した年を安康天皇の元年とすれば、合っている】としているのは誤りといえます。

● 雄略の紀年を繰り上げる造作をおこなったのは、いうまでもなく雄略がおこなった「先帝殺害、皇位簒奪」を消すことにあったのです。大友皇子と同じように殺害された市辺は「天皇」ではなく押磐「皇子」だったことにされてしまいました。


『古事記』は『書紀』の後で編纂された

● また、この造作は天武がおこなった「先帝殺害・皇位簒奪」が絡んでのことですから『書紀』編纂のときにおこなわれたことは明らかです。そのときに市辺が抹殺された、つまり歴代が一代減らされたのです。したがって『書紀』と『古事記』の天皇が一致しているのは『書紀』の歴代が決まった後で『古事記』が編纂されたことの明証となります。


 
遣使記事の造作はヤマト国を偉く見せかけるためだ

 つぎに対呉国遣使記事がねつ造された目的について述べます。

●『書紀』編者の持っていた古史料には「世子興」の庚子(460)遣使と雄略の十二年丁巳(477)の遣使記録が遺されていたと考えられます。『書紀』の編者はヤマトをより偉大な国に見せかけるために、雄略の477年呉国遣使をヤマトから求めたことでなく、呉国が貢献して来たことへの答礼として訪問したようにつくろうと、いろいろ画策しているのです。従順を示すといわれる鵝鳥を呉国からの贈り物として持ち帰ったなどという話を作ったのはその表れの最たるものです。

● 雄略による呉国への遣使は十二年の1回だけなのですが、編者は雄略元年を466年から457年に繰り上げる際、壬寅(462年)に世子興の使者が呉国から土産を持ち帰った古記録を、繰り上げ後の雄略六年の事績として取り込み、これを呉国からの献上に話をつくり替えたのです。

● そして元年を九年繰り上げたのですから丁巳(十二年)遣使は二十一年に変わってしまいますが、元の記録にあったとみられる「紀年十二年」で記載しています。この十二年遣使を雄略の治世繰上げに合わせて変更しなかったのは、二十一年としたのでは六年の「呉使来朝」から間が空き過ぎるからで、答礼の訪問とするために間を空けないよう十二年のままとして、更に間に八年の遣使をねつ造して一連の外交記事に仕立て上げたのです。このことから、雄略の時には干支だけでなく「紀年」が使われていたことが推察されるのです。


 
允恭〜武烈の紀年は復元できる

● 雄略の崩年干支が己巳(489)として、清寧以降の紀年を推理してみます。

● 武烈の崩年干支はありませんが『古事記』は在位8年としており、『書紀』と一致していますから、武烈の治世は『書紀』と同じ499〜506年としておきます。したがって清寧・顕宗・仁賢の3代は490年から498年の9年間ということになります。『古事記』は顕宗を8年としていますから、清寧と仁賢は合わせて1年ということになります。『書紀』は雄略の崩年干支を10年繰り上げた際、仁賢の在位を11年としていますから、仁賢が1年在位したとみられ、清寧は即位したものの元年を迎えないままに没したのでしょう。允恭から武烈までの復元した紀年は表4のようになります。

● なお仁賢の11年ですが、雄略の紀年を造作した際に、元年・没年とも繰り上げていますが、元年だけ繰り上げ没年はそのままにして紀年を延長する方法もあったはずです。そうしないで没年を10年繰り上げ、仁賢の治世を1年から11年にしたのは前述した天武ー継体ー手白香皇女とつながる仁賢の在位が1年なのを延ばしたいと考えたのでしょうか。

 
表4
天 皇 治 世 在位年数
允 恭 438〜454 17
安 康 455〜457
押磐皇子 458〜465
雄 略 466〜489 24
清 寧 489
顕 宗 490〜497
仁 賢 498
武 烈 499〜506


『古事記』は『書紀』と連係プレーをしている

● 以上のように雄略の治世を466〜489年の24年間とすることによって、天皇の崩年干支だけでなく、『宋書』との違い、世子興の問題、允恭の崩年干支のことなど、雄略紀をめぐる紀年の問題のほとんどが矛盾なく説明できるようになります。

