虚 飾 の 間

 
みどころ

● 第一次編纂でつくられた短い紀年が延長されて現在に見られるような長い紀年になったのですが、では、どのような考え方で延長されたのでしょうか。この問題に触れた史論は非常に少なく、知るかぎりでは橋本増吉氏と太田亮氏の二人だけで、それももう100年も前のことです。しかし、そのおふたりも数字の分析はしても、数字つくりの経験はお持ちでなかったようです。

● この「間」では、紀元前660年の紀年ができるまでの考え方と数字のつくりかたを展示します。



 第一部 『書紀』紀年と1260年
 第二部 紀年を延長する
 第三部 紀年延長方法「橋本説


 第一部 『書紀』紀年と1260年


 
神武元年、建国の年を決める

●『書紀』は700年に一旦完成したのですが、建国の歴史が短過ぎるとして撰上が許されませんでした。「短い」とされた歴史は延長しなければなりません。最初は二倍の1200年前くらいに延長することから検討を始めたのでしょう。第一次『書紀』の神武天皇即位99年は大宝元年(701)から600年前です。

● 延長するといっても、何の根拠もなし延長するより、何か理屈がついているほうがもっともらしくなりますから、二倍延長を理論づけ、権威づけるために持ち出されたのが「讖緯(しんい)説」です。

● 神武の即位したのは紀元前660年ですが、なぜこの年が選ばれたのかについていくつかの説があります。現在定説とされているのは即位の年が干支で辛酉にあたることから説かれた辛酉説です。古代の中国で流行し、日本にもたらされた讖緯説では辛酉は革命が起こる年だとされます。とくに干支60年が21回めぐった1260年ごとに大革命が起こるとしています。

● 神武が王朝を打ち立てた年から逆算すると推古九年(601)が辛酉なので、ここを起点にして、神武元年が決められたのではないか、というのが定説になっています。しかし、神武即位が大革命に当たるのはよいとして、推古九年は辛酉ではあっても「革命の年」というほどの事件起きていないことから、この説を疑う説もあります。

● 革命とは関係なしに辛酉でありさえあればよいのなら、『書紀』が編纂された時に一番近いのが661年斉明七年辛酉です。この年は斉明が新羅親征の途中、九州で死去(おそらくは戦いで受けた傷による)するという異常な事件が起きているので、むしろこちらの方が起点にふさわしいという意見もあります。

●『書紀』の編者が延長した紀年をつくるとき、1260年という年数を念頭に置いたことはまちがいないことです。しかし、起点とされる辛酉の年を推古九年としたのは、革命云々よりも神功の治世を201〜269年として、邪馬台国卑弥呼と同じ時代にするためだったのです。以下説明します。


 
紀年の構成1/神号のついた天皇は日本の歴史の転換点だ

● 次の問題は、延長した年数をどのように分けるかです。歴史を延ばせば歴代天皇の数を増やさなければなりません。しかし、天皇を増やすのは『書紀』編纂の目的である【諸家に伝わる帝紀の削偽定実】に逆行することになります。そこで天皇の数はそのままに、紀年を延長する方法で対処することになりました。そもそも建国の歴史を延長するのは海外の目を気にしてのことですから、歴史さえ長ければ、1代あたりの年数が不自然であっても問題にはならないと考えたのです。このヨミが正しかったことは1100年の後、明治以降の歴史が示しています。

● 紀年を延長するのはよいのですが、あまりに嘘っぽくなるのも困ります。そこで考え出されたのが、中国の史書『魏志』に載っている邪馬台国卑弥呼が239年に遣使したという記録の利用です。幸いヤマトには神功という女性の天皇がいます。「先帝殺害、皇位簒奪」の疑いで摂政にされていますが、この女王は363年から389年まで在位した天皇です。この女王の治世を卑弥呼の時代に合わせ、二人が同一人物であるかのようにすることによって、延長された紀年が本物らしく見えることを狙ったのです。

● つぎに考えたのは、1260年のブロック分けです。1260年を神武から斉明までの32代(神功皇后を含め)に直接分けるのは難事です。作業の分担も考えて分割することにしました。とりあえず400年ずつ3ブロックに分け、60年の端数は、神功の扱いが変わり、それにともなって挿入されることになった開化に当てることにしました。この3ブロックに天皇を割り振るのですが、神武を始祖とする初期王朝、崇神を始祖とするヤマト王朝、そして神功を始祖とする河内王朝という、当時の人々の歴史認識に基づいた分け方をしました。