● また、『古事記』が安康以降の崩年干支を記したり記さなかったりするのは、崇神〜反正は『書紀』の紀年と大きく離れていたため、『書紀』を考慮しないで註記できたのですが、允恭以降は差が少なくなったことから、全ての天皇について註記すると、たとえば、允恭で1年違うのに続いて、安康でも1年違いを記すことになるので『書紀』記述と重複し、矛盾が目立つのでそれを避けたのです。しかも、『古事記』の書き方は雄略の在位24年を124歳という年齢で示したり、顕宗・武烈は崩年干支でなく在位年数を本文に記すなど、復元可能なように配慮していることが窺えるのです。


 
武烈は皇女春日大娘の子ではない

● 雄略の没が『古事記』の489年とすると、武烈の生まれについて疑問が出てきます。

● 465年、顕宗・仁賢兄弟は父の押磐皇子が雄略に殺害されたとき市井に隠れ、発見されたのが雄略没の翌年とされますから490年のことになります。押磐皇子が殺害されたときに10歳前後としてもこの時には34、5歳にはなっています。『古事記』は弟の顕宗の没年齢を38歳としていますが、治世8年ですから即位のときは31歳
(註2)で、『古事記』の没年齢は正しいとみられます。
 
● 仁賢が都に帰ってから、雄略の皇女春日大娘を娶り、その6番目に生まれたのが武烈だと『書紀』にありますが、490年に結婚して6番目の子となれば10年近く後の生まれでしょう。ところが武烈は499年に即位しています。武烈は春日皇女の産んだ子でなく、仁賢が市井に隠れていた時に、名もない女性に生ませた子ではないかと推測されます。発見されたときの年齢からいっても、当時仁賢に10歳以上の子があってもおかしくありません。仮に発見された490年当時武烈が10歳だったとすると、没の506年には27歳です。

● 武烈が暴虐な天皇とされたのは、ここで皇統が絶え、新しい継体王朝に代わったことを中国流に描いたという説が主流ですが、武烈の生まれに対する世評が根にあったのではないかと想像しています。8年もの治世実績があるのです。凡庸な人材ではなかったのでしょうが。

 註2 顕宗の年齢
 顕宗の没を497年38歳とすると、生まれは460年です。『書紀』の伝えるように安康の事件(457年)と同じ年に押磐皇子が雄略によって殺害されているとすれば、顕宗はまだ生まれていなかったことになります。押磐皇子が465年に殺害されたのなら、6歳になっていますから、兄と一緒に逃亡したとしてもおかしくありません。このことからも押磐皇子が安康事件直後に殺害されたのではないことがわかります。この辺りの『古事記』の記事は、かなり確かなようです。



 
第二部 辛亥の変/辛亥の変と継体は無関係

●『書紀』の継体二十五年注にある辛亥の変と呼ばれる事件は、「不思議な事件」とされながら本格的な解明に取り組んだ論にお目にかかることがありません。継体に続く安閑の崩年干支は『記紀』で一致していますが、継体の没は『書紀』が531年、『古事記』が527年と食い違います。そればかりでなく、継体と安閑の間には2年の空位があり、安閑元年は534年です。『書紀』にはある説として534年に継体が亡くなったとも書いているのと、安閑が即位したその日に継体が亡くなったとあることから、534年死亡説も有力です。継体の子の欽明のあたりは記録がかなり整備されたと言われるのですが、なぜか継体にまつわる記録は曖昧です。このようなケースでは、雄略紀でみたように造作が行われた可能性があります。


 
欽明の元年は二つある

●「ほっとけほっとけごみやさん」というフレーズをご存知ですか。日本史は暗記物でしたから、試験を前にでき事の起きた年を覚えるのに使ったのがこうしたフレーズで、「ほっとけ」は「仏」、「ごみやさん」は538さん、つまり538年仏教伝来を覚えるためのものです。わたしはこのフレーズどおり仏教が日本に伝えられたのは538年、欽明のときと覚えていたのですが、『書紀』を読んでみると「仏教公伝」は欽明の時には違いないのですが、西暦552年(欽明十三)のことだと書いてあるのです。欽明の治世は540〜571年の32年間ですから、私の覚えていた538年は欽明の時ではないことになります。私は間違ったことを一生懸命覚えていたのでしょうか。

● 調べてみると、仏教公伝には二つの説があることがわかりました。『書紀』には、欽明十三年百済の聖明王から釈迦の金銅像が贈られた、とあるのですが、『上宮聖徳法王帝説(以下帝説)』と『元興寺縁起』という史料には欽明七年戊午の年に仏教が伝えられたと書かれているというのです。『元興寺縁起』は『書紀』完成から25年ほど経った747年、元興寺が僧を取り締まる役所である「僧綱所」に提出した資料に書かれているものですから、信憑性の高いものです。戊午は538年にあたりますから、後者でしたらわたしの覚えていることに合致しますが、538年が欽明七年ということになれば、元年は532年となって、『書紀』のいう540年と元年が二つあることになってしまいます。

● 欽明元年が二つあることについて学者の間でもいくつかの説があって、そのひとつに継体の後継争いという見方があります。

● 継体のあとは、安閑、宣化、欽明と続くのですが、継体は531年に殺害されたと『書紀』にあります。『書紀』の継体二十五年条の註に【天皇・皇后・皇太子・皇子皆死んだ、と百済本記にある】という記事があり、継体の没年を継体二十五年(531)としたのはこの記事によったというのです。531年は干支で辛亥に当たることからこの事件は「辛亥の変」と呼ばれています。記事には「死んだ」とありますが、これは「殺された」と読むべきでしょう。

● 継体の嫡子は皇后の手白香皇女が生んだ欽明ですが、継体が亡くなったとき欽明はまだ若かったので、安閑・宣化という異母兄二人が先に位を継いだと『書紀』にあります。そうではなく、継体が殺害された後、すぐに欽明が位を継いだのですが、兄の安閑も名乗りを挙げ、二人の天皇が並び立って、この争いのため、安閑の即位が2年遅れて、534年になった、というのが「後継争い説」です。

● しかし疑問があります。最大の疑問は、仮にも天皇・皇后をはじめ一家が皆殺しにされた大事件ですから、詳しい記事があってしかるべきなのに『書紀』の本文では一言も触れず、註に【百済本記にそう書いてある】というだけで、まるで自国の天皇に起きたことではないような書き方をしていることです。

●『百済本記』がどのような史料なのか岩波大系本の註につぎのようにあります。

 【『百済本記』は百済人が百済で書いた記録というような単純なものではないことである。『百済本記』では日本のことを貴国と呼び、天皇とか天朝とかの語も使う。これは明らかに日本の歓心を得ようとする目的で日本に提出した記録である。筆者は百済滅亡後日本に亡命した百済人がその持参した記録を適宜編集して、百済が過去に日本に協力した跡を示そうと、史局に提出したものではないかと推測する。】

● このような性格の史料ですから、そこに相手国の天皇のことで間違えたことを書くはずはありませんし、もし間違えていれば史局から訂正を命じられていたでしょうから、「天皇・皇后・皇太子・皇子皆死んだ(殺された)」という記事は信憑性が高いといえます。そのように重大なことを【後勘校者、知之也】「後世の人が明らかにしてくれるだろう」と余所事のような口ぶりで書いているのは、何か重大なことを隠していると推測されます。

 ● 辛亥の変について『書紀』が無視ともいえる態度をとり、加害者について触れないのは、加害者は名を出したくない人、つまり皇位を継いだ人だと推測されます。したがってもし継体が殺害されたのであれば、加害者は皇子たちの誰かということになります。

● しかし、皇位継承をめぐって兄弟間の争いは頻発しますが、父帝を殺害して皇位を乗っ取るという事件はありません。父帝を殺害しても汚名を被るだけで、実益はないから当然です。また、『古事記』は継体が亡くなった年を527年だと註記しています。『古事記』に従えば、辛亥の変で殺害されたのは継体ではないことになります。継体が我が子の誰かに殺害されたと考えるより、天皇は527年に没して、531年の辛亥の変は兄弟の争いと考えるほうが話の筋が通ります。辛亥の変の被害者は誰なのでしょうか。そして加害者は?