● このブロックは、適当に分けたのでなく、第1ブロックが神武・孝昭二王朝並立時代、第2ブロックは崇神天皇による統一王朝、第3ブロックは神功による新王朝という歴史の大きな流れを意識して分けたと考えられます。後年、淡海三船によって漢風諡号がつけられたとき、各ブロックの最初の天皇の諡号には神武、崇神、神功とすべて『神』がつけられたことからみても、当時の知識人にとってはこのような時代区分は半ば常識であったとみられます。

  ・初期王朝  神武〜孝元  400年
  ・        開化        60年
  ・ヤマト王朝  崇神〜仲哀  400年
  ・河内王朝  神功〜斉明  400年

● しかし、このままでは斉明七年(661)から400年を神功元年とすることになるので、卑弥呼への擬定ができなくなります。そこで、1260年の起点を更に60年繰り上げ、推古9年(601)とすることになりました。こうすれば、神功の元年が201年になり、卑弥呼の239年と時代を合わせることができます。

● 次の問題は延長の対象とする天皇です。紀年延長する天皇は古記録(崩年干支)のない崇神天皇以前なら、もともとつくった紀年ですから問題ないのですが、神功を卑弥呼に擬定するためには、神功の紀年を延長しなければなりません。それも元年を201年にするには古記録の363年即位から162年も引き上げることになり、そのままでは治世が201年から389年までの189年にもなってしまいます。そこで神功の没年を120年引き上げて269年とすることがきめられました。

● そうなると応神以下の天皇の紀年も延長することが必要になりますが、雄略の紀年は第一次編纂の時に「先帝殺害、皇位簒奪」事件を隠蔽するために造作されています。造作を二度おこなうことは、造作の痕がまったく判らなくなってしまうので避けることになり、紀年延長の対象とするのは允恭までときめられ、これで書き直しの範囲が巻三から巻十三までの11巻ときまりました。

 (* 顕宗紀に「市辺宮に天下治しし天万国万押磐尊」として押磐皇子が皇位にあったのを伝えているように、編者は造作したとき、なんらかの痕跡を残そうとしています。)


 
紀年の構成2/1260年は3:4:5のブロックになっている

● 400年のブロックを三つつくったのですが、崇神の所は天皇の数が少ない上、仲哀は応神「胎中天皇」の父親なので紀年を延長することはできないので、このブロックは100年減らして300年として、その100年は神武のブロックに加えました。これによって神武から孝元までが500年、崇神から仲哀まで300年、神功から推古八年までが400年、3:4:5という美しい形になりました。


 表17 第二次『書紀』 千二百六十年のブロックと年数
第1ブロック 神武元年(前660)〜孝元五十七年(前158) 503
サブブロック 開化元年(前157)〜開化六十年(前98) 60
第2ブロック 崇神元年(前97)〜仲哀九年(200) 297
第3ブロック 神功摂政元年(201)〜推古八年(600) 400
合  計 1260


 
第二部 紀年を延長する

 
神武〜孝元の延長/『古事記』没年齢からつくられた

● 安本美典氏が『古事記』の没年齢と『書紀』紀年の間には統計的に見て強い関連があると述べています。長生きすれば在位が長くなるのは当たり前のことですが、『書紀』の紀年は延長されているのに対して、『古事記』は紀年の記載がないのですから、この両者の間に強い関連が見られるのには何か理由がなければなりません。じつはこのブロックは『古事記』に記された没年齢を基にして紀年をつくったのです。


● 
神武と綏靖〜懿徳、孝昭〜孝元の三つに分けて作業がおこなわれています。

 表3 神武から孝元の『書紀』「紀年」と『古事記』没年齢
天 皇 古事記
没年齢
書紀
紀年
差し引き
神 武 137 76 61
手研耳 ▲3
綏 靖 45 33 12
安 寧 49 38 11
懿 徳 45 34 11
空 位 ▲1
孝 昭 93 83 10
孝 安 123 102 21
孝 霊 106 76 30
孝 元 57 57
655 503 152

 表3にみるように、655年を503年に縮める作業です。

● 神武の76年は讖緯説から

 @ (目標年数)503年−(古事記没年齢計)655歳=▲152年

 A 没年齢を算定基礎にすると全体で152年減らせばよい計算になりますが、太祖神武は最初から別扱いです。橋本増吉氏の説(『東洋史上より見たる日本上古史研究』)によれば神武の76年は讖緯説の一元に当たるとされます。氏は神武に関係する年の多くが讖緯説によって定められたとしています。

 B【神武天皇元年辛酉より7年前に当たる甲寅の年を、太歳運行の元始である、天皇東征の元始と定めたことは一点の疑いを挟む余地のないことと思うのであるこれによって、『古事記』では16、7年となっている神武天皇東征の物語が、『書紀』では7年に短縮され、しかも出征後のでき事についても、戊午の年の条に五瀬命の戦死をはじめ、長髄彦を撃破して中州を平定し、国の基礎を定めたことなど、最も重大な多くの事件が集められていることも、『詩緯』に『戊午革運、辛酉革命、甲子革政』とある戊午革運に囚われてのことでないかと疑われるのである。】

 C このように神武は元年が革命の年辛酉とされただけでなくほかのことでも讖緯説の影響が強いのですから、76年の紀年は讖緯説によったとするのが妥当と思います。

 D 神武を除いた、残りの7代天皇の計算は
 
  427−518=▲91年 ですから、神武を除く7代で91年減らせばよいことになります。

 グループ分けする

 @ ここで、グループ分けが登場します。この▲91年を神武グループ(綏靖・安寧・懿徳)に▲31年、孝昭グループ(孝昭・孝安・孝霊・孝元)に▲60年と1:2で分けています。孝昭グループに長寿が多いことを考慮してのことです。


● 神武グループの神武グループ▲31年は各天皇は没年から10年マイナス

 @ 三代各帝の没年齢綏靖45歳・安寧49歳・懿徳45歳からそれぞれ一〇年を引きます。

 A 1年の端数はグループ長老の綏靖から減らします。

 B さらに綏靖・安寧・懿徳から各1年引いて空位(手研耳命)の3年を捻出しました。

 C これで手研耳3年、綏靖33年、安寧38年、懿徳34年という紀年が出来上がりました。

● 孝昭グループの▲60年は各天皇から二〇年をマイナス

 @ 孝元の没年齢57歳はグループの中では短命なので、年齢をそのまま『書紀・紀年』57年としました。

 A ▲60年は後の三天皇からそれぞれ▲20年とすればよいのですが、少しひねって、孝昭▲10年、孝安▲20年、孝霊▲30年 としました。紀年は孝昭83年・孝安103年・孝霊76年となります。

● 二つのグループを空位で区切る

 神武グループと孝昭グループの間に空位一年を置き、グループが別であることをはっきりさせてあります。この1年は最高齢の孝安から差し引き、これで孝安は102年になりました。


 
崇神〜仲哀の延長/297年を直接分ける

● 延長されなかった仲哀の紀年

  このブロックは64年の紀年を297年へ約5倍に延長しなければなりません。神武〜孝元のように没年齢を基礎にして半分にすればよさそうに思いますが、そうはしていません。仲哀だけは別扱いになっています。前にも述べましたが『記紀』で没年齢が一致する唯一人の天皇である仲哀には応神『胎中天皇』の父という、紀年延長できない特別の事情があるのです。

 このブロックの担当者はすこしズボラだったのか、数字遊びが好きだったのか、いろいろ数字をいじっています。崇神・垂仁の没年齢を計算上は119、139となるのを120、140としたり、景行・成務の没年齢は計算上では143、98となるのを106、107としたりしています。

● 崇神と仲哀は別扱い

 @ 崇神は『古事記』の没年齢 168−100=68 を書紀の紀年にしました。というより、元の記録が68歳だったのを孝元と同じように、そのまま紀年にしたとみられます。没年齢に100加えたのは『古事記』の編者太安万侶の仕業とにらんでいます(「長寿の間」)。

 A つぎに仲哀の紀年を九年としました。九年としたのは『古事記』崩年干支で計算すると仲哀の没年と応神の生年の間に2年の空白が生じてしまうので、この2年を意識してつくったと推察しています。仲哀だけが在位年数も2年しか増やされず、没年齢もそのままとされたのは、応神誕生が仲哀没の翌年とされており、あまりに高齢での「子づくり」はおかしいと考えたのでしょう。崇神の68年とあわせて77年となり、残りが220年とラウンドの数字になります。こうした端数の処理の仕方は編者の常套手段です。

 景行・成務兄弟はそれぞれ干支一運の六十年として120年をつくりだしました。このあたりのやり方が「ズボラ」なのです。

 残りは100年ですからそのまま垂仁の紀年にしてもよさそうなのですが、九十九年として、1年は成務・仲哀の間の空位に充てています。



 紀年延長 神功〜允恭/『古事記・紀年』に延長分を加算


「紀年つくり」の作業としては、神功即位201年から允恭没453年までの253年を6代の天皇に振り分けることになりますが、このブロックの各帝は崩年干支がわかっていますから、ほかとは違い、やり方は二通り考えられます。