 
辛亥の変の被害者は大郎皇子一家、加害者は安閑だ

●『書紀』は【継体の嫡子は皇后手白香皇女の生んだ欽明なのですが、まだ幼かったので皇女以外の出身である妃二人のうち目子媛の生んだ二人の異母兄、安閑・宣化が皇位を継いだ】というのです。

● しかし、欽明の異母兄はもう一人、それも最年長とみられる大郎皇子がいます。大郎皇子を生んだのは三尾出身の稚子媛です。三尾は琵琶湖西岸の現在の高島市、継体天皇の生地です。父彦主人王は早くに亡くなったので母振媛は自分の故郷三国で継体を育てたということですから、三尾の稚子媛は継体が皇位に就く前、父の故地から娶った妃で、大郎皇子が継体の最初の子なのは大郎子という名からも明らかです(大郎子という名は継体天皇の曽祖父の名です)。

● 目子媛の生んだ安閑・宣化が皇位を継いだのなら、稚子媛は目子媛より先に妃になっている上、目子媛と同じ身分の出自ですから、大郎皇子も皇位継承の機会があったはずで、年齢からいえば安閑・宣化兄弟より先に就位するのが順当です。したがって、継体の後を継いだのは安閑でなく大郎皇子だったという推測が成り立ちます。

● このように考えると、辛亥の変は継体の没後皇位を継いだ大郎皇子を異母弟の安閑が殺害して皇位を奪った事件だと推断されるのです。編者はこの「先帝殺害、皇位簒奪」事件を抹殺するため、継体の没を527年から事件の起きた531年まで繰り下げ、『百済本記』の記事を引用して継体が「誰かに」殺害されたかに見せかけようと謀ったのです。


 
辛亥の変の後、安閑と欽明は並立した
 

● 大郎皇子を殺害したのが欽明だった可能性もあります。『帝説』や『元興寺縁起』の伝える欽明元年(532)は辛亥の変の翌年です。事件の翌年に即位したとなれば、欽明がクーデターを起こしたと考えてもおかしくありません。しかし、たとえクーデターであれ嫡子である欽明が皇位を継いだのであれば、安閑・宣化兄弟の出る幕はありません。欽明が安閑に皇位を渡したのは、安閑にそれだけの実績がある、つまり大郎皇子を除いたのが安閑であったと考えるほうが理に適います。

● 辛亥の変は安閑・宣化兄弟が起こし、安閑が天皇を名乗ったのですが、母が皇女で正当な皇位継承者である欽明も名乗りを挙げ二帝が並立、2年間その状態が続いたのです。その結果クーデターの首謀者であり、年齢も上の安閑・宣化兄弟が期間を限って皇位に就くという妥協策が成立したのです。したがって安閑・宣化兄弟、とくに宣化は生前に譲位したと思われるのです。宣化と欽明に『古事記』崩年干支がないのはそのためだと推測しています。

●『書紀』が仏教公伝の年とする欽明十三年は、安閑・宣化帝の六年と『元興寺縁起』のいう欽明七年を加えた数字であり、編者の造作を窺わせます。どうやら「ほっとけほっとけごみやさん」はそのままでよさそうです。


 
手白香皇后は幼妻だった

 継体をめぐる動きを年齢の面から検証してみます。

● まず継体の年齢ですが、『書紀』には在位25年82歳没とありますから即位は58歳です。この年齢では、応神5代の孫になる前帝武烈より1世代前の人になってしまいます。『古事記』は没年齢43歳、在位21年、即位は23歳ですから武烈と同世代になり、応神五世の孫の伝承があながち作り事でないことを思わせます。

● 最初の妃稚子媛の子大郎皇子は継体の即位当時4、5歳とみて、辛亥の変当時には30歳弱くらいだと推定されます。

● 継体の后、手白香皇女の年齢ですが、仁賢が490年から498年の間に生ませた一男六女の3番目とすれば、継体が即位した507年にはまだ10歳すこしの童女だったことになります。応神五世の裔という継体としては、后にはどうしても「皇女」が必要だったのでしょう。

● 童女だった手白香皇女が子供を産むのは14、5歳として、欽明は誕生が継体四年か五年(註)、継体没時には17歳くらいだったという推定ができます。治世21年の継体が没した時に欽明が幼かったということは、手白香皇女は皇后となった当時まだ子供を産める年齢に達していなかったという推測を裏づけます。

 註 欽明の没年齢
 『書紀』は年齢不詳としていますが、皇代記等に年63、一代要記に62、神皇正統記に81とあります。571年62歳没とすると510年(継体四年)生まれ、辛亥の変のあった531年には22歳ということになり、わたしの推定が裏づけされます。


● 天皇没時、大郎皇子は25歳くらい、皇位を継ぐのは当然といえる状況だったのでしょう。しかし四年後、辛亥の変の起きたときには欽明も20歳前後になっていますから、皇位をめぐる争いに加わったのです。この争いは安閑・宣化兄弟が皇位に就く年数に期限を設けるかわりに、まだ幼い宣化の皇女石姫を欽明が后にするという妥協策で終結したのでしょうか。


 
継体は大和に入っていない

● 大郎皇子が在位したとすると、宮をどこに置いたかという疑問が出てきます。同じ「先帝殺害、皇位簒奪」事件で抹殺された押磐皇子の宮は市辺と記されていますから、大郎皇子の宮についても記されている可能性があります。

● 継体の皇子たちはみな大和に宮を置いています。安閑は勾の金橋(橿原市曲川)、宣化は桧隈(高市郡明日香村の辺り)、欽明は磯城嶋(桜井市金屋付近)という具合ですから、大郎皇子も大和に宮を置いたと考えられます。私はそれを【継体二十年秋、都を大和の磐余の玉穂(桜井市池之内辺り)に置いた】とする磐余玉穂宮ではないかと考えています。

● 越前三国から出た継体はなかなか大和に入れず樟葉・筒城・弟国と宮を遷し、即位から20年経って、ようやく大和に遷ったとされますが、墓所は摂津です。天皇が20年の執念をかけて大和に入ったのであれば、墓所も大和に置きそうなものです。

● たとえ大和入りを拒む勢力があったにせよ敵地に乗り込むのが勝者のなすべき第一のことだし、20年もの間放置することはあり得ないことです。入りたければ大王のメンツにかけても排除したでしょう。

● また、継体の擁立に反対するということは、反対陣営側に代わりの候補がいたと云うことですが、そうした候補を抱えたまま、両陣営が20年もの間、にらみ合っていることは考えられません。力に訴えるか、あるいは条件を付けて妥協するでしょう。元々仁賢の皇女手白香を皇后にしたのはそのためのはずです。継体は大和に入れなかったのではなく、最後まで入ろうとしなかったのです。

●『書紀』は継体の治世を延長して大郎皇子の治世を抹殺したのですが、皇子の磐余玉穂宮は伝承地であって消せないので、継体のものであったようにつくろうと、継体が都を移したという記事を造作したと考えています。


 
琵琶湖畔高島市の鴨稲荷山古墳は大郎皇子の墳墓だ

● 琵琶湖西岸の高島市は三尾の地です。そこの鴨稲荷山古墳は建造時期が六世紀前半といわれます。被葬者は大郎皇子である可能性は考えられないでしょうか。母稚子媛は故郷三尾に留まっていて、「辛亥の変」の難を逃れたのではないかと思います。鴨稲荷山古墳は皇位にありながら殺害されたわが子を悼んで年老いた稚子媛が作らせた陵墓ではないかと想像をめぐらせています。副葬品の豪華さや、前方後円墳に周湟を持つことなどから、単なる地方の首長ではないように思われるのです。また須恵器はTK10型(実年代525〜550年)ということですから、年代的にはぴったりです。

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