● ひとつは崇神ブロックでおこなったように253年を直接6代に割り振る方法です。もうひとつは、崩年干支から各代の在位年数を算出し、それに増やす年数161年を割り振って加算する方法です。結論からいうと、編者は後者の方法を採っています。このことが第二次『書紀』と『古事記』が同じ崩年干支を用いていることと、崩年干支の絶対年への変換もわれわれと同じであることの証左となっているのです。

『古事記』崩年干支から得た神功即位(仲哀没の翌年)・西暦363年を201年に引き上げるには162年必要になるのですが、允恭没が第一次『書紀』では『古事記』の454年より1年早い453年となっていますから、加算するのに必要な年数は161年になります。『書紀』の編者はこの1年の違いについても正しく処理をしています。

 表 引き延ばされた在位年数
天 皇 第一次紀年 加算年数 第二次紀年
神 功 69 69
応 神 32 41
空 位
小 計 32 80 112
仁 徳 33 54 87
履 中
反 正
空 位
允 恭 17 25 42
小 計 60 81 141
合 計 92 161 253


● 延長計算の実際

 @ 加算される年数161年を《神功+応神》80年と《仁徳+履中+允恭》81年と半分ずつに分けて、
   ・ 神功69年、応神11年(9+空位2)で80年。 
   ・ 仁徳54年、履中1年、允恭25年で計80年
   ・ 残り一年は反正と允恭の間の空位
という、きれいな数字づくりをしています。

 A 《神功+応神》=80年のうち皇后の69年はすでに決まっています。残り11年のうち2年は仁徳天皇即位までの空位としてありますが、オオヤマモリノミコトやウジノワキノイラツコの皇位争いの物語に合わせてあるのでしょうか。

 B また、聖帝とされる仁徳と允恭はおよそ2対1で割り振りしたように見受けられますが、允恭の在位は17年、没年齢は42歳と推定(長寿の間参照)されるので、孝元・崇神同様没年齢を在位にしたとみられます。

 C 允恭の「紀年延長」では、この四十二年と17年の差25年とすることが先に決まり、残り55年のうち54年を仁徳に、1年を履中に加算したと推考されます。履中、反正と2代続けて在位5年というのを避けたかったのでしょう。

 D 『第一次紀年』とは関連づけないで254年を直接配布する方法もありますが、処理する数字を半分ずつにする手法を多用する編者の癖から判断すると、上記の手法が用いられたと考えられるのです。

● もし、神功即位から允恭没までの254年を直接6代に割り振ったのならば、折半の好きな編者は《神功+応神》と《仁徳+允恭》は125年ずつ、あるいは120:130にするだろうと思います。実際は110:140になっていますから直接配布ではなく、増加した年数161年を割り振り、崩年干支から算定される在位年数にそれぞれ加算したと推考されます。


 
第三部 紀年延長方法「橋本説

 橋本増吉説の要約

『書紀』の紀年は「つくられた」とするのが定説ですが、どのようにつくられたかという点になると論が少なく、橋本増吉氏による論(『東洋史上より見たる日本上古史研究』 東洋書林)が唯一といってよいものです。氏は紀年を讖緯説により再構成する手法を用いて、神武〜允恭の紀年のつくられ方を分析しています。後年、三品彰英氏はその著『増補上世年紀考』(1948)の中で【細かい点での異論はあるが、大筋においては橋本氏の論を認める】としているのですが、どうでしょうか。
以下に橋本氏の説を要約しておきます。

 @ 1260年を、神功を中心として神武〜仲哀十四代を860年、神功〜推古八年を400年と配分した。

 A『書紀』の編者は魏の明帝景初三年己未の年(239)および晋の武帝泰始二年(266)を皇后の摂政時代に入るべきものと認めたので1260年の中、神功摂政元年を推古八年より400年目のところ、即ち皇紀八六一年(201)に置き、それより前の860年を神武より仲哀に至る14代に配分するよう定めた。

 B 仲哀・神功・応神三帝の合計紀年を120年として、仲哀九年、神功六十九年、応神四十二年をきめた。

    合計紀年は所謂四六240年では長過ぎるので、二六の数120年と定めた。

  イ  神功の六十九年は一紀76年から陽数7年を減じたものである。

  ウ 神功の功績を偉大なものとするには、仲哀の治世をできるだけ短くする必要があるため、天の終数、陽の極数9年を割り当てた。

  エ  120−(9+69)=42 が応神の在位年数(空位1年を含む)とされた。

 C 神武〜開化は563年である。

  ア  神武は一紀76年である。

  イ 8代を「三皇五帝」に分ける。

  ウ 前3代の中央に位する安寧の三十八年は一紀76年の半分で、所謂一元の数38である。

  エ  前後の綏靖・懿徳両天皇の在位がいずれも30年台で、安寧の38年と調和を保っている。33:38:34(計105年)

  オ 後五代の中央に位する孝霊七十六年は一紀の数に当たる。(5代計378年)

  カ 神武76+空位3(手研耳)+三皇105+空位1+五帝378=563

 D 860−563−10(仲哀9年+空位1年)=287年を崇神から成務までの4代に配分した。

  ア 崇神68年は一紀76年から陰数8年を減じたものである。

  イ 垂仁は陽の99年である。仁徳の陰88年と対応する。

  ウ 景行、成務は六甲60年とした。

 E 仁徳は空位1年を含め、88年とした。仁徳は皇后の嫉妬に苦しめられるなど陰である。



 橋本説への批判/「材料」だけで料理はつくれない
 

● 橋本説は分析としては面白いし、納得できるところもありますが、紀年を再構成するという立場からは問題があります。一口でいうと、氏の方法では、有るものを分析することはできても、無から有をつくり出すことはできません。料理にたとえれば、できている料理の材料が何と何かの分析はできても、その材料をどのように調理して料理をつくり出すのか、料理方法はわからないのです。氏の論は細部にわたっているので、主な問題点に絞って挙げて見ましょう。

 神功元年が推古八年から400年であることはわかるのですが、なぜ400年としたのかについての(讖緯説を用いた)説明がありません。西暦239年と266年を神功の治世に含ませたうえで讖緯説を用いるのなら、181年辛酉を元年にして、治世89年とするか、あるいは「甲寅の年を神武東征の元始と定めた」のと同様に神功元年を241年辛酉より7年前の235年としてもよかったはずです。

● このように全体枠が1260年と決まり、天皇の代数もきめられているのを割り振る場合は、数字を大枠から中枠へ、そして個別枠へと順次分割していくのが一般的なやり方です。枠の中での主な数字は何か理由づけした数字にするとしても、残った数は適当に割り振るのです。

● たとえば、全体の1260年を神功〜推古八年を400年、神武〜仲哀を860年とするにしても、400年あるいは860年からすぐに各代に振り分けるのは無理ですからもう一度ブロックを分けて、直接割り振ることができる大きさにまでブロック分割を続けてから、最後に各代に割り振りします。この分割の各段階で讖緯説がどのように使われるか、あるいは讖緯説によらないときはどのような考えかたで決められたかが問題なのです。

 ● 氏の説明には

 @ 推古八年〜神功元年は400年となっている

 A 神武〜開化は563年となっている

 B 綏靖・安寧・懿徳3代は105年となっている

 C 孝昭〜開化5代は378年となっている


 というように「〜となっている」が多くみられるのですが、こうした数字は讖緯説からは説明できないものばかりです。「なっている」のは少し注意して見ればわかることですから、なぜそのような数字にしたのかが問題なので、「〜となっている」のでなく「〜に基づいて〜とした(つくった)」としなければ解明したことになりません。

 氏は各帝の紀年について讖緯説によりきめられたというのですが、一口に讖緯説といっても「一章・一紀・大終の法(神武・安寧)」「三皇五帝(綏靖〜開化)」「四六二六相乗(仲哀・神功・応神)」「七歳八歳を陰陽の数(成務、神功)」「陰数八年(崇神)、陽数7年(神功皇后)」「陽の極数99(垂仁)、陰の極数88(仁徳)」など、いろいろな「法」を挙げています。

● 紀年を分析するだけでしたら「これは何の法、こちらは何の法」といえますが、数字をつくる立場からみるとそれぞれの法をどのように使い分けているのか、「法」を使う上での規則性が見出せないのが致命的です。なぜその「法」をそこで使ったのかがわからないと単なる材料の分析に終わり、つくり方を解明したことになりません。

● もともと讖緯説は数字に意味をこじつけるものですから、極論すればどのような数字でも讖緯説で説明できるといえます。

● 神武の即位の年が讖緯説によってきめられたことから、『書紀』の編者は讖緯説にどっぷり浸かっていたかのようにみられていますが、編者は神武〜崇神の「延長前の紀年」を220年としたように、讖緯説にはあまり興味を持っていなかったと思われます。したがって橋本氏のように、紀年つくりを讖緯説だけで解明しようとするのは無理なことだといえます。


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